プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

プロコフィエフの速記法

2005-08-23 | 余禄
プロコフィエフの日記のオリジナルは、たびたび母音を省略して綴られています。プロコフィエフの署名である「sprkfv」が、子音のみであるように。これは決して、ロシアで一般的な日記の綴り方、というわけではなく、プロコフィエフ独自の速記法のようなものといえるでしょう。

しかもオリジナルは当然ながら「手書き」です。それを作曲家のご子息が、古文書館に毎日通って「手」で書き写し、解読したというのですから、そのご苦労がしのばれます。ただし、解読ミスがないわけではなく、今回翻訳した日本滞在部分においても、前後関係から察して不自然な単語については、訳語に訂正を施しました。

また、コメントでのご指摘もありましたが、値段を記す際に「円」と表記されている箇所で、当時の物価を鑑みて明らかに「銭」の誤りと思われるものは、こちらで修正しています。これも、実際に日本で通貨のやりとりをしていたプロコフィエフ自身が書き間違えたとは考えにくいので、解読段階でミスが生じたものと思われます。おそらくご子息は、日本の古い通貨単位をご存知なかったのでしょう。

なお、この「日本滞在日記」は、オリジナルの該当部分の全訳であり、こちらでは一切の検閲・割愛などはしておりませんのでご安心ください。

コサトさんの謎

2005-08-15 | 余禄
約2ヶ月にわたったプロコフィエフの日本滞在日記も、ひとまず完結しましたが、今日は内容にまつわるお話をひとつ……。

翻訳にあたり、文中に登場するさまざまな人物名に関して、わかる限りの注をつけたのですが、ただひとり、詳細のわからなかった人物がいました。1918年7月31日、離日決定の挨拶まわりの際に、プロコフィエフが訪ねた「コサト(小里?)」さんです。

挨拶に行くくらい親しかったわりには、この名前はそれまでいっさい登場していません。当初は名字かと思ったのですが、該当する人物は判明しませんでした。ひょっとしたら名字ではなく女性の名前――それも、お気に入りの芸者さんの名前かもしれません。

プロコフィエフは日本の芸者が大層気に入り、日記のなかにも何度も芸者を侍らせての宴席のようすが描かれています。6月6日の日記には、明らかに日本女性とのセックスを暗示する記述もあります。もっとも、極めて淡々と言葉少なく述べられているので、このお相手の素性はわかりませんが、大正期のことですから素人女性が会ったばかりの外国人と性交渉をもつとは考えにくいですよね。

コサトさんも、そうした夜の宴席で知り合った女性のひとりなのではないか?というのが、翻訳スタッフ女性陣の推測です。さて皆さんはどう思われるでしょう?

初めてこられた方へ

2005-08-10 | おしらせ
「プロコフィエフの日本滞在日記」におこしいただき、ありがとうございます。

このブログは、1918年に来日したプロコフィエフが日本滞在中に書いたものを、2005年の同日に連動させて、毎日更新してきたものです。このたび8月2日をもって、プロコフィエフは無事、アメリカに向けて旅立っていきました。ですので、この日記もひとまず終了いたしましたが、随時、追加情報などものせていきたいと思っています。

ひきつづき、コメントお待ちしております!