プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

日本最後の日

1918-08-02 | 日本滞在記
1918年8月2日(旧暦7月20日)

 明け方4時、弱い地震があった。さほど恐ろしいものではなく、言ってみればキスロヴォーツク(コーカサス)の地震に比べたら優雅なくらいだ。心地よい揺れが、5分ほど続いた。
  徳川氏から電話があった。彼は私の作曲が間に合わなかっことを大層残念がり、私との文通を望んだ。彼のことはもういい。どうにもならないことは、わかっていた。おまけに私の最後の1500ルーブルは、375円で両替できるはずだったのに300円に。その結果、チケットを買ったあとポケットに残ったのはホノルル用の73ドルだけ。腹が立った。ミンステル一家が横浜まで見送りにきてくれた。「73ドルと真珠のピンで出発だよ」と私が笑いながら言うと、ミンステルは、今はいらないからと100ドル相当の5枚の金貨を持たせようとする。今やどこでも手に入らない金貨なんて、持っていきたくなかったが、彼はとても親切で、今は遠慮していてもホノルルできっと役に立つ、と言い張る。そこで、必ず金貨で返すと約束して、もらうことにした。
 それに正直に言うと、船に乗って、この金貨5枚があることでとても満足できた。
 二等クラスにもかかわらず、個室に入れた。
 肘掛椅子にもたれかかったいたら、静かに静かに岸から離れていくことさえ気づかなかった。グロチウス号はかなり大きなオランダ船で、8000トン、ジャワからサンフランシスコに向かう。夜通し、岸が見えていた。
 夜はよく眠れ、朝四時、明け方直前に甲板に出ると、素晴らしい光景が見えた。星々が消えて明るくなり始めた空に、欠けた月と木星と、晧々と光る金星が並んで輝いていた。

(了)

別れの挨拶

1918-08-01 | 日本滞在記
1918年8月1日(旧暦7月19日)

 ロシア大使館に別れの挨拶にいく。ベール男爵が、徳川氏に電報を打って出発を伝えたほうがいいと言う。押しつけがましいことはしたくない、と答えたが、ベール男爵は、徳川氏は私の曲をたいそうほしがっていたので、出発を知らせるのはあくまで礼儀だと言う。なので電報を送る。

 昼間は大森でブリッジをした。みんな私の出発を羨み、晴れがましい気持ちだった。
 夜は荷づくりをした。フローシカさんが何度も私のところに来て、あれこれ世話を焼いてくれ、やたら親切だった。

離日決定

1918-07-31 | 日本滞在記
1918年7月31日(旧暦7月18日)

 アメリカ大使館から電話があり、ビザ発給の許可が下りたと知らされた。私は有頂天になって上の階に駆け上がり、ミンステル夫妻とスヴィルスキーにそのことを伝え、その足で東京のアメリカ大使館を訪ねた。そこで追加料金として28円とられ(なにしろ電報はヨーロッパ経由で届いたのだから)、書類の入った素晴らしい封筒とともに横浜のアメリカ領事のもとへ送られ、五分でビザが発給された。領事館で「クック」〔旅行会社〕の代表と偶然会い、あさってのホノルル行きの切符があると告げられた。前金を渡し、あさってには私はもう日本にはいないだろう。

 だが徳川氏はどうしよう? お金はどうなる? ホノルルに寄らずに注文を待ったほうがいいのでは? だが、もしも正式な注文がなかったら? いや、行くのは早ければ早いほどいい。そこで私はあちこちに別れの挨拶をしに出かけ、コサト〔該当者不明〕を訪ねた。

フローシカさん

1918-07-30 | 日本滞在記
1918年7月30日(旧暦7月17日)

『彷徨う塔』を書いた。二、三日で書き終わるだろう。この小説に興味を失っていたのだが、バビロンの本を読んで共感を取り戻した。

 夜、とても素敵で、あらゆることに好奇心旺盛なミンステル夫人(フローシカさん、と友人たちに呼ばれている)と、いろいろな話をした。私は彼女に魅力的な印象を抱いたが、彼女はおそらく私のことを、頭がよくて感じの悪い人間だと思ったことだろう。

バビロン

1918-07-29 | 日本滞在記
1918年7月29日(旧暦7月16日)

 東京のアメリカ大使館を訪問。とても親切だったが、二本目のケーブルが直ったにもかかわらず、ビザはまだだった。

 スペイン語の小説をなんとか読み終え、また最初から読み返す予定。バビロンについての本を再読し始めた。驚くほど面白い。

箱根宮ノ下

1918-07-28 | 日本滞在記
1918年7月28日(旧暦7月15日)

