プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

明日よりプロコ日記公開

2005-05-14 | おしらせ
大変お待たせしております。
明日5月15日より、プロコフィエフの日本滞在日記を
1918年の日付と連動させて順次公開いたします。
スタートは、日本を目指すシベリア鉄道車中から。
どうぞお楽しみに……。

なお、翻訳には慎重を期しておりますが、お気づきの点、ご質問など
ございましたらコメントをお寄せいただければ幸いです。

プロコフィエフ出国の経緯

2005-05-13 | 訳者解説
 日本滞在日記の邦訳をお届けするにあたり、今まで詳細が明らかではなかったプロコフィエフ「亡命」の経緯を、彼自身の日記によってたどってみることにしましょう。

 早熟の天才作曲家が、破竹の勢いでその才能を開花させつつあった1917年、ロシア革命が起こります。内乱状態となったロシアでは、創作活動のこれ以上の発展は見込めない――。そう判断した未来ある作曲家は、しばらくの間、祖国を離れる決意を固めました。「亡命」しようとしたわけではなかったのです。

 日記によると、1918年4月20日、プロコフィエフはボリシェビキの司令部が置かれたペトログラードのスモーリヌイ女学院にて、文部人民委員部部長アナトーリー・.ルナチャルスキーと面会し、次のような会話を交わしています。

ルナチャルスキー(以下:L) 「やめたまえ。なぜアメリカに行くんだね」
プロコフィエフ(以下:P) 「この一年、私は懸命に働きました。
  ですから今は新鮮な空気を吸いたいのです」
L 「ロシアにはこんなに新鮮な空気が充満しているではないか」
P 「それは精神的な意味でしょう。そうではなくて、物理的に新鮮な空気に飢えているんです。
  想像してみてください!太平洋を斜めに突っ切るんですよ!」
L 「よかろう。書面に記入したまえ。必要な書類を用意しよう」

 4月23日、プロコフィエフはルナチャルスキーを再訪。その間、コンサートを聞きに来ていたルナチャルスキーに、作曲家は交響曲の感想を求めます。文部人民委員部部長の答えはこうでした。
「たいへんよかった。誰もが破壊活動に余念がないときに、あなたは創作活動をしている。それがよくわかった」(日記より)

  翌24日、プロコフィエフはパスポートを受け取るためスモーリヌイを訪ねますが、用意できるのは三日後だ、と告げられます。
 さらに4月29日、作曲家は「特急は運行中止となり、モスクワから出ることになる」(日記より)と知らされます。特急とはシベリア鉄道の特急列車を指すと思われ、当時、シベリア鉄道の始点は首都ペトログラードでした。それが内乱の影響により、モスクワ発に変更となったのでしょう。

 こうして5月2日、プロコフィエフは「シベリア特急をつかまえるために」(日記より)モスクワへと旅立ち、同7日夜、極東ウラジオストックを目指す列車に乗り込んだのでした。


シベリア鉄道に乗る

2005-05-07 | 訳者解説
1918年5月7日夜、プロコフィエフはモスクワを出発。
シベリア鉄道の特急列車にて、ウラジオストックへと向かいました。

9000kmにおよぶ鉄道の旅の果てに、待つのは日本――。
この「日いづる国」を経由して、船でアメリカ大陸を目指すのが、
作曲家の当初の計画でした。

アメリカへの単なる「通過点」となるはずの東洋の島国に
よもや2ヵ月も滞在することになろうとは、このとき
27歳の若者は想像だにしていなかったのです。

首都脱出

2005-05-02 | 訳者解説
 1918年5月2日、87年前の今日、プロコフィエフは単身ペトログラード(*)をあとにし、モスクワに向けて旅立ちました。長きにわたる亡命生活が、この日から始まります――。

*ペトログラードは現在のサンクトぺテルブルク。当時のロシアは革命後の内戦状態にあったうえ、ドイツを対戦相手とした第一次世界大戦の渦中にもあった。首都「サンクトぺテルブルク(聖ピョートル)」の名はドイツ語であったため、「ペトログラード(ピョートルの都)」とロシア語に改名。ソ連時代には「レニングラード(レーニンの都)」と再び名を変えることになる。

プロコフィエフ日記前置き

2005-05-01 | プロコフィエフ日記前置き
 作曲家のセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)は、革命後の1918年、極東ロシア・日本を経由し、アメリカに渡りました。それ以後、欧米を主な舞台として活動を行い、最終的にソヴィエトに復帰するのは1936年のことです。

 彼が渡米の途中で2ヵ月ほど日本に滞在したことはかねてから知られていましたが、2002年に初めて大部の日記(Сергей Прокофьев,《Дневник 1907-1933》Paris,sprkfv,2002)が刊行されたおかげで、日本における行動の詳細が知られることになりました。

 この日記は作曲家の息子のスヴャトスラフによって、パリで刊行されました。同氏の直話によると、プロコフィエフの日記の原文はモスクワにある国立中央文学芸術文書館に所蔵されており、1980年代の初め、氏は連日この文書館に通って、原文を筆写されたとのこと。しかも、作曲家はしばしば母音を省いて文字を書くなど独特の癖があったため、解読に苦労したといいます。

 出版にも困難が伴いました。ロシア語であるうえに上下2巻で2000ページを超す大著であるので、出版社が見つからず、今回の刊行は氏の子息で作曲家の孫にあたるセルゲイさんの協力のもと、セルゲイ・プロコフィエフ・エステート(Serge Prokofiev Estate)からの自費出版となりました。

 この邦訳についてはスヴェトラフ氏のご快諾を得ています。同氏は1960年代に日本を訪問して、父親の訪ねた町々をおとずれ、親日家になられたとのことです。

*なお、この邦訳の一部は「来日ロシア人研究会」会報「異郷」18~21号に掲載されたものをもとに、若干の修正を加えたものである。

訳者・サブリナ・エレオノーラ/豊田菜穂子
監修・中村喜和(来日ロシア人研究会代表)