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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

近藤荒樹氏について(2)私が17歳の時の鼻の手術を利用した私の頭の破壊

2005年06月29日 09時32分53秒 | 鼻の手術

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私は自分の出生について2歳上で当時東映株式会社の大川博社長の秘書をしていた弁谷昌造に相談したところ、顔を真っ青にして私を東京国立第一病院の精神科の富永医長のところに連れて行ったことは話した。私が桜井兵五郎の子であり、弁谷家に預けられいた事は本人もわかっていたはずである。何故なら桜井兵五郎が弁谷家に来るたびに私だけが父の前に呼ばれて、彼らは奥に隠れて私と桜井兵五郎の会う様子を絶えず見ていたからである。私の父の死後弁谷家では私の事で話し合いが、度々為されており、弁谷家の親戚一同が感心をもって話し合っていたのである。その結果が私の鼻の手術を金澤国立第一病院で行い,私の頭を破壊する決議がなされていた。従って弁谷昌造も私の鼻の手術については深くコミットしており、私の出生の秘密を知らないはずはないが、私の言に強固に反対を主張し精神病院に連れていったのである。私の脳はブログの写真のように破壊されており、過去の記憶を失い、脳のMRIから判るようにその影響は甚大であり、本来なら私が鼻の手術を受けた17歳頃に私自身自分の出生について知っているべきであった。私は弁谷ハシに私の母は違うのではないかと聞いた事がある。高校に入ったころである。しかしハシは狂った様に否定した。弁谷昌造もハシに対して、私が血液がO型であるのはオカシイとハシに詰め寄っていた。何故ならハシはAB型で栄はB型であったから、O型が生まれるはずがないからである。しかしこれは芝居で私の反応を試すためのもであった。この頃私の母が本当のこと、私の出生の事を私にハシが話して欲しいとの依頼があった。それに対してハシは強烈に反対し、一家が揃って私の頭の破壊に話が一致するのである。とくにハシは私が何時かは私の母を思い出すに違いないと主張して皆を説得していた。弁谷貞造昌造は時にはお互いに私にナリスマシテ、私の父の遺産のおこぼれに預かっていた。私は近藤氏に会い私の父のことを聞いた時、同氏曰く私の父は弁谷家に自分の子供を預けてあると聞いているが、貴方どうか判らないといった。この言葉からも判るように、私の身代わりに彼らが動いていた事がわかる。父の戸籍上の子供が他人の子であるから尚更である。近藤氏も父の戸籍上の妻子は全然知らないと明言した。


弁谷貞造が康楽寺本殿と指定した場所

2005年06月20日 09時37分07秒 | 鼻の手術

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

昭和51年ヮ第6758号(東京地裁)原告宗教法人康楽寺代表役員岩本勝俊、同日本観光株式会社代表取締役桜井能唯が,戸籍上の妻子をあいてに所有権移転登記請求事件を起し、昭和55年7月3日現場検証が石川県湯涌町の白雲楼の向かいの小高い山で行なわれた。その現場検証は全て弁谷貞造がおこなっており、その説明書も彼が書いて提出、それに基づいて現場検証が行なわれている。勿論戸籍上の妻子は康楽寺の承継人ではなく、何がなんだか判らないままに検証が進められている。その検証を主導したのが他ならね弁谷貞造である。私が昭和27年の夏、金澤国立第一病院で飯田高校の国語の先生をしていた偽医師で、上戸村の真言宗の住職であったが、国家試験に落第して住職として養子になり中村姓を名乗っていたたのであるが、この男が私の手術を行なった事は以前に記述したが、私の鼻の手術に何故この男が現れたかは、私がこの男と弁谷栄つまり貞造の父親であるがこの二人が父の諸会社の名義株の保有について相談していたのを偶然聞いたからである。父の株式をその男の名義株にする手続きについて話を私が偶々聞いたので、私の頭を破壊する必要があった。父の名義株は全て康楽寺の本殿建築の資産に寄付されていたから、康楽寺の本殿計画が中止となったとして、弁谷栄、ハシが文章を偽造した、その書面にもとづいて、この訴訟が提起されたのであるから、弁谷貞造が現場検証を主導したのである。前のブログで説明したが康楽寺の白雲楼に面した山の斜面を埋め立て整地することとはなっていたが、その山の斜面である湯涌町へ33の5が康楽寺の本尊の場所だと貞造は説明している。父が建てた康楽寺の本殿所在地は湯涌町へ19番地である。父が建てたのは康楽寺の仮殿であって、将来湯涌町へ19番地に本尊の入る本殿を建てることにして、自分個人の寺に自分の資産を寄付したのである。弁谷貞造等は康楽寺を宗教法人にしたがその所在即ち本殿の所在を湯涌町へ19番地にしないと、父の資産を自分のものに出来ないので、裁判の現場検証では本殿の所在をブログの斜線部分としたのである。このブログの写真は弁谷貞造が書いた現場検証の資料で、以前に書いた弁谷栄ハシの書いた山の谷の斜線の部分を弁谷貞造が本殿の建築地として説明、費用がかさむので変更になおったのだと説明している。この写真の図面斜線部分が康楽寺本殿部分として説明がなされている。


