90年代、「ブリットポップ」という一大ムーヴメントが起こって、オアシスやブラー、パルプ、スウェード等のイギリスのバンドが世界中を席巻しました。その波はここ日本にもやってきて、当時は、深夜ではあるけれど地上波で『BEAT UK』なんていう専門番組まで放送されていました。そして、はい、当の私もそのブリットポップにまんまとハマった一人であります。と言っても、当時の私はブリットポップって一体何なのかも特に考えも気にもせず、ただただ、輸入されてくるカッコ良さげ~なイギリスのバンドさん達の中から良いじゃん!と思うものを見つけては喜んで楽しんで盛り上がっていただけなのでした。今回、そのブリットポップを取り上げたドキュメンタリー映画『リヴ・フォーエヴァー』が上映されるということで、あのころ熱心に聴いていたバンドの音楽や映像が聴ける!観れる!ってんで懐かしい気持ちと共にほんっとうに気楽な気持ちで映画館に足を運んだんです。そしたら、何だかよく分からなくなってしまいました…。そして、ブリットポップという現象に無関心なまま、ただただお気楽にブリットポップを聴いていた自分が恥ずかしいような恋しいような、不思議な気持ちになってしまいました。
劇中、ブリットポップについて“音楽的に”語られることはほとんどありませんでした。大まかな流れはこうです。90年5月、マッドチェスター・ムーヴメントの中心的存在であったストーン・ローゼズがスパイク・アイランドで伝説的なギグを行うも失速。そうこうしているうちに、ニルヴァーナが現れ、アメリカからグランジの波が襲ってくる。また、その頃のイギリスの若者は、保守的社会や失業手当に甘んじ、死んだような生活を送っていた。音楽も映画も米国製ばっか。抑えつけられてるような生活。このような背景にあって、冗談じゃねぇぞ!!とイギリスの若者達がいきり立って爆発した。その爆発の引き金となったのがブリットポップだった、と。
だからこそ、音楽的に云々というよりもまず“イギリス”とか“自分達”というのを主張した音楽でなければならなかったのだと思うし、また、そういう音楽であったとも思います。ブリットポップを語るとき、「ブリティッシュ・ロックの伝統を受け継いだ」とか「英国特有のアイロニーとウィットに富んだ」とかどうも大まか過ぎて曖昧(ブラー)な、音楽的なところとは別のところに拠りどころがあるような語られ方をしているのは、そのせいなのかなと思いました。実際、ブリットポップとして一まとめにされていたバンド達の音を聴いてみると、それぞれが全然違った方法論でアプローチしていたり、歌詞の内容や視点も全く違っていたりします。ぶっちゃけ、イギリス人であって自分達のことを(というか自作の曲を?)歌っていればそれでOKみたいな。これほど、大ざっぱで曖昧な括り方もありません。でも多分、それで良かったわけです。打倒アメリカ! イギリス文化の復興! イギリスのプライドを取り戻せ! だったわけですから。ブリットポップとは、もはや音楽的なジャンルではなく、まさしく運動(ムーヴメント)だったと言えるのでしょう。でも、ムーヴメントと呼ばれているものの多くには、多かれ少なかれそういう面があるのだと私は思います。ブリットポップについて強いて“音楽的に”語るとするならば、60年代のロックから始まって当時に至るまでの英国ロックの総決算、見直し、良いとこどり…だったんじゃないでしょうか。バンドによって出す音が様々なのも頷けます。
そしてそのムーヴメントは、イギリス国内に留まらず、アメリカ、そして日本にも飛び火し、世界中を席巻しました。このようなムーヴメントがイギリス国内で盛り上がるのは分かります。では何故、世界中にアピールできたのでしょうか。当時の私はと言えば、ブリットポップが何たるかも特に気にせず、本当に単純にカッコ良いなって思ってオアシスやブラーやブルートーンズなんかを聴いていたんです。でもきっと、そこには音楽以外の力も働いていたのだと思います。「オアシスvsブラー」に代表されるようなメディアによる過剰な盛り上がりもそうですが、前述したような背景に基づく、イギリス人の気概や誇り、その他モロモロ色んなもんが頭の天辺から足の爪先までに漲っていて、そのパワーに圧倒されつつ惹かれたのだと思います。だから今、もしかしたら、音楽だけを取り出して聴いてみるとそんなでもない作品もあるかも知れませんが、それは如何に人が“音楽だけ”を聴くことが難しいかを表すことだと私は思います。人は考える生き物ですから。音楽と呼ばれているものの中に、音楽以外の要素が如何に多いか。だからこそ面白いのだと思います。だからこそ音ではなく音楽なのだと思います。どこからどこまでが音楽かなんてハッキリ分けられるものではないと思うし、もし本当に“音楽だけ”になってしまったら、それはそれで寂しい気がする。いくらクールを気取ったって、本当に“音楽だけ”を聴けてる人なんてそうそういないと思います。人は考える生き物ですから。
