プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

大森のプロコフィエフ

2009-02-12 | 余禄
プロコフィエフゆかりの地・東京大森周辺の文学情報を集めたサイト「馬込文学マラソン」にて、
「プロコフィエフ地図」
が紹介されています。今昔の地図の照合、今はなき望翠楼ホテル跡地の現況写真もあり、90余年前のプロコフィエフの足跡がたどれます。ぜひご覧ください!

1918年(大正7年)、7月22日夜~日本滞在最後の8月2日朝まで、プロコフィエフは東京・大森の望翠楼ホテルに滞在。同じく大森に住んでいた音楽評論家、大田黒元雄と互いに行き来し、親交を深め合いました。プロコフィエフ、大田黒、双方の日記によると……。

7月2日 溜池の花月にて帝劇主催のプロコフィエフ紹介の宴開催。
      プロコフィエフと大田黒、初めて出会う。
   5日 「午後帝劇にプロコフィエフを聴く」(大田黒)
   6日 「今日も(帝劇で)プロコフィエフを聴く。ほんとうに仕合わせな事だ」(同)
  22日 夜、プロコフィエフ、横浜から大森・望翠楼ホテルに移る。
  23日 午前10時過ぎ、プロコフィエフ、大田黒邸を訪問。
  24日 午後3時頃、プロコフィエフ、大田黒邸を再訪。
  25日 大田黒、望翠楼を訪ね、プロコフィエフに原稿依頼。
  26日 プロコフィエフ、ミャスコフスキーについての原稿を大田黒に手渡す。
  30日 大田黒、望翠楼へ。プロコフィエフと長時間話し込む。
8月1日 午後5時、プロコフィエフ、大田黒に別れを告げにくる。
   2日 大田黒、横浜でプロコフィエフの出航を見送る。

……と、短期間ながらも親密なやりとりが交わされたことがわかります。
そして二人の友情はその後も続くのでした。

ご訪問ありがとうございます

2006-10-01 | 余禄
このところ、アクセス数が急に増えて驚いています。
どなたかこのプログをご紹介くださったのでしょうか!?
どうもありがとうございます!

当ブログはリンク大歓迎。
テキストもご自由に引用していただいて構いませんが、
その際は、出典を明記してくださいませ。

さて、夏休みで中断していたプロコフィエフの短編小説翻訳を
いよいよ来週から再開する運びとなりました。
新しい発見がありましたら、またお知らせしますのでお楽しみに!

謹賀新年

2006-01-01 | 余禄
あけましておめでとうございます。

「プロコフィエフの日本滞在日記」がひとまず終了したあとも、変わらずに多くの方々にご訪問いただき、本当にありがとうございます! 

もともとこの日記は、日露交流史研究家のロシア人講師を中心に、ロシア語サークルの有志によって翻訳されたものです。当初はあくまで研究ならびに学習対象の文献として、一部のロシア同好家のみに公開していましたが、それではあまりにもったいない!と感じたわたくし訳者Hの一存で、昨年春、このブログを立ち上げました。
「ブログで公開するほうがもったいない!」という声もなきにしもあらずですが、心からこの日記を読みたいと思っている方、日記を通してよりプロコフィエフに近づきたいと思っている方にこそ、読んで何かを感じていただきたい、と一般公開に踏み切りました。情報は独り占めするものではなく、ましてや希代の天才が残した遺産は、万人が分かち合うべきものだと思ったからです。

さて、皆さんはどうやってここにたどりついたのでしょう?
よろしければ教えてくださいね。

当サイトはリンクフリーですので、プロコフィエフファン、音楽ファン、ロシアファンの皆様に、広くご紹介いただければ幸いです。

プロコフィエフの速記法

2005-08-23 | 余禄
プロコフィエフの日記のオリジナルは、たびたび母音を省略して綴られています。プロコフィエフの署名である「sprkfv」が、子音のみであるように。これは決して、ロシアで一般的な日記の綴り方、というわけではなく、プロコフィエフ独自の速記法のようなものといえるでしょう。

しかもオリジナルは当然ながら「手書き」です。それを作曲家のご子息が、古文書館に毎日通って「手」で書き写し、解読したというのですから、そのご苦労がしのばれます。ただし、解読ミスがないわけではなく、今回翻訳した日本滞在部分においても、前後関係から察して不自然な単語については、訳語に訂正を施しました。

また、コメントでのご指摘もありましたが、値段を記す際に「円」と表記されている箇所で、当時の物価を鑑みて明らかに「銭」の誤りと思われるものは、こちらで修正しています。これも、実際に日本で通貨のやりとりをしていたプロコフィエフ自身が書き間違えたとは考えにくいので、解読段階でミスが生じたものと思われます。おそらくご子息は、日本の古い通貨単位をご存知なかったのでしょう。

なお、この「日本滞在日記」は、オリジナルの該当部分の全訳であり、こちらでは一切の検閲・割愛などはしておりませんのでご安心ください。

コサトさんの謎

2005-08-15 | 余禄
約2ヶ月にわたったプロコフィエフの日本滞在日記も、ひとまず完結しましたが、今日は内容にまつわるお話をひとつ……。

翻訳にあたり、文中に登場するさまざまな人物名に関して、わかる限りの注をつけたのですが、ただひとり、詳細のわからなかった人物がいました。1918年7月31日、離日決定の挨拶まわりの際に、プロコフィエフが訪ねた「コサト(小里?)」さんです。

挨拶に行くくらい親しかったわりには、この名前はそれまでいっさい登場していません。当初は名字かと思ったのですが、該当する人物は判明しませんでした。ひょっとしたら名字ではなく女性の名前――それも、お気に入りの芸者さんの名前かもしれません。

プロコフィエフは日本の芸者が大層気に入り、日記のなかにも何度も芸者を侍らせての宴席のようすが描かれています。6月6日の日記には、明らかに日本女性とのセックスを暗示する記述もあります。もっとも、極めて淡々と言葉少なく述べられているので、このお相手の素性はわかりませんが、大正期のことですから素人女性が会ったばかりの外国人と性交渉をもつとは考えにくいですよね。

コサトさんも、そうした夜の宴席で知り合った女性のひとりなのではないか?というのが、翻訳スタッフ女性陣の推測です。さて皆さんはどう思われるでしょう?