ずっとずっと会いたかった、「マドンナ」に会ってきた。
いや、「ずっとずっと」なんて言うと、お前のような俄かファンがゴラ!って感じなのですが、気持ちとしてはそれくらいってことで、許してね。
今回は、そのことを書く前にちょっとした“告白”を――。
こんなところで、カッコつけたり、見栄を張ったり、知ったかぶりをしても、なんの意味もないので、はっきりと書いておきますが、私がマドンナに真剣に興味を持ったキッカケは、「あゆ」です。そう、「浜崎あゆみ」です。
そんなこと言ったら、「邪道」だと言われてしまうのかも知れないけど、「嘲笑」されてしまうのかも知れないけど、それが自分にとっては「本当のこと」なんだから仕方がない。好きなものに対して嘘はつきたくないし、自分に嘘はつけない。もっとも、マドンナはそんな小さな存在ではなかったけれど。
私にとってマドンナは、「有名なアーティストの一人」に過ぎなかった。何故だか女性アーティストはあまり聴かない傾向にあったし、好き嫌いとか興味の有る無しじゃなく、単純に縁がなかった。恥ずかしながら、ちゃんと認識している曲もなかった。ビョークと関わりがあったり、気になる存在ではあったけれど。
それが、まさか、「浜崎あゆみ」がキッカケで、「マドンナ」に興味を持つことになろうとは…。
私は、今でこそあゆのことを好きだと書いているが、最初は何となくあゆを嫌っていたのだ。いや、嫌っていたというより、避けていたという方が近いか。今にして思えば、油断していると入り込まれてしまいそうな何かがあゆにあったってことだと思っているが、自分が認めたくないものの象徴として、あゆがいたような気さえする。そこらへんのことについては、まだまだ書かなきゃとは思っているのだが(今までも何度か書いてきたが)、とにかく私は、あゆを好きになった。その気持ちは、大げさでなく、私の中の何かをすべて引っくり返してしまいそうになるような勢いだった。それからはもう、それに対抗するのに必死だよ(笑)。その軌跡がこのブログとも言えるのだけど(笑)、まぁ、言ってしまえば、あゆに「丸裸」にされちゃったってわけ。
でもこれは、音楽をより深く愛するチャンスを与えられたってことだと思ってる。だって、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるもの。いや、あゆを好きになる前だって、考えてたのかも知れないけど、あゆを好きになった今となっては、何だかどこか自分が「傍観者」でいたような気がしてくるから不思議だよ。だけど、何がどうとかうまく説明できないんだけど、あゆは私を「傍観者」でいさせてくれない。そして、それは、「ビートルズをリアルタイムで体験すること」と同じような気がしてきてしまうんだ。そう言う私を笑う人がいても構わない。ただ、私にとってこの胸のドキドキワクワクは、ビートルズさえも与えてくれなかったものであり、と同時に、ビートルズが与えてくれたものでもあるんだ。
自分の持ってる「知識」だとか「経験」とかでは歯が立たない「好き」に出会ってしまったってことかな。だから、その「好き」に対峙するために、「知識」や「経験」を磨かなくてはっていうか。さっきも書いたけど、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるよ。いかに自分が「無知」であるかを思い知らされたってことかな。それだけ自分にとってあゆが「未知の存在」だったってわけだ。まぁ、「知識」や「経験」も、「愛」がすべてのはじまりってことだね。逆に、愛なき知識、愛を忘れた経験ってのが、いざというときに、いかに役に立たないかってのが痛いくらいに分かったっていうか。
そうして、あゆを好きになっていくうちに、ぶち当たってしまった存在が「マドンナ」だったのでした。プロモや衣装などのビジュアル面での類似を取り上げられてたりするのが世間的には代表例だと思うのですが、そうでなくても、あゆがマドンナから多大に影響を受けているであろうことは、あゆの表現に触れていれば、自ずと、もう逃れようもない事実としてそこに存在しているのでした。
