2020年1月17日です、
1995年1月17日から25年も経ってしまいました、、、光陰矢よりも早い光速の如し、、、
25年前の6日間の事を書き留めておきます、
長文ですが読んでもらえると嬉しいです、
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■1日目火曜日、
まだ真っ暗な5時46分、突然の衝撃、一撃でIKEAの組み立て式ベッドが壊れて床に落ちました、起き上がれず、
そこから数十秒間、いったい何が起こったのか?理解できず、、、
その時思ったのは『ジャンボジェット機がこのマンションにぶつかった!!』、
これは憶えています、
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揺れが治まって初めて地震だと認識、寝室の窓から外を見ると真っ暗、周辺はすべて停電、うっすらと土埃のようなものが舞い上がっています、
なんとか寝室を出ました、TV(まだぶ厚いブラウン管式)がリビングの真ん中まで飛んできています、
玄関に通じるドアの前に食器棚が倒れている、もちろんガラス・陶器の破片が散乱、
なんとかスリッパを履き摺り足で進み、ドアを引くために手探りで食器棚を動かし、散乱したガラスや食器をスリッパで蹴散らしてなんとか玄関へ、幸い戸外へ出るドア扉は開きました、
ここまで30分以上掛かったと思います、
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外はまだ暗い、気を取り直して室内へ戻り、2人分のコートを取って寝室へ戻り、家人と一緒に再び戸外へ出ます、
そうそう、この時は猫を4匹飼っていました、そのうちの2匹は地震と同時にベッドに飛びこんで来たようで家人が確保、2人と2匹、かごに入れて脱出です、
上階の人が階段を降りてきた、『ガスの匂いがするから早く逃げた方が良いですよ』と叫びながら階段を降りていきます、
2人と2匹もドア扉を開けたままにしてマンションを出ることにします、猫が2匹まだ中にいるので火事になっても逃げられるようにドアは開けたままに、、、と考えたのも憶えています、
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少し空が白んできた、おそらく地震から1時間近くが経過、大きな怪我もしていないのに脱出するのにエライ時間が掛かっている、
ふと見るとワタシのコートを家人が着ている、ワタシは家人のコートを着ている、気が動転していているのか?暗いので良く分からなかった、もちろん交換する、
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近くの小学校を目指そうと思ったのか?国道43号線の交差点に着いて西の方角を見ると、、、
なにが見えているのか?しばらく理解できなかった、、、脳が目の前の光景を拒否しています、、、
阪神高速道路が倒壊しているのが見えました!
アカン、これはもうお終いや、南海地震や(当時はまだ東南海とは云わなかったような)、大阪は壊滅やな、京都もアカンか、、、
エライこちゃ、エライこっちゃ、
続々と避難する人が来る、そして倒壊を見て息を呑む、エライこっちゃ、
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小学校の校庭に着いて少し落ち着いた頃には陽も昇った、なにがあっても陽は昇る、
映画監督の大森さんもパジャマに毛布を肩に掛けて来られた、
『みなさん、ここに避難するのですか?』と訊かれた、分かりません、
そういうとワタシもコートの下はパジャマだ、
何度も余震で揺れますが、校庭だから少しは安心できます、上空にはヘリコプターが飛び回っている、自衛隊の大型のヘリコプターも見えました、
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30分か?1時間か?どれくらい経ったか分からりませんが、少しこの状況にも慣れてきた、一旦家に戻って服を着替えて、なにか食べ物を確保しようという気持ちになりました、
家に帰ってGパンに履き替え、そこらに転がっていたリンゴを確保、それに他の何か口に入りそうなものを物色する、水は気が回らなかったのか持って出た記憶がない、冬なのでそんなに喉も乾かなかったからか?
