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sky is blue

言わなければよかったのに日記

洋楽も邦楽も知らない

2005-09-06 17:30:42 | 音楽コラム
以前、ネットを見ていたら、こんな書き込みを見つけた。

浜崎あゆみを好きな人が椎名林檎を好きになることはあっても、
椎名林檎を好きな人が浜崎あゆみを好きになることはありえない。

え? 私その“ありえない”人なんですけど…。

まぁ、話の流れから、言わんとしてることは、何となく分かった。と、ここでは一応、分かったふりをしておこう。おそらくその人は、「浜崎あゆみより椎名林檎の方が優れている」と言いたいんでしょう。だから、椎名林檎を好きな人が、それより劣っている浜崎あゆみを好きになることはありえないと。だから、私みたいな人は、まったくもって“ありえない”人であり、まるで音楽を分かってない、幼稚な耳の持ち主だと。

あのね、そんなこと、あなたに言われる前から、とっくのとうに気付いてますから。なんかね、順番が逆なんだよね。L⇔Rの影響で洋楽を聴くようになって、一時はほとんど洋楽しか聴いていなかった。ビートルズ、バーズ、ビーチ・ボーイズ、ホリーズなどの60'sロック、クイーン、XTC、ポリス……。それからブリットポップ。それが結構続いて、そのあと、エレカシや椎名林檎と出会い、一気に邦楽を聴くようになった。で、なんやかんやで、あゆを好きになったと。

逆だよなぁ~って、自分でも思いますよ。まずは身近な邦楽、しかもチャートを賑わしているような、それこそあゆとか、そういう音楽から好きになって、で、TVとかにはあまり出ないようなマイナーなアーティストを開拓していって。そのうち洋楽とか聴きはじめて、それも最初はリアルタイムのやつだったんだけど、そこから昔のやつを遡って聴いていって――。どこで聞いたか知らないけれど、そういう流れってよく聞くじゃないですか? それで言うと、私はまったく(と言うほどでもないが)の逆! 自分でも、何じゃこりゃって思いますよ、そりゃ。

だから、「幼稚化してってるんじゃないか?」なんて思ったりするわけです(「想いが言葉に変わるまで」参照)。しかし、最近になってこう思いはじめたのです。もしかしてこれは、より身の丈であろうとしている表れなのではないか。もしくは、音楽を通して、自分自身のルーツを探ろうとしているのではないか。

あなたは洋楽派と邦楽派、どちらですか? 私は、こんな聴き方をしてきてしまったせいか、自分がどちら派なのか未だによく分かりません。それは一体どういうことなのか。

日本の「ザ・イエロー・モンキー(イエモン)」というバンドについて書かれた、大変興味深い文章があった。それによると、“イエロー・モンキー”というのは古いスラングで、欧米人が日本人を侮蔑する言葉として使っていた、言わば差別用語であると。吉井和哉は、それを承知の上でバンド名にしたと。その文章によると、こうだ。

ロックに限らず、物心ついたときには当たり前にコーラもマクドナルドもセブンイレブンもデニーズもディズニーランドもスピルバーグ映画もタワーレコードもあった世代に、それらには「外来文化の侵略」「武力を行使しない植民地化」って側面もあるのだ、とかいっても、ピンとこないのは当然のことだ。が、それまでそんなものはなかった、という時代に自己を確立した世代になると、その捉え方が違うというのも、また当然のことだ。イエモンの代表的ナンバーに「悲しきASIAN BOY」という曲があるが、この曲は明らかに「異文化との衝突」を歌っている。ある強烈なものに犯され、しかしそれが忘れられないという、悲しい性(さが)あるいは業(カルマ)を歌ったものである。ロックとの出会いを「それまで知らなかった強烈な異文化との衝突」と捉えなかった者には、こんな切ない歌は歌えない。彼らが素晴らしいのは、自分たちはどうしようもなくロックという異文化に囚われた。と同時に、日本的な情緒に引かれもするし、誇りもある。それに、日本人であることから逃れることもできない。そうした二律背反的な事実をはっきりと受け入れ、「黄色いサルに何ができるのか?」まさにそこで、水準の高い独自の音楽を創造しているところなのだ。自分も“ロックにゴーカンされた黄色いサル”を自覚する僕にとって、イエモンが特別なのは当然つうワケなのでありました。
(一部編集してます)