あゆが好きだと公言しているアーティストは、マドンナの他にもたくさんいますし、類似を取り上げられるアーティストも、マドンナだけではありません。だけれど、そういった数あるアーティストの中でも、「マドンナ」という存在が引っかかってしまったんです。マドンナとの類似を挙げられるのは、ビジュアル面でのことが多く、一見、表面的なことだけで言われているようにも見受けられます。しかし、表面的なことだけでは計り知れない影響が、あゆの中にあるように感じられたのです。あゆとの間に、他の多くのアーティストにはない、深い関連性が、マドンナにはあるような気がしたのです。あゆの本質を理解するためには、マドンナを避けては通れないというような…。
そこには、あゆを愛する者として、そして、音楽を愛する者として、目を背けてはならないような、いや、目を背けずにはいられないような「神秘」が潜んでいるような気がしたのです。
そうして私は、「マドンナ」に真剣に興味を持ちはじめました。
いや、「ずっとずっと」なんて言うと、お前のような俄かファンがゴラ!って感じなのですが、気持ちとしてはそれくらいってことで、許してね。
今回は、そのことを書く前にちょっとした“告白”を――。
こんなところで、カッコつけたり、見栄を張ったり、知ったかぶりをしても、なんの意味もないので、はっきりと書いておきますが、私がマドンナに真剣に興味を持ったキッカケは、「あゆ」です。そう、「浜崎あゆみ」です。
そんなこと言ったら、「邪道」だと言われてしまうのかも知れないけど、「嘲笑」されてしまうのかも知れないけど、それが自分にとっては「本当のこと」なんだから仕方がない。好きなものに対して嘘はつきたくないし、自分に嘘はつけない。もっとも、マドンナはそんな小さな存在ではなかったけれど。
私にとってマドンナは、「有名なアーティストの一人」に過ぎなかった。何故だか女性アーティストはあまり聴かない傾向にあったし、好き嫌いとか興味の有る無しじゃなく、単純に縁がなかった。恥ずかしながら、ちゃんと認識している曲もなかった。ビョークと関わりがあったり、気になる存在ではあったけれど。
それが、まさか、「浜崎あゆみ」がキッカケで、「マドンナ」に興味を持つことになろうとは…。
私は、今でこそあゆのことを好きだと書いているが、最初は何となくあゆを嫌っていたのだ。いや、嫌っていたというより、避けていたという方が近いか。今にして思えば、油断していると入り込まれてしまいそうな何かがあゆにあったってことだと思っているが、自分が認めたくないものの象徴として、あゆがいたような気さえする。そこらへんのことについては、まだまだ書かなきゃとは思っているのだが(今までも何度か書いてきたが)、とにかく私は、あゆを好きになった。その気持ちは、大げさでなく、私の中の何かをすべて引っくり返してしまいそうになるような勢いだった。それからはもう、それに対抗するのに必死だよ(笑)。その軌跡がこのブログとも言えるのだけど(笑)、まぁ、言ってしまえば、あゆに「丸裸」にされちゃったってわけ。
でもこれは、音楽をより深く愛するチャンスを与えられたってことだと思ってる。だって、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるもの。いや、あゆを好きになる前だって、考えてたのかも知れないけど、あゆを好きになった今となっては、何だかどこか自分が「傍観者」でいたような気がしてくるから不思議だよ。だけど、何がどうとかうまく説明できないんだけど、あゆは私を「傍観者」でいさせてくれない。そして、それは、「ビートルズをリアルタイムで体験すること」と同じような気がしてきてしまうんだ。そう言う私を笑う人がいても構わない。ただ、私にとってこの胸のドキドキワクワクは、ビートルズさえも与えてくれなかったものであり、と同時に、ビートルズが与えてくれたものでもあるんだ。
