メランコリア

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『杉原千畝物語 命のビザをありがとう』(金の星社)

2013-09-29 21:26:54 | 
『杉原千畝物語 命のビザをありがとう』(金の星社)
杉原幸子/著

「ひとりの命を救うことは、全世界を救うのと同じである」(ユダヤのことわざ)

先日ミュージカル「SEMPO ~日本のシンドラー杉原千畝物語~」が再演されたニュースもあって、
もっと詳しく知りたいと思って借りてみた。
先日読んだ『国境を越えて 戦禍を生きのびたユダヤ人家族の物語』は命からがら逃げたユダヤ人家族の目線で書かれていたが、
これは、千畝の奥さん幸子さん自身が当時を振り返って書いているため、外交官家族の大きな決断、
戦争の広がりとともに転々と移動せざるを得なかった様子などがよく分かる、感動の1冊。




【内容抜粋メモ】
千畝は、早稲田大学に通ったが、お金がなくなって、外務省が留学生を募集していると聞いて、試験を受け、
満州のハルピン学院でロシア語を勉強した。
外交部の次長になったが中国人の扱いが酷いのが我慢できず辞めた。

生命保険会社に勤めていた幸子の兄が千畝と仲良くなり、家にちょくちょく来るようになって、
13歳年下の幸子の質問にも気さくに答えてくれた。
千畝は幸子にプロポーズし、2人は昭和10年に結婚。


************フィンランド

昭和12年 フィンランドの日本公使館へ外交官として赴任。長男・弘樹1歳を連れて、横浜港から平安丸で出航


************リトアニア

1939年11月 リトアニアの日本領事館の領事代理になる。弘樹3歳、次男・千暁1歳、幸子の妹の節子の5人で暮らす。
首都カウナスでの仕事は、ソ連の情報を集めて、日本の外務省に知らせること。ドイツではヒトラー率いるナチスが独裁政治をしていた。



ユダヤ民族
もとは今のイスラエルの地方に住んでいたが、古代ローマ帝国によって祖国を追われ、ヨーロッパの各地にちりぢりとなった人々。

1939年9月 ドイツ軍がポーランドに侵攻。しばらくして、ソ連軍が東側からポーランドに入って、2つに領土を分けてしまった。
幸子は、千畝が日本の外務省、ベルリンの日本大使館、上司であるラトビア公使宛に書いた報告書を清書した。
コピーなどない時代のため、一字一句間違えずに書くのに苦労した。
家族の小さな楽しみのドライブも、実は戦争の準備の様子などを調べる仕事のひとつだったと後で知った。

1940年 ドイツ軍は、わずか1ヶ月でデンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領。
リトアニア、ラトビア、エストニアの「バルト三国」は、ナチスから身を守るためにソ連と同盟を結ばざるをえなかった。
リトアニアの大統領や政府関係者は、東プロイセンのケーニヒスベルグに逃げ、ソ連寄りの政府がつくられ、国が占領されたも同然となる。
ドイツとソ連は、互いに戦争しない約束の条件として、ポーランドを半々に占領し、バルト三国はソ連のものにすることを暗に決めていた。

1940年7月 領事館前にポーランドから命からがら逃げてきたユダヤ人難民が押し寄せる。
ナチス迫害から逃れ、アメリカ、オーストラリアに行くため、日本を通る通過ビザをもらうため。
以前見た写真は、この様子を節子が撮ったものだったんだ/驚

1935年に「ニュルンベルグ法」が制定され、ユダヤ人は権利を剥奪されていた。
ポーランドには350万人ものユダヤ人が住んでいたが、大勢がナチスによってどこかに連れ去られているという噂も広がっていた。
1936年に日本はドイツと「日独防共協定」を結んでいた。

ソ連政府から、この領事館を8月中に閉めるよう命令されていた。
混乱を避けるため、ユダヤ人から5人の代表を選んでもらい、話を聞いた。
彼らが押し寄せた理由には、カウナスのオランダ領事のすすめがあった。
外務省からの返事は、「行きたい国から入国許可証をもらってない人には、日本入国ビザを出してはいけない」というもの。
当時の外務大臣は松岡洋右。この頃には各国領事館も次々閉鎖され、手続きも不可能だった。

千畝は、眠れないほど悩んだ末、ソ連領事館からソ連国内を通過する許可をもらい、外務省の命令に背いて、通過ビザ発行を決意する。
夫婦はロシア正教信徒。「愛と人道が一番大切」と思っていた。



シベリアのウラジオストックを通って、船で敦賀へ行くよう説明してから、
1日に300枚のペースで書き始め、ビザの用紙がなくなってからは、すべて手書きになった。
1通30銭の発行手数料も受け取るのをやめた。
中には「やっと順番が回ってきました」といって足にキスする女性もいたという。

「カウナスの領事館を閉鎖し、ただちにベルリン大使館へいけ」と最後通告が出る。
千畝はこれまでと思い、モスクワの日本大使館にいる友人にビザ発行を頼む手紙を書き、そこで出されたビザで命が助かった者もいた。
ホテル・メトロポリスでもビザに代わる許可証を手渡した。
ベルリン行きの国際列車に乗る時、千畝を守るようにボディガード役になる人たちもいた。

