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sky is blue

言わなければよかったのに日記

24アワー・パーティ・ピープル

2004-09-06 23:42:45 | 映画
『24アワー・パーティ・ピープル』という映画を観た。80年代の音楽シーンに起こった「マンチェスター・ムーヴメント」を取り上げた映画ということで、この間観たばっかの『リヴ・フォーエヴァー』前夜って感じでリンクして面白いかなっと思って。しかし、考えてみれば私、この映画に出てくるジョイ・ディヴィジョンもハッピー・マンデーズもリアルタイムじゃないどころか、全然詳しくなかった。なので、イマイチ盛り上がれず…。というか、マンチェスター・ムーヴメントを取り上げてるっていうもんだから、てっきりストーン・ローゼズやスミスも出てくるのかと期待していたけど、ぜんぜん出てこなかった(元ローゼズのマニはエンジニア役で一瞬出てくるけど)。出てくる主なバンドはと言えば、ジョイ・ディヴィジョンとハッピー・マンデーズだけ。ニュー・オーダーも出てくるけど、これはイアン・カーティス亡き後のジョイ・ディヴィジョンが名前を変えて新しく出発したバンドだし。『リヴ・フォーエヴァー』では、音楽業界全体、さらには、政治や経済などの地代背景も大きく取り上げて、社会全体から見た一つのムーヴメントとして「ブリットポップ」に迫っていたけど、この『24アワー・パーティ・ピープル』はちょっと視点が違うみたい。『リヴ・フォーエヴァー』は全部本人だけど、これは俳優が演じてるわけだし。

ムーヴメントを取り上げたというより、そこにいた若者達の光と影を映し出したって感じ。76年、当時まだ無名だったセックス・ピストルズのライヴがマンチェスターで行われた。観客はたったの42人。しかし、その中に、後にマンチェスター・ムーヴメントと呼ばれる動きを起こしていく人物が何人もいた。いや、と言うより、そこにいた人物がピストルズのライヴに触発されたのであり、それが全ての始まりだったというわけだ。その中の一人で、インディ・レコード会社「ファクトリー」の設立者であり、クラブ「ハシエンダ」を作ったトニー・ウィルソンが語り部となって物語は進んでいくので、出演者も、彼の周りの彼に関わりの深い人物だけに搾ったのだろう。社会全体の動きの中の一つというより、あくまで内輪の視点から描かれていて、また内輪中心に描かれているのでどうしても閉塞感が漂う。シチュエーションも暗いライヴハウスの中やイギリスの曇った空の下がほとんどだし、音楽もどこか退廃的で陰鬱な空気があるし。そのため、この辺の音楽に疎い私は、イマイチ入っていきづらかったのだけど、逆に、この周辺の音楽が好きな人にとってはタマラナイ作りになっているのかも知れない。それに、その分、より人の手による手作り的な感覚が伝わってきたし、ムーヴメントというのは、社会という実体の知れない何かが動かすのではなく、一人一人の行動が動かしていくのだということを実感させられ、トニーが自分の血でサインした契約書のその血の匂いまで伝わってきそうな、血と汗と涙の青春物語になっているとは思う。でも、それは、実際には、セックス、ドラッグ&ロックンロールって感じだったけれど…。

ただ、内輪で盛り上がるだけには終わっていない。なぜなら、時折トニーがカメラ目線で視聴者に語りかけてくるのだ。しかも、その現場にいながら、あくまで現在の視点から当時を振り返るような語り口で。だから、観てる方も当時にタイムスリップして盛り上がるというより(というか、それをさせてくれない感じ)、あくまで今の視点から当時を振り返るという姿勢にならざるを得ない。まるで台風の目の中に立たされた気分。しかも、『リヴ・フォーエヴァー』と違って、現在の視点を持たされているのはトニーだけで、他の登場人物は皆、当時の姿だけで描かれているので、余計に1対1というか、一人で向き合って考えざるを得なくなる。これは、盛り上がってお終いじゃなくて、このムーヴメントが何だったのかを視聴者一人一人に考えて欲しいということなのだろうか。さらには、この映画が、視聴者にとって、トニー達にとってのピストルズのライヴのような存在になって欲しいということなのだろうか(それは行き過ぎ?)。

