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緩和ケアで行こう

へなちょこ緩和ケアナース?!のネガティブ傾向な日記です。

感謝の言葉を受け取るのになれていない私たち

2008-10-15 22:07:18 | 日々の「ケア」
 
 私の属する緩和ケア病棟では、主に、「緩和ケアを主体とした」治療を受ける方が入院されることが多いので、対象となる方は、残りの時間が限られている方が入院されることがほとんどです。

 この時期、つまり、がんを治したり、がんと闘ったりすることが困難な体調になる時期には、それまで以上に患者さんの気持ちも複雑になります。
 
 これまでの自分の生き方、人とのかかわりの中で「もっと、こうすればよかった」という後悔。
 どうして、何も悪いことをしていない自分がこんな目に合わないといけないのか、医療者はもっと、もっと「こうすべきだ!」という怒り。
 病気は、きっと、これまでに自分が人を大切にしてこなかった、自分を振り返ることがなかったせいだ、などという罪悪感。
 死ぬのが恐い、夜寝たら、もう目が覚めないような気がする、といった不安、恐怖感。
 これまで必死に周りの人に尽くしてきたつもりなのに、病気になった途端に周りの人との接点がなくなり、淋しくて仕方ない孤独感。
 さまざまな気持ちになります。

 ケアをさせていただく者から考えると、これらの気持ちは「何とか和らげたい」と思うものであります。つまり、患者さんは「つらい気持ちにある」と考え、あの手この手を考えながら、ケアを提供させていただきます。

 このような時期に、後悔、怒り、罪悪感といった心境になることは、状況を考えると、まずは「当然である」と私たち、医療者は受け止めます。ですから、患者さんの怒りやいらだちを「不合理なもの」と短絡的に受け止めることはまず、ありません。

 よくよく考えてみると、後悔、怒り、罪悪感といった気持ちは、一般的にいうと、「負の感情」でしょう。この時期には、そうなる方が大半だと私たちは思っております。

 ところが。

 今、入院されている患者さんに、死を受容し、不満ひとつをいわず、感謝の弁を医療者に向けてくださる方がいます。

 どうしてこんなことを言うかというと…。

 あまりにも患者さんが私たちに感謝しすぎるからです。
 この方は、部屋に行くたびに、今にも涙されんばかりに「ありがとう…」と感謝の意を表明してくださいます。
 うちの医師は、手を握られ、感謝され、「私は金正日よりも幸せだー」という患者さんに対して、「多幸感」があるのではないかといったくらいです。

 これをどう、考えるか。

 私は、ぴんときました。

 「私たち、医療者は、残された時間が限られた時、普通は患者さんは何らかの負の感情を抱くものだ」と思い込んでいる、いえ、そんな経験が積み重なっているせいで、この患者さんの言葉のそのものを受け取れなくなっているのではないかと。
 例えば、この時期の患者さんがステロイドで多幸感があるとしても、感謝の気持ちを伝え続ける状況というのは、患者さんが不快でなければ、何の問題もない。
 むしろ、その状態を「何かあるのかな?」と思う自分達の考え方を改めないといけないかもしれないとも思いました。

 カンファレンスで、私は言いました。

 「私たちって、感謝の言葉を受け取ることになれていませんよね。」

 臨床心理士さんも言ってくれました。
 「患者さんの気持ちは素直にありがとう、と受け取ればいいのではないでしょうか。」

 各いう私も、感謝され続けると、猜疑心を持ってしまいそうなのですが…。

 自分の今の「立場」上、スタッフの意見を聴いていると、客観的にそれを見ることが(珍しく)できまして、「素直に患者さんの気持ちを受け取ろう」と発言できました。

 勿論、患者さんがそのような言葉を私たちにくださる以前に、スタッフの皆がさまざまな介入をしていることは当然のことです。

 この機会に、自分達の介入を「OK]とすることを実感することも、これからのケアに必要なのかもしれないということをひしひしと感じました。

 今日は、その患者さん、「ラスト侍」をみて、日中の時間をエンジョイされてました。
 このような時間は、目を細めたくなる、とても大切な時間だと思います。
 
 日々の小さなことから、「自分は自分だ」「自分は生きているんだ」「自分は関心を向けられているんだ」という感覚を持っていただけるようにケアさせていただきたいと思っています。

 この患者さんに、感謝。
 


 

へんてこな分数?

