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緩和ケアで行こう

へなちょこ緩和ケアナース?!のネガティブ傾向な日記です。

身内にはそうはいかん

2009-12-26 01:59:11 | 日々の「ケア」

 時々、がん患者さんのケアをどうしたらいいのだろう?という相談以外に、スタッフから、ご家族ががんになった、どうしたらいいのだろう?という相談を受けます。

 相談したいとご希望があれば、なるべく、時間はきちんと用意させてもらうようにしています。

 今日も、ご家族さんのことで相談を受けてまいりました。


 もちろん、私がご家族の治療にかかわっているわけではありませんので、あくまでも一般的なお話になるのですが…。

 相談してくれたスタッフに、今日、伝えた内容のポイントは、
 現在の治療の選択は間違っていないこと、例え治療の効果が得られなくても、一生懸命に考えて決めたということに価値があること、家族関係のバランスをみながら、立てないといけない人を立てること、家族みんなに治療などの情報は等しく伝えたほうがいいこと、
 でした。


 1時間近く、お話をしている中で、相談してくれたスタッフから、こんなことを聞かれました。

 「ポンさんって、いつもそんなん?(=おそらく、根気よく話をするの?という意味でしょう…)」


 
 んな、わけ、ない。



 看護師として話をしているときには、自分は看護師であって、患者さんのご家族としての立場にはありません。

 もし、自分の家族ががんになったら…。どうでしょ。
 おそらく、冷静に物事を考えられなくなると思います。うまく物事が進まないことにいらいらしたり、愚痴もこぼしてしまうと思います。

 何より、普段から、自分の身内となると、「また、おんなじことゆうてー。」と、身内がしゃべろうとすることを『ぴしゃっ』っと遮ってしまうときだってあります。

 傾聴「魂」は、もはや、使い物にならない状態になる私…。


 身内なら、そんなもんよねー、なんていいながら、お話してましたが、この状況に自分が置かれたら?と考えると、やっぱり、誰か、自分の支えとなってくれる人がいてくれたらいいな、と思います。

 
 困った時には、すべての手が有効ではないにしても、対策を講じる手は多いほどいいかと思います。
 これしかないというよりも、選ぶことができる方がいいときもあると思います。


 話を聞かせてもらっている私の方もどきどきしましたが、これからも、何とか、相談を下さった方の心の支えになれればと思います。
 

 
 

血が恐い

2009-11-24 14:22:50 | 日々の「ケア」

 輸血はなんとか、受けてもいいけど、血を見るのがいやだ、恐いという患者さんのために、フローチェッカーからルートを写真のようにカバーしてみました。

 点滴台は足元に置いておいたのですが、万が一、ちらっと目に入っても、この顔をみれば、くすっと笑えるかしら…、と思って作りました。

 点滴の空き箱を利用して作りました☆

 無事に終了しました、とさ。
 

もう少し、早く…

2009-10-24 21:29:42 | 日々の「ケア」

 私は、緩和ケア科の外来の面談を、緩和ケア医とともに担当しています。

 緩和ケア科の外来に患者さんが訪れることはまれで、主に、ご家族との面談になります。
 患者さんが面談に来院されない理由は、体調が外来受診を許さないから、ということと、患者さんが緩和ケア科の外来受診を知らないという理由が十中八九です。


 残念ながら、日本の今の現状では、緩和ケア病棟への入院を、一般の病院の緊急入院のように、「必要であれば24時間体制で入院可能」というわけには参りません。
 緩和ケア病棟の患者さんの収容には、キャパシティーが少なすぎるのです。

 
 そんなこともあり、外来受診をされてから、入院するまでには、1~2ヶ月ほど「入院待ち」しないといけないのが現状です。
 私の属する緩和ケア病棟は、地方に位置するので、入院待ちはまだましなほうで、老舗?の施設では、緩和ケア科の外来を受診するために何ヶ月も待たなくてはならない状態だと、ご家族から耳にしております。

 
 私も、そして、緩和ケア医も、心を痛めるのは、すぐにでも入院していただきたい、またはすぐにでも入院したほうがいい状態であるにもかかわらず、「入院待ち」をしないといけない場合です。
 その場合は、他の施設からの紹介状を読んだだけで、余命が限られていると推測できるからです。

 外来を受診されるご家族の表情はとても堅く、藁にもすがる思いで来院されている様子が手に取るようにわかります。

 藁にもすがる思いは理解できるのですが、「何とかしてあげたい」という個人的な思いだけではどうしようもないのです。

 緩和ケア病棟のベッドは、社会的な資源です。誰にも平等でなければなりません。平等というのは、つまり、緩和ケア科の外来を受診された順番に入院していただくとうことです。

 当院では、緩和ケア病棟への入院は、絶対に「平等」な条件のもとに判定をしております。
 
 時に、患者さんのコネクションで、議員さんなど、権力のある方から「○○さんを早く入院させてほしい」と圧力がかかるときもありますが、平等に反するのであれば、それには決してお応えいたしません。



 もう少し、早く受診していただければ…。

 
 入院待ちをするには、患者さんの余命が短すぎる…、そんな場合でも、入院の予約はさせていただきます。
 そして、入院の予約をされた方すべてに、緩和ケア病棟の見学と、詳細の聴き取りをいたします。

