ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

クリスタル公園の孔雀と夕日

2018-02-19 16:18:12 | ポルトガルよもやま話
2018年2月19日  

今日はビアハウスは休みます。


クリスタル公園内にあるアルメイ・ガレッテ市立図書館の夕方コースを開講していたころのことだ。

授業が終わる6時には、外が真っ暗だったのが、日々日が長くなり、このごろは夕闇が迫りかかる頃で、図書館を後に足早に駐車場に向かおうとすると、木々の間からこぼれる夕焼けの美しさについ目を奪われ、教材カバンを提げながら、その足を園内でも一番見晴らしのいい場所へと運んでみる。



ドウロ川にかかるアラビダ橋の向こうは大西洋。左側は隣町ガイアだ。今、日が沈もうとしている。絵に描かれたような赤く染まっ景色に見入る。


 
と、帰路に就こうと体の向きを変えたわたしの前を、孔雀が横切ろうとしている。



バッグから取り出したカメラを向けると、「なに?」とでも言うかのように首をまっすぐ伸ばし、こちらに視線を向けてくる。うっ!お、襲ってこないかしらん?そう思いながらも何度かシャッターを切った。



時にはその美しい羽根を広げて、公園を訪れる人たちを喜ばせてくれる、クリスタル公園の主の彼は誇り高い。わたしの目の前でも何度か見事な姿を見せてくれた。引きずる尾もまた色鮮やか。

こんな夕暮れ時に、公園などへ来ることはまずないわたしだ。なんだか得をしたような気になり、授業の疲れも吹っ飛んだ。
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あの頃ビア・ハウス:第11話:「A.D.」

2018-02-18 19:12:59 | あの頃、ビアハウス
2018年2月18日      
    

アサヒの名物男の一人に「AD」と皆から呼ばれていたおじさんがいました。しょっちゅう顔を出すわけではないのですが、ちょっとした風貌で人気者でした。いつも広島カープの赤帽をかぶり、ガニまたの足に履く赤い靴だけはやけにピカピカ光っているのです。
  
けっこうなお歳で70は行っていたと思います。頭は、これまた靴と同じく、ツッルツルのぴっかぴか!よくよく気をつけて見ると、両目がアンバランスなのです。それでびっこ気味で片足をすこし引きずっていました。
      
人伝に若い頃はボクサーだったと聞きました。多くを語る人ではないのですが、話し始めると江戸っ子弁かと思われるような べらんめぇ調が入ってきます。顔いっぱいに浮かべる笑みは、どこか少年のような無邪気さがうかがわれ、わたしにはとても魅力的なおじさんでした。
  
独り身で、当時は大阪のどこかのボクシング・ジムに住んでいるということでしたが、ADについては、誰も多くを語りませんでした。ふと見かけるADの背中には一抹の寂しさが漂っている気がして、それがビアハウスの常連に根掘り葉掘り聞くのを遠慮させたのかも知れません。
     
ステージが終わり休憩時間に入ると、わたしは時々呼ばれもしないのにADの立ち席まで行ったものです。

「おじさん、元気?」と声をかけると、決まって、
「おお、あんたも元気かい?」と返って来ます。
ADのアンバランスな目が、なぜかウインクしたように見えたりするのでした。

ポルトガルに来てからこのかた、一度もADのことを思い浮かべたことはありませんでした。ある日、人伝にそのADのことが耳に入りました。ADが何歳で、そしていつのことだったかは知らないけれども、亡くなっていたのです。
   
路傍での孤独死だったと聞きます。誰も引き取り手がなく、アサヒの常連の一人が引き取り、彼を知る常連たちが集まっての見送りしたのだそうです。
  
わたしはしばらく落ち込みました。随分若い頃、20代も半ばを過ぎる頃までのわたしは、若気の至りで「例え明日命が無くなってもいい」くらいの意気込みで、日々を、あの頃のわたしからしたら、一生懸命、しかし、今振り返って見ると無謀にしか思えないような生き方をしていたものです。「たとえ路傍死しても悔いはない」との思いがあったのも若さゆえだったと、今にして思います。