2008-08-31 02:13:08 | 日々の「ケア」

 それぞれの病院では、入院患者さんの食事摂取量はどうやって表現しているのでしょう?
 おそらく、主食と副食を分けて、目分量で数字にして表していると思います。それ以外の表現方法をとっている病院に出くわしたことは、まだありません。
 
 例えば、主食8割、副食3割、といった具合に。
 これ、まったくの目分量+観察した人の主観が入っている表現であります。別に、食事量は大体がわかればいいので、この表現で困ることはないのです。

 が。(でた!いつもの言い回し。)

 これを申し送りなどで表現すると、ちょっと混乱が起きるようです。
 主食8割、副食3割といった時には、「主食8割、副食3割」とは申し送りをしません。
 どういうかというと、
 『8分の3』、なのです。

 分母は主食、分子は副食ということです。

 8分の3なら、そう違和感がないのですが、2分の1と言ったら、どうでしょうか?

 2年近くうちの病院で勤務していた医師が「え~~~?」ってびっくりしていたのは、2分の1といったら、主食2割、副食1割ではなく、
 「食事量の全体の半分」と捉えていたからでした。

 納得。それは当然だ。

 ある医師はいいます。
 「そんな間違った分数を使うべきではない!混乱のもとだ!そんな分数は存在しない!」

 でも、存在しているのです、「馴れ」で。

 医師だって、私たちが表現している食事量が理解できていると、そう違和感を感じないらしいですが、違和感を感じると、とことんとんとん違和感を感じるみたいです。
 
 どうして、こんな表現をするのか、深くつきつめて考えたことはありません。ただ、私たちの言い回しにびっくりしていた医師の気持ちは理解できます。
 新人の医師たちには、ひょっとしたら、あらためて説明しないとわからないことかもしれませんね。

 「分数表現」をしない病院ってあるのかしら?

 医師たちの混乱を知っていながら、そこんとこは、概ねの食事量がつかめたらいいことなので、医師に「馴れてもらえばいいや」と思っているポンなのでありました。
 こんな些細なことよりも、もっと馴れてもらいたい事柄があふれておりますから。
 

人は生きてきたように死んでいく

2008-08-23 22:30:40 | 日々の「ケア」
 
 健康な時には、あまり気にもしなかったこと、それほど強くは意識しなかったこと、思ってもみなかったことが、一気にあふれ出す時期があります。
 それは、人が最期を迎える時期ではないでしょうか。

 緩和ケア病棟では、ほぼ、残りの命が健康な時以上に「限られた命」と直面せざるを得ない方々をサポートします。
 ですから、さまざまな人間関係に出会う機会が多いのです。

 「私は、いままで1人で生きてきた。自分のことはすべて自分でやってきた。」
 「私たち、夫婦は、お互いに夫婦なりに、誰の手も借りずにやってきた」

 …と、言える人って少ないかと思いますが、こう思っている方も少なくはないようです。自分達の人生を、誰かに干渉されたくない、自分達の思うように、生きていく、それはそれで「生き方」としては、その人らしさとして尊重すべきものです。
 だた、人が最期を迎える時は、そうはいかないものだと思います。
 
 「自分ひとりでは生きてはいけない」、そう感じるのが最期を迎える時だと思います。

 家族というものを見渡してみると、多くの家族が、患者さんの最期を迎えるにあたって、実に多くの「もやもや」を抱えていることがよくわかります。
 患者さんをお世話させていただいていると、スタッフの誰しもが感じます。
 「本当に、家族って、いろいろなことがあるな」
 「どうして、こんなに家族って、いろいろなことが起こるのだろう」

 いろいろなこと、というのは、単刀直入にいうと、「いざこざ」です。お互いをうまく受け容れることがでいない関係性です。

 私たち、医療従事者は、とかく、苦しんでいる患者さんを守ってあげたくて、患者さんのケアにあまり積極的ではない家族に否定的な考えを抱きがちです。
 でも、冷静に考えてみると、「本当にそうなのだろうか?」と思えてきます。

 
 「人は生きてきたように、死んでいく。」


 まさにこの言葉通りで、人の最期を迎える過程というものは、その人の人となりを表していると思います。
 どんな最期であっても、いい、悪いという判断や批評をケアに持ち込むべきではないと思います。
 
 できれば、1人の人の命が終わろうとしている時に、家族がいざこざなく、いい関係を持てて、関係を修復できればいい…、その思いを持つことは大切なことです。
 でも、それを願う医療者が、家族にいい家族であることを強要してしまうことも多々あると思います。

 家族の、家族なりの歴史やつながり、感情などをよく知らずして、「いい家族であってほしい」と思うあまり、家族の関係の修復をケアの目標にすると、患者さんも家族も、そして医療者までもが疲労してしまうことがあります。
 そして、大切なことを見失うことがあるかもしれません。

 私たち医療者が患者さんやご家族にかかわれるのは、その人たちの人生のほんの少しです。
 これを心に留めて、まずは、患者さんや家族の在り様そのものをうけとめるべきだと思います。

 すなわち、「どうして、この事態が起こっているか」を、ニュートラルに見つめることができること…。

 「この家族って、本当にいろいろあるわねー」と、ため息をつきたくなるときこそ、ふと立ち止まってみたいものです。
 
 それが、ケアのコツであるかもしれないと思います。
 

 