ほんと、愕然としちゃうね。私は、「物心ついたときには当たり前にロックもコーラもあった世代」だ。それらが全部、外国製だったとはね。もちろん、そんなことは教科書で習っただろうし、私たち世代だって、気付いてはいるんだ。Gパンはどうしたって欧米人の方が似合うし、ロックだって日本人がやるより欧米人がやった方が圧倒的に“正しく”聴こえる。そんなの、とっくに気付いてるんだ。だけど、「異文化との衝突」を知らない。少なくとも私は、ロックとの出会いを「それまで知らなかった強烈な異文化との衝突」として捉えることは、多分できなかった。だって、物心ついたときにはロックもコーラも日本にあったんだもの。そんでもって、「日本的な情緒」もそれに対する「誇り」もおそらく知らない。もちろん、今だって「日本的な情緒」を感じさせるものはあるだろうけど、それ自体を最初から知らないというか、生活(今)と直結していないというか。物心ついたときには、日本の文化も異文化もごちゃ混ぜになっていて、どれがどっからきたのかなんて分からなかったし、分かろうとするにはあまりにも混沌としていたんじゃないだろうか。私がバカなだけかも知れないけど。

だから私は思う。そんな自分は、本当の意味では、洋楽(異文化)も邦楽(日本の文化)も知らないと言えるんじゃないだろうかと。

洋楽(欧米人がやるロック)が“正しく”聴こえるのは、それが自国の文化に根付いている感じがするからだ。そりゃ、アメリカだってイギリスだって、他国の音楽や文化に多大に影響を受けてきたのだろう。だけど、そういった他の文化に触れながらも、“自分たちの手で築き上げてきた”って感じがする。“自分たちのもの”としてやってる感じがする。それに対して、邦楽(日本人がやるロック)が、どうしても“日本人が外国のロックをやってます”って感じが先に立ってしまったりするのは、やっぱり“敗戦”っていうのが大きいんだろうなと思う。異文化と“対等に”戦ってる暇も余裕もなかったのかも知れない。もちろん戦ってる人もいただろうけど(「日本語ロック論争」なんてのもあったんだしね)。何かが、根本的に負けているような気がしてしまったりするのには、そんな背景があるのかも知れない。単に私が卑屈なのか?

幸か不幸かボクら島国の生まれで
恋も革命もいづれ 一国に尽きる運命かい?
(そんなのありかよ神様よ!!)

「so many people」という曲で、宮本(エレカシ)はこう歌っていた。当時、私にはその意味するところがよく分からなかった。「一国に尽きたって別に良いんじゃん? それの何がいけないの?」と思っていたのだ。それどころか、日本好きの宮本がそんなことを歌うなんて意外だなぐらいに思っていたかも知れない。だけど、今なら、ちょっとは分かる気がする。たぶん、「一国に尽きる」ことがいけないんじゃない。そうじゃなくて、最初っから「一国に尽きる」ことを前提とされてしまっている、あるいは、してしまっているところにこそ、“負けてる”証拠あるいは理由が潜んでいるんじゃないか? 結果的に、日本でしか聴かれなかったのなら(一国に尽きたのなら)、それで良い。「日本で聴かれる(一国に尽きる)」ことを自ら選んだのなら、それも良い。だけど、最初から、自分も知らず知らずのうちに「一国に尽きる」ことを前提としてしまっていないか? それに何の疑いも持たずにやってしまっていないか? 別に、海外進出しろとか、英語で歌えとか言ってるんじゃない。取って付けたように「世界の~」とか言われても困る。何て言ったら良いのか、“日本人が外国のロックをやってます”っていうところに、自ら甘んじてない?みたいな。「しょせんはアメリカに守られた日本の中でやってるんだろ?」と言われても何も反論できないというか何と言うか。別に、一国に尽きても良いんだけど、その背景やその中の矛盾やらが見え隠れしちゃうというかさ。日本人が抱える“独特の閉塞感”っていうのかな。だってさ、そもそも、「一国に尽きる」って誰が決めたのよ?

私は、洋楽派にも邦楽派にもなれない。洋楽派に対しては、こうだ。「そんなこと言ったってあなたは日本人なんだよ? 邦楽(あるいは歌謡曲や演歌)をダサいだの何だの、近親憎悪だよ。西洋追従じゃん」。邦楽派に対しては、こんな感じ。「歌詞が日本語だからって、それだけの理由? だったら音楽じゃなくったって良いじゃん。あなたが好きだって言ってる音楽だって、もともとは西洋のものだったりするんだよ? 歌謡曲とか演歌も聴いてから邦楽を語ってよ」。そのくせ、自分は洋楽も邦楽も聴いている(笑)。それでいながら、「私はどっちも派だよ」なんてことも言えない。ああ、我ながら、どこまで嫌な奴に育ってしまったんだろう(苦笑)。でも、これが正直な気持ちなんだ。そんな私は、本当の意味で、洋楽も邦楽も知らない、洋楽派にも邦楽派にもなれない、中途半端な“根なし草”なんだろう。

次回へつづく


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