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夢の続き・・・

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風林火山紀行(信濃路編7)・・・勘助宮と山本勘助の墓【川中島決戦④】

2010年06月10日 15時48分35秒 | 旅行
4月24日 典厩寺を後に勘助宮に向かった
ここは、武田24将の一人にして軍師とされる山本勘助が討ち死にした場所といわれている。
場所は、長野オリンピックスタジアムがある南長野運動公園の南西の端の石碑がある所だ。
もともとは現在の地より北東約100メートルの位置にあったそうだ。
距離は定かではないが、八幡原から直線距離で3~4kmあたりだろうか?
だからすぐ辿り着くことができた。

(山本勘助と馬印)





山本勘助(1493年?生-1561年10月18日没)は、2007年の大河ドラマ「風林火山」の主人公であったことから名前は全国区になったが、実は今でも殆どが謎の人物だ。生家も墓もいくつも説があり、そもそもこの名前での文書さえないからだ。「山本菅助」という名では文書があるらしい。資料が少なすぎるのがその理由であろう。
後世、講談などに用いられ、かなり脚色されていることから、尚更分かりにくい。
勘助といえば武田の軍師というイメージになったが、私自身は井上靖さんの「風林火山」で描く武田軍師というイメージよりは、個人的には新田次郎さんの「武田信玄」に出てくる間者に近い山本勘助像の方が実物に近いイメージのようにも思えるがどうだろう。

まあいろいろ学説があろうが、武田家軍師としての方が夢があるので、それで行こう。
山本勘助は、天文12年(1543)44才のころ、信玄に見出され、3百貫の知行を受け、武田家に仕えたという。諸国を流浪し、兵法に通じ、軍事的作戦はもとより、築城術にも長けていたそうだ。真偽はともかく、海津城や高遠城など、勘助が設計したといわれる城も多く伝わっている。
第4回川中島の合戦では啄木鳥戦法を献策するも、見破られて大苦戦となる。
上杉軍13000が武田軍本陣8000に襲い掛かった。妻女山に向かった12000の別働隊が
戻るまで必死に持ち堪えようとする武田本陣。
こうした中、武田信繁、諸角豊後守、初鹿源五郎ら重臣たちが討ち死にする。
『武田三代軍略』によれば、山本勘助は、自身の献策の失敗によって全軍崩壊の危機に陥らせた事に責を感じ、死を決意して、敵中に突入 奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られたとされている。
その後、別働隊が戻り、形勢逆転。上杉勢を川中島から追い出し勝利するも、勘助は帰らぬ人となってしまった。
今、この勘助討ち死の地「勘助宮」には、碑が建立されている。
(勘助宮)




南長野運動公園として整備されており、全く戦跡という感じはしないところだが、謎の人物、山本勘助に少しではあるが近づけた気がした。

討ち死にした場所とされるこの勘助宮から、また八幡原の方向に戻り、八幡原公園の近くに、山本勘助の墓がある。
(山本勘助の墓)



近くには千曲川が流れ、ほとんど河原のようなところにある。
近くには、武田軍が夜陰に紛れて本体が海津城から八幡原に出る際千曲川を渡ったとされる広瀬の渡し(陣ケ瀬)がある。
(広瀬の渡し)


とにかく謎の多い人物で、実際どこに眠っているか分からないが、ここにいると信じて手を合わせた。
まあ、分からないだけに夢が持てる人物だな
小生は軍師説を信じよう。そっちの方が楽しい