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緩和ケアで行こう

へなちょこ緩和ケアナース?!のネガティブ傾向な日記です。

誰と働くか

2014-09-12 23:28:52 | 言葉

『どこで働くかじゃなくて、誰と働くかだよ』
ポンの友人

 




 悩んでいるポンの話を聴いて…、いいえ、ポンの話を聴く前から、私の友人はそんな風に言ってくれる。
 そして、「うちにおいでよ、一緒に働こうよ」といつも言っている。

 
 彼女の言葉を面倒だなと思ったことは一度もない。
 私と一緒に働こうと声をかけてくれる彼女の「どこで働くかじゃなくて、誰と働くかだよ」という言葉が今も気になっている。

 

 残念ながら、私は彼女がライフワーク?くらいに思っているフィールドにはあまり関心がない。
 彼女が専心しているフィールドは、緩和ケアとリンクしているのだけど…。
 残念ながら。
 やっぱり、彼女の活躍舞台であるフィールドに足を踏み入れようとは思えない。






 でも、ライフワークと思えるほどのものを持っている彼女には興味がある。


 気になっているというのは、そういうことなのです。




 
 確かに。
 誰と働くかということは結構大切だ。


 でも、多くの場合、「誰と働くか」は選べないことが多い。
 それは、ある施設内での活動を考えるからであって、もしも、自分の施設以外の施設を考えるなら、それは「誰と働くか」を選ぶということになるのかもしれない。
 いや、
 ひょっとしたら自分の施設内のことでも、選ぶことはできるのかもしれないけれど…。

 おそらく、病棟のスタッフとして働いているのであれば、それは難しい。



 
 まあ、
 いずれにしても、「誰と働くか」を決めるのは自分次第。
 施設内で動くのか、施設外で動くのかは関係なく、「自分が動かないと」何も変わらないということだね…。





 踏みとどまっているだけでは見えないことが。
 きっと、



 ある。




 




 

 

病棟の疲弊、負のスパイラル

2014-03-17 23:30:56 | 言葉

 『ホスピスを提供する部署はそれぞれ独自の流れを持っている。「特徴」とか「雰囲気」と呼ばれるものである。その部署に身を置くスタッフはその「流れ」がどうなっているかに気づくことはほとんどない・・・・・(略)その「流れ」はしずしずと患者・家族に押し寄せ、良きにしろ悪しきにしろ、その部署でのホスピスケアを決定事ケているからである。』
 
下稲葉康之氏


 
 福岡県にある栄光病院さんが機関誌を発行されております。
 その機関誌は栄光病院さん以外の施設にも配布されているようで、私はその機関誌を何度も目にしていました。


 そして、巻頭言を結構楽しみにするようになりました。
 巻頭言は下稲葉康之先生が書いておられます。



 この巻頭言の引用は第4巻、第2号(2010年)からの引用です。



 


 緩和ケア病棟で勤務していると、本当に、下稲葉先生がおっしゃるように、病棟の「流れ」を感じます。
 もちろん、その流れを作り出しているのは自分も含まれているとわかってはいつつも、まるで自分が少し、流れから距離を置いているかのように、流れを感じることが多々あります。
 
 そういった意味では、そこのスタッフが、その流れに気が付くことがほとんどない、というのはちょっと違うな、という気もしていますが…。





 今、その「流れ」を感じまくっています。





 私は、部署独自の流れというのは、その部署のチームワークではないかと思っています。
 チームワークを左右するものはたくさんあります。
 
 スタッフの能力とかスタッフ間の関係性とか…。
 それだけではなくて、患者さん・ご家族の状態にも大きく左右されます。




 
 
 正直に言うと、今、自分の部署の負のスパイラルをひしひしと感じています。
 
 
 スタッフがさまざまな病気で勤務ができなくなる。
 スタッフの病気が「ストレス」や「心の痛み」が大きく影響している。
 
 そんなスタッフがちらほら出てくると、「元気な」スタッフが「しんどいな」と思うスタッフの分、がんばらなくてはならなくなる。

 そうすると、「元気な」スタッフまでもがしんどくなる…。


 そんな時に限って、そばにいて根気よく話を聴いたり付き添ってあげたりしないといけない患者さん・家族さんが多くなり…。
 そして。



 「やってらんねーーーー。」となってしまう…。




 今、そんな状態の病棟。




 こんな状態が結構長く続いています。






 みんな、よく頑張っている。
 スタッフも頑張っている。


 だけど、患者さんやご家族からは、「もっと」「もっと」的なケアが必要とされ。
 いえ。
 患者さんやご家族からは「もっと」「もっと」的なケアを直接必要だと言われないにしても、どうみても、自分たちが「もっと」「もっと」がんばらなくてはならない状況が次々とやってきて…。




