緩和ケアで行こう

へなちょこ緩和ケアナース?!のネガティブ傾向な日記です。

夜勤なしの生活

2008-05-31 09:00:15 | offの日

 夜勤をしなくなって、生活を強制的に?規則正しく送ることになりました。
 これまでは、夜勤入りや夜勤明けに「寝だめ」をしていたのですが、そんな時間がなくなりました。

 毎日、「日勤」というのは結構、きついなーと思っている看護師って多いと思います。
 私は、超・きついな、と思っている人なので、夜勤がない生活の最初はつらくて仕方なかった…。朝はとても苦手だし。
 そして、お休みも暦どおりになってしまうし、平日にお休みがないのはとても寂しいと嘆いても?おりましたー。

 おかげさんで、少しずつ馴れつつありまして、休日の日であっても、やたら滅多ら朝寝坊することは少なくなりました。総じて、睡眠時間が少なめになりました。
 
 これは体にとって、いいことなのだろうなー。
 
 それにしても、休日の、「目覚ましに頼らない目覚め」が許されるのって、とてもシアワセ☆
 

心の余裕

2008-05-17 22:22:01 | 日々の「ケア」

 この仕事をしていてつくづく思うのは、自分の心身のコンディションによって、ケアの内容が違ってくることがあるということです。
 そんなことは、どの仕事でも同じようにいえることかもしれません。

 が、しかし。
 終末期の患者さんとのいろんな場面での時間の共有は、二度と取り戻せないものです。「あの時、ああすればよかった、こうすればよかった。」という後悔の念を持たなくて済むように、できることはできる時にやりたいものです。

 そんなことはわかっているはずなのに。
 時に、自分の心身に余裕がなくなると、患者さんのケアにうまく結果がでているようであっても、そのプロセスは「雑」であったりします。
 また、思うように結果が出ないときには、疲労が増してしまうときがあります。

 疲労している時に限って、患者さんの要望に応えようと、その要望が理不尽なものであってもとにかく受け止めようと努力するのですが、「振り回されている」という感覚しか持てないことがあります。 
 普段から、スタッフには、「振り回されている」という状況は、現状をきちんと分析できていれば、それは「気持ちの揺れに寄り添う」ということなので、自分達のケアに自信を持ってください、と話しているくせに。
 

 うまくケアすることも必要。だけど、なかなか結果が見えないことも多い。自分の提供するケアは、患者さんを尊重しているつもりであっても、患者さんにとってはそうでないことが多々ある。患者さんのケアには、その人らしさを尊重しようとすると、「正解・不正解」というのは、はっきりいって、ないに等しいことが多いと思います。
 樹海に放り込まれたような感覚に悩まされることもしばしばですが、とにかく、続けること、そこそこの根気を持ち続けることがとても大切だと思います。

 いかに、自分の心身に休眠と肥やしをやれるか…。
 これ、私の課題です。
 


冷蔵庫のドアのスペース

2008-05-14 22:15:10 | 日々の「ケア」

 看護師が患者さんにケアを提供すること、つまり看護を実践することには、知識なしには十分ではありません。
 看護師は専門職といわれるのであれば、専門的知識を身につけておく必要があると思います。

 がん患者さんの痛みを和らげてあげたい!
 そう切実に思っても、ただ、医師が処方する鎮痛剤を患者さんに投与するだけでは患者さんの痛みを和らげることができないことがあります。
 
 どうして患者さんは痛みで苦しんでいるの?

 これを理解するにはたくさんの情報が必要です。
 
 がんの進行具合(=病状)はどうか?、その痛みはがんによるものだけなのか?、その患者さんの痛みに適した鎮痛剤はどのようなものなのか?、痛みを薬剤で和らげることが十分ではない理由は何か?、鎮痛剤以外に痛みを和らげる方法はないのか?
 などなど、体の痛みだけを考えてみても、看護師だからこそできることはたくさんあるはずです。

 痛みを例にあげましたが、患者さんのケアを行うということは、すべてが杓子定規に行えるわけではないのですが、「これは効果がある」というデータを知っておくということはとても大切だと思います。

 何より、まずは、人間の体の仕組みや機能、薬剤の効果や副作用など、ごく基本的な知識を身につけておく必要があります。

 さて。
 知識を提供するためには、勉強会なるものを開催すればいいのかもしれません。今、私は自分の所属する病院内で勉強会を開き、講師役も引き受けております。

 このような集合研修が、日々の業務の中にすぐに活かされているかどうかは疑問です。
 悶々モン、、、、とした結果、せめて緩和ケア病棟での知識の普及のためにと考えた方略があります。

 それは、緩和ケア病棟に入院している患者さんに必要なケアの中で、知っておいたほうがいい知識をピックアップして、その知識を小まめにスタッフに提供することです。

 そこで、思いついたのが、病棟の休憩室の冷蔵庫に貼り紙をすること!

