そういうわけで、2006年9月21日、東京ドームで「マドンナ」に会ってきました!
「あゆ」がキッカケでマドンナに興味を持ったと書きましたが、最新アルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』をはじめ、過去のアルバムも聴いていくうちに、自然とマドンナの音楽に惹かれていきました。特に最新アルバム『コンフェッションズ~』は、あゆのカウントダウンライヴでもミスアンツアーでも開演前の音楽として流されていたので、私にとっては特別な作品となるのでしょう。あゆのライヴ会場でマドンナが聴こえてきたときの、あの胸が打ち震えるような、何だかよく分からない感情は、今でも忘れることができません。この事実だけでも、あゆの心意気というか志というか、そういうものを雄弁に物語っている、とても象徴的な出来事だったのだと思います。
そして、いざ、マドンナ登場!
ビシビシと伝わってくるスケールのデカさに圧倒されつつ、息を飲むように見守っていたのですが、それはすぐに打ち破られました。マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」を歌いだしたときのことです。私なんか、最近聴きだしたばっかで、この曲の存在は知ってはいたものの、発売された当時(1984年)から聴いてきたわけじゃないし、この曲に特別な思い入れがあったわけじゃないんですよ。なのに、マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」を歌いだしたとき、この曲が持ってる底力とか背負ってる何かがグワッて押し寄せてきて、急に、「マドンナが目の前で歌ってること」が実感として込み上げてくるようで、その「凄さ」が、マドンナの歴史の重みなどまだまだ理解していないであろう私にまで伝わってきて、胸一杯な感覚に陥ってしまったんです。それで私、なんか、トンじゃったみたいなんですよね。
しかし、それだけでは終わらなかった。マドンナは、私に「安心感」を与えてはくれなかった。そんな風に、序盤の「ライク・ア・ヴァージン」で“大物感”を感じさせたにも関わらず、それを振り払っていくかのように、まるで“新人”であるかのような「フレッシュさ」を撒き散らしながら、ステージは進んでいくのでした。
それからはもう、まさに“めくるめく”って感じでした。
「ライク・ア・ヴァージン」で感じたような、キャリアに裏づけされた重みや深みと、最新アルバムの曲を中心とした、あくまで“攻め”の姿勢を見せ続ける現役感が、私の心を一箇所には留めてくれません。「これがマドンナなんだぁ!」っていう感動と「これがマドンナなのか?」っていう感覚が交互に襲ってくるような。それが良いことなのか悪いことなのかということでは最早なく、ただただ釘付けになるばかりでした。なんていうか、どこか“未完成”ですら、あるんです。だから、ある意味“完成されたマドンナ”を体験したかった人には、ちょっと違うものに映ったのかも知れません。しかし私は、これが「ロックンロール」なのかも知れないって思いました。「ロック」ではなく、「ロックンロール」。そう、「ロック」が「ロール」していたんですよ。たぶんね(笑)。
そして、更に私の心を奪ったのは、どこか“舐めてる”ようですら、あるんです。例えば、よく言われているように「レオタード姿」とか「セクシー」とか「エロかっこいい」とか、そういうことばかりが取り沙汰されるけど、マドンナの表現にはもっと「メッセージ性」や「精神性」がある!ということがよく分かったし、伝わってもきたのだけど、伝わってきたそばから覆されるというか…。「エンタテインメント性」と「メッセージ性」を分けて考えているようじゃ、私もまだまだだって思いました。いや、これまでも分けてるつもりはなかったんですけど、なんかね、まだまだだって思いました。「エロかっこいい」ってことばっか語ってるのも、それに対して「それだけじゃない」って語ってるのも、どっちも野暮だなぁって思っちゃいましたもん。生意気ながらもね(笑)。ほら、「冗談」なのか「本気」なのか分からないカッコ良さってあるでしょ。マドンナにとっては、「エロかっこいい」ってことですら「メッセージ」だし、「メッセージ」ですら「エロかっこいい」んだぁって、自分で書いてても何だかよく分からないけど、思っちゃいましたもん。
あ~あ。あの曲もあの曲もあの曲も、ぜ~んぶカッコ良かったなぁ。「アイザック」の、スピリチュアルな歌から、ダンス・ミュージックに切り替わっていく瞬間なんてゾクゾクって感じだし(あれがダンス・ミュージックに昇華されていく瞬間に、“神よりも有名になっていく”マドンナを見た!笑)、カッチョ良すぎる「ライク・イット・オア・ノット」も聴けたし、「アイ・ラヴ・ニューヨーク」の映像は可愛かったし、「レイ・オブ・ライト」では何だかよく分からないことになってたし、「ミュージック」はカッコ良すぎだし、「ラ・イスラ・ボニータ」は楽しすぎだし、「ラッキー・スター」から「ハング・アップ」に繋げて大団円!って、も~、今書きながら興奮してきちゃったよ。あ~、もう一回、観たかったなぁ。また会いたいなーっ!!! マドンナーッ!!!