何だかやっぱり、まとまらなくなってきました。多分、当時の私は(そしておそらく世界も)イギリスに恋をしたのだと思います。恋は盲目と言いますから、多少盲目的なところもあったのでしょう。それでも楽しい恋だったと思うし、今聴いても良いと思える音楽もたくさんあります。ただ、今聴くと、どこか切なくて胸が苦しくなるような気恥ずかしいような不思議な気持ちになってしまうのは、それがきっと恋だったからなんでしょう。この映画を観て、何だか整理のつかない不思議な気持ちになってしまったのも、それが恋だったからなんでしょう。90年代、世界がイギリスに恋した、終わってしまった恋。
最後に、劇中でもこのブリットポップ喧騒を象徴する一曲として挙げられていたパルプの「コモン・ピープル」という曲にこんな歌詞があります。
きみは決してふつうの人達みたいには暮らせないよ
ふつうの人のやることはやれないよ
ふつうの人みたいに失敗なんかしないよ
自分の人生が窓から滑り落ちていって
しょうがないから踊ったり飲んだりセックスしたりなんていうふうにはなれないよ
ふつうの人達と声を合わせて歌う
それでなんとかのりきれるかもしれないから声を合わせて歌う
ふつうの人達と一緒に笑う
たとえ自分と自分の愚かな行動が笑われているんであっても一緒に笑う、なんてことはね
だって、きみは貧乏はイカしてると思ってるんだもの
私、ふつうの人達と暮らしたいの、と言って……
イギリスってイカす!と思っている限り、“イギリス人にとっての”ブリットポップが何たるかを本当に分かる日は来ないのかも知れないなぁ。
*** 追記 ***
いやあ、何とも気持ちの悪い恥ずかしい文章になってしまってスミマセン。ダメですねー。ここからは余談として、割と冷静にいこうと思います(無理?)。
いやぁ、人は「vs」って好きですね。シングル同日発売の「オアシスvsブラー」。ブリットポップ自体にも「vsアメリカ」ってところがあったんだし。そう言えば、『ロール・ウィズ・イット』と『カントリー・ハウス』のシングル同日発売「オアシスvsブラー」の結果って、当時はブラーが勝ったって聞いてたんですけど、映画の中じゃオアシスが勝ったことになっていました。うーん、皆、勝敗なんかどうでも良くて騒ぎたかっただけなのでしょうね。関係ないけど、「オアシスvsブラー」騒動をみていて、日本でもあったアルバム同日発売の「宇多田ヒカルvs浜崎あゆみ」を思い出しました(私だけ?)。まさかこの「オアシスvsブラー」騒動を参考にしたんじゃ…。このvs騒動、下らないと切り捨てるには、この世に生きる人間としてあまりに無自覚かつ無責任な気もします。あと、労働階級と中流階級って、イギリスではほんと根強いんですね。ノエルにいたってはブラーが中流出身ということを引き合いに出して「(俺たちは)奴らより魂が純粋だ」とまで言ってますから。うーん、やっぱり人は「vs」って好きなんですかね。
それとやっぱ、当たり前の話ですけど、イギリスの音楽はイギリスの風景に合いますねぇ! 音楽は国境や時代を越えると言いますけど、そして越えるとも思いますけど、でも、音楽はある特定の場所や時代から生まれるものでもありますよね。自分自身に返っていくことも、自分自身から解放されることも、可能にしてしまうのが音楽の力なのかも知れません。
あ、あと、この映画を観て、リアムってキュ~ト☆って思っちゃいました。いやいや今更遅いんですけどね、私はノエル派だったんですが、ちょっとリアムが好きになりそうです。ああ、あと、劇中色んな音楽が流れるんですけど、レディオヘッドはなんか浮いてる気がしました。この中ではマッシヴ・アタックとかの方が音楽的には異質だと思うんですけど、レディオヘッドは妙に浮いてる気がしましたね。やっぱこのバンドは、ブリットポップとは別の次元に位置していたんでしょうね。かといって時代を無視した音楽を作っていたわけではないんですから(むしろ時代と密接に関わった音楽を鳴らしていた)、稀有なバンドです。