 緩和ケア病棟の見学と詳細の聴き取りは、私が担当しています。
 
 それにしても、私、そして患者さんのご家族の双方が「おそらく、入院するには、患者さんの余命が短すぎる」と認識している時には、見学や聴き取りの時間は重苦しいものになります。

 私が、患者さんの状態を伺い、ご家族を労うか否や、ご家族は涙されます。
 いえ、緩和ケア病棟の環境を知っただけで、涙されるご家族がほとんどです。



 ああ、この環境で、大切な人に過ごしてもらいたかった…。


 ご家族は、そういう思いで涙を流されます。


 


 患者さんに入院していただける可能性はとても少ないと思われるご家族だからこそ、当院の緩和ケア科外来を受診していただき、当院の緩和ケア病棟を見学していただき、お話を伺わせていただく時間は大切にしよう…。
 私は常に、そう思っております。

 私がそんなご家族に接するのは限られた時間だからこそ、自分の言葉や態度のすべてをもって、誠意を尽くさなくてはと思っております。

 
 緩和ケア科の外来を担当していて、もどかしい思いをすることは多々あります。
 そんな思いを少しずつ、お伝えできればと思います。

 もどかしい思いに対して、医療者として考えていることをお伝えできればと思います。
 

自分の体を自分できれいにすることができなくなったら…(3)

2009-10-02 21:27:12 | 日々の「ケア」

 人は、お風呂に入るときに自分なりの「入り方」といいましょうか、こだわりのようなものがあると思います。
 それと同じように、看護師には患者さんの「お風呂の入れ方」に、こだわりとまではいいませんが、「その人なりのやり方」というものがあるような気がしています。

 特に、機械浴(患者さんを寝たままでお風呂に入れることができるもの)のときには…。

 よくあるのは、「垢を落とすこと」。

 どういうことかといいますと…。

 長い間、お風呂に入ることができなかった方が湯舟に入ったとき…。体を普通にこするだけで、消しゴムで消した時のカスのように垢がよれてきます。
 こすっても、こすっても、垢がでてきて、「ちょっとでもきれいにしたーい!」と思い、意識的に?無意識的に?こすり続けてしまうのです。
 湯舟に浮かんだ灰汁のような垢は、ちょっとした達成感を感じさせます。
 垢をこすることに必死になって、湯舟につかったまま、患者さんを疲れさせちゃ、いけません。
 はい。これは、肝に銘じております。はい。

 意識のある方なら、久々にお風呂で垢を落とせると、「すっきりした」「軽くなった」と表現されることが多いですね。
 

 さて。


 私は、患者さんの機械浴のお手伝いをしているときにこだわっているのは…。

 それは、『へそゴマ』。

 緩和ケア病棟の患者さんは、患者さんが入りたくない!とおっしゃる時と、病状が許さない人以外は、どないなやり方でも☆お風呂に入れて差し上げているので、湯舟に垢が浮かぶことはあんまりありません。

 それでも、盲点?なのが、へそごま。

 よーくみると、へそに垢がたまっているんですね。
 湯舟につかっている間に、綿棒でへそをこにょこにょ…と♪
 
 でたーーーっ。へそごまの塊~~~。
 なんか、釣りで魚が釣れた時のような喜び…。


 でもね。
 へそごまって、ごっつー、臭いんですよね。みなさんもご存知の通り。

 昔、私は外科で勤務していた期間が長かったので、手術の前にいろんなかたのへそごまを取ってきました。ご高齢の方は、おへそを掃除するという習慣がない方が多かった。
 腹部の手術の場合には、特におへその掃除は絶対に必要。

 おへその掃除をする習慣がない高齢の方のへそごまときたら、巨大っ!
 へそのくぼみを占拠して、明らかにごまが飛び出ている方もいました。
 とるにも時間がかかる。


 そんなときのへそごま掃除の様は、サザエを食べる時をご想像ください。

 ぽろりと取れた、サザエのようなへそごまちゃん。

 おお。お主は、50~60年はここ(へそ)を占拠しておったのじゃな?…という感じ。

 その分、に、に、臭いが…。
 処置室いっぱいに広がるへそごまの臭い…。さすがにぶっ倒れそうになります。

 
 臭いですがね。でも。
 やっぱり、へそごま掃除は大好きな私。

 今までに、患者さんからへそを洗ってほしいとお願いされたことはありませんが、お願いされなくても、私はおへその掃除をやり続けます。
 

 

乳がんの患者さんへのケア、起動。私、再起動。

2009-09-06 12:30:24 | 日々の「ケア」

 今日もいい天気です。
 しかーし。今日は、明日の勉強会の資料を作らなければならないので、家にこもってます。
 しゃーない。

 今、乳がんの患者さんのケアについての資料を作っています。
 私の所属する病院では、この夏から、本格的に乳がんの患者さんへのケアに力を入れ始めました。
 
  
 長い間、私は「緩和ケアを主体とした治療を受ける方」のケアをサブスペシャリティとしてきましたので、(治癒や延命のための)治療を受ける方のケアには遠ざかっている状態でした。
 緩和ケア病棟以外では、がんの患者さんはとても少ないのが現状でしたから。

