goo blog サービス終了のお知らせ 

sky is blue

言わなければよかったのに日記

流行歌手で悪いかぁ!

2006-09-22 18:55:59 | AYU
「上から物を言うのが文学なら、我輩は文学者ではない。流行作家で十分だ」
(TBS『我輩は主婦である』より)

さてさて、、、

マドンナの作品をいくつか聴いて、幸運にも13年ぶりの来日公演があってライヴを観て、あゆがマドンナから大いに影響を受けていることがよく分かった。うん。確かによく分かった。けど、それと同じくらいに、いや、もしかしたらそれ以上に、こうも感じてしまった。

マドンナとあゆ、全然違うじゃん!!

「MADONNA Confessions Tour」でも書いた通り、あゆがマドンナから影響を受けてることは紛れもない事実だろうと、それはライヴを観てより確信に変わったのだけど、同時に、全然違うじゃん!とも思った。「なるほど似てるな」とも思ったし、「いや全然違うな」とも思った。それが私を混乱させた。マドンナのライヴを観たらあゆのことがもっともっと分かるかと思ったら、ますます分からなくなってしまったという感じ。

あゆがマドンナから影響を受けていることは分かったが、では、何故、何がどうなって、あゆの表現がああいう風になっているのかが分からない――。

やっぱりあゆはマドンナが好きなんだな!こういう風になりたいんだな!ってだけ思えたら、それで楽だったのかも知れない。それ以上考えないで済んだのかも知れない。しかし、あゆはそれで終わりにはさせてくれなかった。もちろん、違う人なのだから違って当たり前だし、マドンナと比べなくたって良いわけだが、私の、その、喉の奥に引っかかってしまったような「違和感」は、考えずにはいられない「謎」として、どうしても無視することができなくなってしまった。そして、ようやく、やっとこさ、こんな考えが浮かんできた。

この「違和感」こそが、あゆの凄さだったりして!?

むしろ、倖田來未や安室奈美恵なんかの方が、分かりやすいのではないか?と思ってしまった。いや、安室ちゃんはマドンナよりもジャネット・ジャクソンだとか、倖田來未は……とか色々あるかも知れないが、ここで言いたいのはそういうことではなく、例に挙げるのはYUKIとか他の人だって良いのだけれど、影響の受け方というか出し方というか。例えば、倖田來未とかは、解釈の仕方や理解度はともかく(はい、エラそうなこと言ってます…笑)、マドンナとか好きなんだろうなっていうのが何となく分かるというか。マドンナ・チルドレンとして、捉えやすいというか。

しかし、あゆの場合、「マドンナからの影響」を確かに感じさせながらも、それが、マドンナから影響を受けてこうなったとは俄かには思えないような「何だかよく分からない形」になっているような気がする。それでいて、前述したどのアーティストよりも、感じさせる「マドンナからの影響」が根深い。つまり、より深くマドンナから影響を受けていながら、マドンナからより遠い表現をしているといった印象なのだ。マドンナだけで考えなくても良い。マドンナのライヴを観て違和感を感じた私は、マドンナよりもスマパンとか、そういう方にあゆは近いんじゃないか?とも考えたりしたが、それでも結局、同じことだった。「スマパンからの影響」を感じさせながらも、それが、「何だかよく分からない形」になっている。

結局、マドンナ(やスマパン)からの影響は、あゆの中の一要素にしか過ぎなかったということなのだろう。だから、「マドンナからの影響」だけで語り切れるわけがない。世の中たくさんの音楽があるのだからそんなの当たり前だと思うかも知れないが、果たしてそうだろうか。

これは、私が、あゆについてはある程度詳しいからなのかも知れないとも思った。先ほど例に挙げた倖田來未などは、よく知らないから、マドンナ・チルドレンの一言だけで片付けられてしまうのだと。それもあるとは思う。しかし、それだけで説明できてしまうなら、私のこの「混乱」は何だったんだ?という感じだ。それほど、私が感じた「違和感」は強烈だった。そしてまた、私にとって、そういう「何だかよく分からない形」であるとか「強烈な違和感」とかいったものを感じさせるアーティストは、非常に少ないことに気付いた。そしてそこに、どうしようもなく惹かれている自分がいることにも。

私は、この「違和感」を表現する言葉を探していた。そのとき、たまたま読んでいた小林信彦の『日本人は笑わない』で、「美空ひばり」について書かれていた文章に出会った。そこに、古川ロッパが、初めて見た美空ひばりの印象を次のようにしるしたとあった。

「美空ひばりといふ笠置(シヅ子)の真似して歌ふ十二歳の少女、まことに鮮やかであり、気味わるし。」

この文章に、特に、「まことに鮮やかであり、気味わるし」って表現に、今の自分があゆに対して抱いている感情をズバッと言い当てられたような気がして、そこからは一気に読んでしまった。

古川ロッパが「気味わるし」と感じたものは、ここでは、「とっくに否定されたはずの<古い日本>であり、<湿った感情>だった」とされている。

小林氏は、美空ひばりのことを「外来のリズムを強引に自分の世界に結びつけてきた歌手」とし、「とにかく形容しがたい和洋折衷」であり、「美空ひばりのオリジナリティは、こういう<えたいの知れぬ和洋折衷ぶり>にある」としていた。「ジャズが流行すれば『A列車で行こう』をうたい、ロカビリー・ブームとなれば『ロカビリー剣法』をうたった美空ひばり」とし、あくまで「流行歌手」として捉えている。<えたいの知れないアナーキーな和洋折衷>があくまで華やかに明るくうたい上げられているのを見て、「どうして<演歌の女王>なんだ?」と疑問を投げかけている。「もし美空ひばりが<日本的>であろうとするならば、こうした和洋折衷のごった煮でありつづけるしかない。一見、非日本的に見えるけれども、日本語と原語でうたわれたあの「シェリト・リンド」こそ、<今の日本>そのものじゃないか……」。

いやはや、引用ばかりしてしまって申し訳ない&お恥ずかしい限りですが、こんな文章、自分では書けそうにないので許して下さい。

そう、私は、これらの表現にイチイチ「これだ!」と興奮してしまったのです。もちろん、「美空ひばり」と「浜崎あゆみ」では、時代も違いますし、「美空ひばり」について詳しくない私が言えることではないってのも分かっていますし、あの「美空ひばり」を引き合いに出すなんて恐れ多いっていうか身の程知らずってことも分かっています。ですが、そんなこと言ってももう遅いじゃないですか? だって私は、今までだって、あゆのことを書くときに、さんざん、「ビートルズ」やら「クイーン」やら「マドンナ」やらの名前を出してるんですからね! そういう名前を出さなければ語れないところまで「浜崎あゆみ」はきてるんですよ!(はい、調子に乗った…笑)

とにかく、これらの文章と私が感じた「違和感」というのが、私の中でどんどん繋がっていってしまったんです。そして私は、以前にもこういった感覚を私に与えたアーティストがいたことを思い出しました。「椎名林檎」です。

次回へつづく。