(2)私の鼻の手術をした偽医師中村晃章(飯田旧制中学卒)

2005年06月07日 15時35分06秒 | 鼻の手術

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私の同級生である浜谷徹夫だけが私の家に来ることを許されたらしい。
私は浜谷徹夫なるものは親しくしていなかったが、彼の方から近づいてきたのだ。
だれも近付かなくなったころ、この男が急に私に接近してきた。
私の友人が其れまでは私の処に大勢集まって来ていたが、弁谷ハシが私の友人に
向かって今後は私の処に集まってはいけないと友人達に命令したのである。
私は何度かハシの命令に抵抗したが、あまりシツコク友人が来るたびに云うもの
だからそれ以来友人が誰一人も来なくなったのである。
この様な時彼だけが私に近付いてきたのである。
彼の目的は私に鼻の手術を受けさすることにあった。
彼は朝に晩に私に会うたびに鼻の手術を勧めたのである。
私じょその時はノイローゼ気味であってが、その内何時かは直ると考えていたからである。
私はその頃孤独と精神的不安定な状況にあった
その頃私は毎晩ハシの性的虐待にあっていた頃と重なるときであった。
とうとう彼の執拗な勧めで私は手術を受けるきになった。それは金澤の国立病院で鼻の世界的権威の医者がいて、彼もその名医の手術で頭がすっきりしたといううのであった。 国立病院とその名医ですっかり丸め込まれたのである。
しかし私が病院のベッドの上で目をあけて見ると、世界的名医である種村医師が執刀するのではなく、そこに立っているのは高校の先生で医師の試験に落第してなった男である。 この男が弁谷栄と私の父の名義株の件で話あっているのを見た事がある。上戸村の真言宗のお寺の坊さん中村晃章という人物である。
父の諸会社特に北国新聞の株式に名義を貸せば、利息が貰える等の話をしていたことがある。
何故この男が手術室にいるのか急に理解できなかった。私は種村医師が執刀するとばかり思っていた。
弁谷ハシが種村医師の自宅まで挨拶に行ったと聞いていたからである。
 まさか高校の先生がここにいるとは私の思考力を超えていた。種村医師の指示に従い、その偽医師は私の手術を三回行ったのである。しかし三回目は看護婦さえ居なく、その偽医師が全く一人で行ったのである。小さな部屋の中で、その男は私を散髪する時髭を剃る時のように、私の頭を後ろに下げ顔の皮膚から鼻をめくり上げ、鼻空天井の臭上皮おいわれう5平方センチメートルくらいの師骨をいわれる穴だらけの骨を砕いて、
大脳縦列が開いた中にメスを入れ、頭蓋骨を強打し始めたのである。
私は吃驚して目を開けその男の顔を見ると、汗ばんだ顔をして息を切らして力を入れて頭蓋骨を叩いているのが見えた。
私は顔や鼻周辺は麻酔をしているが頭は意識があった。その男が頭を強打する前に鼻の周りというか,頭蓋底辺りをいじくっていた。私は鼻の手術なのに何故頭蓋骨を強打する必要があるのか、恐怖のなかに思っていた。
一ヶ月ばかり入院していたが、頭がすっきりするどころか益々混沌とした状態になった。私を執拗に鼻の手術を勧めた男はそれ以後急に私に近づかなくなった。
 この写真は脳の断面図で赤く線を引いた処が脳の縦列である。
頭を後ろに散髪する時の髭を剃るときのポーズに私はさせられていた。
この様な状態のときには、脳の縦列が開いて頭蓋骨に容易にノミを打ち込むことが出来るのである。
この頭蓋骨の強打により、私の脳は破壊され17歳から廃人にされたのである。
この時以降私は自分を失い、自分の人生が無茶苦茶となり、辛酸をなめさられる
のである。
その原因は私が偶々、父の経営していた北陸毎日新聞が、現在の北国新聞と対等合併し父の名義株をその偽医師の名義にする話を弁谷栄が話しているのを聞いたからであるブログの写真は臭上皮のある穴たらけの師骨〔赤線で囲んだ処)

