メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『アウシュヴィッツの手紙 アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪ねて』

2013-09-15 12:38:34 | 
『アウシュヴィッツの手紙 アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪ねて』
平和博物館を創る会/編 平和のアトリエ

読みながら、胸が圧迫されて吐き気がしてきて、とても一度に最後まで読めずに、分けて読んだ。
収容所にいる子どもと母親との手紙を見た現代の子どもが(どうして離れ離れなんだろう?)、
その謎を知るためにアウシュビッツの見学に参加するという設定。
見学の模様の写真、当時文字通り命懸けで撮った現場写真、解放後にソ連軍が撮った記録フィルムからの抜粋等、
さまざまな資料、生々しい写真、収容所にいた人が書いた詩や絵などが紹介されていて、どれも直視できないものばかり。



広島・長崎の原爆資料館と同様のショックを受けた。
大量に殺された事実を知っていただけで、具体的に何が行われていたのか、こうして写真で見る機会がなかったから。
これが本当に同じニンゲンが行ったことなのか、いまだに信じられないでいる。

なにより、ヒトラー個人だけじゃ成し得なかったということ。
収容所は最初から緻密な計画のもとに建設され、組織だった大量虐殺だったということ、
そして、諸外国に対しては人道的な施設として積極的にPRされていたこと、
戦争や貧困などが大勢のヒトのココロを狂気で歪ませていたことを考えなければならない。


【内容抜粋メモ】



広い強制収容所の敷地跡や建物が、そのまま保存されていて博物館になっている。
周囲に張り巡らされた鉄条網には、高圧電流が流されていた。

ドイツはヨーロッパに約1000ヶ所の強制収容所を作ったといわれる。
その中で最も大きい収容所がアウシュヴィッツ=ビルケナウだった。
この収容所は、最初ドイツの占領支配に反対したポーランド人を入れるところだった。

囚人らは新しい収容所建設のために働かされていた。
ドイツ兵であっても写真は固く禁止されていた。
ナチス新鋭隊員(SS)だけが命令に従って写すことが許されていた。

囚人だった人々の顔写真4万人分のネガとプリントが300枚近く残された。
ドイツ軍が慌てて置き忘れた写真やネガフィルムもあったが、囚人の必死の努力で残されたものもあった。
収容所の解放後の写真は、ソ連従軍カメラマンが写した映画『アウシュヴィッツ解放の記録』からコマ撮りしたものなど。

ヒトラーが政権をとった頃、ドイツには貧困、失業者が溢れていて、その不満をユダヤ人に向けてそらそうとした。
まず、ユダヤ人には、銀行家、商人、弁護士、軍人になることを禁止した。


●人々は家畜を運ぶ貨車で送られてきた
もちろんトイレもない。酷い臭気と人いきれ、暑さ、寒さ、屈辱感。病人も出た。
鉄道線路は収容所内に引きこまれていて、そこが終点になっていた。


●ビルケナウ収容所

いまも残る鉄製アーチの正門には「働けば自由になれる」と書かれている。
「絶滅収容所」と呼ばれ、ユダヤ人を消すことを目的に作られた施設。
収容人数は、多い時で14万人。
SSの指導下にあり、将校から看守まで選ばれた隊員だった。


●働けるか働けないかで「選別」された人々
「新しい移住地」と言われてやって来た人々は、働けそうなら小グループにまとめられ、柵の内側のバラックに入れられた。
病人、老人、そして大勢の子どもたちは、煙突のほうに選別された。死か労働後の死かの違いだけだった。
持っていた荷物は一時的に預けろと言われ、その後第三帝国の戦利品となってドイツに送られた。


●名前は番号に変わった
 
はじめは、髪の毛を切られ、3つの角度から顔写真をとられ、番号をつけられて登録された。
その後、写真の代わりに番号を左腕にイレズミさせた。身分証明書の代わりだった。

囚人たちは、三角形の色で分けられた。
赤は政治犯、緑は犯罪者、黒は反社会的行動をした者、そして、三角形を2つ組み合わせたマークがユダヤ人だった。
縦じまの囚人服の胸にマークがつけられた。


●死の労働
最初は「教練」を受けさせられた。
わずかな食事だけしか与えられず、行進したり、飛んだり、転がったり、そして、あらゆる理由で殴られ、蹴られた。
精神をボロボロにし、体力を奪うことが目的。