台所は悲惨なことになっている、油や醤油他の液体、ガラス片、陶器片が飛び散っている、狭い台所なので冷蔵庫は倒れ(られ)ずに立っていた、
別の部屋の箪笥も同様に立っていた、どうやら一度倒れたが、向かいの壁に当たって元に戻ったみたいだ、
余震が来る、さすがに建物の中にいると怖い、とにかく急いで鞄とお金、貴重品など見つかる限りのものを持ち出す、
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気を取り直すと寒くなってきた、逃げる時はパジャマにコートでも寒さはあまり感じなかったが、今はやはり寒い、
小学校の体育館に入る、もう避難している人で一杯、みなさん、毛布なども持参している、ふと気がついてまた一人で家に戻り毛布を持ち出す、
この時かな?一度、家のトイレを使う、小便、まだ水は流れた、大丈夫や!と思ったのは大間違い、すぐにタンクの水が無くなることまで頭が回らなかった、小便で水流したらアカンかった、
昼ご飯は2人でリンゴ1個だったかな?記憶にない、
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午後になると体育館に遺体が運び込まれてきた、、、なにかで包まれていたけど人の死体をまじかで見るのは初めてかも、、、
こっちが生きている人、向こうは亡くなった人、と区切られた、もう日常ではなくなった、
そのうちにここは遺体安置所になるとの周知があり出ることにする、すぐ近くの市役所に避難する、ここも人で一杯、旧庁舎の建物にスペースがあったのでそこに座り込むが、ほどなく耐震性に不安があるので新庁舎に移るよう指示が出る、
新庁舎の書類申請カウンターの前に2人で座る、
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近くのコンビニに何かあるかもしれないと思いつき、一人でコンビニに行く、
途中、阪神電車の踏切を渡る時に線路を見る、飴のようにグニャグニャに曲がったレール、これは復旧できるんだろうか?
コンビニも前面のガラスが割れるなど被害を受けていたが営業していた、商品はもうほとんどない、カップラーメンが残っていたが、これはお湯が手に入らない状況なので皆敬遠したからだと気付く、
なにか口に入る菓子類となぜか電池を買ったような気がする、とにかくあるモノは買っておこう、
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停電でレジが動かないので店員さんは大まかな手計算で売ってくれた、
これとこれで350円で良いですか?
はい、ありがとう、、、みたいな感じ
店員はたしか1人、清算の列は店の外まで続いている、でも黙って持って帰る人はいない、皆並んで手計算の清算にお金を払っていく、こんな情景、日本以外では有り得ないなと思った、外国なら略奪が起こる可能性大やわ、
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コンビニの前に緑の公衆電話があった、ここにも列がある、携帯電話はまだ持っていなかったので列に並ぶ、
ここではちょっと空気が刺々しくなった、通話している人が何通話か連続して使用している、あちこち連絡したいのだろう、並んでいる人の中から『一人1回づつにしようや!!』と声が飛ぶ、その気持ちも分かる、
ワタシは実家の番号をダイヤルしたが繋がらなかった、もう一度掛けたかったが1回だけで諦めた、
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市役所新庁舎に戻ると、カウンターの中で職員さんが電話を使っている、ここに電話あるやん!申し訳ないが使わせてもらう、とくに断らなかったが、止められもしなかった、
やはり実家は繋がらない、で、会社に電話してみたら繋がった、若手社員が出てくれた、ありがたかった、無事を報告、
そういうとこの日は朝から東京に出張の予定だった、某女優さんのR-CM収録の立ち会い、
お土産にその女優さんが好きな神戸のお菓子を前日に家人と一緒に買いに行ったのを思い出す、そういうとあのお菓子はどうなったんだろう?
とにかく社員に無事を報告、京都の実家の電話番号を告げ2人とも無事であることを伝えて欲しい旨懇願する、
後日聞いたのだが、実家への無事の報告は彼が電話でしてくれた、電話口で母親が泣き崩れたそうだ、ほんとうにありがとう、
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市役所内のTVは写っていたような記憶がある、南海地震だと思っていたら、なんと震源は神戸、淡路島辺りだと、三宮の生田神社の本殿がぺしゃんこになった映像だけは確実に見たと思う、
大阪の被害は軽微なようで、十三大橋の袂に段差が出来てクルマが通れない、くらいのニュースを流していた、
空撮の映像で何本も火事の煙が立ち上る神戸の映像、
倒壊した阪神高速、
落ちた高速道路にギリギリ止まっているバス(これは後日見たのかもしれない)
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午後には自衛隊の車両とともに各地の消防車も入って来ていた、1台は神奈川県湘南市だったような記憶がある、素早い、遠くから来てくれた、ホントに心からの感謝の気持ちが溢れた、泣いた、
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市役所で座っていると横にパジャマ姿の着の身着のまま、毛布一枚の娘さんが座った、
訊くと、アパートの1階に住んでいて、地震が治まったら天井が顔の上数10cmのところまで落ちて来ていたそうだ、命は助かったが身動きも出来ない、なんという恐怖、
時間が経つと隣の部屋の住人の救助が始まった、幸運なことに隣人は工務店か何かに勤めていたらしく、仲間が工具などを持って救助に来たらしい、
2階の床と1階の天井をぶち抜いて無事隣人を救出、彼女はこの声と物音をずっと聞いていたそうだ、
そして、静かになったら『他に生きている人はいますか?』と声を掛けてくれた!なんと素晴らしい!!
