ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

曽根崎署始末記

2018-02-28 13:49:39 | 思い出のエッセイ

2018年2月28日

大阪は曽根崎と聞けば、わたしなどは即、「曽根崎心中」と、「曽根崎警察署」を思い浮かべる。「曽根崎心中」は、近松門左衛門の文楽で知られる。

この世のなごり 夜もなごり。死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそ あわれなれ。
あれ 数うれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生の
鐘の響きの聞きおさめ。寂滅為楽とひびくなり。


大阪商家の手代徳兵衛と遊女おはつの道行(ミチユキ)の場面である。この世で結ばれぬ恋をあの世で成就させようとする二人が、手に手を取って心中へと連れだって行く姿の哀れさは、人形劇と言えども真に迫り、見る者の心を濡らさずにはおかない。

若い時に観た人形浄瑠璃の美しさに目を、心を奪われ、わたしは近松の本を手に取り、「女殺し油の地獄」「心中天の網島」と観に行ったものである。上の道行の部分は今でも間違えずにそらんじられる。しかし、なんでまたこれに「曽根崎警察」?とお思いであろう。これが、まったく面目ないことでして^^;

息子を連れて3年ぶりに初めて帰国したわたしは夫を7ヶ月もポルトガルにほったらかして(^^;)堺のアサヒ・ビアハウスの先輩歌姫、宝木嬢宅に同居し、ビアハウスでも週に何回かバイトで歌っていました。いつ帰るとも分からないわたし達に、とうとうシビレを切らした夫が大阪まで迎えに来、ビアハウスで常連さん仲間たちがわたし達家族3人の送別会を開いてくれた、息子がまもなく2歳になろうかという夏の夜のできごとです。


↑大阪堺の宝木嬢たくの界隈で。後ろに見える自動販売機がいたく気に入ったようで、しょっちゅうここに連れていけとせがまれたものです。ご近所に皆さんもにとても可愛がってもらいました。

ビアハウスのステージも終わり閉店の夜9時半、数人のアサヒ仲間と帰路に着き、ゾロゾロ数人連れ立って梅田地下街を歩いていました。

夫がちょっと用足しに行くと言い、「はいはい、ここで待ってます」とわたし。10時頃の地下街はまだまだ人通りが多く、同行していた宝木嬢とホンの一言二言話をして、ひょいと横をみたら、い、い、いない!息子がおれへんやん!ええええ!慌てて周りを見回したものの、見当たりまへん。え~らいこっちゃです!即座に同行していた仲間と手分けして、地下街のあっちこっち走り回って探したものの、あかん・・・
  
トイレの目の前にはビルの上のオフイス街へと続く数台のエレベータードアがズラリ^^;真っ青になりました。このどれかにヨチヨチと乗っていったとしたら、いったいどうなるのだろう^^;もう泣かんばかりの面持ちです。すぐビルの夜警さんに連絡をし上を下をのとてんやわんや。
  
かれこれ1時間半も探し回りましたが、見つかるものではない。心配と探し回ったのとで皆くたびれ果てたころ、ビルの夜警さんの電話が鳴った。
「おかあさん、ちょっと出ておくんなはれ」と管理人さんに差し出された受話器の向こうから、ウェ~ンウェ~ンと大声で泣いてる息子の声が聞こえた。

「あ、もしもし、こちら曽根崎警察署です。この子ハーフちがうのん?○色のちっちゃなリュックしょって。もうオシッコでビショ濡れやで。」万が一を思い、ビルの夜警さんに頼んで曽根崎警察署に連絡を入れていたのだ。

息子は通りかかった若い数人の男女グループに連れて行かれたのか、あるいはついて行ったか。だとすると、そのグループが地下街から外へ出て置いて行ったとも考えられる。思い出してみると、丁度わたし達とすれ違いざまに、若いグループの「うわ!この子可愛い!」との声を思い出した。息子はまったく人見知りしない子だったのだ。ニコニコとついていったのだろうか。

↑宝木嬢のご近所、今は亡き土居さん宅の前。ここのご家族には本当によくしてもらいました。孫のように可愛がってもらい、居心地がよかったようです。ビアハウスのバイト時は、このお宅に息子を預け、安心して出かけて行ったものです。

わたしたち夫婦と、その日、お宅に泊まることになっていた先輩歌姫、宝木嬢たちと曽根崎署まで急いだ。署内2階で、涙と鼻水とオシッコでグショグショのジョンボーイ(ポルトガルではこう呼ばれていた)を引き取り、曽根崎署でしかとお小言をいただき、始末書を書いたのでありました。
  
いや~、これにはさすがのわたしも参りました。大騒動のその間もその後も夫は冷静で、一言とてわたしを責める言葉を口にしませんでした。この時はまったくもって面目なく、ただただ消え入りそうな思いでした。よくテレビや映画で観られる、あのホンの一瞬、目を離した隙に、ってのが実際自分の身の上におこったのです。以来、外で子供たちから目や手を離すことあるまじ、と心に決めてきたのでした。

このことは息子の記憶にないだろうな。私自身も、弘前の下町にあった祖母の家に母や妹と一緒に住んでいた3歳くらいの頃に、行方不明になり捜索に近所の人たちも狩り出されたと聞かされているが、自分の記憶にはない。

こんなとこ、似なくていいよ、息子、と、自分の不注意を誤魔化してるのだが、事なきを得たことは幸いだ。以後、わたしが子どもたちから目を離さなくなったのは、しつこいほどであります。ほんに肝に銘じた出来事ではありました。


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