プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

離日決定

1918-07-31 | 日本滞在記
1918年7月31日(旧暦7月18日)

 アメリカ大使館から電話があり、ビザ発給の許可が下りたと知らされた。私は有頂天になって上の階に駆け上がり、ミンステル夫妻とスヴィルスキーにそのことを伝え、その足で東京のアメリカ大使館を訪ねた。そこで追加料金として28円とられ(なにしろ電報はヨーロッパ経由で届いたのだから)、書類の入った素晴らしい封筒とともに横浜のアメリカ領事のもとへ送られ、五分でビザが発給された。領事館で「クック」〔旅行会社〕の代表と偶然会い、あさってのホノルル行きの切符があると告げられた。前金を渡し、あさってには私はもう日本にはいないだろう。

 だが徳川氏はどうしよう? お金はどうなる? ホノルルに寄らずに注文を待ったほうがいいのでは? だが、もしも正式な注文がなかったら? いや、行くのは早ければ早いほどいい。そこで私はあちこちに別れの挨拶をしに出かけ、コサト〔該当者不明〕を訪ねた。

フローシカさん

1918-07-30 | 日本滞在記
1918年7月30日(旧暦7月17日)

『彷徨う塔』を書いた。二、三日で書き終わるだろう。この小説に興味を失っていたのだが、バビロンの本を読んで共感を取り戻した。

 夜、とても素敵で、あらゆることに好奇心旺盛なミンステル夫人(フローシカさん、と友人たちに呼ばれている)と、いろいろな話をした。私は彼女に魅力的な印象を抱いたが、彼女はおそらく私のことを、頭がよくて感じの悪い人間だと思ったことだろう。

バビロン

1918-07-29 | 日本滞在記
1918年7月29日(旧暦7月16日)

 東京のアメリカ大使館を訪問。とても親切だったが、二本目のケーブルが直ったにもかかわらず、ビザはまだだった。

 スペイン語の小説をなんとか読み終え、また最初から読み返す予定。バビロンについての本を再読し始めた。驚くほど面白い。

箱根宮ノ下

1918-07-28 | 日本滞在記
1918年7月28日(旧暦7月15日)

 宮ノ下〔箱根〕に出かけた。第一に山中にある美しい場所であること、第二に乗物で二時間の距離にあること、そして第三に、徳川氏を訪ねる約束をしたからだ。それとともに頼まれた作曲の件に片をつけなくては。彼のお金がなくてもおそらく切り抜けられるだろうが、あればあったで大違いだ。

 宮ノ下は、洒落たホテル〔富士屋ホテル〕のある大変美しい場所だ。ロシア人のグループと出会い、一緒に近辺をバスでまわった。徳川氏は不在だったが、帰りの車に乗ろうとした時、五分間だけ会えた。彼は大森に私を訪ねると約束したが、注文の話は一言もしなかった。いずれにせよ、大使館を通じて交渉しておいて、高いからといって断るのは、彼にとって恥だろう。

1918-07-27 | 日本滞在記
1918年7月27日(旧暦7月14日)

 母のことを思い出し、なんの知らせもない私のことをどれだけ心配しているかと思うと、いつも心をかき乱される。チェコスロバア軍団の反乱のせいで、母のところに今もこれからも情報がすぐに届くことはないだろう。それでも私は国を出なければならなかったし、そうでなければ自分を棺に葬っていただろうし、この秋以降、どんなお金で暮らしていけたか分かったものではない。唯一の慰めは、もしコーカサスがドイツ軍に完全に占領されるか、あるいは占領の危機にさらされているとしたら、母は私がそこにいないことを喜ぶだろうということだ〔注・プロコフィエフは出国前に何度か、コーカサスに滞在していた〕。


ミャスコフスキー

1918-07-26 | 日本滞在記
1918年7月26日(旧暦7月13日)