 しかし、今後、乳がんの患者さんのケアに力を入れるとなりましたら、私もぼーっとしているわけにはいきません。

 抗がん剤の治療を含めて、治療というのは年単位でどんどん進化しています。
 そして、どの治療法が妥当であるとみなされているのか。患者さんのご希望に推奨されている治療法を照らしあわせて、どれだけ個別に、病気に合ったケアを提供できるか…。

 ただいま、乳がんや抗がん剤治療などについて、再度、猛?勉強中です。

 
 以前、乳がんに関心のある同級生が言ってました。
 「乳がんのケアって、奥が深いよ。」

 
 私も、実感。奥が深いですね。
 あ。くれぐれも、他の病気のケアが「浅い」ものだと言っているわけではありませんよ。
 乳がんのケアに「も」、乳がん特有の知識と技術と経験が必要だということで…。

 院内のスタッフも一生懸命に乳がんの患者さんのケアの定着のためにがんばってくれています。

 
 私の現在の役割は、乳がんの患者さんの受け入れを定着させることなのですが、この役割をいただけて、本当にありがたく思っています。
 スタッフに教育する傍ら、私も大いに勉強になっていますし、今まであまりつながりのなかった部署やスタッフとの交流をたっぷりと持たせていただいていますから。

 本当に、ありがたい。
 

 いいことばかりではなくて…。「組織内の調整」にエネルギーを奪われているのが現状です。
 

 「大丈夫。何とかなるさ。」
 という気持ちを持ち続けながらがんばっていきます。
 

 

自分の体を自分できれいにすることができなくなったら…(2)

2009-07-26 19:07:27 | 日々の「ケア」

 男性の髭を剃ることは、日々のケアの中でよくあることですが…。
 女性の髭って、何人剃ったことがありますか?

 私、男性の髭も気になりますが、女性の髭はもっともっと、気になります。

 病状が思わしくないと、髭剃りは後回しになりがちです。それは仕方のないことかもしれません、それを優先することがあるのなら。
 
 男性の髭は、伸びてしまうと、(私個人の印象ですが)とても病人さんらしくなってしまう気がします。
 最近でこそ、髭を伸ばすことがおしゃれと認識されてきましたが、整っていない髭は、いい印象はないと思います…、とくに病院では。

 男性の髭は、伸びると顔の印象が変わってしまうので剃ることが日常的ですが、女性の髭ってどうでしょ?

 
 女性も髭が生えます。
 鼻の下に髭が生えます。
 男性ほど、濃い~~~ものではありませんが。

 病状が思わしくなかったり、自分で自分のことをできなくなってしまったとき、女性の髭って、案外、剃れていないような気がします、私。


 私は気になります。とてもっ。

 女性なら、大体は、メイクをしたり、メイクまではいかなくても、化粧水を塗ったりするかたは多いと思います。
 私も…。うっすらと鼻の下に髭が生える人なのですが、毎日剃ってます…。

 
 気になるのは、個人の感覚です。
 整容は、「これがいい」と思うものは個人の感覚ですから…。

 髭が生えてても平気という方は、話は別です。


 先日、92歳の串本さん(仮称)、女性、の「お髭」を剃りました。串本さんは体力が落ちてしまい、意識はありません。
 付き添われていたお孫さんが、串本さんの髭剃りに大喜びされました。
 お孫さんは、ご本人が髭を気にされていたことを知っていたので、鼻の下に伸びた髭を何とか剃ってあげたいと思っていました。

 ところが、串本さんの病状が思わしくなかったので、顔には酸素マスクがありました。
 お孫さんは、串本さんの体のことが気になるので、マスクをはずしてまで髭を剃ってあげることができていませんでした。

 …というわけで、ちょっとしたことなのですが、髭剃りでお孫さんはとても喜ばれました。


 自分が入院して、思うように自分のことをできなくなったら、看護師さんにお願いするかもしれません。
 「お忙しいとは思いますが、せめて、1週間に1回くらいは髭を剃ってもらえませんか?安全カミソリは用意してますから…。」


 あ、ついでに、眉毛も整えてもらいたいなー。

 …と考えられるのは、いろんな意味での余裕があるからでしょうなぁ。

 

見られてるという意識

2009-07-01 22:05:59 | 日々の「ケア」

 どの職種でも、人を相手に仕事をするのであれば、接遇というのはとても大切なものだと思います。

 接遇というと、「マナー」のようなニュアンスに聞こえがちですが、私は、接遇は、医療者が患者さんやご家族ととるコミュニケーションの基礎、つまり、ケアの基本でもあると思います。

 残念ながら、病院では、職員全員の接遇が「ばっちり!」というわけではありません。

 時折、
 「あーなたー、どうして、看護師になったのさー。」と肩を叩いて、耳元で本気で囁きたくなる看護師さんに遭遇することがあります。
 その気持ちは、同じ看護師として「残念!」という気持ちと、「あーなたーと同じ看護師として見られて、○○病院の看護師ときたら、なっとらんっ!」と同じ扱いを受けたくないわー、といういらだちの気持ちがあります。