「路傍死」その言葉に記憶があるわたしは、A.D.の死にざまに堪えたのです。
  
若い頃、ADがどんなボクサーだったのか、今となっては知る由もありません。アサヒが正に「人生のるつぼ」だと思われるストーリーではあります。
A.D.に、心をこめて、合掌します。
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あの頃ビア・ハウス:第10話:「無情の夢」と「コロッケの唄」

2018-02-16 22:53:18 | あの頃、ビアハウス
2018年2月16日      
       
♪あきらめましょうと 別れてみたが
 なんで忘りょう 忘らりょか
 命をかけた恋じゃもの~
 
アサヒの常連多しと言えども、続けて2曲歌わせてもらえるのはこのお方だけです。しかも、ビアハウスのその日最後の第3ステージの「トリ」です。

歯医者の沢田先生。毎晩毎晩おいででした。身長154cmのわたしよりお小さかったです。入り口近くのテーブルにいつもひとり静かに座って、ビールをすすっていらっしゃる。

あまりおしゃべりしませんが、こと歌になると、ときどきこっぴどく意見されました。

    

写真、左から二人目が沢田先生

先輩歌姫の宝木嬢が名前を呼んで指定する必要がないくらい、ヨシさんの弾くアコーディオンのイントロが鳴ると、まるで全てが最初から打ち合わせができているかのように、座っていた席から急がずゆっくりとステージに向かって歩んで行きます。

そして、タイミングよくステージにあがり、「あーきぃいらぁめぇまぁしょおと~」が始まるのです。このタイミングの良さは、長年の経験で常連歌い手と息を合わせることにかけては、抜群の腕を持っているアコのヨシさんの人知れぬ配慮でしょう。沢田先生はこの歌を一番しか歌いません。続いてすぐ、「コロッケの唄」が続けられるのです。

♪嫁をもらって うれしかったら
 いつも出てくるおかずは コロッケコロッケ
 今日もコロッケ 明日もコロッケ~~
 
「明日もコロッケ~」の後に、ここで文字では表現不可能な愉快な笑いが入るのですが、沢田先生、これが実にうまい!
もうこれだけで、先生、お客さんをしっかり掴み大拍手を受けます。

沢田先生の歌い方は堂にいったもので、もしかしたら若いとき歌手の道を目指したことがあるのかな?と何度か思ったものですが、とうとう最後までそのようなことは聞かずじまいで、ポルトガルに来てしまいました。

アサヒビアハウスが改装され、「アサヒスーパードライ梅田」となった後、一度もお名前は耳に入って来たことがありません。あの頃ですでにお歳でしたからね。

今日もコロッケ、明日もコロッケ。日本のコロッケがいかに繊細にできていて美味しいものか、この唄を思い出すにつけ、異国のポルトガルに住んでつくづく思ったものです。

次回はこれまたアサヒの名物常連「A.D.」についてです。
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1964年夏・江東区の夕日

2018-02-14 23:43:22 | 思い出のエッセイ
2018年2月14日 


画像はWikipediaから。


映画「Always 三丁目の夕日」の続編として「Always 三丁目の夕日´64」は、東京タワーも既に完成し、その年の10月には東京オリンピックが開催された年を背景にしています。日本中がそのスポーツ祭典に熱狂した年でもあります。東京オリンピックは「オリンピック景気」と言う経済景気を日本社会に吹き込み、日本の新しい技術が発展する土台にもなりました。

その東京オリンピックが開催された1964年は、わたしにとって忘れられない年でもあります。以下。


「1964年夏・江東区の夕日」

現在の住居のフラットからすぐ目と鼻の先にわたし達一家の旧住まいがある。当時でも既に築70年はたっていたであろう。あちこちにガタが来ていて、雨季の冬には壁に結露があらわれ、娘が赤ん坊の
ころは毎朝起きてはすぐその結露を拭き取るのが日課であった。

冬は隙間風が入り我が家を訪れる日本人客はみな寒い寒いと、ストーブの前から動くものではなかった。しかし、家の裏にあたる、台所からの眺めは格別であった。

当時の我が家は借家で、「Moradia=モラディア」とポルトガルで呼ばれる3階建ての一番上。勝手口からは庭に通ずる屋根のない石段が続いており、その庭の後ろは、だだっ広いジョアキンおじさんの畑である。

そして畑の向こうはフットボール場だ。試合のあるときなどは、勝手口の階段の踊り場に椅子を持ち出して観戦できるのである。夏の宵には吹奏楽団のコンサートも家にいながらにして聴く事ができた。
  