ここにいます!
彼女は声を上げて救助を要請、同じく2階の床と1階の天井に穴をあけて助け出してもらったそうだ、
他にも救助があったのだろうか?これ以上は一人でなんとかして、ということで、一人で市役所まで歩いて来たそうだ、なんとも凄い話であるが、この日はこんな事が何千、何万と行なわれていたんだろう、
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救助した人のお蔭か?忘れましたが、友達とは連絡がついており助けに来てくれるとのこと、ま、一安心、でも、パジャマのままで服も来ていないし、財布も何も持っていない、
家人が家に戻って自分の服一式を持ち出してきた、渡して着てもらう、こんな状況である、なんでも良い、生き残ってなんぼやで、
しばらくはお金も必要でしょう、1万円札を1枚渡した、辞退されたが渡した、これで助かることもあるかもしれんから持って行き、
翌日の早い時間に友達が市役所に来て彼女を収容して帰ったようです(友達も女性だったようです、この女性もエライ)、別れ際には会えなかった、
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数カ月後、暖かくなった頃、彼女から家に電話が掛かってきた、記憶にないが電話番号を渡していたのでしょう、無事に大阪で生活しているとの事、お金を返したいので会いたいとの事、この娘さんも良い娘さんだ、
後日、大阪梅田の中華料理屋で3人で食事をしました、あの時の話をして泣いてしまった、でも生きていてよかったネ、お金もちゃんと返してくれた、ホントにありがとう、今はどうしているかな~、
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この日の夜、市役所で夕食が出た!記憶では篠山市(現丹波篠山市)の婦人会の方々が握ってくれたおむすび、
2個1パック、市役所の人が『数が足りないので、2人連れの方は2人で1パックにご協力ください』と云っていた、1パックだけもらう、バナナももらったような気がする、
余震が続く中、ウトウトと市役所の床で毛布にくるまって寝た、3人と2匹、
そうそう、2匹の猫は大人しかった、鳴きもせずひたすら耐えていたような感じ、さすがにおしっこは籠の中で漏らしていましたが、
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■2日目水曜日、
明るくなってから家に戻り、室内の整理をしようとしたがすぐに諦めました、もともと掃除が苦手なのに、これは無理、とくに台所が酷かった、
部屋の中に残したままの2匹の猫も見つからない、、、一晩、ドア扉を開けたままにしていたので外に逃げたのかもしれない、、、仕方ない、
この間に先の娘さんは友達が収容して帰った、
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電気・ガス・水道すべて止まっている、電車も当面は動かないだろう、ここで暮らすのをあきらめてとりあえず家人の実家へ避難することを決める、
幸い山の方から宝塚・川西方面へはクルマでスムーズに抜けられるみたいである、駐車場を見に行くと壁やらあれこれ破損しており瓦礫が散乱しているがクルマは大丈夫、
夕方に車で出発、その日の夜は家人の実家で風呂にも入れた、あ~幸せ、
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そこへ会社から見舞いの電話がかかってきた(翌日かもしれない)、自宅のドア扉に避難先の電話番号を書いたメモを貼って来たのだが、それを会社から救援に来てくれた社員が見てくれたようだ(いや、ワタシが会社に避難先を告げたのかもしれない)、入れ違いになり申し訳ない、
この時、有志社員が水や食料を持って西宮から神戸までの社員の自宅を歩いて回り救援活動をしてくれていたそうだ、これまたありがたい、(いずれにせよ社員の救援活動はありました)
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■3日目木曜日、
家人と2人、クルマで自宅に戻り家財の整理をし、猫を探す、
狭い家だが呼んでも猫は出てこない、やはり外に逃げたか?、、、と、
箪笥のある部屋の散乱した衣装ケースと服の下から1匹が現れた!ヨカッタ、無事であったか!よしよし、呑まず喰わずだったろう、お前もよく頑張った!!ヨカッタ、
あと1匹いる、リビングのテーブルに餌と水を設えて実家に戻る、
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■4日目金曜日、
また2人で自宅に戻る、
リビングの餌が減っている!いる!どこかにいる!!