 そう、ここは緩和ケア病棟。
 だから、明日という時間や、今日という時間が二度とやってくることがないかもしれない場面を多く迎える場所…。




 でも、スタッフは疲弊している。




 こんな時のチーム力、つまり、部署が作り出す「流れ」が問われるんだ。


 とても申し訳ないものがあるし、やるせないものもある。








 いつも思う。
 



 スタッフがばたばたと倒れてしまう時。
 患者さんやご家族のケアのためにスタッフが疲弊してしてしまう時。



 チームの底力が問われる。
 真のチーム力が問われる。




 「流れ」はとても「負のスパイラル」に陥りやすい。




 おそらく、この「負のスパイラル」を断ち切るのはチームしかない。
 その部署だけの問題ではなく、病院全体の問題。
 チームとは病院全体のことなのだけどなぁ…。
 
 病院全体がぎくしゃくしているとこんなにもしんどいものなんだなぁ。
 (初めての経験じゃないのにねー)


 



 
 
 実のところ、自分が自分のことでめいいっぱいになっているのですが、そんなことを言っている暇もなく、とにかく、今の病棟が「何とかやっていける」ことに協力することに精いっぱいのポンなのであります。




 こんな状況だけど、何とか、「いい流れ」を作りたい…。
 自分にできることを考えようと思います…。

 



 「流れ」に飲み込まれてはいけない…。
 

 

関心と気遣いを寄せること

2013-05-13 23:54:33 | 言葉

「スキルの向上だけでは解決しない根本的な資質というものがあると思うのです。患者に対して関心と気遣いを寄せられるかということです。」
*池田優子*



 ああ。これ、これ。そうそう。
 この言葉に出会った時、本当にそう思った。




 医療者って、患者さんでありご家族である「人」に寄り添い、その人の人生とともに歩ませていただいているといってもいいと思います。


 いくら、文献に書いていることをうまく解釈できて人に説明できて、または「こう書いてあった」って記憶していても、その文章に含まれている「意味」理解して、自分なりに相手に合わせながらケアを提供できないとしたら、それは医療者としてあまりにもさみしすぎると思います。


 私は、どんなにたくさん知識があっても、どんなに素敵な理論を知っているとしても、ケアの根本に自分を含めて「その人らしい」ものがないものは本物じゃないと思っています。
 
 あ、知識や理論も大切ですよ。
 でもねー。




 
 人の人生に触れさせてもらって感じることは、案外ケアの中には、言葉にできないことも多いのではないでしょうか。
 そこんとこを無理に言葉にしようとすると、「その人らしさ」が消えてしまう。
 あまりにも言葉を駆使しすぎると、かえって違和感を感じたり、時には温もりのないものになってしまうのではないかとも思うのです。


 患者さんやご家族、さらにはチームのメンバーである医師や看護師と時間をともにし、その場面で一緒にいる(=業務以外でもね)ことで、言葉を超えて伝わってくることや自分が言葉にしなくても伝わっていることってあると思うんですよね。

 だから、看護も面白いのだと思います。




 
 ここんとこ、緩和ケア病棟であっても、緩和ケア病棟だからこそ、この「関心や気遣いを寄せること」についてスタッフに伝えるにはどうしたらいいのだろうっていつも悩みます。
 
 人の死を目の当りにする仕事ってとっても精神的には負担が大きいと思うけれど、人はみんな生きる力を持っていることを信じ、自分が経験したことの中に、必ずいろんな意味が含まれていることに気が付くと、救われるものではないでしょうか…。




 
 業務をこなすだけの仕事は、看護そして医療だけではなく、どの仕事だってつまらないと思います。
 

 「関心や気遣いを寄せること」は、まさに、患者さんやご家族が求めているものだと思います。




 

命について

2012-06-26 22:59:33 | 言葉

命の尊さ。

わかっているようで、
本当にわかっていないのかもしれない。

だって、
私たちは、また明日がくると思って生きているものね。


健康な者にはわからない、
患者さんの気持ちがある。

病気になった人にしかわからない気持ちがある。



「わからない」という距離は、
どのくらいなのだろう。





小さな行為の大きな意味

2012-02-17 23:12:33 | 言葉

「小さな行為の大きな意味」
*柳田邦男*


 柳田邦男さんの講演は2回ほど、聴かせていただいたことがあります。

 
 ざっと講演の感想を述べると(2回しか聴いていないのに、失礼なことですが)、内容が、似ているなぁ、ですかね。

 けれど、講演が終わった後、自分が書いたメモを眺め、考えてみると、それは内容が似ているといった単純なものではなく、柳田邦男さんの貫かれたメッセージではないかと思えてくる。


