ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

あの頃ビア・ハウス:第11話:「A.D.」

2018-02-18 19:12:59 | あの頃、ビアハウス
2018年2月18日      
    

アサヒの名物男の一人に「AD」と皆から呼ばれていたおじさんがいました。しょっちゅう顔を出すわけではないのですが、ちょっとした風貌で人気者でした。いつも広島カープの赤帽をかぶり、ガニまたの足に履く赤い靴だけはやけにピカピカ光っているのです。
  
けっこうなお歳で70は行っていたと思います。頭は、これまた靴と同じく、ツッルツルのぴっかぴか!よくよく気をつけて見ると、両目がアンバランスなのです。それでびっこ気味で片足をすこし引きずっていました。
      
人伝に若い頃はボクサーだったと聞きました。多くを語る人ではないのですが、話し始めると江戸っ子弁かと思われるような べらんめぇ調が入ってきます。顔いっぱいに浮かべる笑みは、どこか少年のような無邪気さがうかがわれ、わたしにはとても魅力的なおじさんでした。
  
独り身で、当時は大阪のどこかのボクシング・ジムに住んでいるということでしたが、ADについては、誰も多くを語りませんでした。ふと見かけるADの背中には一抹の寂しさが漂っている気がして、それがビアハウスの常連に根掘り葉掘り聞くのを遠慮させたのかも知れません。
     
ステージが終わり休憩時間に入ると、わたしは時々呼ばれもしないのにADの立ち席まで行ったものです。

「おじさん、元気?」と声をかけると、決まって、
「おお、あんたも元気かい?」と返って来ます。
ADのアンバランスな目が、なぜかウインクしたように見えたりするのでした。

ポルトガルに来てからこのかた、一度もADのことを思い浮かべたことはありませんでした。ある日、人伝にそのADのことが耳に入りました。ADが何歳で、そしていつのことだったかは知らないけれども、亡くなっていたのです。
   
路傍での孤独死だったと聞きます。誰も引き取り手がなく、アサヒの常連の一人が引き取り、彼を知る常連たちが集まっての見送りしたのだそうです。
  
わたしはしばらく落ち込みました。随分若い頃、20代も半ばを過ぎる頃までのわたしは、若気の至りで「例え明日命が無くなってもいい」くらいの意気込みで、日々を、あの頃のわたしからしたら、一生懸命、しかし、今振り返って見ると無謀にしか思えないような生き方をしていたものです。「たとえ路傍死しても悔いはない」との思いがあったのも若さゆえだったと、今にして思います。

「路傍死」その言葉に記憶があるわたしは、A.D.の死にざまに堪えたのです。
  
若い頃、ADがどんなボクサーだったのか、今となっては知る由もありません。アサヒが正に「人生のるつぼ」だと思われるストーリーではあります。
A.D.に、心をこめて、合掌します。
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