負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

残念ですがこのブログ一時発言・コメントを中断します

2006年11月03日 | Weblog
すでにご心配いただいたように、最近、寄せられる特定の人物によるコメントにお気づきと思います。ID名を隠しながら、非難するコメントも含め、明らかにコメントを書く上でのマナー違反であり、お読みいただく皆様にご不快を与える内容になっています。ご心配いただいた方々にもご迷惑をおかけすることになりました。

誤植問題に発した経緯は、これまでのコメントなどを通読いただければ、いかにごり押しの発言に終始しているかおわかりいただけるでしょう。またもし私の発言をお疑いになる方がいれば、『学生版牧野日本植物図鑑』(平成16年8月1日重版 北隆館 03-5449-4591)、p.20、上から4行目、「渡米」の誤植を確認ください。本屋で立ち読みし、目が弱い方はルーペで確認すれば十分わかります。

かつてパソコン通信が隆盛した時期のフォーラムでもこんな問題が起きました。フォーラム自体の閉鎖も度々ありました。時が移っても、人は変わることがないようです。問題の悪意に満ちたコメントは恥ずべき記録として記念に残しておきます。問題の人物のブログは、コメントに残されたURLからたどることができます。けっして悪い人物には思えませんが……。

「知の拡大」が半減するのは残念ですが、これまでお訪ねしていた皆様のブログは拝見しつづけますので、文字通り半減ですまされそうです。小山鳴動して、ネズミ1匹。とりあえずお知らせまで。

花ももみじもなかりけり/紅旗征戒は吾が事に非ず

2006年11月02日 | Weblog
ときどき呆然とすることがある。昭和48年、歌人・塚本邦雄の『定家百首ー良夜爛漫』が刊行された。あのときの若造がそうだった。一体1億人の日本人のどれだけが、この歌人の歌を読み、歌論に目を馳せるのか? 彼が論じてみせた藤原定家の歌や日記『名月記』を克明に読み通すのか? ほんの一握りの読者のために、なぜ彼らは命をかけて歌の世界に生きるのか?

あれから何万の日が重なったいまでも呆然とする。ふたりの歌のすべても日記も読みこなしていない1億人のその他大勢に限りなく近い自分。

平家が滅亡し、鎌倉時代に移る混乱の世、19歳の定家は「世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず。紅旗征戒は吾が事に非ず」と背水の陣で歌の世界に邁進した。塚本に言わせれば、その作品は「一言半句の取捨、按配に命を賭け刻身鏤骨した者だけに透いて見える秘密」。そのどれだけを見通してきただろうか。

定家25歳の若書きの歌――
見渡せば花ももみじもなかりけり浦のとまやのあきの夕暮れ

秋になると、いつもこの人口に膾炙した歌を思い出す。一言半句の取捨に命をかけた作品の秘密を足がかりに、四たび、五たびの定家への旅立ちがまた始まる。1億人のわずか一握りの人の世界、世俗の賎しい生きざまからすれば、絶望的とさえいえる孤高の世界、なぜそんな世界が連綿とつづいてきたのか。

遠い西欧でも22歳のリルケが、修道僧フラ・アンジェリコの「受胎告知」を見て書いた。「打ち震える言葉で、自分みずからの卑しさを告白する……修道院の壁だけに囲まれ、控えめな清浄さをもって枝を伸ばし、花を開き……二、三の芸術家の心の中に、五月のある朝の追想以上の跡を残さないで凋んでいくことができた」。大衆は芸術に昼寝や一服の煙草のような楽しみを求め、教育的な価値について語るという。「何という冒涜だろう」と書き添えた。

「浦のとまやのあきの夕暮れ」に近い人生、さあ、二十歳前後に立ち返り、人生の「冒涜」をわずかでも取り返し、花ももみじも咲かせておかねばならない。

太陽が真西に沈む秋のお彼岸が近づいた

2006年11月01日 | Weblog
宇治の平等院や加古川をさかのぼった浄土寺にある光の装置のことは、すでにこのブログに書いた。奈良が近い浄瑠璃寺のことも、堀辰雄や和辻哲郎のことも書いた。うかつな話だが、わたしはずいぶん長い間、浄瑠璃寺がどこにあるか知らないでいた。京都のどこか山すそというイメージだけしかなかった。

もうかなり前になるが、秋のお彼岸が近い一日、名古屋にいったついでに関西線に飛び乗って、奈良に近い加茂駅で下車した。小高い山の起伏をぬってたどり着いたのは、丘陵の奥まった谷にひっそりと静まった伽藍だった。西に背を向けた国宝の本堂、中央に池、東側にある三重塔がある。

あいにくその日は小雨の混じる曇天だったため、光の装置を実際にたしかめることができなかった。ただ寺の配置は、平等院や浄土寺と同じように太陽の光を巧妙に演出したものであった。今年も秋のお彼岸が近づいてきた。近くの人でまだだったら、ぜひ訪ねてみてほしい。思わぬ光の饗宴に出会うかもしれない。くわえて紅葉が美しいし、堀辰雄が書いた柿の実もたわわに実っている。