自分の持ってる「知識」だとか「経験」とかでは歯が立たない「好き」に出会ってしまったってことかな。だから、その「好き」に対峙するために、「知識」や「経験」を磨かなくてはっていうか。さっきも書いたけど、あゆを好きにならなければ、考えなかったこと、分からなかったことが一杯あるよ。いかに自分が「無知」であるかを思い知らされたってことかな。それだけ自分にとってあゆが「未知の存在」だったってわけだ。まぁ、「知識」や「経験」も、「愛」がすべてのはじまりってことだね。逆に、愛なき知識、愛を忘れた経験ってのが、いざというときに、いかに役に立たないかってのが痛いくらいに分かったっていうか。
そうして、あゆを好きになっていくうちに、ぶち当たってしまった存在が「マドンナ」だったのでした。プロモや衣装などのビジュアル面での類似を取り上げられてたりするのが世間的には代表例だと思うのですが、そうでなくても、あゆがマドンナから多大に影響を受けているであろうことは、あゆの表現に触れていれば、自ずと、もう逃れようもない事実としてそこに存在しているのでした。
あゆが好きだと公言しているアーティストは、マドンナの他にもたくさんいますし、類似を取り上げられるアーティストも、マドンナだけではありません。だけれど、そういった数あるアーティストの中でも、「マドンナ」という存在が引っかかってしまったんです。マドンナとの類似を挙げられるのは、ビジュアル面でのことが多く、一見、表面的なことだけで言われているようにも見受けられます。しかし、表面的なことだけでは計り知れない影響が、あゆの中にあるように感じられたのです。あゆとの間に、他の多くのアーティストにはない、深い関連性が、マドンナにはあるような気がしたのです。あゆの本質を理解するためには、マドンナを避けては通れないというような…。
そこには、あゆを愛する者として、そして、音楽を愛する者として、目を背けてはならないような、いや、目を背けずにはいられないような「神秘」が潜んでいるような気がしたのです。
そうして私は、「マドンナ」に真剣に興味を持ちはじめました。
かわいこちゃん、ええこと書くなぁ。君は、可愛い。
ぼかぁ、最近、とってもとっても「素晴らしいこと」
があったんだ。「此の世界は美しい」って、本気で思
えた。
誰かを好きになって、其の想いを伝えたくって、色ん
なことをやってたら、其れが届いたんだ。
だから、君の想いも、きっと、彼女に届く。そして、
みんなにも届く。だって、ぼくらには「愛」が在る
じゃないか。
でさ、本当に不思議なんだ。「好き」って気持ちに
は、終わりは無いんだね。無限大なんだね。あたし
は、彼女に認められて号泣しちゃったけど、もっと
もっと、好きになってしまったんだ。「もうええや」
なんて到底思えない。
想い続けよう。其れは、届く。
あたしが実証したよ。でも、もっとだ。もっともっ
と、愛さなきゃいけない。「愛こそはすべて」だ。
(念の為、云っとくけど、「大塚ぢゃないよ。」ケケ
ケケ)
その「素晴らしいこと」、読ませてもらってるよ~!
なんて言葉をかけたら良いか分からなくて、いや、なんか、言葉をかけるのがもったいなくて、読んでるのみだったんだけど、そして結局、こんな言葉しか言えなくてアレなんだけど、
「良かったね!!!」
そして、ありがとう。
栗ちゃんに出会わなければ、こういうことも書けてなかったと思うよ。
うん。大塚でも、飯島でも、福原でも、アルファベットのでもなく、「愛」だよね。
(うちの母、大塚○の曲聴いて、「aiko?」だって。。。なかなかやるなぁ……苦笑)
なんだか、栗ちゃんとは、同じ景色を見て、同じことを書いてるような気が勝手にしてきちゃうよ。
いつの日か、栗ちゃんの見てる景色と私の見てる景色が本当に重なったときには(お互いのアイドルが何らかの形で共演?コラボ?するときがきたなら)、それはとても、素敵なことだよねぇ~。
うちらにしか分からない“夢の共演”? そのときには一緒にその感動を味わおうね!
(って、私が勝手に言ってるだけだけど)
っと、ついつい突っ走りすぎちゃったよ~。
そうだな、今回は、私のアイドルがいつも最後に書く台詞で締めちゃおうっと。
愛ある日々を×××