なんか、ツラツラと書いてきましたが、もうね、「カッコ良い」とか、そういう言葉しか浮かんで来ないんですよ。マドンナ、カッコ良かったです。
……と、ここで終わるわけにはいかないんです!
今回、ライヴの最後に映し出されたメッセージがありました。
「Have you confessed?」
そう、私には書かなければならない“告白”があるのです。そこで書いたように、私が「マドンナ」に興味を持ったキッカケは「あゆ」です。あゆとマドンナの間に、表面的なことだけでは計り切れない繋がりを感じた…と書きましたが、今回はそれを確かめたいという動機もあったわけです。
今回のライヴで披露された楽曲には、最新アルバムの曲が中心ではあるけど、色々な時代の曲がありました。それは、マドンナの歴史の中のほんの一部にしか過ぎなかったけれど、それでも、彼女が「常に挑戦し、変化し続けてきた」ということが十二分に伝わってきました。どの曲にも、「そのときにしか生み出せなかったであろう魔法」が宿っているのを感じたのです。そしてまた、その中に「変わらずに貫かれている一貫性」をも感じ取ることができました。つまり、「そのときにしか生まれなかった音楽」でありながら、「今を生き抜く音楽」として鳴らされていたのです。これは、「変化しながらも、変わらない何かを追い求めてきた」人にしか成し得ないライヴだと思いました。
そして、さっきも書いた、「エンタテインメント性」と「メッセージ性/精神性」の同居。
そしてそして、一歩間違うとダサダサになってしまうような、ベタベタすぎることをカッコ良くキメてしまうところ。(「ベタなものほど、キメるのは難しい」って、私ココでも、「my name's WOMEN」のプロモのことを書くときに、書いてましたね)
そしてそしてそして、これが一番大事なことだと思うのですが、私がライヴを観て強く感じたのは、誰が何と言おうと、「これはマドンナにしかできないことだ!」ということです。
もちろん、マドンナに比べて、あゆにはまだまだ危うく未熟なところがあると思いますし、実際、マドンナのライヴを観てそれを実感したってところもあります(ちなみに、マドンナとあゆの年齢差20)。ですが、私が感じた、マドンナとあゆの間にある、表面的ではなく深い部分での関連性っていうのは、こういうところにあったんだと思いました。(ただ、マドンナから影響を受けていない女性アーティストなんているのかなって思っちゃいましたけどね。直接的には受けてなくても、辿っていけば必ずマドンナには行き着いちゃうんじゃないかって。それくらい大きな存在だと感じました。だから、ある意味、マドンナとダイレクトに関連性を感じさせるあゆは凄いのかもなって思いました)
変化し続けながら、変わらない何かを追求している。
エンタテインメント性とメッセージ性/精神性の同居(冗談と本気の同居)。
ベタなことをカッコ良くキメて成立させてしまう(客観性やチャーミングさがあるってことかな)。
その人にしかできない表現をしている。
プロモや衣装や演出といったビジュアル面でも影響は受けているでしょうが、何よりもこういった根本的な部分を、あゆはマドンナから受け継いでいるのではないでしょうか。私がマドンナに引っかかった理由が分かった気がしました。マドンナとあゆの「類似」には、「ちゃんとした理由」があったのです。
まだまだマドンナについては知らないことだらけの私がエラそうなことは言えないのですが、より多くのあゆファンがマドンナの表現に触れてみれば良いのになって思いました。
……と、これだけでは終わらなかったのです!