うーん、もうちょっとこの辺のバンドに詳しくなったら、もう一回観てみたい、かな。何気ない会話で面白いのもあった。「ブライアン・マーティンか?」「違う! それはブライアン・エプスタインだ! マーティンはジョージ・マーティンだ! てんでなってない!」みたいな(笑)。あ~、「ファクトリー」って「アップル」のようなもんだったのかも…。それと、ムーヴメントの渦中から離れたふとした街中のふとした酔っ払いの男の言葉が、この映画のもう一つの裏テーマのようなものを言い当てているのが面白かった。「全ての栄華はいつか衰える。しかしそれ自体が希望なのだ。悲しみもまたいつか終わるのだから…」というような盛者必衰の理をあらわす、娑羅双樹の花の色のようなお言葉? しかし、それ自体が希望だ、と。ちょうどシロップの「リアル」を思い出した。<命によって 俺は壊れた/いつかは終わる そんな恐怖に/でも命によって 俺は救われた/いつかは終わる それ自体が希望>(By Syrup16g「リアル」)。そう言われたトニーは、「分かっている。分かっている」と何度も繰り返し呟いていた。


ジョゼと虎と魚たちとスチームボーイ

2004-09-01 16:12:18 | 映画
今日は映画を2本観ました。日記タイトルは、映画2本分のタイトルです。

『ジョゼと虎と魚たち』
いやぁ、「もうこれ、レンタル開始してるんだ」という軽い気持ちで借りたんですけどね。その日セールで安かったし。いやぁ、良いですこれ。今も余韻が残ってます。気持ちに整理をつかせないまま、余韻だけをくれる映画ですね。観た人にとってこの映画が自分の体験として胸に刻まれて、体の一部になってしまうような。生温かい余韻。ひょいとイスに座ったら、さっきまで誰かが座ってたみたいで、ちょっと温かかったような(ちょっと違うか?)。うっかり観てしまったら、やられてしまいました。

内容は本当にフツーの恋愛。ジョゼ(池脇千鶴)が足が不自由だったりするけど、本当にフツーの恋愛。でもそこに乳母車や小説や虎や魚たちなんかが出てきて、ちょっとメルヘンちっくで不思議な感じ。それがまた安っぽくて良い。安っぽいっていうか、生々しい。現実と空想、両方にリアリティがあって。人が恋愛に求めるのもまた、現実であり空想であるのかもな。

男の子と女の子が出会って、恋をして、別れた。ただそれだけ。でも、会話や行動の一つ一つにいちいち胸をギュッと掴まれて、「ただそれだけ」のことに、信じられないくらいに真実がいっぱい溢れている。別れた後の二人の行動も象徴的だった。香苗(上野樹里)を待たせておきながら泣き崩れる恒夫(妻夫木聡)。やけにサッパリとした表情で一人で魚を焼くジョゼ。私は女だからか、特にジョゼの言動には、というかジョゼの存在自体に、グッときてしまう。でも、男の人だってジョゼにはグッとくると思う。その代表が恒夫だった。

これは、恋愛映画じゃなくて、恋愛そのもの。だから、自分の体験として胸に刻まれるような、痛さをともなった切ない余韻を残していくんだろう。恋愛は素敵。でも残酷。でも……。そんな真実を届けてくれる映画。暗い海の底で恒夫を待ち続けるジョゼ(女性)。ジョゼを探してさまよい続ける恒夫(男性)。男と女がいる。そこにはたくさんのいびつな真実が、今にもこぼれ落ちそうに溢れている。ああ、世の中、男と女しかいないんだなー。それをもっともっと大事にしても良いんじゃないかなぁって思えた。人間に男と女を作ったのは、神様からのプレゼントでもあり、ちょっとしたイジワルでもあるのかな。池脇千鶴、好きになりそう。くるりの音楽もとても良かった。