 内容は必ずA4の一枚に留め、読みやすいようにレイアウトを配慮してっと…。入院中の患者さんのケアに役立つようなこと、またはトピックになりやすいテーマをチョイスして、必要な情報を記載して、冷蔵庫のドアに貼り付けるようにしました。

 これなら、休憩時間だけではなく、冷蔵庫をあけるたびに、ちゃんと読めなくても、インパクトのあるところだけでも目を通してもらえるかもしれない…(私の淡い期待)。

 誰が読んでくれているのだろう?
 そう思うこともあるのですが、今、その「貼り出し」は20回を超えました。
 楽しみにしているスタッフが存在するのかどうかもわかりません。

 この貼り紙は、私の「スタッフに少しでも知識を持ってもらいたい」という期待から始めたことです。
 こうしたインフォーマルな形での知識の提供であっても、ほんの少しでもいいから、日々の看護の充実につながればと思い、これからも続けていこうと思っています。

 塵も積もれば山となる!!!
 

看取り

2008-05-10 21:12:40 | 日々の「ケア」
 
 職業柄、看取りの経験をたくさんしてきました。
 
 患者さんが命を終える時の場面にたくさん遭遇してきたということです。

 目の前で息を引き取った父親を見て、ずっとずっとそばで介護を続けていたにもかかわらず、父親が「今」、亡くなったということが信じられず、「嘘ですよね?」と呟きながら呆然と立ち尽くしていた娘さん。
 介護をしている間には、気丈に振舞っていたけれども、妻が亡くなった瞬間に部屋で家族が涙を流す中、一人でそっと部屋の外に出て涙を流していたご主人さん。
 突然の呼吸困難が襲い、私の腕の中で息を引き取った患者さん。

 それはそれは、たくさんの場面が思い浮かびます。

 緩和ケア病棟で勤務する以前にも看取りの経験はありました。しかし、今ほどに看取りの場面を思い浮かべることができません。
 今思えば、おそらく、患者さんの死を、医療者からの視点でしかみることができていなかったのだと思います。

 死はやはり、忌み嫌われています。誰一人として避けることができないにもかかわらず。以前の私もおそらく、死は「縁起でもない」と思っていたと思います。いえ、深く考えることがなかったのだと思います。

 一般病棟であっても、患者さんの看取りに立ち会うことがあります。その昔、外科病棟で勤務していた頃、よく看取りに立ち会っていた先輩看護師が言ってました。
 「あー、お祓いにでもいかないと。」
 患者さんが亡くなると、死後の処置(患者さんの体をきれいにしたり、容姿を整えること)を行いますが、これに遭遇すると、「運が悪い」といったイメージがあったように思います。

 このイメージや考えは、緩和ケア病棟で勤務するようになってから、すっかり変化しました。
 むしろ、看取りの場面に立ち会えることに対して、患者さんやその家族に感謝したい気持ちでいっぱいです。

 入院された患者さんには「受け持ち看護師」といって、入院から退院まで継続してその患者さんのケアをスタッフの中心となって行う看護師がいます。
 私も何人かの患者さんの受け持ち看護師になりました。

 私は不思議と、受け持った患者さんのほぼ全員の看取りを行わせていただきました。
 患者さんが亡くなれば、スタッフから連絡をもらって病院にかけつけることができます。それは、自分の勤務時間内に看取りを行えるとは限らないからです。
 私は、自分の勤務時間内に看取った受け持ち患者さんが多いのです。
 看護師は交替勤務です。にもかかわらず、自分の勤務時間内に受け持ち患者さんを看取らせていただくことは、なにかしら、患者さんや家族との「つながり」というものを感じずにはいられません。
 ありがたくて仕方ありません。

 受け持った患者さん以外であっても、人の死というのは、人生においてこの上ない大イベントです。
 その人の死を再び経験できることはありません。

 たとえ、ケアさせていただいた時間が短いにしても、看取りの時というのはその患者さんのさまざまな物語を感じずにはいられません。
 人生の数パーセントであっても、その人の人生の物語に登場できることを感謝したくなるのは、こういった経験もあるからです。
 

 