この臭上皮の骨が破壊された事と匂いの脳に与える伝達機能を失い、記憶の喪失が甚だしく起きたことも原因の一つである。


私の頭脳が大脳縦裂より鼻の手術で頭蓋骨を強打された経緯

2005年06月06日 07時26分07秒 | 鼻の手術

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私は中学3年頃より、自分の頭な中が靄が晴れる様にすっきりして来たのを感じたのである。それまでは頭の中がボーツトした状態が続いていたのである。高校に入ってから急に勉強の方が群を抜いてトップになったのである。この時は私の父が東京の日本タイプビルで亡くなったあとである。私はダントツに学校では、目だった存在になった。しかし私は孤独であった。友人が家に集まると、ハシが寝巻き姿で出てきて、友人を追い返したのである。この子は今勉強しなければならない、遊んでいる暇がないと言って追い返した。それから友人は一人も私を訪ねることが無くなった。それで私が勉強に打ち込める様になったかと言えば、全く逆で急に集中力が無くなりジィットしていることが出来なくなったのである。
思考力がなくなりムヤミヤタラト外をウロツキ回るようになってしまった。 この頃より睡眠薬を夕食の時に味噌汁の中に入れられて飲まされた毎晩夕方7時頃より眠くなり,床に就くようになった。それでオカシク思い、ある夜ハシが私の味噌汁の中に何か入れるところを発見して問いただしたことがある。このときハシは慌てて言い逃れをした。私はこの時はハシを実の母と思っていたので、睡眠薬を入れていることなぞ想像も出来なかった。私はこの頃毎夜夢の中で強烈な刺激を感じた。思春期であるからオカシクナイ年頃であったからである。しかしこうゆうことが続くと頭の状況がオカシクナリ、思考力ななく無闇に外をホッツキ歩くようになった。勉強に集中することが出来なくなり、なにをしたら良いのか、自分の将来に対しての思案さえ出来なくなったのである。 この歳の秋頃毎晩眠れなくなり、薬局で睡眠薬を買って飲んでいた。当時はブロバりンと呼ばれる薬である。この歳の暮れある日急に何事にも気がちり、小さなことに拘るようになったのである。 自分自身に対する罪の意識とか、なんと無い不安感に毎日襲われていた。この頃未だ父だと信じていた栄に、自分の現状を相談したことがある。この男にこれまで散々虐待され,内面恐れおののいていたので、家の中では口を利いたことも殆どなかったその時栄は”お前は春日神社”の狐に憑かれたのだ。それはお前が鼻が悪いからだ。と言った何故鼻が悪いからだと言った理由が判らなかったが、質問する権利さえ与えられていないといつも自分で思っていたので、そのまま黙って引き下がった。これで私の鼻の手術えの道筋がついたのである。それで私は近所の耳鼻医院で鼻の洗浄を受けることとなった。塩水をゴムのホースで鼻の穴に入れ洗浄するので痛いのなんの我慢が出来ず止めてしまった。しかしこの後風邪が引きやすくなり、その時は鼻水が滝のように流れたのである。 ここで樺太から疎開してきた浜谷徹夫なる同級生が登場、執拗に鼻の手術を勧めるのである。このことは前のプログでも書いた。私の預けられた家では家族全員で私をどうするか方針を決めた上で実行していたのである。
即ち私の記憶を消し、人格的に廃人にする計画が着々と進められていたのである。


