2018年2月23日
ポルトガルに来て以来、近況を報告がてらご本人の様子を知りたいと思い、時折、国際電話をかけて話していた、梅新アサヒビアハウスでの歌姫バイト時代の先輩、宝木嬢がいます。
息子が2歳、5歳の時は、帰国して所沢の妹宅から堺の宝木嬢宅に移動し、数ヶ月も親子で滞在したことがあり、子どもがいない彼女は「ジュアン君、ジュアン君」と随分と息子を可愛がってくれたものでした。
それが、日本語教室の仕事やボランティアの影絵上映、日本文化展示などでポルトでの日常生活が忙しくなり、この2年ほど連絡をつい怠ってしまったのでした。これはいかん!と思い出し、宝木嬢宅へダイヤルを回したところが、何度電話を試みても、その電話番号は現在使われていないとの電話局のアナウンスです。
当時のビアハウス時代の知人たちに聴いても、どうも近年は宝木嬢との付き合いが途絶えたようで、ハテ、どうしようかと思っていたのです。和歌山にアトリエを構える木彫家である我が親友の堺みち子は堺市に住居があるので、彼女ともここ数年会っておらず、帰国を機に堺を訪ねることにしたのが昨年2017年の春のことでした。
幼い息子とわたしがかつて数ヶ月も滞在した見覚えのある木造の母屋は雨戸が閉められており、戸板はかなり傷んでいて廃屋です。
わたしに劣らずネコ好きな宝木嬢です、常に5、6匹は居候していた広い庭も荒れ放題です。母屋のすぐ後ろにあるモダンな玄関を持つ離れに足を運び、ひょっとして老人ホームに入っている可能性もあると考えていたので、いるかな?と思いながら呼び鈴を2、3度押しました。
しばらくすると、「ちょっと待ってね」と家の中から声が聞こえます。紛れもない宝木嬢の声です。じっと待つこと数分、ドアが開けられ白髪のパジャマ姿に杖をつく彼女の姿が目の前に現れました。
「こんにちは。宝木さん、わたしを覚えていますか?」
かけていたサングラスを外しながら言うと、「え、ソデバヤシさん!」と大いに驚いた様子です。上がりかまちを上がるとすぐがリビングになっています。
昔から整理が苦手な彼女です、相変わらず物が散在しており、リビングの真ん中にある大きなテーブルはなにやかにやで一杯です。わたしが滞在していた間は、せっせと家の中を磨き、後片付けをしていたもので、「ソデバヤシさん、あれはどこやの?」と言うことがしょっちゅうで、一体が誰の家だったのか(笑)
母屋にあったピアノはそのリビングの隅に置かれ、3匹のネコがピアノを占領していました。
何度電話をしても通じないので、こんな風に突然の訪問になってしまったとのわたしの話に、宝木嬢、
キョトンとしております。そのうち、電話番号が変わったかなぁ、などと言い出しましたが、変わった電話番号も覚えていません。
なにやかにやで一杯のテーブル、その中に携帯電話があるのが目に付きました。ははん、なるほど、携帯があるとなると固定電話は恐らく必要なくなったのであろう。 これは多分、あまりああだこうだと、物事をしつこく聞いたりしないほうがいいのではないかと思い始め、仕方がない、電話番号の件は諦めたのでした。
同居人のマックの姿が見えないので、「マックは今日お出かけ?」と問うと、「マックは去年の11月に亡くなりました」
え!予想もつかなかったその展開に一瞬言葉を失ったわたしです。なにしろマックと言えば、のらりくらりと定職にもつかず、趣味で絵を描いてみたりピアノを弾いてみたりと好き勝手な暮らしをしていた訳で、言うなればジゴロであるよ、と宝木嬢の手前、皆、口には出さねど、周囲も心中そう思っていたはずです。
わたしと息子が数ヶ月滞在した間には二人の口喧嘩も耳にしており、宝木嬢も時にお手上げ状態がなきにしもあらず。何度か別れ話に及んでも結局また元の鞘におさまるという関係でした。
もはやマックの好き勝手なジゴロ生活を支える余裕がなくなったであろう宝木嬢です、一回り以上もの歳の差も気になります。わたしが今回訪れたのには、ひょっとして、宝木嬢、彼からムゲな扱いを受けてはいないだろうかとの懸念があったからです。
それが、なんだって?マックが先に・・・・享年65才。
「周りからは奇異な目でみられるけれど、音楽や絵の話もできるし山登りも共通の趣味やし、ボクは宝木さん、好きやねん」と、弁解でもするかのように聞かされたことがあります。その時は、エディット・ピアフと20歳も年下の夫、テオのことを思い出し、「いいじゃないの、それで」と答えたものだが、病身のピアフに献身的で、彼女の死後ピアフが残した借金を全て返済したというテオを考えると、ジゴロもどきのマックを見るにつけ、なにやら徐々に心配になっていたのが本心でした。
去年11月の、とある金曜日に入院し月曜日にはみまかったと宝木嬢、何の病気だったのかと聞いても思い出せない様子で、ショックであったろうに、わたしはここでもしつこく問いただすのは止めました。
週に何度か介護支援の人が食事を作りに来、デイケアサービスも受けている84歳の宝木嬢、パジャマ姿でいたものの、両手の指には大きな石がついた指輪をはめていました。ビアハウス時代からの宝石好きだものね^^
恐らく、彼女は長年のビアハウス常連でよく知っていた一人、コジマ氏がしばらく前に鬼籍に入ったのを知らないであろう、一人、また一人と、あの頃の懐かしい面々が去っていくのを目の当たりにするのはどんな思いであろうかと、少しは想像できる年代に入ったわたしである。そっとしておくことにしました。
息子と娘の写真を見せながら彼らの近況を知らせ、長居は無用、かえって宝木嬢を疲れさせるであろうと腰をあげました。転ぶと危ないから見送らなくてもいいというわたしを、「山登りで足腰を鍛えてきたんだから」と、杖をついて庭まで出てくれた宝木嬢、遠国に住み何もしてあげられないもどかしさと、これから先の彼女のことに後ろ髪を引かれる思いで三宝町を後にして来ました。
恐らく返事がこないであろうが連絡の手段は手紙にしよう、そう思っています。
最後に、マックが生前わたしにくれた彼の父上の死を悼んで編集出版した昭和の時代を語る写真集の一部を紹介して、わたしのマックへのレクエイムにしたいと思います。表紙の編集者の名前から分かるように、マックとは「牧雄」に因みます。
2002年発行