 

 一度目の講演を聴いたあと、鎌田實氏が書いた「雪とパイナップル」を読みました。
 (ぜひ、読んでみてください)

 小さな行為の大きな意味、の、「意味」がよくわかります。




 私は、小さな行為の喜び、感動をたくさん経験しています。

 先日も、そんなことを経験しました。
 その患者さんは、腹膜播種でイレウスになり、サンドスタチンで何とか持ちこたえている患者さんでした。イレウスにならないように食べ物を選んで食べていたのですが、いよいよ倦怠感が極まって、食べたいものを食べた方がいい時期になりました。
 何が食べたい?って尋ねたら、お刺身とおっしゃります。

 病院食を工夫するにも、生ものは難しい。


 ポンは思いました。
 今、食べないときっと、もう食べることができない、と。
 これは、数日後には鎮静になるだろうな、と。



 そこで、夜勤者に電話をして、出勤前に、すまんけど、刺身を買ってきておくれ、とお願いしました。
 夜勤者は快諾してくれました。



 その夜、患者さんは刺身を食べて、入院して以来、初めての心からの笑顔を見せたそうです(ご家族がそうおっしゃっていました。)
 ちなみに、喜びを演出してくれたのは、盛り合わせの中の、「トロ!!!」。





 小さな行為の大きな意味には、今を逃すまい、今しかないという医療者の感覚が込められていると、私は思います。
 私自身は、勝手にいいように考える(部分的にね)ところがありまして、自分が後悔したくないという思いと一致していると思ってしまいます。


 要は、自分が「今しかない」と思った時にはその感覚は間違いないと信じて、行動してしまうタイプだということです。



 仮に、そのタイミングではなかったとしたら、適当にあしらえばいいや…と思っておりまして。


 


 ここんとこ。
 柳田邦男氏がおっしゃるところに通ずるところがあるのではないでしょうか。
 ああ。言い過ぎでしょうか。





 人間に興味を持つこと。




 私は人に説法できるほど、人間に興味を持つことができているとは言い切れませんが、その時に感じる「今しかない」という気持ちにあらがうことができません。
 自尊心は人一倍低いですが、その時だけは自分の感覚を信じて行動してしまいます。
 少し、自分を持ち上げるなら、「自分を信じて行動できます。」

 時に、今の職場のスタッフには奇異に映るかもしれません。



 何たって、それが緩和ケアの醍醐味ではないかと私は、思います。



 2回目の柳田邦男氏の講演を聴いて、私は涙を流しました。

 

 本当に、大切なことですね。
 心から伝えたいことですね…。



 こんな思いで体中がいっぱいになりました。


 
 今、自分が置かれている環境で、私は伝えることを諦めないでやり続けようと思っています。
 
 

小さな死:喪失

2011-12-16 23:04:55 | 言葉

  あきらめるの語源は「明らかに極める」で、真実を極めて明らかにすることである。すわなち、やるだけのことをやったがダメだったのでしょうがないということである。「真実を明らかにしたら、執着心は薄れる」ということである。
 *柏木哲夫*


 おそらく、死ぬということ自体が、人にとってのあきらめなのかもしれません。
 これほど、人にとって残念なことはありませんから…。

 死ぬまでにも、たくさんのあきらめ、つまり自分からいろいろなものが奪われていく経験を積み重ねなくてはなりません。


 人の役に立つこと、人に「迷惑」をかけないこと…、人に認められること、人とつながっていること…、手に入れたいものを手に入れられること…。

 これらが失われることが、生きていても死んでいるような感覚を持たせるのだと思います。
 
 また、失ってしまったと思う「もの」や「程度」は人それぞれで、その人が失ってしまったという感覚は、他人がその程度を何かと比較することは何の意味もないものと思われます。









 さて。

 私たち、医療者は、そんなつらい思いをされている方々に、何ができるのでしょうか。

 
 ひとつ、思うのは、医療者だからといって、こうあらねばならない、こうしてあげるべきだ、という自分の価値観は「横においておく」ことも必要なのではないかと思います。
 
 看護師は、特に、何かをしてあげてるという感覚がないと、自分の役割を果たせていないのではないかと不安に思う人種です。



 
 何もなす術がない時もあること、看護師自身が、自分自身が、誰かに何かをして「あげられる」ことには限界があるということは認識しなくてはならないのではないかと思います。
 押しつけもよくないし、行き届かないのもよくない。


 「見守る」という言葉はありますが、苦しんでおられる方への「見守り」は緻密な匙加減が求められます。


 患者さんの様子や思いをくみ取ったなら、何もできないことになるかもしれないけど、何もできないと思われがちな「見守る」ことこそが、患者さんにできることということもあります。