「スギハラー、わたしたちは、あなたを忘れない。もう一度、あなたにお会いしますよ!」

のちに、この時ビザをもらって国外に逃れたユダヤ人は6000人にのぼると分かる。


************ベルリン

もとのドイツ大使・大島陸軍中将はヒトラーびいきだったが、
次の来栖大使はアメリカ・イギリス寄りだったため、ビザ発行について何も言われなかった。


************チェコの首都プラハ

チェコはドイツの一部になっていた。
1940年9月 日本・ドイツ・イタリアは「日独伊三国同盟」を結んだ。
リッペントロップというヒトラーに負けない力をもつ外務大臣が「退去してくれ」と命令した時、
千畝は冷静に「理由を説明してください」と訊ね、さすがに黙ってしまったという。


************東プロイセンのケーニヒスベルグ 1941年3月



ヒトラー・ユーゲント(ナチスがつくった子どもの団体)の子どもが領事館を訪ねてきた。
一般市民は配給を受け、食料は手に入りにくくなっていた。
ユダヤ人は「ダビデの星」が刺青され、腕章をつけなければいけない。
ドイツ軍は、ソ連に大攻撃し、モスクワに進攻したが、厳冬のため閉じ込められた。
ヨーロッパにいる外交官に「家族を早めに日本に帰すように」と通達がくる。

1941年 日本がアメリカの真珠湾を攻撃。これによって、これまでほとんど知られていなかった日本が世界から注目された。
千畝は「ドイツも、日本も、負けるだろう・・・」とつぶやいた。


************ルーマニアのブカレスト 1942年

 

ソ連軍が、ルーマニア国境をやぶってドイツ軍と戦いはじめ、空襲がひどくなったため、
ポヤナブラショフに別荘をかりて移動する。山の上までは爆撃されないため、町に爆弾が落とされるのを別世界のように眺めた。
1944年 ルーマニア国王は、連合国とともにドイツと戦うと宣言。



1945年4月 ヒトラーが自殺してドイツは敗戦。
家族はブカレストに戻ると、ソ連軍に軟禁されるが、見張りはルーマニア兵士なので、庭で子どもが遊んだりできた。
駐在武官は「捕虜になって恥をさらすくらいなら軍刀で皆を切って自決する。覚悟してほしい」と云う(怖いよ・・・

日本敗戦から3日目、ソ連軍がきてルーマニア軍の兵営に移るよう命令される。
床は土間、木のベッドにワラ布団。そこには、イタリア外交官、ドイツ兵捕虜なども収容されていた。
暗い日々の唯一の楽しみは、みんなで音楽会を開くこと


************日本への帰国の旅のはじまり 1946年12月



汽車からトラックに乗り継ぎ、オデッサに着く。汽車で収容所を転々とする繰り返しがつづく。
持ち物検査では、ヨーロッパで撮った写真が没収された
幸子は「家族が写っているものは返してください」と強く言って適当につかみどりした中に例の領事館前の写真も偶然入っていた!


************ナホトカの収容所

満州にいた日本軍兵士が食事も充分でないまま働かされていた。
外交官には充分な食事が与えられたため、それをこっそり鉄条網から兵士に渡した。


************ウラジオストックから博多へ

興安丸は、引き上げる日本人で満員だった


1968年 イスラエル大使館から電話があり、千畝に会いたいと言ってきた。
68歳の千畝は、日本に帰国後、外務省を辞めて、ソ連との貿易の仕事でモスクワに駐在し、東京と行き来していた。
カウナスでビザを発行した時のリーダーだった、ニシュリがイスラエル大使館の参事官をしていた。
無事にアメリカに渡ったユダヤ人らは、戦後もずっと千畝の行方を探していたという。

1969年 イスラエルに招待され、バルハフティック宗教大臣が迎えた。
ユダヤ人追悼とユダヤ人を救った外国人を讃えるためのヤド・バシェム記念館に案内された最初の東洋人となる。
記念館には「記憶せよ、忘るるなかれ」と刻まれている。

1985年 イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を送られる。
その頃は体調を崩していて、幸子と弘樹が代理出席した。

「きみと結婚して、ほんとうによかったよ」としみじみ言ったのが幸子に言った最後の言葉。
緊急入院して、「ママは?」と聞き、弘樹のお嫁さんが「ママは、いま家に帰っていますけど、すぐきますからね」と言うと、
安心したように眠り、そのまま翌朝息を引き取った。1986年7月。



長男・弘樹くんらが、どの国に行っても、そこの人々とすぐに仲良くなって、子ども好きな千畝さんの癒しとなっていたこと、
幸子さんの妹・節子さんが、夫婦をバックアップして子育てを引き受けていたことも、すべて天の計算としか思えない。

巻末の年表には、本編にはなかったが、1947年三男・晴生が病死、1948年節子が病死、1951年四男・伸生が誕生したとある。
せっかくやっとの思いで日本に帰ってきてすぐ、妹と三男を亡くすなんて。。。


弘樹さんは、現在(1995年)、アメリカで教育、ビジネス関係のコンサルティング会社「エドカム・プラス社」を経営。

「辞書で英雄をひくと“他の人たちに特別なことをした人”とある。
 すぐれた勇気も必要ですし、現実に行動できる力もなければなりません。
 千畝は、6000人以上の命を救うという、ふつうの人ではできないことをしました。
 英雄とはこういう人だと、証明してみせたのです」

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