 患者さんやご家族に、病気の進行、お別れの時間が近づいてきていることなど、とても残念なことをお伝えしないといけないことが、緩和ケア病棟では多々あります。

 その時に患者さんやご家族と交わした言葉のやりとりを、カルテに記載すると単なる文字ですが、実際には、その言葉には必ず感情が伴います。
 感情は、言葉だけで伝わるものではなく、表情や口調、声のトーン、間合いなど、いわゆる非言語的コミュニケーションのすべてでもって伝わります。

 それなら、患者さんやご家族と面と向かって会話している時だけでなく、スタッフ同士のやりとり、1人で廊下を歩いているときですら、自分達が意識すらしていない「何らかのメッセージ」を患者さんやご家族に発していることになります。



 患者さんやご家族は、私たち医療者の一挙手一投足をみている。


 私たちは見られている、この意識を持つことはとても大切なことだと思います。
 私たちが一から十までを言葉にしなくても、患者さんやご家族が私たちの「療養のサポートをさせていただきたい」という気持ちを受け取ってもらえるのは、普段のやりとりがあるからだと思います。
 
 私たちのコミュニケーションのあり方如何で、患者さんやご家族は安心感を持ったり、不安や怒りを抱いたりします。

 

 私は緩和ケア病棟でケアをさせていただくようになって、今まで以上にコミュニケーションというものの大切さを実感できるようになりました。

 患者さんやご家族のおかげですね。
 ありがたい。
 

 

自分の体を自分できれいにすることができなくなったら…(1)

2009-06-14 01:55:27 | 日々の「ケア」

 患者さんが、自分で自分の動作を上手くできなくなると、自分の体をきれいにするということも自分でうまくできなくなるので、それまでのその人の「清潔」への手段を取れなくなります。

 自分がもし、動けなくなって、長期に入院することになったら…。
 気になることはたくさんありますが、そのひとつに、「自分の体をきれいにする」という自分なりにやり方ができなくなるということがあると思います。
 自分の体を自分できれいすることができなくなるというのはとても大きなストレスだと思います。

 これからはそこんとこをちょいと考えてみようと思います。

 
 少々垢がたまろうと、死にゃーせん、というのは御もっとも、ですが、でも、体が汚れたままで一日を過ごすというのは「き~~~~~~っ」っとなりませんか。


 女性なら特に、髪の毛を洗えないというのは大きなストレスです。

 毎日シャンプーしたいっ!そう思う方はたくさんいらっしゃると思います。

 でも、ベッドで横たわって過ごす時間が長くなった患者さんは毎日シャンプーすることはできません。
 …正直に言って、これは患者さん全員に毎日シャンプーするだけの「手」が足りないという理由が大きいのですが。勿論、シャンプーするよりも優先しないといけない処置がある、シャンプーするどころじゃない!状態であるということも理由にあります。

 長く髪を洗うことができなくなると、髪はねっとり、フケもたまる、たまる…。
 ヘアスタイルが…なんて言ってられません。


 看護師は、髪を洗うことをお手伝いさせていただきます。
 

 ふと、思う。
 私は、看護師になってから、どれだけの患者さんのシャンプーをお手伝いしてきただろうー。
 一般の病院にいるときよりかははるかに多く、お手伝いさせていただいていると思うー。

 ベッドに寝ていただいたままの、長い髪の女性のシャンプーのお手伝いは大変…。
 お湯もたくさん必要だし、髪は絡まっているし、抜け毛の本数は同じでも、抜け毛の量が多いー。
 
 数ヶ月間、髪を洗えなかった方の頭皮のフケはすごい。体の垢と同じように、1回のシャンプーでは落としきれなくて、シャンプーの後、拭いているときも、フケが「よれて」くる。
 2回でも3回でも洗ってあげたい気持ちになる…(=フケを落としたくて、ムキになりそうになる)。

 そして。
 仰向けで髪を洗い流すって、結構大変。
 顔にお湯がかかるし、耳にお湯が入ることもしばしば。
 これを考えると、美容師さんって、シャンプーが上手よねー。お金をとっているだけある。
 私は患者さんに、「ただ、ですので、少々の不手際はお許しを…。」なんて言ったりしますが…。いいわけ、いいわけ。

 病棟にある、病院が購入してくれているシャンプーは「安価」なので、洗い上がりの髪はきしむねんっ(この感じ、わかってくださる?)。
 髪を洗わせていただいている私のストレス!
 洗いあがりは、しっとり、さらさら、やろっ。

 などなど…。
 だらだらと書いちゃいました。





 長い間、髪を洗えてなくて、久々に髪を洗えた患者さんのほぼ100%の方が、「頭が軽くなった」とおっしゃります。
 勿論、頭部の重量がごっそりと減ったというわけではないことは、「あったりまえーっ」のことです。そんな感覚になるくらい、髪の毛を洗うということは爽快感を与えてくれるものです。


 入院して、自分で自分の髪を洗えなくなったら…。
 看護師さんは忙しいのがわかっているので、髪を洗ってほしいなんていいにくいわよね…。自分でもそう思う。だって、髪を洗わなくても、命にかかわることはないから。