マドンナもあゆも、そう簡単にすんなりと私を納得させてはくれませんでした。まだまだ解き明かさなければならない「謎」を私にくれたのです。それはまた別の機会にでも。タイム・ゴーズ・バイ・ソー・スローリー♪
「謎」が気になってくれた方は → 「流行歌手で悪いかぁ!」
「あゆ」がキッカケでマドンナに興味を持ったと書きましたが、最新アルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』をはじめ、過去のアルバムも聴いていくうちに、自然とマドンナの音楽に惹かれていきました。特に最新アルバム『コンフェッションズ~』は、あゆのカウントダウンライヴでもミスアンツアーでも開演前の音楽として流されていたので、私にとっては特別な作品となるのでしょう。あゆのライヴ会場でマドンナが聴こえてきたときの、あの胸が打ち震えるような、何だかよく分からない感情は、今でも忘れることができません。この事実だけでも、あゆの心意気というか志というか、そういうものを雄弁に物語っている、とても象徴的な出来事だったのだと思います。
そして、いざ、マドンナ登場!
ビシビシと伝わってくるスケールのデカさに圧倒されつつ、息を飲むように見守っていたのですが、それはすぐに打ち破られました。マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」を歌いだしたときのことです。私なんか、最近聴きだしたばっかで、この曲の存在は知ってはいたものの、発売された当時(1984年)から聴いてきたわけじゃないし、この曲に特別な思い入れがあったわけじゃないんですよ。なのに、マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」を歌いだしたとき、この曲が持ってる底力とか背負ってる何かがグワッて押し寄せてきて、急に、「マドンナが目の前で歌ってること」が実感として込み上げてくるようで、その「凄さ」が、マドンナの歴史の重みなどまだまだ理解していないであろう私にまで伝わってきて、胸一杯な感覚に陥ってしまったんです。それで私、なんか、トンじゃったみたいなんですよね。
しかし、それだけでは終わらなかった。マドンナは、私に「安心感」を与えてはくれなかった。そんな風に、序盤の「ライク・ア・ヴァージン」で“大物感”を感じさせたにも関わらず、それを振り払っていくかのように、まるで“新人”であるかのような「フレッシュさ」を撒き散らしながら、ステージは進んでいくのでした。
それからはもう、まさに“めくるめく”って感じでした。
「ライク・ア・ヴァージン」で感じたような、キャリアに裏づけされた重みや深みと、最新アルバムの曲を中心とした、あくまで“攻め”の姿勢を見せ続ける現役感が、私の心を一箇所には留めてくれません。「これがマドンナなんだぁ!」っていう感動と「これがマドンナなのか?」っていう感覚が交互に襲ってくるような。それが良いことなのか悪いことなのかということでは最早なく、ただただ釘付けになるばかりでした。なんていうか、どこか“未完成”ですら、あるんです。だから、ある意味“完成されたマドンナ”を体験したかった人には、ちょっと違うものに映ったのかも知れません。しかし私は、これが「ロックンロール」なのかも知れないって思いました。「ロック」ではなく、「ロックンロール」。そう、「ロック」が「ロール」していたんですよ。たぶんね(笑)。
そして、更に私の心を奪ったのは、どこか“舐めてる”ようですら、あるんです。例えば、よく言われているように「レオタード姿」とか「セクシー」とか「エロかっこいい」とか、そういうことばかりが取り沙汰されるけど、マドンナの表現にはもっと「メッセージ性」や「精神性」がある!ということがよく分かったし、伝わってもきたのだけど、伝わってきたそばから覆されるというか…。「エンタテインメント性」と「メッセージ性」を分けて考えているようじゃ、私もまだまだだって思いました。いや、これまでも分けてるつもりはなかったんですけど、なんかね、まだまだだって思いました。「エロかっこいい」ってことばっか語ってるのも、それに対して「それだけじゃない」って語ってるのも、どっちも野暮だなぁって思っちゃいましたもん。生意気ながらもね(笑)。ほら、「冗談」なのか「本気」なのか分からないカッコ良さってあるでしょ。マドンナにとっては、「エロかっこいい」ってことですら「メッセージ」だし、「メッセージ」ですら「エロかっこいい」んだぁって、自分で書いてても何だかよく分からないけど、思っちゃいましたもん。
あ~あ。あの曲もあの曲もあの曲も、ぜ~んぶカッコ良かったなぁ。「アイザック」の、スピリチュアルな歌から、ダンス・ミュージックに切り替わっていく瞬間なんてゾクゾクって感じだし(あれがダンス・ミュージックに昇華されていく瞬間に、“神よりも有名になっていく”マドンナを見た!笑)、カッチョ良すぎる「ライク・イット・オア・ノット」も聴けたし、「アイ・ラヴ・ニューヨーク」の映像は可愛かったし、「レイ・オブ・ライト」では何だかよく分からないことになってたし、「ミュージック」はカッコ良すぎだし、「ラ・イスラ・ボニータ」は楽しすぎだし、「ラッキー・スター」から「ハング・アップ」に繋げて大団円!って、も~、今書きながら興奮してきちゃったよ。あ~、もう一回、観たかったなぁ。また会いたいなーっ!!! マドンナーッ!!!
