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風林火山紀行(信濃路編8)・・・信玄・謙信一騎討ちの像【川中島決戦⑤】

2010年06月15日 16時17分41秒 | 旅行
信玄・謙信一騎討ち。
川中島の合戦を象徴するシーンで、江戸時代より川中島の合戦での人気のシーンでもある。
勿論これは史実ではなく伝説であるが、両雄の激しいぶつかり合いを表現するにふさわしい伝説である

再び八幡原にもどるが、ここには、そのシーンを描いた見事なブロンズ像がある。
海音寺潮五郎氏原作のNHK大河ドラマ「天と地と」の放映(昭和44年)を記念して建立された像だそうだ。

(信玄・謙信一騎討ちの像)
すごい迫力ある像だ。



(信玄)
軍配で打ち払う。力が入る


(謙信)
形相がすごい



『甲越信戦録』は「謙信公はただ一騎で信玄公の床机(しょうぎ、床几)の元へ乗りつけ、三尺一寸の太刀で切りつける。信玄公は床机に腰を掛けたまま軍配団扇で受け止めた」とある。

謙信は、戦いが終盤を迎える至り焦っていたと思う。何故なら別働隊が戻ってくれば
挟撃にあい、逆にピンチになるからだ。
だから別働隊が戻ってくる前に信玄を何としても討ち取らなければならない。

謙信は、ただ一騎手薄となった信玄本陣に斬り込みを敢行する。
手薄となっている信玄に斬り付けるも討ち取れない。そうこうしている内に、武田家臣 原大隅守が信玄の危機を救うべく戻ってきて、謙信を槍で突く。槍は外れ謙信に逃げられる。
逆に謙信を討ち取る好機を逃したあまりの悔しさに、原大隅守は近くの岩を槍で突く。
槍は岩を貫通したという。
その岩が残っていて、「執念の石」として伝わっている。
勿論これも伝説なのだけれど、良く穴開いたなって思う
(執念の石)
見事に穴が開いてますな。




武田信繁や山本勘助が討ち死にしながらも、武田軍は良く守り、総崩れすることなくしのいでいるところに、別働隊が戻ってきた。逆襲である。武田軍総攻撃に転じる。上杉軍は、善光寺まで陣を引き、今度は逃げる。この時上杉軍も多く討ち取られる。

こうして川中島の合戦は終わる。

よく信玄と謙信どっちが勝ったか?という問いがある。多くのファンが自分贔屓の武将の勝ちと言うだろう。
また前半は謙信、後半は信玄の勝ち。よって引き分けという人もいる。

ここで観光ガイドの方に聴いたところ「武田の勝ち」という。
その言い分はこうだ。「戦国の世は相撲と同じで最後に土俵にいたものの勝ちだという。
つまり、実(領地)を得たものが勝ち」という理屈だ。
確かに三国志の呂布は国士無双の士なれど、領地を失い滅んだ。
戦の勝ちは強さではない。
なるほど一理ある。


小生は勝敗は何を「実」で見るかによってどうにでも見方は変わると思う。

討ち取った敵の数で見れば謙信の勝ち。
戦の流れをみれば前半上杉、後半武田で引き分けだ。
戦国の世は、領国の拡大であるから、上杉を苦戦したにせよ追い払って北信濃の支配権を確保したと「実」で見れば武田の勝ちである。

まあ、二人の戦の天才が激突した名勝負であることに違いはない

いずれにせよ、武田は、川中島の合戦で北信濃を確保する
ただ、この領地と引き換えに、武田信繁を失ったことが、将来の武田にとって
暗雲を招いたことは間違いない。
信繁が生きていれば、後の武田衰退のきっかけとなる「義信事件」は起こらなかったといわれている
信玄は領地と引き換えに偉大なる弟を失った