各部屋を整理しながら猫の名前を呼び続けるが出てこない、いったいどこにいるんだろう?一番神経質な仔である、ビビって出て来れないのだろう、
クローゼットの上にある小さな収納庫の扉が開いている、昨日来た時に念のためと中を覗いた時に開けてそのままにして帰った(この時は猫はいなかった)、
もう一度、念のためにと椅子に乗って中を覗いてみると、、、いた!そこに丸くなって、いた!!ヨカッタ!!
これで家族は全員無事である、生きていればそれだけで丸儲けである、これでもっとも大切なミッションは終了である、
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■5日目土曜日、
この4日間、たくさんのボランティアの方に助けられている、
日本のボランティア元年となったこの年、ワタシも経験はないがボランティアに参加することにしました、
前日くらいに“尋ね人用安否確認記入用紙”が配布されていました、噂では広告代理店の電通の社員が作って被災地に配布しているそうな、当時は携帯電話が普及していなかったの必要なツールだった、素晴らしい、広告代理店にも出来ることがある、
昼頃、1人で市役所のボランティア窓口に登録する、荷物運びでもするつもりで待機していたら市役所の人が『市内の地理に詳しい人はいませんか?』と募った、地元の人間なので手を挙げる、
ボランティア本部に入り、避難所関係の情報の整理にあたる、避難所にも物資を届けたような気がするが記憶は曖昧、
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夜になりボランティア本部の会議がありました、会議といってもいろんな人が床やそこらに座っている、ワタシも端っこで参加する、
市役所のボランティア担当者(当時はまだ専門セクションはなく、たしか海外交流とかを担当している部署の人)と地元ライオンズクラブの方々が中心になり今後の活動内容を検討しています、
状況は同時多発的に避難所が出来、その情報がコントロールできない、救援物資は全国から大量に届くがその整理も出来ないし、配布の順番や優先順位も分からない、、、
今と違い当時はこれほどの大災害に対するマニュアルは存在しなかった、専門家もいない、ボランティア組織もない、無理もない話、いったいなにをどうすれば良いのか?
昼間に、弁当は市内全域に配布する数が揃わなければ不公平なので配布していない、などという話も耳に入っていた、残念だが誰も何が正しいのか判断できない状況、25年前だから仕方なかった、
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ここで広告マンマインドが湧き起こった、なんとかしたい!
手を挙げて発言を許してもらい、自己紹介、そこに住んでいます、広告代理店勤務でイベントなどの経験もある、災害対応の経験はないが役に立つかも、
で、ホワイトボードに今後の活動方針をその場で書き始めました、いやはや、なんとも、
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要旨は“ニーズ情報と物資のマッチング”、
情報側は避難所の情報の整理、市役所からリストが出てきましたがこれが役に立たず、リストは小学校~中学校~高校~公民館など市の施設、私立の施設といった分類で並んでいます、が、これでは地理的な要素が抜けおちている、
市内の白地図を探してもらい、そこにリストの避難所をマッピングしました、
その避難所の情報を集めるシートを作成しました、人数、病人の有無、必要な物資、必要な医薬品、医師の必要性、その他の要望などを記入してもらうシート、
また、避難所生活が長期化する可能性があるのでリーダーを作り管理体制を構築するように求めました、
また、当然リストにない避難所も自然発生的に出来ています、それらの情報も今後取り込んでいくことにしました、
これらはすべて手書きで作成(まだPCもそんなに普及していなかった)、幸いコピー機は動いていました、
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物資側は、物資のリストを細かく作る、それもいくつかの分類の上で物品別のリストを整備する、これは市役所の仕事、
で、この避難所情報と物資情報を突き合せて効率的に避難所を支援しようと云うものでした、
このプレゼンテーションでワタシは市からボランティア情報部長と云う役職を拝命、一気に実作業に入りました、緊急時です、話が早い、
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避難所マップ作成と情報シートの作成は深夜に及びましたが、2人の女性ボランティアが手伝ってくれました、
1人は市内の若い看護師さん、市内に詳しいということで白地図に避難所をマッピングしてもらったと思います、深夜になったのでお母様が迎えに来られたのを憶えています、
もう1人はたしか東京から来た若い女性、電通の仕事で博覧会事務局にいたとのアピール、たぶん役に立つので手伝っていいですか?と来てくれました、実際機転が効いてとても助かりました、皆凄いね~、
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憶えているエピソードが一つ、ホワイトボードが足らなくなったので庁舎の中の他の部屋のホワイトボードを使おうと、そこにいる職員に頼んだら断られました、
『ここの備品管理はOO課ですから使用許可を申請してください』、って、、、
この非常時に何を云ってるんだ!!と憤慨、正直、これだから役所は!!とも思いました、