心の余裕

2008-05-17 22:22:01 | 日々の「ケア」

 この仕事をしていてつくづく思うのは、自分の心身のコンディションによって、ケアの内容が違ってくることがあるということです。
 そんなことは、どの仕事でも同じようにいえることかもしれません。

 が、しかし。
 終末期の患者さんとのいろんな場面での時間の共有は、二度と取り戻せないものです。「あの時、ああすればよかった、こうすればよかった。」という後悔の念を持たなくて済むように、できることはできる時にやりたいものです。

 そんなことはわかっているはずなのに。
 時に、自分の心身に余裕がなくなると、患者さんのケアにうまく結果がでているようであっても、そのプロセスは「雑」であったりします。
 また、思うように結果が出ないときには、疲労が増してしまうときがあります。

 疲労している時に限って、患者さんの要望に応えようと、その要望が理不尽なものであってもとにかく受け止めようと努力するのですが、「振り回されている」という感覚しか持てないことがあります。 
 普段から、スタッフには、「振り回されている」という状況は、現状をきちんと分析できていれば、それは「気持ちの揺れに寄り添う」ということなので、自分達のケアに自信を持ってください、と話しているくせに。
 

 うまくケアすることも必要。だけど、なかなか結果が見えないことも多い。自分の提供するケアは、患者さんを尊重しているつもりであっても、患者さんにとってはそうでないことが多々ある。患者さんのケアには、その人らしさを尊重しようとすると、「正解・不正解」というのは、はっきりいって、ないに等しいことが多いと思います。
 樹海に放り込まれたような感覚に悩まされることもしばしばですが、とにかく、続けること、そこそこの根気を持ち続けることがとても大切だと思います。

 いかに、自分の心身に休眠と肥やしをやれるか…。
 これ、私の課題です。
 


冷蔵庫のドアのスペース

2008-05-14 22:15:10 | 日々の「ケア」

 看護師が患者さんにケアを提供すること、つまり看護を実践することには、知識なしには十分ではありません。
 看護師は専門職といわれるのであれば、専門的知識を身につけておく必要があると思います。

 がん患者さんの痛みを和らげてあげたい!
 そう切実に思っても、ただ、医師が処方する鎮痛剤を患者さんに投与するだけでは患者さんの痛みを和らげることができないことがあります。
 
 どうして患者さんは痛みで苦しんでいるの?

 これを理解するにはたくさんの情報が必要です。
 
 がんの進行具合(=病状)はどうか?、その痛みはがんによるものだけなのか?、その患者さんの痛みに適した鎮痛剤はどのようなものなのか?、痛みを薬剤で和らげることが十分ではない理由は何か?、鎮痛剤以外に痛みを和らげる方法はないのか?
 などなど、体の痛みだけを考えてみても、看護師だからこそできることはたくさんあるはずです。

 痛みを例にあげましたが、患者さんのケアを行うということは、すべてが杓子定規に行えるわけではないのですが、「これは効果がある」というデータを知っておくということはとても大切だと思います。

 何より、まずは、人間の体の仕組みや機能、薬剤の効果や副作用など、ごく基本的な知識を身につけておく必要があります。

 さて。
 知識を提供するためには、勉強会なるものを開催すればいいのかもしれません。今、私は自分の所属する病院内で勉強会を開き、講師役も引き受けております。

 このような集合研修が、日々の業務の中にすぐに活かされているかどうかは疑問です。
 悶々モン、、、、とした結果、せめて緩和ケア病棟での知識の普及のためにと考えた方略があります。

 それは、緩和ケア病棟に入院している患者さんに必要なケアの中で、知っておいたほうがいい知識をピックアップして、その知識を小まめにスタッフに提供することです。

 そこで、思いついたのが、病棟の休憩室の冷蔵庫に貼り紙をすること!

 内容は必ずA4の一枚に留め、読みやすいようにレイアウトを配慮してっと…。入院中の患者さんのケアに役立つようなこと、またはトピックになりやすいテーマをチョイスして、必要な情報を記載して、冷蔵庫のドアに貼り付けるようにしました。

 これなら、休憩時間だけではなく、冷蔵庫をあけるたびに、ちゃんと読めなくても、インパクトのあるところだけでも目を通してもらえるかもしれない…(私の淡い期待)。

 誰が読んでくれているのだろう?
 そう思うこともあるのですが、今、その「貼り出し」は20回を超えました。
 楽しみにしているスタッフが存在するのかどうかもわかりません。

 この貼り紙は、私の「スタッフに少しでも知識を持ってもらいたい」という期待から始めたことです。
 こうしたインフォーマルな形での知識の提供であっても、ほんの少しでもいいから、日々の看護の充実につながればと思い、これからも続けていこうと思っています。

 塵も積もれば山となる!!!
 