 宮ノ下〔箱根〕に出かけた。第一に山中にある美しい場所であること、第二に乗物で二時間の距離にあること、そして第三に、徳川氏を訪ねる約束をしたからだ。それとともに頼まれた作曲の件に片をつけなくては。彼のお金がなくてもおそらく切り抜けられるだろうが、あればあったで大違いだ。

 宮ノ下は、洒落たホテル〔富士屋ホテル〕のある大変美しい場所だ。ロシア人のグループと出会い、一緒に近辺をバスでまわった。徳川氏は不在だったが、帰りの車に乗ろうとした時、五分間だけ会えた。彼は大森に私を訪ねると約束したが、注文の話は一言もしなかった。いずれにせよ、大使館を通じて交渉しておいて、高いからといって断るのは、彼にとって恥だろう。

1918-07-27 | 日本滞在記
1918年7月27日(旧暦7月14日)

 母のことを思い出し、なんの知らせもない私のことをどれだけ心配しているかと思うと、いつも心をかき乱される。チェコスロバア軍団の反乱のせいで、母のところに今もこれからも情報がすぐに届くことはないだろう。それでも私は国を出なければならなかったし、そうでなければ自分を棺に葬っていただろうし、この秋以降、どんなお金で暮らしていけたか分かったものではない。唯一の慰めは、もしコーカサスがドイツ軍に完全に占領されるか、あるいは占領の危機にさらされているとしたら、母は私がそこにいないことを喜ぶだろうということだ〔注・プロコフィエフは出国前に何度か、コーカサスに滞在していた〕。


ミャスコフスキー

1918-07-26 | 日本滞在記
1918年7月26日(旧暦7月13日)

 大森の住まいにとても満足している。特筆すべきは、仕事を始めたこと。『塔』と『情熱』を少しずつ書いている。

 大田黒氏に、日本の雑誌〔『音楽と文学』〕に掲載するミャスコフスキー〔1881~1950、ロシアの作曲家〕についての原稿を渡した。スペイン語の小説を読んでいる。スペイン語を学ぶ逼迫した必要性はもうないが、以前から六ヵ国語の一つとして学ぶ計画はあった(七番目はエスペラント語か?)。そこで、特にすることもないので、スペイン語を少しずつ読むつもりでいる。辞書が手に入らないのが残念だ。

 どうやら金銭問題も片付きそうだ。ベール男爵を介した徳川氏とのやりとりに、決着がつきそうだからだ。小曲の作曲に500円請求した。いくら彼が金持ちとはいえ、日本人には大金だと思う。

スヴィルスキー

1918-07-25 | 日本滞在記
1918年7月25日(旧暦7月12日)

 ホテル仲間の一人、スヴィルスキーは素晴らしいピアニスト(一流の部類に入る)にもかかわらず、演奏(プレイ)中に痙攣を起こし、音楽のキャリアを捨てて、テニスのプレイに乗り換えてしまった。

 私の作品群に、聴衆はえらく盛り上がった。私はむしろメトネルの作品を聞かせたかったのだが。ガボットのなかでは、なぜかニ長調が気に入られた。これはピアノのために自分で編曲したものだ。今までは原曲のまま弾いていたのだが。

 スヴィルスキーいわく「ドビュッシーなんて、まったくハッタリですよ」(!)。まったくとは言わないが、かなりとは言える。


訳注・大田黒元雄の日記によれば、この日は大田黒がプロコフィエフを訪問。夜遅くまで話し込み、「音楽と文学」への寄稿依頼に対し、「ミアスコフスキイの事を一寸書かう」と快諾を得ている。

ボリス・ゴドノフ

1918-07-24 | 日本滞在記
1918年7月24日(旧暦7月11日)

 麗しのアリアドナは、ここにもまた足跡を残していた。ホテルの庭を、無口なイタリア人がさまよいながら、『ボリス・ゴドノフ』のメロディーを口笛で吹いている。彼は『ボリス・ゴドノフ』に出演していたロシア女性に恋をし、思い出に浸っているのだ。今はもうアメリカに行ってしまったその女性の姓は……ルマノバ。


訳注・大田黒元雄の日記によれば、この日もプロコフィエフは午後3時ごろから大田黒を訪ね、ピアノを弾き、語り合い、「スクリアビン、メッナー(メトネル)、レーガー、ラヴェルなどの譜を十冊程」持ち帰ったという。