2018年2月14日
画像はWikipediaから。
映画「Always 三丁目の夕日」の続編として「Always 三丁目の夕日´64」は、東京タワーも既に完成し、その年の10月には東京オリンピックが開催された年を背景にしています。日本中がそのスポーツ祭典に熱狂した年でもあります。東京オリンピックは「オリンピック景気」と言う経済景気を日本社会に吹き込み、日本の新しい技術が発展する土台にもなりました。
その東京オリンピックが開催された1964年は、わたしにとって忘れられない年でもあります。以下。
「1964年夏・江東区の夕日」
現在の住居のフラットからすぐ目と鼻の先にわたし達一家の旧住まいがある。当時でも既に築70年はたっていたであろう。あちこちにガタが来ていて、雨季の冬には壁に結露があらわれ、娘が赤ん坊の
ころは毎朝起きてはすぐその結露を拭き取るのが日課であった。
冬は隙間風が入り我が家を訪れる日本人客はみな寒い寒いと、ストーブの前から動くものではなかった。しかし、家の裏にあたる、台所からの眺めは格別であった。
当時の我が家は借家で、「Moradia=モラディア」とポルトガルで呼ばれる3階建ての一番上。勝手口からは庭に通ずる屋根のない石段が続いており、その庭の後ろは、だだっ広いジョアキンおじさんの畑である。
そして畑の向こうはフットボール場だ。試合のあるときなどは、勝手口の階段の踊り場に椅子を持ち出して観戦できるのである。夏の宵には吹奏楽団のコンサートも家にいながらにして聴く事ができた。
その家での16年間、春には一面まっ黄色になるジョアキンおじさんの菜の花畑の世界に心和み、秋に夜にはとうもろこし畑のザワザワと歌う音を楽しみ、そして真冬の夜半には、小型の天体望遠鏡を持ち出して月面のクレーターやかろうじてキャッチできる木星の衛生に見入ったものだ。
夜空の観察に文明の利器の街灯や高層マンションの明かりなどはジャマになるだけで、この明かりがなかったら星の観察もどんなにかいいだろうと思った。
しかし、それにも増して素晴らしかったのは夕暮れ時だ。言葉を失うほどの一瞬の一日の終わりの美を自然が目の前に描いてくれるのである。勝手口から見える向こうの林と、そのまた向こうに見える町に、大きな真っ赤な夕日が膨らみ、ゆがみながら沈んでいく様に、しばしわたしは夕げの支度を忘れ見入ってしまったものだ。
やがて群青色の空が少しずつ天空の端から暗くなり、天上に明るい星がポツリポツリと灯ってくる情景は、もはや、わたしの稚拙な文章力ではとても表現しきれない。それを見る特等席は、実は勝手口よりもその隣にある息子の部屋の窓なのであった。
幾度もそうやって、わたしは夕暮れ時の贈り物を天からいただいていたのである。どんな写真でもどんな絵画でも見ることのできない、空間をキャンバスにした素晴らしい絵画の一瞬であった。
わたしには、忘れ得ぬもうひとつの夕日がある。
高校3年の夏休み前、親に先立つものがないのは分かっていても進学を諦めきれず、就職の話に乗ろうとしないわたしの様子を見かねた英語教師がなんとか取り付けてくれた話に、朝日新聞奨学生夏季体験があった。
この制度の何と言っても魅力だったのは、大学入学金を貸与してくれることである。4年間新聞専売店に住み込みし、朝夕刊を配達しながら大学に通うことができる。その間は少額ではあるが、月々給与も出るし、朝食夕食もついているのだ。女子の奨学生体験は初めてだったと記憶している。
高校3年の夏、往復の旅費も支給され、初めてわたしは東京へのぼった。東京の江東区、当時はゼロ地帯(海抜ゼロメートル)と言われた、とある下町の新聞専売店だ。
その専売店にはすでに数人の夜間大学生や昼間大学に通う者、また中学卒業後、住み込んで働いている者など、男子が数名いた。
二階の一つ部屋に男子はみな雑魚寝である。隣にあるもう一部屋には、賄を切り回していた溌剌な25,6歳の、おそらく専売店の親戚であろうと思われる女性がひとり、専用としていた。そこに一緒に寝起きすることになったのである。
新聞専売店の朝は早い。4時起きである。ちらしを新聞の間に挟みこむのも仕事だ。そうしてそれが終わったあと、配達に出る。夏の早朝の仕事は、むしろ快かった。
なにしろ初体験のしかも女子である、部数はかなり少なくしてくれたはずだ。いったい何部ほど担いだのか、今では覚えていない。狭い路地奥の家に配達する際には、毎回イヌに吠えられ、怖くてけつまづきそうになって走り抜け、両脇の塀に腕を打って擦り傷を何度こしらえたことであろう。それでも、大学に行けるという大きな可能性の前に、くじけるものではなかった。
しかし、仕事の内容は配達だけではなかったのである。集金、これはなんとかなる。拡張、つまり勧誘です、これが、わたしにはどうにもできなかったのでした。
「こちらさんが新聞を取ってくれることによって、わたしは大学に行くことができます。どうかお願いします」という「苦学生」を売り物にするのだ。教えてもらったこの売りが、わたしはできなかったのであります。
確かに自分は苦学生と呼ばれることになるのだろうけれども、それを売り物にすることは、わたしの中で小さなプライドが立ちはだかり、その売りをすることを許さなかったのである。
日中、頑として、勧誘先の玄関に入ろうとしないわたしを見て、中卒後そこで働いていてわたしの指導員をしていたHは、自分が入り一件取って来た。
「ほら、とってきた。とらないとお前の成績はあがらないぞ。成績があがらないと、金だってちゃんともらえないのだ。お前がとったことにするから、いいな。」
助け船をだしてもらいながら、情けなさとやりきれない思いとで、自分自身がつぶれてしまいそうな午後だった。
その日の夕刊配達を終えると、江東区の空は真っ赤に染まった夕焼けであった。おかしなもので、それまで気にもならなかったのに、、その日は、自分と行き交う同年代の若者達が目に眩しく、肩に担ぐべく夕刊新聞は配達し終えたと言うのに、何かがズシリと重くのしかかり、不意にこみ上げてくるやり場のない哀しみをわたしは噛み砕くことができなかった。
赤銅色の、焼き尽くせない孤独を湛えた江東区の夕日。わたしはその時進学を断念したのだった。