翻訳という誤解
昨日の天声人語は,「翻訳とは,しょせん誤解である」という,評論家の柳父章氏の言葉の引用から始まっている。
天声人語士は,「異なる世界を自分たちの言語に変換して伝えても,それは〈私たちなりの理解〉に過ぎない」とこの言葉を解釈している。「なるほど」と思った。
森鴎外が訳した『吟遊詩人』は,訳文の方がアンデルセンの原作より名文だという評を,聞いたか読んだかした記憶があるが,どうやって比較したのだろう。
D・H・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』は,原文と二種類の邦訳で読んだ唯一の小説だが,伊藤整訳と長峰勝男訳の違いに驚いた記憶がある。
日本語には,丁寧語や敬語のような外国語にはない表現があり,小説の場合は特に,この使い方でずいぶんニュアンスが違ってくるように思う。
C・ダーウィンの『種の起源』は,八杉龍一訳で最初に読んだが,かなり読みにくくて難解なところがあり,原文と照合して理解しようとした。2009年に渡辺政隆訳が出て,こちらの方は読みやすい文になっている。
わたしが好きな翻訳家は,もう故人となっている菊池光氏である。ハードボイルドの重鎮ロバート・B・パーカーや,競馬シリーズのディック・フランシスのほとんどは氏の翻訳によるが,原文を読んだ時のリズム感や歯切れの良さが,そのまま訳文に表現されているような気がした。これは「誤解」かもしれないが,それもまた楽しということか。
逆に,日本語を外国語に翻訳する時も,そうした「誤解」は生じるだろう。以前,『男はつらいよ』の翻訳をしているというアメリカ人と話をしたことがある。一緒にいた友人が,「結構毛だらけ,猫灰だらけ」をどう訳すのかと訊いたが,答えは聞けなかった。
外国の文化を翻訳によって日本に伝え,残してくれた〈先人たちの「誤解」に敬意〉という天声人語士の結びの言葉は同感である。
菊の絨毯
土浦市にて,O・M夫人撮影
恥ずかしい
どうしようもない失言で辞任した葉梨善法務大臣は,わたしが所属する選挙区の選出である。別にそうする必要はなくても,やっぱり恥ずかしい。
STOP WAR!
訳せない言葉は、沢山あるでしょうね!
菊の絨毯 これは凄い、本当に菊なの‼︎ありがとう!
菊の絨毯の写真には圧倒されました。実際に目にしたら言葉を失う程圧倒される事間違いなしですね。