1日12時間の労働。
労働はおもに新しい収容所の建設と拡張。「シャワー室」と呼ぶガス室も、死体焼き場も、囚人自身によって作られた。
ドイツの軍需工場では、弾丸をつくったり、合成ゴムなどの化学製品の製造、炭鉱などでも働いた。
「カポ」と呼ばれた監視役は、刑務所から選んだ犯罪者集団だった。

「収容所の1日は、点呼ではじまり、点呼で終わる」
囚人の数をつねに正確につかむため。わざと何時間もかけて、ムチで叩き、体力を奪った。
重傷を負った者、死んだ者も囚人が引きずって連れて帰り、点呼にいなければならなかった。


収容所内には作業所に出かける時、戻る時、囚人によるオーケストラの音楽に合わせて行進させられた。
その写真は「娯楽施設あり」という宣伝にも利用された。


●ニンゲンでなくなっていく
「衛生のため」と称して、熱湯か水を浴びせられ、裸のまま中庭に追い立てられ、
汚れて、大きすぎるか、小さすぎる囚人服が与えられる。
使い古しの「木靴」はもうひとつの拷問だった。
元囚人の医師いわく「3~4ヶ月以上生きていることは不可能だった。人々は疲労と過労で死んだ」


●11号棟は「死の号棟」
収容所内の刑務所の役割で、そこに入れられたら生きて出てこれなかった。
10号棟では、医師が非人道的な人体実験を繰り返していた。
11と10の間の中庭では、塀を背にして大勢が銃殺され「死の壁」と呼ばれた。
ほとんどSSの気まぐれで有罪になり、罰を与えた。狙いは囚人たちに恐怖心を与え、反抗心を抑えるため。


立ち牢。4人が狭い中に立ったまま閉じ込められる。


●「浴場」と書かれた棟
70~80%の働けないと選別された人々は、シャワーで消毒すると言われて地下室に向かう。
脱衣所で服を脱がされ、気密のドアが閉まると、降り注いだのはお湯ではなく毒ガスだった。
ガス室には1500~2000人が収容でき、24時間運転する高熱焼却炉では、1日に1100人を灰にできたという


チクロンB。ドイツ害虫駆除協会の製品。


●助け合う人々
抵抗の地下活動が出てきた。
SSの書類、支配者リスト、囚人名簿などは、反ナチ同盟諸国にまで届き、
情報を持って脱走する囚人を助けたり、クスリや食糧、写真フィルムなどが外側から秘密裏に持ち込まれた。
医者を組織したり、音楽家や作家は詩や小説を朗読して聞かせた。人々の精神を保つために。

ワルシャワ蜂起


●消されていった子どもたち

隊員は120cmの棒を吊るして、その下を通り抜けた子どもたちを焼却炉に送り込んだ。
小さな子どもは生き残れるグループに入るために一生懸命背を伸ばした。

収容所が解放された時、約200人の子どもたちが救出された。
その多くは遺伝研究のための双子や、最近収容された子どもたちだけだった。収容所で生まれた子どももいた。


●トイレは1人10秒ルール

1つの木造バラックに、多い時は1000人詰め込まれた。
バラックのほとんどが木造で、土の床はつねにぬかっていて、不衛生な悪臭でみちていた。
3段ベッドの1つの棚に男女が8人で眠る。
悪臭、カポの怒声、シラミやノミの攻撃・・・チフスやセキリ、皮膚病が蔓延した。
ほとんどの人が骨と皮ばかりにやせ細り、解放された時、23kgしかない女性もいた。


4つの病室は名ばかりで、健康な囚人を選んで、皮膚移植などさまざまな人体実験を行っていた。


●ソ連軍による解放はドイツ降伏の3ヶ月前
ソ連軍が近づき、冬に入ると、SSらは囚人を他の収容所に移動させ、バラックの一部を壊しはじめた。
もう列車はなく徒歩のため、雪道に行き倒れた人々が点々とつづいた。

ビルケナウ収容所は、1945年1月27日に解放された。
150万人がここで殺され、7000人近い囚人が残ったが、ほとんどが歩けず、無表情になっていた。
ポーランドに作られたナチスの絶滅収容所では、あわせて400万人が亡くなったといわれる。