なんか、ツラツラと書いてきましたが、もうね、「カッコ良い」とか、そういう言葉しか浮かんで来ないんですよ。マドンナ、カッコ良かったです。
……と、ここで終わるわけにはいかないんです!
今回、ライヴの最後に映し出されたメッセージがありました。
「Have you confessed?」
そう、私には書かなければならない“告白”があるのです。そこで書いたように、私が「マドンナ」に興味を持ったキッカケは「あゆ」です。あゆとマドンナの間に、表面的なことだけでは計り切れない繋がりを感じた…と書きましたが、今回はそれを確かめたいという動機もあったわけです。
今回のライヴで披露された楽曲には、最新アルバムの曲が中心ではあるけど、色々な時代の曲がありました。それは、マドンナの歴史の中のほんの一部にしか過ぎなかったけれど、それでも、彼女が「常に挑戦し、変化し続けてきた」ということが十二分に伝わってきました。どの曲にも、「そのときにしか生み出せなかったであろう魔法」が宿っているのを感じたのです。そしてまた、その中に「変わらずに貫かれている一貫性」をも感じ取ることができました。つまり、「そのときにしか生まれなかった音楽」でありながら、「今を生き抜く音楽」として鳴らされていたのです。これは、「変化しながらも、変わらない何かを追い求めてきた」人にしか成し得ないライヴだと思いました。
そして、さっきも書いた、「エンタテインメント性」と「メッセージ性/精神性」の同居。
そしてそして、一歩間違うとダサダサになってしまうような、ベタベタすぎることをカッコ良くキメてしまうところ。(「ベタなものほど、キメるのは難しい」って、私ココでも、「my name's WOMEN」のプロモのことを書くときに、書いてましたね)
そしてそしてそして、これが一番大事なことだと思うのですが、私がライヴを観て強く感じたのは、誰が何と言おうと、「これはマドンナにしかできないことだ!」ということです。
もちろん、マドンナに比べて、あゆにはまだまだ危うく未熟なところがあると思いますし、実際、マドンナのライヴを観てそれを実感したってところもあります(ちなみに、マドンナとあゆの年齢差20)。ですが、私が感じた、マドンナとあゆの間にある、表面的ではなく深い部分での関連性っていうのは、こういうところにあったんだと思いました。(ただ、マドンナから影響を受けていない女性アーティストなんているのかなって思っちゃいましたけどね。直接的には受けてなくても、辿っていけば必ずマドンナには行き着いちゃうんじゃないかって。それくらい大きな存在だと感じました。だから、ある意味、マドンナとダイレクトに関連性を感じさせるあゆは凄いのかもなって思いました)
変化し続けながら、変わらない何かを追求している。
エンタテインメント性とメッセージ性/精神性の同居(冗談と本気の同居)。
ベタなことをカッコ良くキメて成立させてしまう(客観性やチャーミングさがあるってことかな)。
その人にしかできない表現をしている。
プロモや衣装や演出といったビジュアル面でも影響は受けているでしょうが、何よりもこういった根本的な部分を、あゆはマドンナから受け継いでいるのではないでしょうか。私がマドンナに引っかかった理由が分かった気がしました。マドンナとあゆの「類似」には、「ちゃんとした理由」があったのです。
まだまだマドンナについては知らないことだらけの私がエラそうなことは言えないのですが、より多くのあゆファンがマドンナの表現に触れてみれば良いのになって思いました。
……と、これだけでは終わらなかったのです!
マドンナもあゆも、そう簡単にすんなりと私を納得させてはくれませんでした。まだまだ解き明かさなければならない「謎」を私にくれたのです。それはまた別の機会にでも。タイム・ゴーズ・バイ・ソー・スローリー♪
「謎」が気になってくれた方は → 「流行歌手で悪いかぁ!」