看取り

2008-05-10 21:12:40 | 日々の「ケア」
 
 職業柄、看取りの経験をたくさんしてきました。
 
 患者さんが命を終える時の場面にたくさん遭遇してきたということです。

 目の前で息を引き取った父親を見て、ずっとずっとそばで介護を続けていたにもかかわらず、父親が「今」、亡くなったということが信じられず、「嘘ですよね?」と呟きながら呆然と立ち尽くしていた娘さん。
 介護をしている間には、気丈に振舞っていたけれども、妻が亡くなった瞬間に部屋で家族が涙を流す中、一人でそっと部屋の外に出て涙を流していたご主人さん。
 突然の呼吸困難が襲い、私の腕の中で息を引き取った患者さん。

 それはそれは、たくさんの場面が思い浮かびます。

 緩和ケア病棟で勤務する以前にも看取りの経験はありました。しかし、今ほどに看取りの場面を思い浮かべることができません。
 今思えば、おそらく、患者さんの死を、医療者からの視点でしかみることができていなかったのだと思います。

 死はやはり、忌み嫌われています。誰一人として避けることができないにもかかわらず。以前の私もおそらく、死は「縁起でもない」と思っていたと思います。いえ、深く考えることがなかったのだと思います。

 一般病棟であっても、患者さんの看取りに立ち会うことがあります。その昔、外科病棟で勤務していた頃、よく看取りに立ち会っていた先輩看護師が言ってました。
 「あー、お祓いにでもいかないと。」
 患者さんが亡くなると、死後の処置(患者さんの体をきれいにしたり、容姿を整えること)を行いますが、これに遭遇すると、「運が悪い」といったイメージがあったように思います。

 このイメージや考えは、緩和ケア病棟で勤務するようになってから、すっかり変化しました。
 むしろ、看取りの場面に立ち会えることに対して、患者さんやその家族に感謝したい気持ちでいっぱいです。

 入院された患者さんには「受け持ち看護師」といって、入院から退院まで継続してその患者さんのケアをスタッフの中心となって行う看護師がいます。
 私も何人かの患者さんの受け持ち看護師になりました。

 私は不思議と、受け持った患者さんのほぼ全員の看取りを行わせていただきました。
 患者さんが亡くなれば、スタッフから連絡をもらって病院にかけつけることができます。それは、自分の勤務時間内に看取りを行えるとは限らないからです。
 私は、自分の勤務時間内に看取った受け持ち患者さんが多いのです。
 看護師は交替勤務です。にもかかわらず、自分の勤務時間内に受け持ち患者さんを看取らせていただくことは、なにかしら、患者さんや家族との「つながり」というものを感じずにはいられません。
 ありがたくて仕方ありません。

 受け持った患者さん以外であっても、人の死というのは、人生においてこの上ない大イベントです。
 その人の死を再び経験できることはありません。

 たとえ、ケアさせていただいた時間が短いにしても、看取りの時というのはその患者さんのさまざまな物語を感じずにはいられません。
 人生の数パーセントであっても、その人の人生の物語に登場できることを感謝したくなるのは、こういった経験もあるからです。
 

 

この体たらく!

2008-04-20 21:12:08 | 日々の「ケア」

 私の勤務している病院は、お世辞にも都会にあるとはいえません。
 むしろ…、というよりは、ぜーーーったい、「田舎」にあるのです…。

 当院には農業や林業などの第一次産業に従事されている方が多く入院されてきます。だから、田舎なのだ、というわけではなく、その仕事で生計を立てていくのに適した土地ということになりましょうか。

 どの地域においてもそうですが、地域にはその地域なりの人、環境、文化、習慣などの特徴を持っています。
 私は病院のある地で生まれ育ったわけではありません。しかし、患者さんとお話をする中で、自分で生活している中で、自分の住む地域のことが少しずつ認識でき、そして肌に馴染んできているとも思います(本当はどうだかー)。

 私は、地域に根ざした病院に勤務していながら、特別、地域に馴染む努力はしておりません。
 完全な私の勘違い・無知なのですが、絶対にそうしたほうがいいのは、在宅看護部門だと思っていました。
 これほど、在宅療養の充実が叫ばれている昨今に、何と言う体たらくでしょう。
 まだまだ場所すら想像できない地名もありますし、そこがどの辺りかすら思い浮かばない場所がたくさんあります。
 
 地域を知るということは、自分が地元に馴染むということだけではありません。
 地域を知ることによって、患者さんや家族の置かれている状況を知ることになります。
 例えば、
 通院にかかる時間、利用する交通機関、仕事の内容、農繁期の忙しさ・大切さ、自宅周辺の環境、近隣の住人との交流、どの診療所が自宅から近いのか、などなど。

