読書の記録

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三体Ⅲ 死神永生 (ネタばれあり)

2021年07月02日 | SF小説
三体Ⅲ 死神永生 (ネタばれあり)
 
劉慈欣
早川書房
 
 
 やっと全部読んだぜ、三体Ⅲ!
 
 三体Ⅱ黒暗森林を読んだとき、これもう完結しちゃってんじゃないの? と思った。刊行が予告された三体Ⅲはサイドストーリー的な続編かなにかだと思った。
 が、ぜんっぜん完結してなかったのね。「風の谷のナウシカ」での「映画版」が原作漫画版ではの途中のまったく途中まだまだ前半のお話であったような感じである。
 
 「三体Ⅱ」で完結してしまったように錯覚した人はぜったい多いはずである。羅輯がうちたてた暗黒森林抑止論はシンプル故に骨太でスキがないように思えた。
 しかし、言われてみれば確かにそうである。この仕組みのボトルネックは、地球と三体世界の座標を示すボタンを「押す」ところがいかなる仕組みになっているか、にある。これを未来永劫にわたって維持することを100%保証させることはたいへんに難しい。それこそ物理法則かなにかにすべてを委ねない限りいつかどこかでスキが生じるだろう。
 
 しかしそのスキを利用するには「待つ」ということが必要である。三体は羅輯の「引退」を待ち、執剣者の交代のタイミングを千載一遇のチャンスとするのだ。
 
 まさに中国らしいと思った。やはりこのSF小説は中国のDNAがしっかり入っている。この「待つ」というのは臥薪嘗胆以来の中国のお家芸である。
 
 
 僕はこの「三体」という傑作SF小説を普通に楽しむ一方で、「中国の国民文学」という観点で読むことはできないか、と試していた。このブログの感想で書いた「三体」「三体Ⅱ」いずれもその観点である。今回もそれを試みてみようと思う。
 
 西洋社会における時間概念は、我々日本人からみると現在と将来の間隔が短いように思う。「1年先を待つ」ことをすぐと思うか、ずいぶん先のことと思うか、途方もなく先のことと思うかは、その人の価値観もあるし、なにを待つかによって異なってくるだろう。しかし、ありていにいって西洋社会の時間軸は短いように思う。彼らの肉食的時間間隔は、時を争うように勝敗を競い、次々と変化を要求する。ゲームとは機先を制するものが勝つという感覚にある。もうちょっと待てばいいのにとか待ってくれてもいいのにと思うことが多い。
 しかし、現代日本の時間間隔も決して長くはない。むしろ足並みは西洋社会のそれと同じくらいのスピード感に近づいているように思う。毎日の報告があり、毎月の集計があり、四半期ごとの決算があり、前年同月比を見比べ、中長期経営計画とは3年である。即日お届けがあり、高速PDCAがあり、2週間でダイエットができることを望む。我々を刻む時間単位は短くなる一方である。そして30年ローンといえばそれはもはや永遠を意味する。
 
 が、どうも中国というカルチャーは平気で10年、20年、場合によっては100年を待つことを計算の範囲内にすっぽりいれてしまうように思う。強いて言えば100年先の勝利があればその手前の何十年間をしのぶことにためらいがない。親の代で達成できなければそれを子に託し、子でも足りなければ孫に託す。パールバックの「大地」のような時間感覚がDNAに刻まれている。
 例の香港がそうだ。1898年にあの地がイギリスに99年間の「租借」をされたとき、イギリスとしてはその99年の意味は「半永久的」なものであったはずだ。しかし中国は着々と1997年の返還時へと布石をうっていった。そして「一国二制度」を過渡期として挟みながら、今まさに完全に現在中国の政体である中国共産党に完全に組み込もうとしている。
 もともと、鄧小平というすさまじいエネルギーをもった男が改革開放路線を掲げたのが1978年、そこから幾多の波乱万丈がありながら有能な後継を指名していってついにGDP世界2位どころかアメリカと二分する覇権国家になった。ミラクルのように見えるが、中国4000年の歴史の時間軸を持つ彼らからすれば、近代のここ150年ちょっとがたまたま不調だっただけで、ようやく本調子を取り戻したくらいの感覚でいるらしい。
 
 そして問題なのはこの先だ。あと10年、20年もすればGDPはアメリカを抜いて世界1位になることはほぼ確実視されている。彼らが狙うのは基軸通貨としての地位をドルから元に奪いとることである。今はまだ無理でも、あと四半世紀も待てばそのチャンスはやってくる。だったらその時まで待つまでである。一帯一路でじっくり準備を行うのだ。台湾の併合もいま無理やりやってもいろいろ禍根を残すが、あと20年も待てばそのタイミングは絶対にやってくる。そのときまでじっくり準備をしながら待つ。彼らなら「待つ」ことになんのためらいもないだろう。むしろ文化大革命のようにコトを急くほうが、彼らの肌身に合っていないのではないかとさえ思える。
 