祖母が来た日

まんがとテレビの夜

紙芝居
紙芝居

三ノ宮駅
水辺

春の庭(幼児期のマックであろうと推測)

昭和の残像を心に刻みながら、同時代を生きたマックよ、さらば。
ポルトガルに来て以来、近況を報告がてらご本人の様子を知りたいと思い、時折、国際電話をかけて話していた、梅新アサヒビアハウスでの歌姫バイト時代の先輩、宝木嬢がいます。
息子が2歳、5歳の時は、帰国して所沢の妹宅から堺の宝木嬢宅に移動し、数ヶ月も親子で滞在したことがあり、子どもがいない彼女は「ジュアン君、ジュアン君」と随分と息子を可愛がってくれたものでした。
それが、日本語教室の仕事やボランティアの影絵上映、日本文化展示などでポルトでの日常生活が忙しくなり、この2年ほど連絡をつい怠ってしまったのでした。これはいかん!と思い出し、宝木嬢宅へダイヤルを回したところが、何度電話を試みても、その電話番号は現在使われていないとの電話局のアナウンスです。
当時のビアハウス時代の知人たちに聴いても、どうも近年は宝木嬢との付き合いが途絶えたようで、ハテ、どうしようかと思っていたのです。和歌山にアトリエを構える木彫家である我が親友の堺みち子は堺市に住居があるので、彼女ともここ数年会っておらず、帰国を機に堺を訪ねることにしたのが昨年2017年の春のことでした。
幼い息子とわたしがかつて数ヶ月も滞在した見覚えのある木造の母屋は雨戸が閉められており、戸板はかなり傷んでいて廃屋です。
わたしに劣らずネコ好きな宝木嬢です、常に5、6匹は居候していた広い庭も荒れ放題です。母屋のすぐ後ろにあるモダンな玄関を持つ離れに足を運び、ひょっとして老人ホームに入っている可能性もあると考えていたので、いるかな?と思いながら呼び鈴を2、3度押しました。
しばらくすると、「ちょっと待ってね」と家の中から声が聞こえます。紛れもない宝木嬢の声です。じっと待つこと数分、ドアが開けられ白髪のパジャマ姿に杖をつく彼女の姿が目の前に現れました。
「こんにちは。宝木さん、わたしを覚えていますか?」
かけていたサングラスを外しながら言うと、「え、ソデバヤシさん!」と大いに驚いた様子です。上がりかまちを上がるとすぐがリビングになっています。
昔から整理が苦手な彼女です、相変わらず物が散在しており、リビングの真ん中にある大きなテーブルはなにやかにやで一杯です。わたしが滞在していた間は、せっせと家の中を磨き、後片付けをしていたもので、「ソデバヤシさん、あれはどこやの?」と言うことがしょっちゅうで、一体が誰の家だったのか(笑)
母屋にあったピアノはそのリビングの隅に置かれ、3匹のネコがピアノを占領していました。
何度電話をしても通じないので、こんな風に突然の訪問になってしまったとのわたしの話に、宝木嬢、
キョトンとしております。そのうち、電話番号が変わったかなぁ、などと言い出しましたが、変わった電話番号も覚えていません。
なにやかにやで一杯のテーブル、その中に携帯電話があるのが目に付きました。ははん、なるほど、携帯があるとなると固定電話は恐らく必要なくなったのであろう。 これは多分、あまりああだこうだと、物事をしつこく聞いたりしないほうがいいのではないかと思い始め、仕方がない、電話番号の件は諦めたのでした。
同居人のマックの姿が見えないので、「マックは今日お出かけ?」と問うと、「マックは去年の11月に亡くなりました」