 ひょっとしたら。
 執着心を持っているのは、もっと生きていたいと思っている患者さんよりも、「もっと生きてもらえるようなケアをしないといけない」と思っている私たちの方かもしれない…、と思う時がしばしばあります。

 
 
 患者さんにとって、息苦しいことが、私たちの価値観にあるのなら、それは考え直すべきことだと思います。
 自分たちの価値観が、患者さんを息苦しくさせてしまったとしても、それに気づいて方向転換を試みることができれば、それはそれで、「ケア」としての価値があると思います。
 医療者にとっても思い込みは、残念ながら、避けられないことかもしれません。
 

 でも、
 自分の考えや解釈は本当にこれでいいのだろうか…と、常に患者さんと対話する姿勢があるのなら、思い込みが避けられないとしても、思いこんだまま患者さんを苦しめるということは避けられると思います。





 患者さんと、話をしよう。
 患者さんの思いを理解できるように試みてみよう。



 それが医療職に求められていることだと思います。



 あ。
 ちょっと、柏木先生がおっしゃっていることと、ずれちゃいましたね。
 
 

怒っちゃだめっ

2011-11-13 20:37:44 | 言葉

 「目の前の出来事には何の意味もありません。怒るか怒らないかを決めるのはあなた自身です。その出来事に対して意味をつけているのは自分自身だからです。」 
 *嶋津良智*

 
 最近、イライラしていることがとても多くなっていると、自分でもよくわかります。
 怒りを通り越して、諦めかけているところもあります。

 このままではよくない…。そう思いつつも、『私にとっての』理不尽さが私を「つんつん」「ほれほれ」ってつついてくる。
 
 あかんな…。
 あかんな…。


 要は、考え方を変えれば、感情をコントロールできる、ということですが。

 修行が必要です。

 いえ。こうやって、あかんあかんと思いながらも、怒っている自分をよしとすることなく、怒っちゃだめだと自分に言い聞かせ、うまくいかなくてがっくりきて。
 また怒ってがっくりきて…。

 そのたびに振り返り、何とかイライラしないようにいい方法はないかな?ともがいてみて。
 みんなはどう考えるのだろう?と意見を聴いてみたり。
 意見を聴いてもやっぱり、自分は間違っていないっ、と鼻息が荒くなったり…。







 
 自分が変わるということは、自分の考えを曲げるということではなく、物事の見方が変わるということなのだろうなぁ。
 出来事が、自分次第でいろんなことを教えてくれているのに、それをキャッチし損ねてるなあ、私。



 

死ぬ時のうまい仕組み

2011-09-18 12:53:12 | 言葉

「誕生のメカニズムがこれほど巧妙にできているなら、死ぬ時もうまい仕組みがあらかじめプログラムされているのではないだろうか、いや、備わっているはずだと。」 
 対本宗訓

 多くの患者さんの看取りをしてきたけれど、死ぬ時のうまい仕組みってなんだろう?って思う。
 よくわからないなぁ。正直なところ。

 死がまさに近づいてくると、苦しさは感じないとは聞いたことがあるし、確かに、意識がなくなってくると、そうなのかもしれない。
 でも、それまでの道のりがとても険しいから…。

 私はまだ、死ぬ時のうまい仕組みと聞くと、うーん…、うーん…、って考えてしまう。
 

努力

2011-06-25 13:19:04 | 言葉

「努力できることが才能である」 
*松井秀喜*

 同じような言葉を身近な人からも聞きました。
 「僕はばかなんだよ。だから、どうやったらいいのかって必死に考えて、やっていくから、それを人に教えられるんだ。天才は、ぱぱっとやっちゃうからね、教えてもらっても、なんだか、わからないんだよ、すごすぎて。」
 と。

 ああ。
 努力ってねー。
 努力って、何らかの結果を迎えてからわかるものだよね…。
 少なくとも、結果の中で、少しでも、数パーセントでもいいから、「いい結果」を自分で実感できてこそ、「努力」って感じられるんだろね…。

 最近、息切れ中…。
 

常識

2011-05-28 05:56:19 | 言葉

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」
*アインシュタイン*

 人には常識があると考えると、その常識には「偏見」が含まれているって考えないといけないのかな…。
 18歳までか…。
 18歳以降も、偏見のコレクションは続く…。
 



欲まみれ

2011-05-15 22:33:45 | 言葉

 「ああなってほしい、こうなってほしいと願うのが人間であり、欲から逃れるのは簡単ではない。
 だがそこに苦しみの原因がある」
 *仏陀*

 ああ、今、自分が苦しいのは、「欲」のせいか…。
 納得できます。
 「欲」なしでは生きていけないから、望み過ぎないことが大切なんだね…。