財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
私は自分の出生について2歳上で当時東映株式会社の大川博社長の秘書をしていた弁谷昌造に相談したところ、顔を真っ青にして私を東京国立第一病院の精神科の富永医長のところに連れて行ったことは話した。私が桜井兵五郎の子であり、弁谷家に預けられいた事は本人もわかっていたはずである。何故なら桜井兵五郎が弁谷家に来るたびに私だけが父の前に呼ばれて、彼らは奥に隠れて私と桜井兵五郎の会う様子を絶えず見ていたからである。私の父の死後弁谷家では私の事で話し合いが、度々為されており、弁谷家の親戚一同が感心をもって話し合っていたのである。その結果が私の鼻の手術を金澤国立第一病院で行い,私の頭を破壊する決議がなされていた。従って弁谷昌造も私の鼻の手術については深くコミットしており、私の出生の秘密を知らないはずはないが、私の言に強固に反対を主張し精神病院に連れていったのである。私の脳はブログの写真のように破壊されており、過去の記憶を失い、脳のMRIから判るようにその影響は甚大であり、本来なら私が鼻の手術を受けた17歳頃に私自身自分の出生について知っているべきであった。私は弁谷ハシに私の母は違うのではないかと聞いた事がある。高校に入ったころである。しかしハシは狂った様に否定した。弁谷昌造もハシに対して、私が血液がO型であるのはオカシイとハシに詰め寄っていた。何故ならハシはAB型で栄はB型であったから、O型が生まれるはずがないからである。しかしこれは芝居で私の反応を試すためのもであった。この頃私の母が本当のこと、私の出生の事を私にハシが話して欲しいとの依頼があった。それに対してハシは強烈に反対し、一家が揃って私の頭の破壊に話が一致するのである。とくにハシは私が何時かは私の母を思い出すに違いないと主張して皆を説得していた。弁谷貞造昌造は時にはお互いに私にナリスマシテ、私の父の遺産のおこぼれに預かっていた。私は近藤氏に会い私の父のことを聞いた時、同氏曰く私の父は弁谷家に自分の子供を預けてあると聞いているが、貴方どうか判らないといった。この言葉からも判るように、私の身代わりに彼らが動いていた事がわかる。父の戸籍上の子供が他人の子であるから尚更である。近藤氏も父の戸籍上の妻子は全然知らないと明言した。