 今は、地域のことで知らないことは、すべて「患者さんから教えてもらう」というスタンスにある私ですが、これからは少し、「患者さんと同じイメージを持ってお話できる」ようになりたいと考えています。

卒業式に招かれた

2008-03-16 11:43:24 | 日々の「ケア」

 先日、卒業式に参加してきました。

 私の、というわけではなく、認定看護師の(ちょっとした)実習を受け入れたので、案内が「看護部長宛てに」届いていたのでありました。
 看護部長から「行ってみる?」なーんて、軽く言われたので、私も軽く「行きます」とお返事をしたものの。
 
 これって、来賓ってことでして。
 来賓でセレモニーに参加した経験のない私は、現地に到着してでした。
 まず、来賓控え室に通されました。周りは「重鎮」らしき人々が談笑しておられました。私がお話できるお相手ではないことは勿論のことで、ひたすら出された紅白饅頭とお抹茶をいただいておりました。
 
 「ああ、場違いだわー」とつくづく思いました。

 会場でお隣に座っていらした来賓さんから声をかけていただいたので、思わず、「私、場違いです…」と話してしまいました。その来賓さんは、「みんなそう思っているわよ」と優しく声をかけてくれましたが…。
 来賓一人一人が紹介され、よく聞いていると、ほぼ、議員さん、看護部長さんばかりで、その方も看護部長さんでした。
 
 前夜に飲んだ下剤のおかげで式の間にお腹が痛くなるし、緊張するし、散々でしたー。

 式が終わったら草々に引き上げん!と思いましたが、実習にいらした認定看護師の卵さんに声をかけて…。
 その後はトイレにダッシュ!して、そして、そして、さっさと帰りました。

 
 認定看護師の卵さんは式で謝辞を読んでおられたのですが、この手のものって、聞いている私も、思わず涙がでそうになります。
 一応…、最近、自分の卒業式を終えたばかりですから…。共感できます。
 看護師の免許をとった後に、専門分野の勉強をし直すって、結構大変です。誰しも、専門分野の勉強を始めると、私って「こんなに知らないで看護をしていたのか」とがっかりしちゃうものです。
 慣れない施設に実習に行くのは、心身ともに疲れ果てますし。
 何より、自分の実践の成果が出せないともっと疲労しますし、「私はむいてないのではないか?」とつらくなります。

 つらさを乗り越えて、認定看護師の卵さんは、修了されたのですが、試験は5月だそうです。手放しにばんざーいの卒業式ではなかったのですね。

 ここでもう一度、エールを。
 「がんばれー!」

 「とほほ」な来賓でしたが、ご招待いただいたことに「ありがとう!」です。
 

お話をするなら、かがんで

2008-03-13 22:09:20 | 日々の「ケア」

 患者さんとコミュニケーションをとるときに、大切なことのひとつとして、患者さんと視線の高さを合わせること、というのがあります。
 ベッドで横たわっている患者さんとお話をするのに、医療者が立ったままお話をすると、患者さんを見下ろすことになります。患者さんは医療者を見上げなくてはなりません。
 この態度は、患者さんと対等なものとはいえません。
 そして、患者さんと視線の高さをあわせようとすると、腰を下ろすことになるので、「私は、あなたの話をじっくりと聴かせていただきたいのです」というメッセージを伝えることができます。

 私は、妙に、腰を下ろすのが好きです。
 深い意味はありません、好みの話です、これは。

 ベッドサイドに椅子があれば、そこに腰をかけてお話を聴かせていただくのもよいと思います。
 でも、私の場合、ベッドサイドでお話を聴かせていただくときには、椅子に腰をかけるとまだ、患者さんと遠いような気がして、ベッドの隣にかがむようにして腰を下ろします。

 そして、患者さんのお話を、聴いて、聴いて、聴いて…。
 特に、初対面の患者さんやご家族との面談の時間は、1時間くらいはとらせていただくことが多いです。
 
 今日も、患者さんのお話を、聴いて、聴いて、聴いて…。

 長時間、かがんだあとの足は…。
 必ず、しびれてしまいます。

 患者さんとお話した後、部屋を出た私の足どりは、よたよたです。
 
 今日はそんな時に、廊下で看護部長と会いました。看護部長は、私に言いましたとさ、
 「そんな、よたよた歩いて!どこのおばはんが歩いて来たのかと思ったわ。」

 おばはん!!!

 部長に言われたくないわい!と心で呟いていました。
 ひょっとして、みんな私のこと、よたよたしたおばちゃんと思っているのかしら…。およよ。

 でも、やっぱり、かがんでお話を聴くのが好きなので、これからも、かがんじゃいます。足をしびれさせちゃいます。

医療に大切なコミュニケーション

2008-02-16 23:38:34 | 日々の「ケア」

 緩和ケアチームって言葉を耳にしたことはありますか?
 医療者、特に、がん医療・がん看護に熱心に取り組もうとしている医療者には当然のごとく、知れ渡っている言葉ですが、一般の方々には認知度としてはどうでしょう?