『スチームボーイ』
こちらは映画館で観てきました。今日は1000円(1日かつ水曜日)だったし、もうすぐ上映が終わってしまいそうだったので。

ストーリーが強引でちょっと説明不足なところもあったと思うけど、それでも観てる間は思わずワクワクしてしまった。そう言えば、大友克洋監督の映画は『AKIRA』と『MEMORIES』を観たことがあるけど、どちらもストーリーの説明が1から10まで行き届いているって感じではなかった。それでも、いや、それだから想像力が刺激されるのか、ワクワクさせられた。ただ、『AKIRA』や『MEMORIES』が退廃的でダークな空気に包まれていたのに対して、この『スチームボーイ』では、人間の持つ闇の部分よりも、明るい部分にスポットが当てられていて、人間の無邪気さや滑稽さなんかがより鮮明に描かれていたと思う。出てくる兵器や乗り物も、ありえないっていうか、効率悪そうで実用的じゃなさそうで、兵器というより芸術作品のような独創的なモノばっかりで、それは映画だからなのかも知れないけど、そこに人間が本来持っているはずの想像力と創造力の豊かさ、チャーミングさやしたたかさがよく出ていたと思うし、それを表現したかったんだとも思う。スチーム城にメリーゴーランドや観覧車が出てくるところとか。どんな悲惨な状況でも、ユーモアや生きる力を失わない人間の強さだとか図太さだとか。

あと、スカーレットが良い。わがままでムカつくんだけど、時々ドキッとするような、真理をズバッと言い当てたような台詞を発するんだよね。何故か憎めないし、曲者な男どもや恐ろしげな兵器もたくさん出てくるけど、どれもスカーレットには敵わない。女は強しっていうか何て言うか。『ドラゴンクエストⅦ』のマリベルを思い出した(マニアックな例ですみません。でもすごく似てるんです)。男が守るべきものを探してもがき続けるのに対して、女は最初から守るべきものを持ってるっていうか、守るべきものが何たるかを知ってるっていうか。これは『ジョゼと虎と魚たち』にも言えるかな。それと、私の少ない知識の中からですが、太宰治の『斜陽』のこんな一節も思い出した。「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存知ないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。」

それと、舞台がイギリスだから、タワー・ブリッジやテムズ川が出てきて楽しかった。物語はマンチェスターから始まるんですが、列車が駅に着いたときに「マンチェスター、マンチェスター」って思いっきり日本語でアナウンスしてるのが、なんとも可笑しかった。


リヴ・フォーエヴァー

2004-08-22 15:23:58 | 映画
90年代、「ブリットポップ」という一大ムーヴメントが起こって、オアシスやブラー、パルプ、スウェード等のイギリスのバンドが世界中を席巻しました。その波はここ日本にもやってきて、当時は、深夜ではあるけれど地上波で『BEAT UK』なんていう専門番組まで放送されていました。そして、はい、当の私もそのブリットポップにまんまとハマった一人であります。と言っても、当時の私はブリットポップって一体何なのかも特に考えも気にもせず、ただただ、輸入されてくるカッコ良さげ~なイギリスのバンドさん達の中から良いじゃん!と思うものを見つけては喜んで楽しんで盛り上がっていただけなのでした。今回、そのブリットポップを取り上げたドキュメンタリー映画『リヴ・フォーエヴァー』が上映されるということで、あのころ熱心に聴いていたバンドの音楽や映像が聴ける!観れる!ってんで懐かしい気持ちと共にほんっとうに気楽な気持ちで映画館に足を運んだんです。そしたら、何だかよく分からなくなってしまいました…。そして、ブリットポップという現象に無関心なまま、ただただお気楽にブリットポップを聴いていた自分が恥ずかしいような恋しいような、不思議な気持ちになってしまいました。