 そうじゃなくて。
 
 何とか、時間を作って、患者さんの「きれい」を保ってあげたい。


 ちなみに、患者さんのご希望があれば、私は患者さんの髪も切ります。

 バーバー「ポン」、でした。
 
 

 

「今」を逃さないように

2009-05-24 19:41:12 | 日々の「ケア」

 患者さんのご家族から、よく、このようなことを耳にします。

 「本人は嫌がっていたけど、ちゃんと病院に連れて行ったら、もっと早く見つかったかもしれない。」
 「本人が痛いって言っていた時から、何かあったんや。どうしてちゃんと気づいてやれなかったのか。」
 「こんなことになるなら、もっと、家族みんなで旅行にでもいけばよかった。」

 これらの中には、「後悔」の気持ちが含まれています。

 患者さんのご家族なら、何とかして楽にしてあげたい、何とか役に立ちたいと思うのは当然のことと思えます。

 そのご家族のケアをするために、私たち看護師の「出番」があるのですが…。

 実は(というほどでもないかもしれないですが。)、
 私たち医療者も「後悔の気持ち」をよく感じるのです。

 それは、病院での日常生活の中でのほんの些細なことであって、時が経って振り返ってみれば、とても大きなことであります。

 
 先日、「あの時を逃さなくてよかった。」という経験をしました。

 西庄さん(仮称)は、がんがいろいろな骨に転移して、自分ではまったく動けない状態になっていて、ベッドでの生活を余儀なくされていました。
 遅くまで残って仕事をしていたある夜、西庄さんに用事があって、その日の夜勤さんと一緒に患者さんのお部屋に行こうと歩いておりました。
 西庄さんの部屋の前で「あれれ?」と思う声を耳にしました。

 
 「きーーーーっ!」「い~~~~~っ!」

 明らかに、「何があったのですか?」と尋ねずにはいられない声でした。よく聞いてみると、ずっとベッドにいることがとてもストレスなので、いらいらして仕方ない、だから、そばのいた夫に当たってたんです、とのことでした。

 苛立ち。

 さて、こんなとき、どうする?

 苛立ちを精神的に不安定になっていると、時間帯が夜間であったことから、睡眠薬や抗不安薬を使用して、眠ってもらうこともできます。
 
 でも。
 この場面はどう考えても、そんなことを患者さん(心身ともに)が要求しているとは思えない…。

 
 私はベッドの上で端坐位になることを提案してみましたが、胸椎の転移の加減で、その体位は返って疼痛が悪化するので無理…、と患者さんから断りがあり…。

 そして、リクライニングの車椅子に移乗していただくことにしました。

 「車椅子に乗りますか?」
 と声をかけると、今までいらいらーーーーーーーっとしていた西庄さんは、本当に「がらっと!」という言葉がふさわしいくらい、曇った表情から、子どものようなとても可愛らしい笑顔に変わりました。

 ベッドでの生活を余儀なくされていた西庄さんは、緩和ケア病棟に入院してから、緩和ケア病棟がどんな構造になっているのか、病院の中はどうなっているのかというオリエンテーションを十分に受けられれずに、1週間を過ごされていました。

 ご主人さんと夜勤の担当看護師とともに、緩和ケア病棟と病院内をぐるぐる回って、約1時間ほど、散歩ができました。

 実は、大切な痛み止めなどは点滴や皮下注射で行われていたため、ポンプ類を散歩に持っていくのは至難の技と思われました(夜間帯は看護師の人数も少ないですし)。ベッドから車椅子に移動するときにも、チューブが邪魔になって、少ない人数で移乗するのは大変だー、と思いました。

 そこで、思い切って、車椅子に移乗する時から、すべてのチューブをはずして散歩に行ってもらっちゃいました。

 
 約1時間、痛みが増強することなく、患者さんの苛立ちは完全に和らぎました。


 その翌日から、西庄さんは意識がなくなりました。



 ご主人さんは言いました。
 「あの時が、車椅子に乗れる最後のときだと思いました。車椅子に乗れて、本当に良かったです。」


 本当に良かった…。

 そう思えたのは、私たちスタッフも同じでした。


 もし、あの時、夜勤で人の手がないからということで、翌日にしましょうと声をかけていたなら、西庄さんのいらいらを和らげることができないばかりでなく、車椅子に乗るという大切な時間を作ることすらできなかったと思います。

 けれど。タイミングを捉えて、いつもどんぴしゃにケアをできているかというと、そうでないときもあります。

 私たち看護師の満足が、必ずしも患者さんやご家族の満足につながるわけではありません。患者さんやご家族は、どうしたいのか、何を望んでいらっしゃるのか。
 そこんとこを実現するための行動を起こすタイミングと、患者さんの病状や体力、気持ちなどをうまく見極めることが必要だな、と思った出来事でした。
 
 私たちも後悔したくありませんから。
 

話を聴くこと

2009-01-31 23:52:14 | 日々の「ケア」

 人の話を聴く時、特に、話の内容が陰性感情が含まれている時には、なるべく、自分の価値や判断を相手に押し付けることにならないように気をつけています。
 
 患者さんやご家族の話を聴いていて、「うまく聴けたなー」と思えるのは、実のところ、私はとても少ないのが現状です。
 
 もともと、私は「自分は本当に、つらい状況にある人の話しをちゃんと聴けていたのだろうか?」という疑問を持っていました。
 それは、「患者さんやご家族は、話したいと思うことをちゃんと、伝えることができていたのだろうか?」という疑問です。