 緩和ケアチームについて話そうとすると、とても長くなるので、割愛します。
 で。
 
 私は、緩和ケアのみならず、ケアを行う時には、コミュニケーションが大切だと思っています。患者-医療者のコミュニケーションだけでなく、医療者-医療者のコミュニケーションもとても大切です。
 患者-医療者のコミュニケーションを熟考するのは、必然として、残念ながら、今の医療の世界では、医療者-医療者のコミュニケーションにもたくさんの課題があります。
 
 私の個人的な意見としては、自分の職種である看護師のことを話題にせずにこんなことをいうのは気がひけますが…、医師にはコミュニケーションが苦手な方がたくさんいらっしゃるような気がします。

 ある勉強会で聞いた内容…。
 実は、主治医というのは、
1)悪気はない。でも、人には聞けない。
 患者さんにいいケアを提供したいと思うのはどの医師も同じことなのですが、医師のプライドもあるのでしょう、なかなか「聞いたほうがいいこと」は聞けないようです。
2)上司からはこう教わった気がする。
 上司に対する気兼ねがあるのかしら?患者さんのケアに「上司からいわれたから」の判断をもってくると、患者さんの真のニードを見逃してしまうことが多いのでは…。
3)人の患者に口出ししないでほしい。
 …と医師は感じているらしいですが、複雑な問題を抱えている患者さんこそ、いろんな専門職が協働して介入すれば、主治医も楽になれるのに…ね。
4)看護師の視線が辛い。
 看護師は、患者さんに24時間かかわっている職種で、患者さんに最も近い職種でもありますから、患者さんの辛さを「何とかしたい」という気持ちをもって当然なのですが、医師がリーダーシップを発揮できていないと、医師に不満を持ちやすいのです。
5)「どうしますか、って聞かれても」
 以前は、看護師は医師の子分のように捉えられているところがありました。そうではないはずですが、今も、困難な問題に直面すると、看護師は「先生、どうすんのよ!」と主治医を責めてしまうところがあるのかもしれません。どうしますかと聞かれて、困ったなーと感じる医師ならいいのですが、逆切れされると、チームワークは崩れてしまいます。こんなやりとりは、医療に限らず、どの職種でもストレスフルだと思います。
6)患者にそんなこと、いえないよ。
 誰しも、患者さんをがっかりさせるようなことはいいたくないものです。しかし、がんは根治できないものが多く、「根治できない」といった内容のことを伝えることは、医療者にとっても辛いことです。だからといって、そこから逃げていると、結局は患者さんに不利益が及びます。この言葉は、医師の本音だといえますが、裏読みすると、「誰か、助けてくれー」というヘルプを求める言葉にも思えてきます。
7)困っていない主治医が一番困る。
 これは、本当に困る。

 …だそうです。

 そして、緩和ケア医というのは、主治医と同じ医師ではありますが、「困ったなー」と思っている医師に対して、協働しようじゃないか!とコミュニケーションをフルに活用することになります。
 主治医だって、患者さんを苦しめようと思っているわけじゃない。だから、一歩引いて、提案をしてみる。そして、主治医のそれまでの努力・苦労をほめる。緩和ケア医は、医師同士の潤滑油を担う役割でもあるのかもしれません。

 このようなことは、緩和ケアチームに携わる医師にとっては、大切なこととして、どなたにも認識されていることと思います。
 
 でも。
 よく考えてみると、緩和ケア医の主治医との協働のためのコミュニケーションって、緩和ケア医だけに求められるものなのかしら?
 医療者がお互いに協働するためには、全ての医師、すべての医療者に必要なことだと思います。
 勿論、緩和ケア医だからこそ、必要なコミュニケーションスキルもあるでしょう…。
 私も医療者なので、こんなことをいうのはおかしいかもしれませんが、今の医療には、コミュニケーションがとても不足していると思えてなりません。

 すっかり、看護師のことを棚にあげてしまった気がします。
 今後は、看護師のことも書かなくちゃ。
 

緩和ケア科外来

2008-01-19 21:37:47 | 日々の「ケア」

 最近、緩和ケア科の外来の仕事をするようになりました。
 緩和ケア科を受診される方は、殆どの方が医師から、「治療ができないので、緩和ケアを主体として療養を受けてみてはどうか」と勧めらて受診されます。
 
 多くのがんは、残念ながら、いつかは治癒を目指した治療が望めなくなるときがやってきます。がんと診断がついた時から、治療の目的は、治癒ではなく、延命やがんに伴う症状の緩和ということも多くあります。

