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広島は建築家・丹下健三を決定づけた場所だった

2005年03月24日 | 詞花日暦
装飾的なものを一切取り払いながらも、
凛とした美しさを持つその設計に、
私はすっかりほれ込んでしまった――丹下健三(建築家)


 愛媛県立今治中学時代の健三少年は、数学や幾何がやや得意な普通の生徒だった。進学した旧制広島高校も「理科」だった。当時、旧制高校の学生は、酒を飲みながら議論に熱中した。話題は、哲学、文学、芸術、女性と相場が決まっていた。健三は途中で理科に疑問を持ち、文科への転向を考える。
 思いとどまらせたのは、偶然に見たル・コルビジェの設計図と模型写真だった。「装飾的なものを一切取り払いながらも、凛とした美しさを持つその設計」に圧倒された。建築は理科の人間が進む分野だが、同時に芸術とも関係することに思いいたる。広島は建築家・丹下健三を決定づけた場所だった。
 それから十余年後の昭和二十年八月、すでに東大工学部の大学院に籍を置いた丹下は、父親の訃報に接して愛媛県今治へ向かった。途中、広島を通るとき、車中に新型爆弾の話が伝わった。建築家への道を決めた第二のふるさとは、青春の思い出とともに壊滅していた。今治もほぼ全滅で、実家は跡形もない。父の死を追うように母親も亡くなっていた。
 翌年、助教授になった丹下は、のちに磯崎新、黒川紀章などを輩出する研究室を持った。建設省の前身だった戦災復興院から、破壊された都市の復興計画を立てる委託があった。磯崎は率先して広島を選んだ。原爆症にかかるかもしれない、もう草木も生えないだろうといわれたが、「たとえわが身が朽ちるも」の思いで広島行きを志願した。その成果は、広島市が主催するコンペで全国二百件の応募を勝ち抜き、一等に選ばれた都市づくり計画である。
 原爆資料館、集会広場、公会堂、公園、市の中心を走る百メートル道路、それにあの鉄骨むき出しのままの産業奨励館(原爆ドーム)など、すべて丹下のプランである。「いま世界には、平和を脅かすような問題が再び集積しつつある」。平和の祈念は素朴だと笑われるかもしれないが、丹下には建築家として自分を生んだ広島に「凛とした美しさ」という祈りをこめた。

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2 コメント

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Unknown (菅原)
2005-03-24 10:36:44
丹下健三さんが亡くなりましたね。
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そう言えば (彩木 翔)
2005-03-24 13:15:15
黒川記章氏も亡くなりましたね

お二人のご冥福を、お祈りいたします。

きっと三途の川の畔で、お互いビックリして

おられる事と思います。(^^)
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