 大森の住まいにとても満足している。特筆すべきは、仕事を始めたこと。『塔』と『情熱』を少しずつ書いている。

 大田黒氏に、日本の雑誌〔『音楽と文学』〕に掲載するミャスコフスキー〔1881~1950、ロシアの作曲家〕についての原稿を渡した。スペイン語の小説を読んでいる。スペイン語を学ぶ逼迫した必要性はもうないが、以前から六ヵ国語の一つとして学ぶ計画はあった(七番目はエスペラント語か?)。そこで、特にすることもないので、スペイン語を少しずつ読むつもりでいる。辞書が手に入らないのが残念だ。

 どうやら金銭問題も片付きそうだ。ベール男爵を介した徳川氏とのやりとりに、決着がつきそうだからだ。小曲の作曲に500円請求した。いくら彼が金持ちとはいえ、日本人には大金だと思う。

スヴィルスキー

1918-07-25 | 日本滞在記
1918年7月25日(旧暦7月12日)

 ホテル仲間の一人、スヴィルスキーは素晴らしいピアニスト(一流の部類に入る)にもかかわらず、演奏(プレイ)中に痙攣を起こし、音楽のキャリアを捨てて、テニスのプレイに乗り換えてしまった。

 私の作品群に、聴衆はえらく盛り上がった。私はむしろメトネルの作品を聞かせたかったのだが。ガボットのなかでは、なぜかニ長調が気に入られた。これはピアノのために自分で編曲したものだ。今までは原曲のまま弾いていたのだが。

 スヴィルスキーいわく「ドビュッシーなんて、まったくハッタリですよ」(!)。まったくとは言わないが、かなりとは言える。


訳注・大田黒元雄の日記によれば、この日は大田黒がプロコフィエフを訪問。夜遅くまで話し込み、「音楽と文学」への寄稿依頼に対し、「ミアスコフスキイの事を一寸書かう」と快諾を得ている。

ボリス・ゴドノフ

1918-07-24 | 日本滞在記
1918年7月24日(旧暦7月11日)

 麗しのアリアドナは、ここにもまた足跡を残していた。ホテルの庭を、無口なイタリア人がさまよいながら、『ボリス・ゴドノフ』のメロディーを口笛で吹いている。彼は『ボリス・ゴドノフ』に出演していたロシア女性に恋をし、思い出に浸っているのだ。今はもうアメリカに行ってしまったその女性の姓は……ルマノバ。


訳注・大田黒元雄の日記によれば、この日もプロコフィエフは午後3時ごろから大田黒を訪ね、ピアノを弾き、語り合い、「スクリアビン、メッナー(メトネル)、レーガー、ラヴェルなどの譜を十冊程」持ち帰ったという。

大森

1918-07-23 | 日本滞在記
1918年7月23日(旧暦7月10日)

 大森のホテル〔望翠楼ホテル〕は静かだが、設備はよくない。ミンステル一家のまわりには、とてもいいフランス人仲間がいて、このホテルに滞在している。ミンステル夫人にしても、若くて素敵な女性で、見た目も素晴らしく魅力的だ。

 手紙を何通か書き、『許しがたい情熱』を書いた。驚くほど入念に耕された日本の畑のなかを散歩した。
 ビザを待つ心境も落ち着く。


訳注・音楽評論家、大田黒元雄の日記によれば、この日の朝10時すぎ、プロコフィエフは同じ大森に住む大田黒を訪問。「昼頃まで(ピアノを)弾いたり話したりして過す」とある。

いい知らせ

1918-07-22 | 日本滞在記
1918年7月22日(7月9日)

 横浜に戻る。郵便局からいい知らせなど何も期待していなかったが、徳川氏からの作曲依頼についてのベール男爵(ロシア大使館の書記官)の手紙と、ミンステルからの葉書が届いていた。ミンステルはとても気のいい若者で、今日から私のために、東京と横浜の間にある大森に部屋を用意してくれたという。彼はそこでとても可愛い奥さんと一緒に、彼いわく上等で恐ろしく安いホテルに住んでいるのだ。

 暑くて煙っぽくて、物価の高い横浜を抜け出せるのが嬉しい。