「私にとってのリヴ・フォーエヴァー」でオススメ作品を挙げてみましたので、良かったらそちらも見てみて下さい。
劇中、ブリットポップについて“音楽的に”語られることはほとんどありませんでした。大まかな流れはこうです。90年5月、マッドチェスター・ムーヴメントの中心的存在であったストーン・ローゼズがスパイク・アイランドで伝説的なギグを行うも失速。そうこうしているうちに、ニルヴァーナが現れ、アメリカからグランジの波が襲ってくる。また、その頃のイギリスの若者は、保守的社会や失業手当に甘んじ、死んだような生活を送っていた。音楽も映画も米国製ばっか。抑えつけられてるような生活。このような背景にあって、冗談じゃねぇぞ!!とイギリスの若者達がいきり立って爆発した。その爆発の引き金となったのがブリットポップだった、と。
だからこそ、音楽的に云々というよりもまず“イギリス”とか“自分達”というのを主張した音楽でなければならなかったのだと思うし、また、そういう音楽であったとも思います。ブリットポップを語るとき、「ブリティッシュ・ロックの伝統を受け継いだ」とか「英国特有のアイロニーとウィットに富んだ」とかどうも大まか過ぎて曖昧(ブラー)な、音楽的なところとは別のところに拠りどころがあるような語られ方をしているのは、そのせいなのかなと思いました。実際、ブリットポップとして一まとめにされていたバンド達の音を聴いてみると、それぞれが全然違った方法論でアプローチしていたり、歌詞の内容や視点も全く違っていたりします。ぶっちゃけ、イギリス人であって自分達のことを(というか自作の曲を?)歌っていればそれでOKみたいな。これほど、大ざっぱで曖昧な括り方もありません。でも多分、それで良かったわけです。打倒アメリカ! イギリス文化の復興! イギリスのプライドを取り戻せ! だったわけですから。ブリットポップとは、もはや音楽的なジャンルではなく、まさしく運動(ムーヴメント)だったと言えるのでしょう。でも、ムーヴメントと呼ばれているものの多くには、多かれ少なかれそういう面があるのだと私は思います。ブリットポップについて強いて“音楽的に”語るとするならば、60年代のロックから始まって当時に至るまでの英国ロックの総決算、見直し、良いとこどり…だったんじゃないでしょうか。バンドによって出す音が様々なのも頷けます。
そしてそのムーヴメントは、イギリス国内に留まらず、アメリカ、そして日本にも飛び火し、世界中を席巻しました。このようなムーヴメントがイギリス国内で盛り上がるのは分かります。では何故、世界中にアピールできたのでしょうか。当時の私はと言えば、ブリットポップが何たるかも特に気にせず、本当に単純にカッコ良いなって思ってオアシスやブラーやブルートーンズなんかを聴いていたんです。でもきっと、そこには音楽以外の力も働いていたのだと思います。「オアシスvsブラー」に代表されるようなメディアによる過剰な盛り上がりもそうですが、前述したような背景に基づく、イギリス人の気概や誇り、その他モロモロ色んなもんが頭の天辺から足の爪先までに漲っていて、そのパワーに圧倒されつつ惹かれたのだと思います。だから今、もしかしたら、音楽だけを取り出して聴いてみるとそんなでもない作品もあるかも知れませんが、それは如何に人が“音楽だけ”を聴くことが難しいかを表すことだと私は思います。人は考える生き物ですから。音楽と呼ばれているものの中に、音楽以外の要素が如何に多いか。だからこそ面白いのだと思います。だからこそ音ではなく音楽なのだと思います。どこからどこまでが音楽かなんてハッキリ分けられるものではないと思うし、もし本当に“音楽だけ”になってしまったら、それはそれで寂しい気がする。いくらクールを気取ったって、本当に“音楽だけ”を聴けてる人なんてそうそういないと思います。人は考える生き物ですから。
何だかやっぱり、まとまらなくなってきました。多分、当時の私は(そしておそらく世界も)イギリスに恋をしたのだと思います。恋は盲目と言いますから、多少盲目的なところもあったのでしょう。それでも楽しい恋だったと思うし、今聴いても良いと思える音楽もたくさんあります。ただ、今聴くと、どこか切なくて胸が苦しくなるような気恥ずかしいような不思議な気持ちになってしまうのは、それがきっと恋だったからなんでしょう。この映画を観て、何だか整理のつかない不思議な気持ちになってしまったのも、それが恋だったからなんでしょう。90年代、世界がイギリスに恋した、終わってしまった恋。
