だいぶ前になってしまったが、4月25日 川中島旅行の帰りに、少々遠回りになるが、高等に立ち寄った。伊那ICより国道361号を高遠方面に向かって10kmほど行っただろうか?
伊那市高遠町にある建福寺を訪ねた。
ここは武田晴信の側室にして、勝頼の母 諏訪御寮人が眠るお寺だ。
また、武田家が滅んだ後この地を治めた保科氏の菩提寺でもある。
建福寺は、1176年、文覚上人が開創し、1256年、鎌倉の建長寺の開山で、宋からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)がこの地に訪れ、鉾持山乾福寺とし再興した(慶長年間までは乾福寺と名乗った)。さらに天正年間、16歳で高遠城主となった武田勝頼が母を想い興津(静岡市)の清見寺から東谷宗杲禅師を請じて、中興して建福寺となる。
勝頼の母を思う気持ちが伝わってくる。
さて諏訪御寮人(1530年生?-1555年12月18日没)であるが、諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏との間に生まれる。
諏訪御寮人というより、湖衣姫(新田次郎氏原作「武田信玄」のヒロイン)または由布姫(井上靖氏原作「風林火山」ヒロイン)といった方が分かりやすいかもしれない。
しかし、この諏訪御寮人、残念ながら実名すら分かっていない。ただ、法名に「梅」という文字が使われていることから生前の名前は「梅」ではないかといわれている。
謎が多いだけにこの姫は、新田次郎氏にしても、井上靖氏にしても、武田晴信が最も愛した女性として描かれ、多くの人のイメージとなっている。
ある意味、武田の中で一番有名な女性かもしれない。
されどそうした資料はなく、実際どうであったかは分からない。
諏訪御寮人は14歳の時、父を殺した武田晴信の側室とされる。さぞかし辛かったであろう。19歳の時、勝頼を産み、25歳で逝去。何と短い生涯だろうか。
運命に弄ばれながらも懸命に生きた女性だったと思う。
(建福寺)
大変静かなお寺だった。
本堂左側奥に、諏訪御寮人のお墓がある。
(諏訪御寮人のお墓)
右側が諏訪御寮人のお墓だ。因みに中央は保科正直の墓。左側が保科正光の墓だ。
武田勝頼の母であり、武田晴信の妻。高貴の身分である。それでいながら何故後の領主となる保科氏と同じところに眠っているか不思議ではある。
(諏訪御寮人の墓②)
諏訪御寮人は、僅か25歳でこの世を去る。勝頼僅か6歳の時だ。
幼子を残して去るのはさぞ心残りであった事だろう。だからこそ、勝手に思っていることだが、何となく悲しい雰囲気の残るお寺のように感じた。でも諏訪御寮人に触れられて良かった。生涯が謎なだけに、短い生涯だったからこそ、ドラマのように愛され、勝頼をもうけて幸せであったと信じたい。
伊那市高遠町にある建福寺を訪ねた。
ここは武田晴信の側室にして、勝頼の母 諏訪御寮人が眠るお寺だ。
また、武田家が滅んだ後この地を治めた保科氏の菩提寺でもある。
建福寺は、1176年、文覚上人が開創し、1256年、鎌倉の建長寺の開山で、宋からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)がこの地に訪れ、鉾持山乾福寺とし再興した(慶長年間までは乾福寺と名乗った)。さらに天正年間、16歳で高遠城主となった武田勝頼が母を想い興津(静岡市)の清見寺から東谷宗杲禅師を請じて、中興して建福寺となる。
勝頼の母を思う気持ちが伝わってくる。
さて諏訪御寮人(1530年生?-1555年12月18日没)であるが、諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏との間に生まれる。
諏訪御寮人というより、湖衣姫(新田次郎氏原作「武田信玄」のヒロイン)または由布姫(井上靖氏原作「風林火山」ヒロイン)といった方が分かりやすいかもしれない。
しかし、この諏訪御寮人、残念ながら実名すら分かっていない。ただ、法名に「梅」という文字が使われていることから生前の名前は「梅」ではないかといわれている。
謎が多いだけにこの姫は、新田次郎氏にしても、井上靖氏にしても、武田晴信が最も愛した女性として描かれ、多くの人のイメージとなっている。
ある意味、武田の中で一番有名な女性かもしれない。
されどそうした資料はなく、実際どうであったかは分からない。
諏訪御寮人は14歳の時、父を殺した武田晴信の側室とされる。さぞかし辛かったであろう。19歳の時、勝頼を産み、25歳で逝去。何と短い生涯だろうか。
運命に弄ばれながらも懸命に生きた女性だったと思う。
(建福寺)
大変静かなお寺だった。
本堂左側奥に、諏訪御寮人のお墓がある。
(諏訪御寮人のお墓)
右側が諏訪御寮人のお墓だ。因みに中央は保科正直の墓。左側が保科正光の墓だ。
武田勝頼の母であり、武田晴信の妻。高貴の身分である。それでいながら何故後の領主となる保科氏と同じところに眠っているか不思議ではある。
(諏訪御寮人の墓②)
諏訪御寮人は、僅か25歳でこの世を去る。勝頼僅か6歳の時だ。
幼子を残して去るのはさぞ心残りであった事だろう。だからこそ、勝手に思っていることだが、何となく悲しい雰囲気の残るお寺のように感じた。でも諏訪御寮人に触れられて良かった。生涯が謎なだけに、短い生涯だったからこそ、ドラマのように愛され、勝頼をもうけて幸せであったと信じたい。