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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

上戸の長者竹端仁作(14)益谷秀次、堤康次郎

2007年06月07日 19時10分26秒 | 鼻の手術
父は晩年は電力事業と観光事業に日本の再建を託し、尽力している。昭和26年5月に日本発送電の法案がなったが、
その前年の昭和25年の10月にマッカサー元帥の書簡で
日本発送電の9分割が発令されたのである。
これと時を同じくして私の高校の金沢行きが決まったのである。
これで父が生存の間に父の希望が実現したのことになる。観光事業には外資の導入を目的とし、熱海にバイヤーズホテルを建てるため、広大な土地を購入した。また日本発送電株式会社が9分割され民営化される様に、財界の中心的役割をはたしている。
外資の導入の第一号として、マッカサー元帥が会長をしていたレミントンランドとの合弁会社を設立したのもこのときである。
日本発送電は戦前外資を導入し発展してきた経緯があり、未償還の外債が膨大であったのである。ここで父は三和銀行から膨大な借入をし、外債償還に備えたのである。これがマッカサー元帥が日本発送電の9分割を容認した契機であろうと思われる。
マッカーサー元帥も夫人と一緒に白雲楼にヘリコプターで飛来したと云うことである。

上戸の長者竹端仁作(13)益谷秀次、堤康次郎

2007年05月26日 11時01分55秒 | 鼻の手術
昭和26年5月1日付けで電力業界の再編体制が成立した。戦前の五大電力の一翼を担っていた日本電力の子会社である高岡電灯の監査役をしていた竹端仁作が、私に財産を放棄しろと迫ったのは、この電力再編成にかんする父の資産にかんすることことであった。この資産は康楽寺の本殿建築の資源として寄付されていたが、電力再編のみならず、私鉄関係の再編にも関連していた。従って堤康次郎も電力再編には多大な利害があったわけである。電力再編は国家の大事業であり、戦後の復興が掛かっていた。ここで松永左衛門と吉田茂との暗闘が始まるのである。要は人事件の争いであり、日本財界のヘゲモニの争いである。この闘争のため、昭和25年5月に成立する法案がが流れたのである。この1年延びたことで康楽寺の着工が一年伸びることとなった。父が翌年2月に亡くなるとそれを待っていたとばかりに竹端仁作一派が暗躍しだすのである。 それと麻布の5千坪の土地を私する好機とばかり、父の個人の寺を宗教法人とする好機とし、父個人の資産を宗教法人に取り込みを狙ったわけである。

上戸の長者竹端仁作(10)益谷秀次、堤康次郎

2007年04月30日 10時29分37秒 | 鼻の手術
竹端仁作と父桜井兵五郎の関係は、父の友人布施丑造氏の子息が竹端仁作の兄弟の家に養子にきていた関係である。布施家は能登の名家で資産家であったが、昭和初年の恐慌の関係で、能登産業銀行が破綻したことは以前話したが、布施氏は鳳至銀行の頭取でもあり、また高岡電灯の監査役でもあった。能登産業銀行が不調で、布施氏はその職より退任した。そのかわりに竹端仁作が高岡電灯の監査役となったのである。当時日本最大の日本電力の子会社であり、日本電力は
電力業界再編製の中心となり、日本発送電の要となって日本国内の電力を纏め、戦後の電力会社は、すべてここからの出資と現物によりわかれたのである。
父は戦後電力と
観光に力を注ぎ、尽力した。
父の資力の中心は電力と観光であった。布施丑造氏は父より少し前に亡くなったが
竹端仁作の弟の家に、丑造氏の息子が養子に入ったのも父との関係からであった。
丑造氏と父が亡くなり状況が一変したのである。父の事業は日本電力の持ち株会社
日電興業と関係深く、日本発送電の再編に深く関わりがあったのである。
日本発送電の戦後の再編は、父の死後であったので、父の資力を狙ったのが私の鼻の手術の原因となったのである。
私の記憶を思考力を喪失させる為、残虐なことを平気で行った。

鼻の師骨を砕いた時、三叉神経を傷つけ、
頭蓋骨を二箇所強打し、眼から鼻より頭にかけての人間の社交力や思考力、の神経を破壊したのである。

上戸の長者竹端仁作(8)益谷秀次及び堤康次郎

2007年04月22日 15時24分14秒 | 鼻の手術

私に鼻の手術を執拗に迫ったのは、高校同級生の浜谷徹雄というものであるが、私が日本タイプライターにいる時彼から急に電話があって、会いたいというので私はノコノノコ出かけて行ったのである。彼は他の能登の者たち一緒に益谷秀次の自宅に連れて行ったのである。当時は多分衆議院議長をしていた時と思うが、矢来町の家に行って見ると、秀次は一人で酒を飲んでいた。他の二三人の者は私は全然知らない者たちであった。彼等は浜谷徹夫の子分みたいな存在であたのであろう。家人は誰も居なくて、家の中をこの連中が飛び回っていた。私はなにも紹介される訳でなしに、ただこの同級生についていっただけである。 私は子供のころ父に会いに金沢に行くとき、ハシが秀次に汽車の中で挨拶をしていた。彼は父との選挙でいつも敗退していたことを知っていた。選挙で金を使い、随分苦しいおもいをしていたときである。父の死後怪文書が出回り、その後竹端仁作が私に財産を放棄しろといっていって、私がそれに応じないので、国立金沢病院でこの浜谷徹雄のおかげで、鼻の手術をさせられる羽目になった。益谷と浜谷の関係はどうであったかは知らないが、金沢国立病院で手術をさせたことはなんらかの因果関係があったかであろう。私はその手術の際この写真の示す顎洞(鼻の手術の際上顎の前壁をできるだけ広く取り除き、上顎洞粘膜をすべて取り除く)裂孔を砕かれ、脳天を強打されたのである。そのため記憶を失い、人生を破滅されるほど強烈な損傷を受けていたのであ


頭蓋骨の強打による損傷(金沢国立病院偽医師)中村晃章の

2006年02月12日 10時34分18秒 | 鼻の手術

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/e/9a20dd0eaaa7451d2aa900de2c2b5612私を実際に手術した人物は、上戸村の真言宗の坊さんで医師の国家試験を落第した中村晃章である。彼は辨谷家に出入りして辨谷貞造の家庭教師をしており、父桜井兵五郎の奨学金により金沢医科大学にはいったものである。 

 このレントゲンの私の頭の損傷は、前頭前野と呼ばれる連合野であり、ここは脳の中の広範な情報を集めて、統合しそれを基準として行動を制御するときに使われる領域である。記憶の保持の障害ではなく、記憶をアクテーブ組織化することが障害されるのである。この前頭野の頭蓋骨を砕いたのであるから、私の人格が全く変わったのである。人間を廃人にしたに等しいのである。又この分野を損傷されると条件付き連合学習が障害される。認知作用を旨く振り分け、行動の選択え結びつけるという過程が要求として重要視される場所である。従って人間として社会に適用すべく活動が出来なくなるのである。それに鼻の手術の際、師骨を砕いた際、眼窩を酷く傷つけたため、脅迫障害を起し、思考力を全面的に失わせたのである。これが弁谷家の私の鼻の手術の目的であった。之に協力したのが桜井能唯等の日本観光の取締役である。私が金澤家裁で桜井能唯の妻を証人として、申請したのは全くの間違いなのであった。桜井能唯は私の鼻の手術を策術した一人だからである. ブログの写真は鼻の手術の際、師骨を砕き脳縦列から私の頭蓋骨を強打した痕跡を示すレントゲン写真をデジタル化した写真である。