 患者さんやご家族は、さまざまな治療や療養の経過をたどったのちに、緩和ケア外来を受診されます。

 緩和ケア外来を担当していて思うことは、緩和ケアが主体となる治療を受けるまでに、なんと医療者と患者さん・家族との間でコミュニケーションがとれていないのだろう!ということです。
 緩和ケア外来を受診する頃には、患者さんご自身は体調が思わしくないため、ご家族が受診されます。
 患者さんが同伴される時もありますが、その両者とも、溢れんばかりの気持ちを言葉にしてくださいます。例えるなら、機関銃…のごとく…。
 緩和ケア科の医師と私は、特に時間を割いて患者さんやご家族の話を聴くようにしています。

 「先生が病気について説明してくれない」「先生の話していることが曖昧でわからない」「痛いといっているのに、何もしてくれない」
 などなど…。
 その中には、辛さや不安といったものから、医療者に対する不満も多く含まれます。残念なことに、看護師に対する不満も含まれています。
 「頼んだことをやってくれない」「こちらが言わないと患者をきちんと世話してくれない」
 などなど…。

 とても残念なことです。話を聴いている私も顔が歪んでしまうときがあります。

 だからといって、他院の医療者を頭ごなしに責める気にはなれません。勿論、改善すべきことはたくさんあるのは承知しております。
 現実の問題として、すべての病院がすべての患者さんや家族としっかりとコミュニケーションをとれているかというと、そうではない、といわざるを得ません。
 他院の医療者を責める前に、まずは目の前にいらっしゃる患者さんやご家族がありのままに言葉で思いを表現でき、それを受け止めることが必要だと思っています。

 緩和ケアはがん医療にとって必要であるといわれている現況ではありますが、残念ながら、緩和ケアはがんの終末期のケアであるとの誤解がまだまだ残っています。また、がんの早期から緩和ケアが行われていれば、こんなことにはならないのにな、と思われるケースがたくさんあります。

 緩和ケア科の外来を受診された後の患者さんやご家族には、不安を抱えつつも、話を聴いてもらえたということで、少しほっとした気持ちになって帰っていただいております。
 
 緩和ケア外来では、患者さんやご家族の、それまでに抱えてきた押し潰されそうなほどの重たい荷物を「よっこらしょ」と下ろしていただくこと、または下ろすことができないのであれば、一緒にその荷物を運ぶ手伝いをするよということをお伝えすることが私の役割であると思っています。
 

あけましておめでとうございます

2008-01-04 21:18:04 | 日々の「ケア」

 あけましておめでとうございます。

 …といっても、ちっとも新年という気がしない勤務パターンでした。

 大晦日は夜勤(明けると元旦)というわけでした。大晦日の夜勤の前に、その年に履いていた、汚れた(臭い…)シューズを新年はあらたにしようと、ゴミ箱に捨てて帰りました。
 
 ところが。

 大晦日の夜勤の入りの時に、新しいシューズを病院にもって行くのを忘れて、履くものが無くなってしまいました。

 考えあぐねました。
 

 …で、思いついたのが、患者さんを寝たままお風呂に入れることができるスペースに置いてあった、白い長靴を履いてシューズの代用にすることでしたっ!

 そして、私は、大晦日から元旦にかけて、長靴の足音を「ぼとぼと」と鳴らせて、勤務を終えたのでした…。
 ああ、ひどい。
 
 長靴のおかげで、下腿の前面は靴擦れ。足は疲れるし、いいことなし。
 とほほ~~~~~~~~~~~~~。

 これが、今年の予兆になりませぬように…。
 

大晦日も夜勤☆

2007-12-30 22:14:09 | 日々の「ケア」

 明日は大晦日です。大晦日は家でゆっくりと過ごして…。夜はテレビを見て、そして初詣に早朝から出かけて…。

 …ということはありえず…。
 今年も、大晦日は夜勤です。

 緩和ケア病棟では、ほとんどの患者さんが外泊をすることができません。ですから、年越しは病室で過ごす患者さんが大半です。
 そして、年越しに仕事をして過ごす私も、患者さんの年越しの時間におつきあいさせていただくことになります。

 年越しくらい、患者さんのみなさんが安楽に過ごせればいいのに、と思いますが、体調は年末だからといってにっこりと微笑むようによくなるわけではありません。
 去年の年越しは、旅立ちのお手伝いをしてました。今年はどうだろう。

 へんてこなことかもしれませんが、大晦日に勤務している私は、消灯のときは、「おやすみなさい」とともに、「良いお年を」なんぞと患者さんに声かけします。
 そして、翌日の元旦に患者さんが目覚めた時には「あけましておめでとうございます」と声をかけます。
 このやりとりには、多くの患者さんがにんまりと笑ってくださいます。

 今年も、少しでも心身ともに安楽な年越しが過ごせるよう、患者さんとの時間を一生懸命に大切にさせていただこうと思っています。

 