私のMRI

2005年06月04日 11時53分34秒 | 鼻の手術

この手書きのMRIは私の現在の頭の中を撮影したものである。
左側は慢性硬膜下血腫の状況を示すものである。右側は私の頭蓋骨のヒビ割れの状態をしめしている。この症状は今から50年以上も以前の私が17歳の時の鼻の手術の際、故意的に加害されて出来たものである。この事は私の幼少時代のプログにも書いてある。この時は私の父が日本タイプのビルで亡くなり、私の相続の問題が興ってきたときである
この相続の中に父の経営していた北陸毎日新聞が現在の北国新聞と対等合併した
父の持ち株があり、かっては永井柳太郎が社長をしていた時もあった。
これまでも話した様に私の父は永井柳太郎の子供を3人認知し昭和22年頃より25年頃に掛けて認知、戸籍にいれている。この子等は夏になると能登の端の弁谷家に必ず遊びに来た。みな小学校入るかその手前ぐらいの年頃であったが、昭和26年父が亡くなってからはその子供等は急に来なくなった。
その後上記の様に私の脳が破壊された後の昭和27年頃吉田と言う子供が裁判認知を受けた。
この男が後年日本観光の社長となり会社の土地に60億の抵当を付け、江戸村の桜井能唯社長にその金を渡し会社を倒産させた。
この桜井能唯に現金を渡し、株券を引き取る現場には弁谷貞造も立ち会っている。
この時弁谷貞造は日本観光の副社長であった。
 話は戻るが私の父が認知した子供の母親は元東京フロリダのダンサーで、その妹も同じく一緒にダンサーをしていたと言う。即ち父は永井柳太郎の隠し子を3人も認知したのである。
父は永井家、堤家との関係が益々良くなるようにと祈願して、永井柳太郎の子供を認知したのであるが、結果は堤康次郎の裏切りで崩壊したのである。
永井柳太郎の事は前日の同氏のプログに書いた通りである。父がこの様に永井柳太郎の子供を認知しなければならなかった理由があったのである。
その理由は父の子供が私一人しかいなかったからである
堤康次郎氏は事あるごとに永井柳太郎のお陰で軽井沢の開発が出来たと永井氏に大変な忠節を尽くしている。しかし堤康次郎氏は父のことを一言も触れていないのである。父は軽井沢えの進出だけでなく、西武鉄道の今日の発展のために大変な尽力をしている。昭和8年王子製紙と樺太製紙の合併のときである。当時両者は死闘を繰り返していた。共倒れの危険もあったのである。合併を成功させたのは父の資力であった。樺太製紙の経営者は、西武鉄道や豊島園も経営しており、それを堤康次郎氏に経営を後年移行させたのである。話は父の相続の問題の時に移るが、この頃戦後樺太から引き上げてきた浜谷徹夫
と言う
私の同級生がいて、この男が私に鼻の手術を執拗にすすめることになる。
わたくしの幼年時代のプログに書いた様に、私は頭を戸籍上の親に強打され、慢性硬膜下血腫を起していたのである

私の預けられた近くに資産家の一人息子がいて、この親権者が謀議しその息子を性的篭絡により、人間失格に陥らせ死にいたらしめた事件があった。
勿論その息子の財産はその親族に奪われた。
私もそのような境遇に置かれるとは夢にも考えなかった。こともあろうに戸籍上の親が私に睡眠薬を多量に飲ませ、夜間性的虐待を」繰り返したのである。
この事は親族一同了解の下に行われた。組織犯罪であり、互いに役割分担していたのである。日本観光の倒産、日本タイプの売却、父の生涯の悲願であった康楽寺の白紙撤回の文書を偽造したのもすべて役割分担を各自決めて行っていたのである。私は慢性硬膜下血腫をおこしているところに、毎晩味噌汁の中に多量の睡眠薬を入れ飲ませた上性的行為に及ぶわけであるから、精神的破壊が起こるのは当然である。そこで私に鼻の手術に誘い頭をメスで叩き、私の回復しつつあった頭の陥没を下からメスで叩きあげたのである。これで私の人格破壊が起り、私の記憶の回復するのに50年近く掛かったのである。これがプログの写真のMRIが表現しているものである。 右側の頭蓋骨に縦に線が一本叩かれた後を示すものが入っていた。