最後に、劇中でもこのブリットポップ喧騒を象徴する一曲として挙げられていたパルプの「コモン・ピープル」という曲にこんな歌詞があります。
きみは決してふつうの人達みたいには暮らせないよ
ふつうの人のやることはやれないよ
ふつうの人みたいに失敗なんかしないよ
自分の人生が窓から滑り落ちていって
しょうがないから踊ったり飲んだりセックスしたりなんていうふうにはなれないよ
ふつうの人達と声を合わせて歌う
それでなんとかのりきれるかもしれないから声を合わせて歌う
ふつうの人達と一緒に笑う
たとえ自分と自分の愚かな行動が笑われているんであっても一緒に笑う、なんてことはね
だって、きみは貧乏はイカしてると思ってるんだもの
私、ふつうの人達と暮らしたいの、と言って……
イギリスってイカす!と思っている限り、“イギリス人にとっての”ブリットポップが何たるかを本当に分かる日は来ないのかも知れないなぁ。
*** 追記 ***
いやあ、何とも気持ちの悪い恥ずかしい文章になってしまってスミマセン。ダメですねー。ここからは余談として、割と冷静にいこうと思います(無理?)。
いやぁ、人は「vs」って好きですね。シングル同日発売の「オアシスvsブラー」。ブリットポップ自体にも「vsアメリカ」ってところがあったんだし。そう言えば、『ロール・ウィズ・イット』と『カントリー・ハウス』のシングル同日発売「オアシスvsブラー」の結果って、当時はブラーが勝ったって聞いてたんですけど、映画の中じゃオアシスが勝ったことになっていました。うーん、皆、勝敗なんかどうでも良くて騒ぎたかっただけなのでしょうね。関係ないけど、「オアシスvsブラー」騒動をみていて、日本でもあったアルバム同日発売の「宇多田ヒカルvs浜崎あゆみ」を思い出しました(私だけ?)。まさかこの「オアシスvsブラー」騒動を参考にしたんじゃ…。このvs騒動、下らないと切り捨てるには、この世に生きる人間としてあまりに無自覚かつ無責任な気もします。あと、労働階級と中流階級って、イギリスではほんと根強いんですね。ノエルにいたってはブラーが中流出身ということを引き合いに出して「(俺たちは)奴らより魂が純粋だ」とまで言ってますから。うーん、やっぱり人は「vs」って好きなんですかね。
それとやっぱ、当たり前の話ですけど、イギリスの音楽はイギリスの風景に合いますねぇ! 音楽は国境や時代を越えると言いますけど、そして越えるとも思いますけど、でも、音楽はある特定の場所や時代から生まれるものでもありますよね。自分自身に返っていくことも、自分自身から解放されることも、可能にしてしまうのが音楽の力なのかも知れません。
あ、あと、この映画を観て、リアムってキュ~ト☆って思っちゃいました。いやいや今更遅いんですけどね、私はノエル派だったんですが、ちょっとリアムが好きになりそうです。ああ、あと、劇中色んな音楽が流れるんですけど、レディオヘッドはなんか浮いてる気がしました。この中ではマッシヴ・アタックとかの方が音楽的には異質だと思うんですけど、レディオヘッドは妙に浮いてる気がしましたね。やっぱこのバンドは、ブリットポップとは別の次元に位置していたんでしょうね。かといって時代を無視した音楽を作っていたわけではないんですから(むしろ時代と密接に関わった音楽を鳴らしていた)、稀有なバンドです。
「私にとってのリヴ・フォーエヴァー」でオススメ作品を挙げてみましたので、良かったらそちらも見てみて下さい。
過去の放送を振り返るコーナーがあって
そこだけ期待してたけど、僕が見たいものは
やらないってことに気づきました。
いや、HELP関連が流れたときに、見逃して
ショックだった気も。
とにかく、当時唯一かもしれない洋楽番組でしたよね。
なんか、今でもテレビ欄見ると深夜に「UK!」って
番組があるようなのだけど、どんな番組なんだろ。
何だろう…と思いつつ、起きてられなくて見たことないや。
気合が足りないのかね。気合だー!(Byアニマル浜口)
「BEAT UK」にはポールが出たこともありましたよね、何回か。番組のウェブサイトもあって、英国チャートにポールの曲やアルバムがちょっとでも入ってると嬉しかったものです。
で、『LIVE FOREVER』、まだやってますよ! ライズエックスという所で追加上映されてます。9月17日までやっているということなので、もしも良かったら♪ リンク貼っときますね。