●残った略奪品の山

宝石や各国通貨は中央銀行へ、金歯・プラチナの歯は溶かしてSSの衛生司令部へ、
女性の髪の毛は、服地や毛布を作るため、ババリアの紡績工場に送られていた。


『夜と霧』V.E.フランクル著
囚人の体験記として古典となっている名著。


冒頭に紹介された手紙の謎。

占領時代、子どもは学校でドイツ語を教えられ、ポーランド語は禁じられた。
収容所で書ける手紙はひと月に2通まで。収容所専用の便せんで1ページ以内。ドイツ語にかぎる。
ドイツの切手(ヒトラーが印刷された)、特別の郵便局を使うことがルール。

ドイツ語で書かれた上に、ポーランド語が書いてあるのは、囚人による翻訳。
手紙のやりとりが許されたのは、収容所とユダヤ人の皆殺しにウソの印象を作り出す宣伝が目的だった。


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『介助犬ターシャ』(小学館)

2013-09-15 11:09:39 | 
『介助犬ターシャ』(小学館)
大塚敦子/写真・文

こないだ読んだ『ありがとうシンシア 介助犬シンちゃんのおはなし』の著者である木村さんもあとがきに書いている。

【内容抜粋メモ】
介助犬は、体の不自由な人と暮らして、床に落とした物を拾ってくれたり、
必要な物を取ってきてくれたり、電気をつけたり消したりするなどの仕事をします。

 
ステファニーは赤ちゃんの時に事故に遭い、脊髄に大怪我をして右足が不自由になり、
大量出血だったために脳にも影響があり、知的発達が遅れている。
両親も失って、今は新しい父母に引き取られた。



転んでしまうと1人ではなかなか立ち上がれないステファニーを支えてくれるターシャ
バックパックは介助犬として働く時の制服みたいなもの。


  
リフトつきのスクールバスにはターシャも一緒に乗る。
勉強中、ターシャは机の下で静かに待っているが、ステファニーが鉛筆を落とすと拾ってくれる。
アメリカの学校は、車イスでも楽に通れるように通路はスロープになっている。


 
学校から帰って、バックパックを外し、庭で一緒に遊ぶとターシャは大喜び。
バックパックを外してもターシャはいつでもステファニーのそばを離れない。
ターシャの世話は、ステファニーの大事な役目。ブラッシングしたり、ゴハンをあげたり。


 
手紙を届けてくれたり、出かける時にはバッグを持ってきてくれる。
買い物では、お財布をレジの人に渡してくれる。
ステファニーは信号で止まることができなかったが、ターシャが来てからは轢かれたら大変と思って止まれるようになった。


 
ステファニーが家に一人でいる時に床に倒れたら電話を持って来てもらう練習をする。


ターシャは昔、野良犬だった。動物管理施設に保護され、雑種だったが、
大きくて頑丈な体と優しい性格を見込まれて介助犬になる訓練を受けた。


 
訓練してくれたのは、女子刑務所の受刑者・メアリー。
彼女は出所後、ターシャを訪ね、立派に働いている姿を見て誇らしく思った。



ステファニーはターシャのおかげでいろいろな所に行って、いろいろな人に出会い、自信がついた。


【大塚敦子さんによるあとがき抜粋メモ】
女子刑務所の「介助犬育成プログラム」は、1982年に設立されてから今日までに約500頭もの介助犬を育てた。
介助犬になれるのは15~20頭に1頭ほど。基礎訓練には、6~8ヶ月かかる。
無条件に信頼してくれる犬と向き合うことは、受刑者のリハビリテーションにもなる

ステファニーは体が成長しても筋肉が発達しないため、障害が重くなりつつあり、
将来の車イス生活に備えて、両親は介助犬を希望し、2年後、待ちに待った連絡が入る。

子どもが介助犬を扱うことには、犬をきちんと制御できるかどうかという難しさもある。
最初、大人の男性を受け取り手に選んだがうまくいかず、刑務所に戻ってきた。
でも、ステファニーと引き合わせると、指示に喜んで従った。
こうして、利用者と介助犬の相性がピッタリ合わないと、うまくいかないことがある。

いろいろなことを人に頼まずできるようになり、自立の範囲が広がった。
これまでステファニーの障害を意識して遠巻きにしていた人も、ターシャを介して声をかけてくれるようになった。