え!予想もつかなかったその展開に一瞬言葉を失ったわたしです。なにしろマックと言えば、のらりくらりと定職にもつかず、趣味で絵を描いてみたりピアノを弾いてみたりと好き勝手な暮らしをしていた訳で、言うなればジゴロであるよ、と宝木嬢の手前、皆、口には出さねど、周囲も心中そう思っていたはずです。
わたしと息子が数ヶ月滞在した間には二人の口喧嘩も耳にしており、宝木嬢も時にお手上げ状態がなきにしもあらず。何度か別れ話に及んでも結局また元の鞘におさまるという関係でした。
もはやマックの好き勝手なジゴロ生活を支える余裕がなくなったであろう宝木嬢です、一回り以上もの歳の差も気になります。わたしが今回訪れたのには、ひょっとして、宝木嬢、彼からムゲな扱いを受けてはいないだろうかとの懸念があったからです。
それが、なんだって?マックが先に・・・・享年65才。
「周りからは奇異な目でみられるけれど、音楽や絵の話もできるし山登りも共通の趣味やし、ボクは宝木さん、好きやねん」と、弁解でもするかのように聞かされたことがあります。その時は、エディット・ピアフと20歳も年下の夫、テオのことを思い出し、「いいじゃないの、それで」と答えたものだが、病身のピアフに献身的で、彼女の死後ピアフが残した借金を全て返済したというテオを考えると、ジゴロもどきのマックを見るにつけ、なにやら徐々に心配になっていたのが本心でした。
去年11月の、とある金曜日に入院し月曜日にはみまかったと宝木嬢、何の病気だったのかと聞いても思い出せない様子で、ショックであったろうに、わたしはここでもしつこく問いただすのは止めました。
週に何度か介護支援の人が食事を作りに来、デイケアサービスも受けている84歳の宝木嬢、パジャマ姿でいたものの、両手の指には大きな石がついた指輪をはめていました。ビアハウス時代からの宝石好きだものね^^
恐らく、彼女は長年のビアハウス常連でよく知っていた一人、コジマ氏がしばらく前に鬼籍に入ったのを知らないであろう、一人、また一人と、あの頃の懐かしい面々が去っていくのを目の当たりにするのはどんな思いであろうかと、少しは想像できる年代に入ったわたしである。そっとしておくことにしました。
息子と娘の写真を見せながら彼らの近況を知らせ、長居は無用、かえって宝木嬢を疲れさせるであろうと腰をあげました。転ぶと危ないから見送らなくてもいいというわたしを、「山登りで足腰を鍛えてきたんだから」と、杖をついて庭まで出てくれた宝木嬢、遠国に住み何もしてあげられないもどかしさと、これから先の彼女のことに後ろ髪を引かれる思いで三宝町を後にして来ました。
恐らく返事がこないであろうが連絡の手段は手紙にしよう、そう思っています。
最後に、マックが生前わたしにくれた彼の父上の死を悼んで編集出版した昭和の時代を語る写真集の一部を紹介して、わたしのマックへのレクエイムにしたいと思います。表紙の編集者の名前から分かるように、マックとは「牧雄」に因みます。
2002年発行

祖母が来た日

まんがとテレビの夜

紙芝居

紙芝居

三ノ宮駅

水辺

春の庭(幼児期のマックであろうと推測)

昭和の残像を心に刻みながら、同時代を生きたマックよ、さらば。
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