その家での16年間、春には一面まっ黄色になるジョアキンおじさんの菜の花畑の世界に心和み、秋に夜にはとうもろこし畑のザワザワと歌う音を楽しみ、そして真冬の夜半には、小型の天体望遠鏡を持ち出して月面のクレーターやかろうじてキャッチできる木星の衛生に見入ったものだ。
  
夜空の観察に文明の利器の街灯や高層マンションの明かりなどはジャマになるだけで、この明かりがなかったら星の観察もどんなにかいいだろうと思った。

しかし、それにも増して素晴らしかったのは夕暮れ時だ。言葉を失うほどの一瞬の一日の終わりの美を自然が目の前に描いてくれるのである。勝手口から見える向こうの林と、そのまた向こうに見える町に、大きな真っ赤な夕日が膨らみ、ゆがみながら沈んでいく様に、しばしわたしは夕げの支度を忘れ見入ってしまったものだ。

やがて群青色の空が少しずつ天空の端から暗くなり、天上に明るい星がポツリポツリと灯ってくる情景は、もはや、わたしの稚拙な文章力ではとても表現しきれない。それを見る特等席は、実は勝手口よりもその隣にある息子の部屋の窓なのであった。
  
幾度もそうやって、わたしは夕暮れ時の贈り物を天からいただいていたのである。どんな写真でもどんな絵画でも見ることのできない、空間をキャンバスにした素晴らしい絵画の一瞬であった。

わたしには、忘れ得ぬもうひとつの夕日がある。

高校3年の夏休み前、親に先立つものがないのは分かっていても進学を諦めきれず、就職の話に乗ろうとしないわたしの様子を見かねた英語教師がなんとか取り付けてくれた話に、朝日新聞奨学生夏季体験があった。

この制度の何と言っても魅力だったのは、大学入学金を貸与してくれることである。4年間新聞専売店に住み込みし、朝夕刊を配達しながら大学に通うことができる。その間は少額ではあるが、月々給与も出るし、朝食夕食もついているのだ。女子の奨学生体験は初めてだったと記憶している。

高校3年の夏、往復の旅費も支給され、初めてわたしは東京へのぼった。東京の江東区、当時はゼロ地帯(海抜ゼロメートル)と言われた、とある下町の新聞専売店だ。

その専売店にはすでに数人の夜間大学生や昼間大学に通う者、また中学卒業後、住み込んで働いている者など、男子が数名いた。

二階の一つ部屋に男子はみな雑魚寝である。隣にあるもう一部屋には、賄を切り回していた溌剌な25,6歳の、おそらく専売店の親戚であろうと思われる女性がひとり、専用としていた。そこに一緒に寝起きすることになったのである。

新聞専売店の朝は早い。4時起きである。ちらしを新聞の間に挟みこむのも仕事だ。そうしてそれが終わったあと、配達に出る。夏の早朝の仕事は、むしろ快かった。

なにしろ初体験のしかも女子である、部数はかなり少なくしてくれたはずだ。いったい何部ほど担いだのか、今では覚えていない。狭い路地奥の家に配達する際には、毎回イヌに吠えられ、怖くてけつまづきそうになって走り抜け、両脇の塀に腕を打って擦り傷を何度こしらえたことであろう。それでも、大学に行けるという大きな可能性の前に、くじけるものではなかった。
 
しかし、仕事の内容は配達だけではなかったのである。集金、これはなんとかなる。拡張、つまり勧誘です、これが、わたしにはどうにもできなかったのでした。
  
「こちらさんが新聞を取ってくれることによって、わたしは大学に行くことができます。どうかお願いします」という「苦学生」を売り物にするのだ。教えてもらったこの売りが、わたしはできなかったのであります。

確かに自分は苦学生と呼ばれることになるのだろうけれども、それを売り物にすることは、わたしの中で小さなプライドが立ちはだかり、その売りをすることを許さなかったのである。

日中、頑として、勧誘先の玄関に入ろうとしないわたしを見て、中卒後そこで働いていてわたしの指導員をしていたHは、自分が入り一件取って来た。
「ほら、とってきた。とらないとお前の成績はあがらないぞ。成績があがらないと、金だってちゃんともらえないのだ。お前がとったことにするから、いいな。」