介助犬はほかの犬とケンカしてはいけないと教えられているから、
ある時、近所の大きな犬がステファニーに飛びかかろうとして、
ターシャが間に入って、ステファニーの代わりに噛まれれたこともあった/涙

ステファニーにとって初めて自分が世話をする対象を持ったことは、大きな自信と誇りとなった。
2人の関係は、まさに対等のパートナーシップといえる。
介助犬の存在は、個人の生活の質を向上させるだけでなく、社会そのものをもっと優しくすることにも役立っている。


【高柳友子さんによるあとがき抜粋メモ】
介助犬の歴史は1970年代アメリカで始まり、現在、アメリカでは約1000頭以上が活躍している。
アメリカから介助犬をつれてきて生活する障害者が現れたのが1992年。
日本で介助犬として働いている犬はまだ10頭に満たない。
日本には、肢体不自由者が約155万人いる(1998年)
介助犬育成には公的援助がないので、ほとんどが寄付に頼っている。

介助犬と一緒に電車や飛行機に乗ったり、デパート、レストラン、ホテルに自由に出入りできないのが現状。
介助犬は、法律で認められていないため、一緒に交通機関や店舗を利用する時には、
何か月前から申請しなければならないこともある。

街で介助犬を見かけたら、食べ物をあげたり、急に触ったりしないで、仕事中は静かに見守ってあげてください。


日本介助犬アカデミー

シンシア日記

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『学習漫画 世界の伝記4 エジソン』(集英社)

2013-09-15 10:47:12 | マンガ&アニメ
『学習漫画 世界の伝記4 エジソン』(集英社)
飯野貞雄/監修

エジソンの幼少期って、『大きな森の小さな家』みたいな開拓期だったのかな。
意外と少年の頃から商魂たくましいというか、発明だけじゃなくて商売上手だったんだね
壮年期の写真はハンサムだし。なんだか昔の人って気がしていたけど、ついこの間まで生きてたことがフシギ。

 

【内容抜粋メモ】
1847年 アメリカ、ミランという町でトーマス・アルバ・エジソンが7番目の子どもとして産まれた。
アルは、なんにでも興味をもって、すべてに「なぜ?」と聞く子だった。

生家は博物館になっている。

1854年 エジソン一家はミシガン州のポートヒューロンに引っ越した。7歳。
翌年から学校に通い始める。教会で教室はたった1つ。先生はエングル牧師と奥さんの2人だけ。生徒も全部で48人。
よく質問するアルを怒ってムチをふるったため、アルは下を向いて絵ばかりかいた。
「1番出来が悪い」とか「あなたのお子さんの頭は腐っている」とか牧師が言う言葉じゃないよね
母は3ヶ月でアルに学校を辞めさせ、自分で勉強を教えた。母は元小学校教師。



アルは野菜を作って町に売りに出て小遣いを稼いだ。
また、デトロイト公共図書館の本を一番下の棚から順番に全部読んだ(これやってみたい・・・

1859年 汽車が好きなアルに、車掌スティーブンソンさんは、車内でキャンディや新聞を売る仕事を任せる。12歳。
しかし、乗り遅れてしまったアルを車掌が引き上げた際、耳を引っ張ったため、大きな音でないと聴こえなくなってしまう

1838年にモールスが電信機を発明してから、電信技手は当時の子どもの憧れの仕事だったため、
アルは電信機を夢中で学び、手荷物室を借りて「走る実験室」にした。

1861年 南北戦争勃発
アルは1駅ごとに値段をあげて新聞を高値で売った。
自ら編集もした「ザ・ウィークリー・ヘラルド」は大好評だった。
リンの瓶が割れて火事を起こしたことで実験は止めさせられたが、新聞売りは続けさせてもらった。

1862年 駅長の息子を列車事故から助けたことで、駅長の家に住み込んで勉強し、二級電信技手となる。16歳。
1864年 駅長の推薦でカナダの大きな駅の電信技手として勤務するが、退屈したため、
時計と組み合わせて自動的に電信機を打つ仕掛けを考案。これが発明第一号。
貨物列車が正面衝突しそうになったことで罪に問われそうになり、カナダからアメリカに逃げ出し、4度会社を変えた。