劇中、ブリットポップについて“音楽的に”語られることはほとんどありませんでした。大まかな流れはこうです。90年5月、マッドチェスター・ムーヴメントの中心的存在であったストーン・ローゼズがスパイク・アイランドで伝説的なギグを行うも失速。そうこうしているうちに、ニルヴァーナが現れ、アメリカからグランジの波が襲ってくる。また、その頃のイギリスの若者は、保守的社会や失業手当に甘んじ、死んだような生活を送っていた。音楽も映画も米国製ばっか。抑えつけられてるような生活。このような背景にあって、冗談じゃねぇぞ!!とイギリスの若者達がいきり立って爆発した。その爆発の引き金となったのがブリットポップだった、と。

だからこそ、音楽的に云々というよりもまず“イギリス”とか“自分達”というのを主張した音楽でなければならなかったのだと思うし、また、そういう音楽であったとも思います。ブリットポップを語るとき、「ブリティッシュ・ロックの伝統を受け継いだ」とか「英国特有のアイロニーとウィットに富んだ」とかどうも大まか過ぎて曖昧(ブラー)な、音楽的なところとは別のところに拠りどころがあるような語られ方をしているのは、そのせいなのかなと思いました。実際、ブリットポップとして一まとめにされていたバンド達の音を聴いてみると、それぞれが全然違った方法論でアプローチしていたり、歌詞の内容や視点も全く違っていたりします。ぶっちゃけ、イギリス人であって自分達のことを(というか自作の曲を?)歌っていればそれでOKみたいな。これほど、大ざっぱで曖昧な括り方もありません。でも多分、それで良かったわけです。打倒アメリカ! イギリス文化の復興! イギリスのプライドを取り戻せ! だったわけですから。ブリットポップとは、もはや音楽的なジャンルではなく、まさしく運動(ムーヴメント)だったと言えるのでしょう。でも、ムーヴメントと呼ばれているものの多くには、多かれ少なかれそういう面があるのだと私は思います。ブリットポップについて強いて“音楽的に”語るとするならば、60年代のロックから始まって当時に至るまでの英国ロックの総決算、見直し、良いとこどり…だったんじゃないでしょうか。バンドによって出す音が様々なのも頷けます。

そしてそのムーヴメントは、イギリス国内に留まらず、アメリカ、そして日本にも飛び火し、世界中を席巻しました。このようなムーヴメントがイギリス国内で盛り上がるのは分かります。では何故、世界中にアピールできたのでしょうか。当時の私はと言えば、ブリットポップが何たるかも特に気にせず、本当に単純にカッコ良いなって思ってオアシスやブラーやブルートーンズなんかを聴いていたんです。でもきっと、そこには音楽以外の力も働いていたのだと思います。「オアシスvsブラー」に代表されるようなメディアによる過剰な盛り上がりもそうですが、前述したような背景に基づく、イギリス人の気概や誇り、その他モロモロ色んなもんが頭の天辺から足の爪先までに漲っていて、そのパワーに圧倒されつつ惹かれたのだと思います。だから今、もしかしたら、音楽だけを取り出して聴いてみるとそんなでもない作品もあるかも知れませんが、それは如何に人が“音楽だけ”を聴くことが難しいかを表すことだと私は思います。人は考える生き物ですから。音楽と呼ばれているものの中に、音楽以外の要素が如何に多いか。だからこそ面白いのだと思います。だからこそ音ではなく音楽なのだと思います。どこからどこまでが音楽かなんてハッキリ分けられるものではないと思うし、もし本当に“音楽だけ”になってしまったら、それはそれで寂しい気がする。いくらクールを気取ったって、本当に“音楽だけ”を聴けてる人なんてそうそういないと思います。人は考える生き物ですから。

何だかやっぱり、まとまらなくなってきました。多分、当時の私は(そしておそらく世界も)イギリスに恋をしたのだと思います。恋は盲目と言いますから、多少盲目的なところもあったのでしょう。それでも楽しい恋だったと思うし、今聴いても良いと思える音楽もたくさんあります。ただ、今聴くと、どこか切なくて胸が苦しくなるような気恥ずかしいような不思議な気持ちになってしまうのは、それがきっと恋だったからなんでしょう。この映画を観て、何だか整理のつかない不思議な気持ちになってしまったのも、それが恋だったからなんでしょう。90年代、世界がイギリスに恋した、終わってしまった恋。