でも、、、夜になったら、そのホワイトボードだけが部屋の外の暗い廊下に出されていました、使ってもイイよ、とのサインと受け止めました、これがあの職員の方が出来る精一杯の事だったんでしょう、こちらも熱くなってしまい申し訳なかったです、
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この日は消防署裏の道場のようなところで雑魚寝でした、
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■6日目日曜日、
とりあえずの最終日
前日マッピングした避難所マップを元に効率よく避難所周回コースを設定、
朝、オートバイで来たボランティアを優先的にこちらに回していただき、業務を説明、情報記入シートを持って各避難所を回ってもらいました、
また、被害記録のための写真撮影の依頼も市から来ました、ボランティアでカメラ持参の方を集めてもらい市内各所の写真撮影も手配、
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午後にはボランティアが続々帰還、各避難所の情報が集まり始めました、それを記録していきます、本部のボランティアも数が揃っています、個々の避難所のニーズを吸い上げて個々に対応する、その場の思いつきでしたが当たりました、
至急必要な物資、今となっては常識ですが食料の他に女性用の下着、生理用品、オムツなどが多かったと思います、これらを市の備蓄品から貰い受けて(市の方もボランティア本部を優遇してくれました)すぐに届けはじめました、
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医師と看護師のグループも続々来られます、情報シートから病気の種類、医薬品などの要望を伝えて大きな避難所を紹介していきます、
炊き出しの方も来られます、どこに行ったらエエ?という感じで鍋釜と食材持参で来られます、が、市の方では避難所は紹介できないとのこと、不公平だからか?衛生上の問題か?これにはワタシも困りましたが、ボランティアの中からそれならどこそこ公園がエエんと違いますか?とかアドバイスをもらい、行ってもらった記憶があります、
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揉め事もありました、本部におられた女性ボランティアが新聞記者の取材を受けることになったようですが、本名を出すのは控えたいということで記者と揉めているようです、
訊くと、前日に本名を出すという承諾を取って取材を始めたそうですが、女性が心変わり、それでは記事にならないと記者が憤慨しています、熱心な若者でしたが、ワタシとしては女性の意思を尊重するように記者に求めました、少し言い争いになりましたが、年上のワタシが『記事を書くことも大事だが、それよりも大事なことがあるはず』みたいなことを偉そうに云って強く諌めたので彼も折れました、なんだか、、、でも、これで時間を取りたくなかったので、、、申し訳なかったです、
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夕方には市のボランティア担当の方が来られました、避難所から感謝の声が届いている、『ボランティアの方にお願いしたら物資が届いた』という声だそうです、ヨカッタ、
これからもボランティアは今の考え方で自由にどんどん動いてください、ホントに助かっています、とのこと、こちらこそ、役に立ってヨカッタです、
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大まかには、市は三度三度の食事配布や緊急医療、衛生管理、備品設備投入など大掛かりで統制的に行わなければならない避難所支援を、ボランティアは細かなニーズを吸い上げて痒いところに手が届く支援を、そんな感じで役割分担できたと思っています、
夜には頼りになりそうで長期滞在可能な若者に業務引き継ぎ、主旨と考え方を伝えて後を託しました、ワタシも今日で一旦ここを離れて会社に行かなきゃ、
最初から手伝ってくれた枚方市水道局職員の方もこの日で一旦帰還するそうですが、『まだまだ出来ることがありそうなので、また志願して戻ってきますわ』とおっしゃっていました、
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■後日、
翌週の土曜日だったか、再びボランティア本部を訪れましたがもうメンバーはすっかり入れ代わっていて知った顔はいない、でも、ボランティア業務は進化して継続されていました、もう他の人に任しても良いですよね、
ワタシが初日に書いた活動方針のメモはまだ貼ってありました、よし、、、
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その後、ワタシは自分の実家に仮住まいし、4カ月ほどそこから会社に通いました、
電気が点き、水道が出て、電車も開通、最後にガスの開栓をして5月には無事自宅に戻りました、
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ま、まだまだいろいろありますがここらで良いでしょう、、、
思い出せる限りの25年前の記憶、結構憶えていました、節目の25年目に書き留めておきます、
長文を読んでいただきありがとうございます、感謝します、
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