 今のポジションでさまざまな方の介入をさせていただくようになったのは、少なくとも以前(若かりし日々に比べて、ってことかなー)に比べると、話を聴けるようになったから、というところが大きいと思っています。

 話をしていただくべき人の状況が困難であれば困難であるほど、そして、信頼関係がうまく築けていなかったりすればするほど、話を聴くときには、緊張しますし、その分、話を聴いている間、自分のことばかりを考えてしまいます。
 そして、挙句の果てには、せっかく話をしていただいた内容が記憶に残らず、スルーしてしまうこともあるくらいです。

 おそらく、こういった態度は、話して下さっている人には大なり小なり、伝わっていると思われます。
 
 話をしてくださる人が、
 「話を聴いてもらえた」
 「話をできてよかった」
 「話をしたら、気持ちがすっきりした」
 そんな話の聴き方ができるように、まだまだ鍛錬したいと思います。

 その極意は、相手からも、自分からも逃げないこと、でしょうか。
 

立ち止まって考えてみよう

2009-01-25 22:09:22 | 日々の「ケア」

 入院されている患者さんには、ご家族を含めて、どの方もケアは必要とされていると思います。
 日々、ケアを行っていると、患者さんやそのご家族のケアに必要とされる時間や「密度」によって、スタッフの注目度と労力と必要性をどれだけ感じているかというのが患者さんによって違ってくるものだと思います。

 勿論、それは、患者さんの重症度によることが多々あります。
 患者さんの病状の進行は、患者さん自身だけでなく、ご家族の心身の状態にも大きな影響を与えます。
 
 医師や看護師などのスタッフが、時間をかけて、患者さんやご家族のお話を聞き、日々のケアを行っていても、人の最期というものは、そう簡単に受け入れられるものではありません。
 悲しみや怒り、後悔、自責、諦め、無力感といった気持ちを抱くのは、当然なこと。少しでも穏やかに、少しでも笑顔で、少しでもありのままの姿でいられるように日々、患者さんやご家族のそばにいつづけようと思っています。

 一見、心身ともに「落ち着いている」と思える患者さんやご家族がいます。
 「この患者さんには時間をかけてかかわらなくちゃ!」「このご家族のお話はちゃんと聞いておかなくちゃ!」という患者さんがいると、スタッフ全員はそこに必死になります。
 カンファレンスの時間は、自ずと、「ケアが必要だ!」と思っている患者さんやご家族についての話し合いに割かれます。

 ところが、スタッフがへろへろに疲れるくらい、必死に「ケアが必要だ!」と思っている患者さんやご家族にかかわっているうちに、一見、落ち着いていると思える患者さんのケアへの注目度が下がってしまうことがあります。

 ある患者さんやご家族に必死になってケアをしている時こそ、注目度が下がってしまう患者さんがいるのではないかと思います。

 スタッフは、意識的に一見落ち着いて見える患者さんを注目していないわけではありません。自分を含めて、患者さんの状況の全体を見渡すだけの余裕がなくなってしまうのです。

 自分の役割は、患者さんの状況の全体を見渡して、ケアの必要度が顕在的な患者さんやご家族だけでなく、潜在的な必要度も見極めることだと思っています。

 けれど、最近の私ときたら、まるで目が曇っているかのように、目に映っている目の前の現象がケアが必要だと判断できていないときがあります。
 

 日々、患者さんの状況の全体を見渡すだけの余裕を持て!自分に言い聞かせておる次第であります。
 「ちょっと待てよ…」と、立ち止まって考えてみること。
 これが、患者さんの状況の全体を見渡せるための秘訣かもしれません。
 

さみしいコール

2009-01-12 13:51:56 | 日々の「ケア」

 緩和ケア病棟に限らず…、のお話です。
 
 しばしば、ナースコールを頻繁に鳴らす患者さんに遭遇します。ナースコールは、患者さんが私たち看護師に「用事」があるから鳴らすものです。
 
 その「用事」というものは、時々、患者さんが思う「用事」と看護師が思う「用事」がずれている?時があります。
 看護師が妥当だと思いやすい「用事」としましては、『点滴が終わった』『痛いんです…』『おしっこをしたいのですが…』などなど。看護師が患者さんのもとにいって、何らかの行動をとれる「用事」は「用事」として認めやすいものです。

 しかしながら、患者さんの中には、コールを鳴らしてくださるのだけど、「なんのために呼んでくれたの?」と思ってしまうようなコールを下さる方がいらっしゃいます。
 一見、用事がないように思われるのですが、実は、そこには患者さんの「不安」や「さみしさ」というものが隠れていることがしばしばです。
 
 先日、夜勤の時に、連日のように夕方になるとコールをひっきりなしに鳴らす患者さんを担当していました。
 コールを受けて、患者さんのもとにいくと、「来てくれたん?さみしいわ。」と話されます。うちの緩和ケア病棟は全室個室なので、ひとりで過ごしている患者さんがさみしいと思うのも無理はありません。看護師がそばを離れるとまたすぐにコールがあり…。