1865年 ウエスタンユニオン電信会社のシンシナティ本局に勤務。
発明に夢中でリンカーン大統領暗殺のニュースにも気づかず、もっと勉強するため都会に出て、一級電信技手となる。

1868年 ボストンで投票記録機を発明。特許第一号になったが実用化されなかった。21歳。
1869年 ニューヨークに行き、友人の紹介でポープという電気技師の会社の電池室に泊まる。
送信機の故障を直したきっかけで月給300ドルで雇ってもらう(実際はバネが外れていただけだった

社長が会社をウエスタンユニオンに売ってしまったため、「ポープ・エジソン会社」として独立。
ウエスタンユニオン社長から相場記録機の修理を頼まれ、4万ドル支払われた/驚

1871年 ニュージャージー州のニューアークに研究所兼工場をつくる。24歳。
平均睡眠時間は3時間/日。1日5、6回30分ずつ研究所の床や机の上で眠っていた
モールス信号でプロポーズして、メリー・スチルウェルと結婚(当時15歳
エジソンは、自分の名前も忘れるほど研究に夢中になっていた(

母死去。

1876年 メンロパークに新しい工場をたて、電話の研究を開始。
ベルとグレーが電話の発明を宣言していて、ベルが先に完成させた。
2人は電話の権利をめぐってしばらく争うが、ベルに権利を譲った。

1877年 炭素送話機(今のマイクロフォンのもと)を発明。30歳。蓄音機も発明。



1878年 疲れから病気になる。

1879年 白熱電灯を発明。日本では「あかりの日」
ガス灯は火事になりやすく、嫌な臭いがする、アーク灯は明るすぎて普通の家では使えない。
エジソンは、フィラメントの研究をして、6000種類もの植物を調べ、京都の岩清水八幡宮にある竹が最適として輸入した。

京都の岩清水八幡宮にはエジソン記念碑がある

1880年 アメリカで最初の電気機関車、電気自動車を発明。

1882年 白熱電灯用の中央発電所をつくった。
ロンドンの博覧会にこれらの装置を出品し、世界中に名前が広まった。

1883年 「エジソン効果」が発見された。36歳。
「エジソン効果」ラジオやテレビの真空管のもとになる

1884年 3人の子どもを残して妻メリーが腸チフスで死去。

1886年 ミナ・ミラー(18歳)と結婚(ロリコン?
1887年 ウエストオレンジに研究所を移転。
1891年 キネトグラフを発明。
「キネトグラフ」連続した写真をとる機械。

1893年 映画用スタジオをつくり、世界で初めての映画をつくった。サイレント。
世界最初の連続フィルムが「くしゃみの記録」てw

1896年 エジソンの会社の発電所の主任技師として働いていたヘンリー・フォードに会い、のちに親友となる。
1909年 エジソン式ニッケル・鉄・アルカリ電池を発明。
1910年 円盤式レコード、組み立て住宅を発明(のちのプレハブ住宅のもと
1912年 キネトスコープと蓄音機をつないでキネトフォンを発明(現在の映画のもと



1914年 研究所が火事で全焼。フォードはエジソンに75万ドルを貸した。

新聞や雑誌の投票で「最大の市民」「最大の功績のある市民」として選ばれ英雄になった。
インタビューで「はたらくこと、発明とは?」と聞かれて、
「自然の秘密を解き明かして、それを人間の幸福に役立てること」
「成功の原因は?」「天才とは99%の努力と、1%のひらめきだ」と答えた。

1929年 電灯50年祭にて演説後に倒れる。
1931年 突然体が弱って死去。84歳。その夜10時にアメリカ中の家庭で数分間電気を消し死を悼んだ。


【飯野さんによる解説抜粋メモ】
19~20Cにかけて石炭で発電する電気が機械に利用されはじめた技術革新の時代。
エジソンがとったアメリカ国内の特許数は1099件。


南北戦争から近代ってものすごい発明ラッシュだったことが分かる。
1893年 ディーゼルがディーゼル・エンジンを発明
1895年 マルコーニが無線電信を発明、レントゲンがエックス線を発見
1896年 キュリー夫人がラジウムを発見
1903年 ライト兄弟が人類初飛行に成功
1938年 熱の出ない蛍光灯がアメリカで開発された

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