協働すること

2007-12-21 23:33:08 | 日々の「ケア」
 
 私ががん看護を専門としている看護師であるということを、自分の病院でどれだけ認識されているか、それは今の私にはよくわかりません。
 しかし、私が何かを専門としてやっている看護師になったということは、資格を取って以来、少しずつ院内で伝わりつつあるのかもしれない、と思っています。
 廊下で出会う師長さんやスタッフには、「おめでとうございます」「すごーーい!」という声をかけていただいていますが、正念場こそ、これからだし、私一人がスタンドプレーで何でもできるわけでなく、声をかけていただくと複雑な気持ちいなるときがあります。
 とにかく、誰か一人がファインプレーをできても、周囲のスタッフが「あれれ~~!?」な状態では患者さんへのケアの質は向上しません。

 チーム医療が必要だと言われ始めて久しくなっております。
 アメリカのテキサス州のM.D.アンダーソンでチーム医療の普及に取り組んでいらっしゃる先生の講演を聞いたときには、医療従事者といわれるいろんな職種同士がいかに協働するかの大切さを痛感いたしました。
 
 理想の医療って何?

 上を見ればキリがないし、下を見ていても仕方がありません。
 自分の病院では何ができる?さまざまな病院でのチーム医療についての取り組みを聞くたびに、考えさせられました。

 私は、自分の病院の中で、主にがん患者さんが入院している緩和ケア病棟だけでなく、一般病棟にも出向いてがん患者さんのケアを行っています。
 私が所属する病院は、がん医療またはがん看護においては「まだまだこれから」な状態です(自分のことを棚において言わせていただきます…)。
 
 日々の業務に追われ、スタッフが一同に集まってカンファレンスを開く時間すら作れないほど、殺伐とした雰囲気が漂う病棟…。
 自分の住まう地域では仕方がないのかもしれませんが、看護師のうちパートさんが30%も占める状況…。スタッフの仕事に対する満足度も低く、士気が地を這いかねない業務の煩雑さ…。業務改善をするよりも、現状維持でばたばたと仕事をこなすほうがまだましだ、と考えたくなるのも無理はない状況です。
 変化を起こすには、時間とエネルギーが必要ですから。

 それでも、看護師は看護師です。看護師を志そうと思って、その資格を取った集団です。
 殺伐とした一般病棟に出向いた時には、目を凝らし、じっくりと耳を傾けます。そうすると、冷静にスタッフの能力、やる気などの計算ができます。
 目に付くのは、ぱっとみるとマイナスばかりのことが多いものですが、よく見てみるとプラスのことがちゃんと存在します。じゃないと、ケアが継続できるわけがありませんから。
 時々、マイナスばかりが目に付くと、きーーーーーぃっ!っとなりそうなこともあります。
 でも、いいところを見つけ、プラスをさらにプラスにしながら、プラスがプラスであると気づいてもらいながら、マイナスをプラスにできればいいんじゃないかな?そんな風に、一般病棟でケアを行いながら考えています。

 患者さんにしてみれば、最高のケアを受けたいという気持ちがあって当然だと思います。しかし、現状はそんなに甘くはなく、患者さんに申し訳なく思うときも多々あります。
 
 今、一般病棟に出向いて患者さんのケアを行うことによって、少しずつではありますが、スタッフとの協働ができてきているような気がします。
 
 私一人では何もできないけど、協働ができれば、ケアはきっと良くなる…。
 そう信じています。

 日々、ぼやきながら…。
 

出会いの場を生かさねば

2007-12-16 16:02:31 | 日々の「ケア」

 最近、ちょこちょこと、近隣で行われているがん医療についての研究会や研修に参加させていただいています。
 
 その場は、自分に知識をいただける場だけでなく、出会いの場でもあります。
 参加していつも感じるのは、参加したことで自分が元気付けられているなぁ、ということです。

 がん対策基本法が施行され、がん医療に力が注がれるようになったとはいえ、まだまだどの施設も試行錯誤の段階だと思います。通常の業務の傍ら、緩和ケアに従事している方もとても多いと思います。
 
 あれこれと考えながら、苦労しながら、がんばられているほかの施設の方々のお話を聞いていると、自分もがんばらなきゃな~~と思わされることが多々あります。
 仲間がいるんだと思えると、心強いものです。

 さて。
 この出会いの場を生かすために私には必要なアイテムがあります。でも、ないのです。
 それは、「名刺」。
 今まで、私は名刺を持って仕事をしたことがないのです。名刺をいただくたびに、「ああ、名刺を作らなきゃ。」と思いつつ、今日まで来てしまいました。
 
 頂いた名刺も増えてきました。
 名刺を増やすだけでなく、自分の知識と経験、出会いももっともっと増やしていきたいなぁ。