最後に、劇中でもこのブリットポップ喧騒を象徴する一曲として挙げられていたパルプの「コモン・ピープル」という曲にこんな歌詞があります。

きみは決してふつうの人達みたいには暮らせないよ
ふつうの人のやることはやれないよ
ふつうの人みたいに失敗なんかしないよ
自分の人生が窓から滑り落ちていって
しょうがないから踊ったり飲んだりセックスしたりなんていうふうにはなれないよ
ふつうの人達と声を合わせて歌う
それでなんとかのりきれるかもしれないから声を合わせて歌う
ふつうの人達と一緒に笑う
たとえ自分と自分の愚かな行動が笑われているんであっても一緒に笑う、なんてことはね
だって、きみは貧乏はイカしてると思ってるんだもの
私、ふつうの人達と暮らしたいの、と言って……


イギリスってイカす!と思っている限り、“イギリス人にとっての”ブリットポップが何たるかを本当に分かる日は来ないのかも知れないなぁ。

*** 追記 ***

いやあ、何とも気持ちの悪い恥ずかしい文章になってしまってスミマセン。ダメですねー。ここからは余談として、割と冷静にいこうと思います(無理?)。

いやぁ、人は「vs」って好きですね。シングル同日発売の「オアシスvsブラー」。ブリットポップ自体にも「vsアメリカ」ってところがあったんだし。そう言えば、『ロール・ウィズ・イット』と『カントリー・ハウス』のシングル同日発売「オアシスvsブラー」の結果って、当時はブラーが勝ったって聞いてたんですけど、映画の中じゃオアシスが勝ったことになっていました。うーん、皆、勝敗なんかどうでも良くて騒ぎたかっただけなのでしょうね。関係ないけど、「オアシスvsブラー」騒動をみていて、日本でもあったアルバム同日発売の「宇多田ヒカルvs浜崎あゆみ」を思い出しました(私だけ?)。まさかこの「オアシスvsブラー」騒動を参考にしたんじゃ…。このvs騒動、下らないと切り捨てるには、この世に生きる人間としてあまりに無自覚かつ無責任な気もします。あと、労働階級と中流階級って、イギリスではほんと根強いんですね。ノエルにいたってはブラーが中流出身ということを引き合いに出して「(俺たちは)奴らより魂が純粋だ」とまで言ってますから。うーん、やっぱり人は「vs」って好きなんですかね。

それとやっぱ、当たり前の話ですけど、イギリスの音楽はイギリスの風景に合いますねぇ! 音楽は国境や時代を越えると言いますけど、そして越えるとも思いますけど、でも、音楽はある特定の場所や時代から生まれるものでもありますよね。自分自身に返っていくことも、自分自身から解放されることも、可能にしてしまうのが音楽の力なのかも知れません。

あ、あと、この映画を観て、リアムってキュ~ト☆って思っちゃいました。いやいや今更遅いんですけどね、私はノエル派だったんですが、ちょっとリアムが好きになりそうです。ああ、あと、劇中色んな音楽が流れるんですけど、レディオヘッドはなんか浮いてる気がしました。この中ではマッシヴ・アタックとかの方が音楽的には異質だと思うんですけど、レディオヘッドは妙に浮いてる気がしましたね。やっぱこのバンドは、ブリットポップとは別の次元に位置していたんでしょうね。かといって時代を無視した音楽を作っていたわけではないんですから(むしろ時代と密接に関わった音楽を鳴らしていた)、稀有なバンドです。

「私にとってのリヴ・フォーエヴァー」でオススメ作品を挙げてみましたので、良かったらそちらも見てみて下さい。


この世の外へ クラブ進駐軍

2004-08-12 15:13:32 | 映画
映画『この世の外へ クラブ進駐軍』を観ました。凄く良かったです。どこが良かったって言えない、すべてが良かったです。戦後の日本が舞台で、アメリカ進駐軍のキャンプ内にあるクラブで演奏する日本人ジャズメンを描いた映画なんですけど、私はこの時代に生まれてもないし戦争は過去に起こった出来事として認識していたのですが、見ていて“過去のこと”という感覚がほとんどしなかったです。もちろん進駐軍も闇市もヒロポンもEMクラブも赤狩りも、私が生きてきた暮らしの中には一切ありませんでした。けれど、不思議と何の抵抗もなく“現在のこと”として受け止めていた自分がいました。戦争は終わってなんかいないのかも知れない――。