 しかーし!「さみしい!」と訴える患者さんひとりのそばに、夜勤をしながらずーっとそばにいることはできません。
 ここんとこ、「業務をこなさなければならない」という思いに迫られると、看護師は「いーーーーーーーーーーっ!(いらいらのことね)」となるものです。
 本音は、「あたしゃ、あなた1人を相手にしている暇はないのよ。患者さんはあなただけじゃないのよぅ!」
 看護師さんなら、誰もが経験したことがあるのではないでしょうか、こういうことを。

 さて。
 先日の「さみしいコール」の患者さんに何とか対応しなければならなかった私が、どうすりゃいいかなーと、うーーーーーんと考えました。

 で。

 患者さんのもとに行く度に、歌を2曲ずつ歌いました。そして、歌い終わると患者さんに、「次の上演は、10分後です。それまでしばらくお待ちください。」とお伝えして、他の患者さんのもとに行きました。(実際に患者さんのもとに再び訪れるのは、15~20分後なのですー)
 患者さんは、「うわー、上手ー☆」と手を叩いて喜んでくれました。
 おかげさんで、コールがやや減りました。
 
 さっさと眠前の点滴を使えば眠りについてもらえるのですがね…。どうも、それをすると、自然な「おやすみなさい」じゃない気がしてね…。
 眠前の点滴をする定刻の20時まではなんとか患者さんのお相手をして、その後は、点滴でぐっすりと休んでもらいました。

 それにしても、即興で歌おうにも、自分の歌のレパートリーがあまりにも貧弱さなので、(自分に)びっくりしました。
 レパートリーは最初から枯渇気味でしたので、血迷って「ドナドナ」まで歌ってしまいました。心の中では…、「これって、めちゃ、さみしい曲やん!!」と呟きながら…。そして、歌詞もうそっぱちさ!
 

 急性期の過激に?忙しい病棟では、こんなことすらもやる余裕がないことは承知しております。
 

 

基本は、受容・共感機能付きサンドバックかな

2008-12-15 00:37:16 | 日々の「ケア」
 
 この週末、福岡での日本看護科学学会に参加してきました。
 テーマは「ケアリング・サイクルと看護科学」でした。

 シンポジウムのすべてを聞いたわけじゃないけど、東京医科歯科大学の宮本真巳先生の講演が印象に残っています。

 ケアリングをわかりやすく紐解いて下さった後、ケアリングを支える感性を磨く技法として、「異和感の対自化」を述べておられました。
 「異和感」とは、主に対人関係場面で体験される「しっくりこない」という曖昧な不快感のことをいいます。
 
 そうそう。その「異和感」、日常のケアではしばしば感じられること…。
 以前にもありました、患者さんの体のつらさや心の痛みがさまざまな言葉で言い表される時。患者さんと医療者の関係性の中で、患者さんの信頼が得られるというのはとても大切なことです。しかし、信頼が得られているとはいえ、つらい状況にある患者さんとの関係性は、いとも簡単に壊れてしまう、と感じる時があります。
 関係性が壊れてしまうきっかけというのは、医療者の言動や病院のシステムのあり方など、病気による苦痛そのものではないことがあります。

 不信感や釈然としないことを話していただけるのは、その人の性格や生き様も関係しているのかもしれません。でも、話していただけるということは、その患者さんのケアをさらに充実させるためにも、私たちが気づけなかったことに気づかせていただく、という意味でも、ありがたいと思います。

 が。

 いつも、いつも、「ありがたい」とばかり思っているわけではありません。
 
 内心、「どうして、あなたにそんなことを言われないといけないの。」と思うことを言われたりします。
 それでも、患者さんのつらさや現状を思い遣ると、患者さんがそういっているのではなく、病気がそういわせているのだと考えるようにすることが必要だと思っていました。

 私は、そう思えるまでに時間を要することがしばしばあります。ロジャースのいう、「自己一致」とはかけ離れた状態でケアをすることがあるということです。
 
 そんな「異和感」を察知した時、それをよく吟味した上で、「異和感」の中に含まれている感情を言語化して、相手に投げ返すことができる、と宮本先生はお話されていました。

 つまり、自分の感情を私メッセージに乗せて、相手に伝えるということでしょうか。売り言葉に買い言葉ではないことは当然のことです。

 「異和感」の中に含まれている感情を言語化して、相手に投げ返すって、より人と人との関係性に迫るものだと思います。
 でも、これができるって、現実にはとても少なくて…。

 やっぱり、相手を思い遣って思い遣って、「受容・共感機能付きサンドバック役」を引き受けなければならないことの方が多いと思います。
 それができないなら、「異和感」の中に含まれている感情を言語化して、相手に投げ返しても、本当のケアじゃない気がしています。
 