悩んで、悩んで、悩んで

2008-05-06 20:15:06 | 
 
 最近の私はすこぶる最低で、これからの自分の進路のことを考えると考えがまとまらなくなって、どっすんと落ち込んでいる毎日です。

 有名人でもない私が、自分のことを綴ったところで、誰が興味を持つのだ~~?と思いつつ、自分のために、自分のこのブログに自分のことを綴ろうと思います。
 
 今日はお休みでしたが、何もしない一日でした。ごろごろしていた、という感じです。気持ちが低迷しているので、ごろごろしていても何だか落ち着きません。
 ここ最近は、私のネガティブ振りが真っ盛り!で、何をやってもうまくいっていない気持ちが振り払っても振り払ってもまとわりついているようです。

 自分の思うように進路を考えたいのだけど、今の自分に求められている役割を考えると、そう自由に決断を下せるわけではありません。
 心身ともにつらくなるくらい考え始めたのは、4月のはじめくらいからでした。ある病院の首脳にお会いしてから、気持ちの落ち込みが激しくなったと思います。
 その首脳はあるプロジェクトに参加されているほどのがん医療のスペシャリストです。しかし、その首脳の主張は、私にはどうしても受け入れることができませんでした。
 患者さんを目の前にして、私の目の前で主張されたことを、胸を張ってと話せますか?といいたくなるような内容でした。

 問題はその首脳ではありませんでした。その内容を聞いた自分の受け止め方でした。
 「今まで、私は何をやってきたのかな?」「私って、まだ全然、組織に通用するような実践能力(患者さんにケアを提供する力)を持っていないのでは?」と自分をネガティブに捉えることしかできませんでした。
 願わくば、そんなわけのわからないスペシャリストとなど、一緒に仕事をしたくないわ、と思ってしまうのが私です。

 でも、そんなことで、目の前にいる患者さんのケアは充分といえるのか?
 これが今の私の苦しみの理由です。
 
 幸い、今の病院では、がん医療の中心をなす人物が自分のよき理解者です。そして、自分に向いていると思われる緩和ケアの領域にどっぷりと漬かることが許されています。
 
 そこに胡坐をかいているだけではないのか?

 考えると苦しくなります。

 進路の選択の決断は誰かが下してくれるわけではありません。
 最後は自分です。私も、スペシャリストと呼ばれる人になったのだから。

 悩み始めて数ヶ月、まだ悩んでいます。
 自分のために書いたこの記事。未来のいつか、この文章を読んで、「こんな時もあったな」と目を細めて笑顔になれる日が来ることを願って…。

 後悔してもいいけれど、自分の選択が「間違っていた」としか捉えることのできない選択はしたくない、だから、まだちゃんと悩みたいと思います。
 

臭いに敏感

2008-05-01 22:20:23 | 患者さん

 患者さんの中には、とても臭いに敏感な方がいらっしゃいます。
 私たちが普段、「いい臭い」と思っているものでも、患者さんによっては、とても不快に感じることがあるようです。これは、病気による体調の変化も影響しているのでしょう。

 若かりし日の私…(もう、おばちゃんなんですー、とほほ。)。
 私は、大好きなローズのコロンを「匂わせて」仕事をしておりました。周りの医師や看護師からも「ポンさんっていいにおいがするねー」なーんて言われてましたので、ちょっと、いい気分☆でした。
 
 ある日、私はがんの終末期の患者さんから怒鳴られました。
 「あんたは臭いんや!もう来るな!!!!」

 とてもショックでした。
 でも、その患者さんに不快を与えながらケアをさせていただくことはできないので、翌日からコロンをつけるのをやめました。それでも、その患者さんは言いました。
 「まだ、臭い!臭いと言っているだろ!もう、来るな!」

 その日の私の臭いといえば、わきの下に「ふりかけた」制汗剤だけでした。普段、制汗剤が臭いなんて患者さんからお叱りを受けたこともなく、もう、臭いでその患者さんに不快を与えることはないだろうと思っていた私は再び、ショックを受けました。
 その患者さんは臭いに敏感になっていて、「私=不快な臭いを放つ看護師」となってしまい、不快な臭いの経験が、私をみるだけで不快さを想起させてしまったのではないかとも思われました。

 その患者さんのケアをさせていただいて以来、私はコロンをつけて仕事をすることを一切やめました。

 これって、当然のことのように思います。今、考えると、「どうして仕事をするのにコロンをつけなきゃなんないんだ?」ということをあの頃は全く考えていなかったのだと思います。

 ごく、最近も、臭いに敏感なので、医療者は気をつけていただきたいというご要望を持っていらっしゃる患者さんのケアをさせていただきました。
 そのために、この昔のエピソードを思い出してしまいました。

 ケアをさせていただきたいと思っているのに、臭いごときで患者さんに拒まれるのはとても切ない…。

 夕方になると、やや??汗臭さも混じることがあるかとは思いますがー、今は、「無臭」の私☆です。