 「三体Ⅲ」に話を戻せば、羅輯が程心に執剣者の立場を移譲したときをねらって三体は60年待つことを選ぶ。なにかの枢軸が交代するときこそが攻撃のチャンスというのは一般的なセオリーであろう。そのタイミングがくるまでは普通に友好関係を結ぶ。三体にとっての「60年」とはせいぜい人間の1週間後くらいのことだったのかもしれない。そしてそのあとの物語のスケールは、「60年」なんてほんの瞬き一瞬のことでしかないことをいよいよ示していく。最終的に時は16000年を経過させる結果となる。
 
 この「三体Ⅲ」は何よりも、その時間間隔概念こそが大きな特徴だ。「紀元」という単位で時代を区切っていくのも示唆的である。冬眠というギミックをしゃあしゃあとやってしまい、後半には光速という時間概念と切っても切り離せないところにメスをいれるところに中国DNAの面目躍如足るところがある。
 
 
 それどころか、もしかして「三体」とは中国であり、「地球」とは中国以外の国々、日本を含む既存先進国のことではないか。そんなメタファーもまた織り込まれていたのではないか。などとも感じる。
 
 たとえば、その暗黒森林抑止力。このヒントが東西冷戦の核抑止にあるのは明らかだが、現代世界においてはアメリカと中国の関係がそれである。となると、暗黒森林とは地球そのものである。本質的に利害関係のみで成立する人間関係(ゲゼルシャフト)は信用できない。信用できるのは同胞(ゲマインシャフト)のみ。
 
 また、友好の60年間(抑止紀元)における三体世界の地球の文化のくみ取り方「文化反射」。これも中国コピー文化を思い出させるし、にもかかわらず、いまや世界で流通するソフトコンテンツや人材知財に中国のものが一見それとはわからなくても多く浸透しているのは周知のとおりだ。そもそも全てを監視している智子(ソフォン)とはハーウェイではないのかなんて勘ぐりもしたくなるし、智子の監視を逃れていかに情報を伝えようとする人間たちの様子は、監視下の中でいかに情報を伝えるかという中国社会の実情を見る思いがする。
 
 ほかにも、人物の名誉が時代によって棄損と回復を繰り返すとか、なかなかその真実の姿を相手にさらさないとか、技術の供与が地球ならぬ西洋社会の発展を築くとか(火薬・羅針盤・活版印刷は中国に由来がある)。
 
 そんな三体も、文字通り3つの太陽の予測不能な「三体問題」による影響は抗えなかった。そしてついには別の宇宙生命体による攻撃で崩壊するあたり、予測不能な外的要因に翻弄されて盛衰を繰り返した中国ならではの歴史観に思う。まさか物語の途中でタイトルにもなっている三体が無くなっちゃうなんてストーリーを誰が予測しようか。日本のストーリーテーリングならば、三体崩壊を物語のクライマックスに持ってくるか、その先はまた別タイトルの本になるかにしそうなものだが、途中であっけなく三体は消えてしまうこの感じは「三体Ⅱ」の感想でも示したが大陸的無常観以外のなにものでもない。
 
 
 ということで、実は中国はこれからこういうことをするぞという「予言の書」のように読めなくもない「三体」だが、やはりやはり驚くのは最後の展開だろう。初めて映画「2001年宇宙の旅」をみたときのラスト20分の何が何だかよくわからなくなった急展開を思い出す。太陽系が二次元世界にひきこまれ、まさかの高速宇宙船で脱出していくところまではまだついていけたが、「約束の星」以降のまさに文字通り怒涛のごとくに世界観(世界軸?)が畳み込まれていく超越の連続にはめまいがするほどだ。ついに宇宙の終焉のその先の時間外のところまでまで待ちやがったよ、この小説は。
 地球も太陽系も宇宙も超越して待つ人間。その人間が最後に退場し、ミニチュアのアクアリウムがぽつねんと空間に残されるラストシーンに、仏教的宇宙観をも感じた次第だ。このアクアリウムを見つめる目線とはどこの誰なのか。読者である自分はいったいこの物語世界のどこに立っているのかさえもわからなくなる。
 
 「三体Ⅱ」のような大団円とは真逆の、虚無感に満ちたエンディングをかざった「三体Ⅲ」だが、はたしてこれ本当に終わったのだろうか? 大宇宙(それとも新宇宙?)に戻った2人+αのその後もさりながら、あれ? と思ったのは、関一帆以外の「万有引力・藍色空間」の乗員たち(とその子孫?)だ。1000人くらいいたんじゃなかったっけ? 「3001年終局の旅」のフランク・プールみたいに意外なところで復活しないだろうな??
 

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