涙が止まらない

2008-11-26 21:21:54 | 日々の「ケア」

 実は、看護師をしていて、自分がかかわった患者さんすべてが記憶に残っているかというと、(何らかの形で想起できない限り)そうではありません。

 が。
 忘れられない患者さんというのは、必ず、ずっとずっと、自分の心に留まっているものだと思います。

 おそらく、この患者さんは、私の心にずっとずっと留まり続けるだろうな、と思われる患者さんが、今日、亡くなられました。
 今が働き盛りというお年の方でした。

 今日の朝、出勤をして、助手さんから矢継ぎ早にこの患者さんの死を知らされて、すぐにお部屋に向かいました。
 部屋には、これまで何度お話をさせていただいたかというご家族がいらっしゃいました。
 とにかく、患者さんは、よくがんばられたということを伝えつつ、私は涙が止まりませんでした。
 患者さんが横たわっている布団に、たくさん、たくさん、自分の涙が「ぼとっ!」と音を立てて落ちていきました。


 私の涙の理由。
 それは、その患者さんが亡くなられたからということだけではありませんでした。
 そのことは、ご家族が知る由もなく…。

 私の涙の理由は、自分の不甲斐なさと、患者さんへの申し訳なさと、そして考えると止め処もなく押し寄せてくる、患者さんとのやりとりの記憶と…、でした。

 
 ある理由があって、私は何度もこの患者さんの部屋へ行くことを止めようと思いました。この患者さんの部屋へ行こうとすると、とてつもなく体が重くなって、足が向かない日も多々ありました。
 患者さんの日々の情報を聞くと、心が「ぎりぎり」と痛んで、その場にいる自分を消したくなる時もありました。

 しかし。なぜか、私の心の重たさとは裏腹に、私は患者さんの部屋に行く機会が与えられていました。
 私は、もう、この患者さんのケアに携わらないほうがいい、そう思えることがありました。しかし、それにもかかわらず、患者さんが「ポンさんに会いたい」と言ってくださり、私をお部屋に引き寄せてくれた、患者さんの気持ちがありました。
 これは、何か、私がどうともすることができないところで、自分の不甲斐なさを抱えつつも、この仕事を続けていきなさい、というどこからともなく聞こえてくる声のようでもありました。

 
 実は、この患者さんの介入のことで、どうしても自分の心がうまく保てなくて、しばらく、体を休めていた期間がありました。
 
 この患者さんがくれたメッセージって、本当のところは何なんだろう?
 まだ、十分にわかっていない気がします。

 思い出すと、涙が止まりません。
 
 この患者さんに贈る言葉…。
 大好きだったうどんを腹いっぱい食べてね。そして、本当に、ありがとう!

 
 

医師と協働できればいいのだけれど

2008-11-24 02:22:44 | 日々の「ケア」
 
 私は、病院の中で自由に行き来して、患者さんのケアをすることができる立場にあります。

 それは、病院が私の資格というものを信頼して、今の役割を与えてくれているものであります。
 
 しかし。
 その道のりはかなり、険しいものがあります。

 私と同じような道を先に進んでいる方々は、もっと険しい道のりを歩んでこらています。まず、自分の役割を、この医療の世界で「存在として」認めてもらえるような土台を作っていただいたことを感謝せねば、と思います。

 ただ、資格を取れば、それで「All right.」というわけではなく、現実の「自分の病院」=「現状」は茨の道です。

 特に、私の病院では、緩和ケアの概念自体が浸透していません。緩和ケア医の力を借りたり、自分でも緩和ケアというものがどういうものなのかを自施設で伝えてきたつもりですが、ちょっとやそっとでは変わりません。
 医師たちは、忙しすぎます。
 だから、呼び止めて、患者さんの治療方針などなどを話し合うのが心苦しく思えるときも多々あります。

 が。
 今まで一般病棟の医師をお相手に患者さんのケアをしてきましたが、時間があったら、この医師たちが自分と話し合いの時間をもち、いかに患者さんのケアを充実することができるのかということを考えられるのか、ということに疑問を持ち始めました。

 要するに、ベテラン先生たちには「緩和ケア」の概念がない、ということを言いたかったのです。
 ベテラン先生を批判しているのではありません。
 そのような教育を受けてくることなく、日々の医療に追われている医師を責めることはできません。

 ただ。

 がん患者さんのケアを充実させようとすると、看護師と協働すれば、それでいいというわけではないのです。
 医師の協力が必要なのです。

 でも。
 頻繁に…。
  
 「先生、この患者さんの痛みのことなんですけど。」と医師に、私が話しかけると、

 医師は言います、「ないない、この患者さんに、がんの痛みは、ない、ない。」といって、話すらできないことがあります。

 患者さん側からすれば、できるだけ、苦痛は取り除いてもらいたいと思って、入院で療養されているわけで…。

 正直に言って、何度も何度も「患者さんの苦痛を取り除けるよう、○○の指示をください。」とお願いしても、シカトに近い医師の態度を見ると、がっくり来る時があります。
 
 けれど、医師を責めるばかりでは、おそらく、前には進みません。
 その医師と患者さんのかかわりの回数を重ねていく中で、ひとつでも成果を見つけ、ひとつでもその医師の貢献を見つけ、病棟スタッフに、担当医に、フィードバックして、患者さんとのかかわりを続けないと、と思っています。


 それにしても。
 なんてストレスフル

 いつかは、聞き分けのない医師に、「ぶち!」っと、キレたろか!!!と思っているポンなのでした。