助け船をだしてもらいながら、情けなさとやりきれない思いとで、自分自身がつぶれてしまいそうな午後だった。

その日の夕刊配達を終えると、江東区の空は真っ赤に染まった夕焼けであった。おかしなもので、それまで気にもならなかったのに、、その日は、自分と行き交う同年代の若者達が目に眩しく、肩に担ぐべく夕刊新聞は配達し終えたと言うのに、何かがズシリと重くのしかかり、不意にこみ上げてくるやり場のない哀しみをわたしは噛み砕くことができなかった。

赤銅色の、焼き尽くせない孤独を湛えた江東区の夕日。わたしはその時進学を断念したのだった。

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あの頃ビア・ハウス:第9話:「Stein Songとムカデ行進」

2018-02-13 11:05:27 | あの頃、ビアハウス
2018年2月13日

Stein Song( 乾杯の歌)
  
  ♪さかずきを持て さぁ 卓をたたけ                             
   立ち上がれ 飲めや 歌えやもろびと
   祝いの杯 さぁ なつかしい
   むかしのなじみ 心のさかずきを
   
   飲めや歌え 若き春の日のために
   飲めや歌え みそなわす神のために
   飲めや歌え 我が命のために
   飲めや歌え 愛のために! ヘイ!

     
誠に楽しきビール飲み、酒飲みの歌である。この歌こそは、往年のアサヒビアハウス梅田をそのまま表す歌とも言えよう。飲むごとに人は楽しみ、飲むごとに歌を楽しみ、隣席の人の肩たたき合い、テーブルをたたいて興、盛り上がる。なかにはテーブルの上に乗ってうかれ
てしまう者もいるが、無礼講でお構いなし。
                                 
この「Stein Song」が盛り上がるとムカデ行進へと続く。ステージのヨシさんのアコーディオン、宝木嬢の愉快なビアソングにあわせて、先頭に立つのはわたし、もしくは朝○放送のコジマ氏である。


タンバリンか角笛を吹きながら、座って飲んでいる客たちを手招きしたり、肩叩きしたりして、この列に誘い込むのは先頭の役目で、わたしはよくこれをしたのものだ。コジマ氏はというと、調理場からフライパンを持ち出してきて、叩きながらの行進である。

最高潮時には全員がムカデ行進に加わり店内の席を取り囲むようにして長蛇の列の輪ができる。気がつくと誰一人として席に座っている客がいなくなるほどだった。


写真は、歌姫バイト・オフの日にビアハウスに遊びに行ったときのムカデ行進。後ろが我が親友、みちべぇ。その後には当時のAB社のおエラいさん、故高松氏、そして常連の杉やんと続く。ムカデ行進の音楽は「ビア樽ポルカ(ロザムンデ・ポルカとも言う)」を中心に数曲続く。

この最高潮の夜にわたしは初めてオフィスの同僚たちとここに入ったのであった。見知らぬ客同士がビールと音楽を通じてひとつになるわずか数分の一体感であるが、これは本当に楽しかった。このような雰囲気には、そうそう度々なるものではない。そして、このムカデ行進の時に、たまたまこのビアハウスに足を踏み入れていたとすると、その人はこの愉快な雰囲気に当てられ、アサヒの常連になること、請け合いである。この熱にやられてしまうのだ。
        
上述の朝○放送のコジマ氏は、取引先が職場へ電話すると、「コジマさんはここにおりまへん。何時頃やったらおるか?わかりまへん。けど、どうしても連絡つけたかったら、夕方、梅新のアサヒビアハウスへ行っておくんなはれ。あそこやったら絶対おりますさかいに。」と言う逸話があるくらいの毎日常連の一人である。
               
もちろん持ち歌はある。カンツォーネ「オ・ソレ・ミオ」と「ラ・スパニョーラ」だ。歌うときはよくアジョッキを手にし、口を大きく開けるので、歌姫宝木嬢は「扁桃腺が見えるくらい!」と呆れていた。
       

先輩歌姫宝木嬢がいない日は、「ラ・スパニューラ」を共に歌わされ、声域がアルトのわたしは高い音程に苦労したものだ。

ビアハウスには欠かせない、個性強い一人であった。

下記「ラ・スパニョーラ」をどうぞ。


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