映画に詳しくない私ですが、今までの経験から言うと、戦争に関わる映画ならば、その悲惨さを伝えようとするものがほとんどだったと思います。戦争の悲惨さを訴え、二度と同じような過ちを繰り返さないようにすること。多くの戦争映画が最終的にはそれを伝えようとするものであると思うし、またそうあるべきだとも思います。しかし、この映画を見て感じたのは、悲惨さと言うより、これは本当に過去のことだろうか? ここで生きている人間達は私達ではないか? というようなことでした。

日本を信じて、日本が勝つと信じて、この戦争が正しいと信じて戦った兵士達。いや、兵士だけじゃなく、そこに暮らすすべての人達。それらがすべてひっくり返され、家も家族もお金も仕事もすべてを失ってしまうってどういう感じなんだろう。自分が信じてきたもの、大事な人や物、すべて失ったら……。一体、何を信じたら良いのか。それでも世界は回ってる。この映画の登場人物達は“ジャズ”と出会いました。「終戦のビラは信じられなかったけどジャズだけは信じられた」(主人公・広岡健太郎)。阪本順治監督は“血の通った人間”を描くことで定評があるとのことですが、本当にそう。物語のために人間がいるのではなくて、人間がそこで生きているだけで物語になってしまう。それはそこにいる人間が本当に生きているから。それぞれの登場人物みんなが色々なものを抱えているし、ちゃんとそれが描かれている。誰かだけが特別に辛いわけでも悲しいわけでも輝いているわけでも影っているわけでもない。みんな“何もなくて、何でもあり”の時代を生きている。米軍だろうが日本人だろうが同じ。どちらかが加害者でどちらかが被害者的に描いていないところも凄く良い。進駐される側とする側、双方の傷痕がちゃんと描かれている(←と、解説にもありました…笑)。

太平洋戦争が終わって59年目になる今年。戦争は終わり、時代は“何もなくて、何でもあり”ではなくなってしまったのだろうか。私には、この映画の主人公達が自分達と何ら変わりない、同時代の人間に映った。過去の悲惨な出来事として捉えていた戦争が、今も終わってないような気がした。戦争って何だろう…。きっとこの世はいつだって根本的には“何もなくて、何でもあり”なんだろうなって思う。だって私にも、主人公が抱くジャズへの思いと似たような感覚があるから。そして、戦争は形を変えてずっと続いていくんだろうなって思う。今もイラク戦争とか色々あるけれど、そういうことだけじゃなくて、生きていく限り、戦争は終わらないのだろうって思った。それは戦争のない時代は来ない、とか、完全な平和なんて訪れないって意味じゃなく、今まで戦争と平和は対極にあるものだと思っていたけれど、実は、共存しているものなのではないかって思ったってこと。武器を持つことだけが戦争ではない。この映画の登場人物達は、武器ではなく楽器で戦った。殺し合うことだけが戦争ではなくて、生き抜き合うことも戦争なのではないかなって少し思ったのだ。今までとはちょっと違う、もっと大きな意味で考えた上での“戦争”の解釈。そんなものが生まれた気がした。

それと、この映画のもう一つの魅力にして最大の魅力!? キャストのカッコ良さ! あの、全員、カッコ良いです。萩原聖人/オダギリジョー/松岡俊介/村上淳/MITCH。こんなに放出しちゃって良いの?ってくらいイイ男揃い。かといって、「カッコ良さ」が変にアピールされてないところが良いんだよねぇ。もう生きてるだけでカッコ良い! というか生きてるからこそカッコ良い? こんなバンドあったら、反則でしょ。全員、カッコ良すぎだもの。