人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神との縁

2023-06-20 09:28:01 | 
私はこのブログを始めた当初こそ、さも所謂覚醒体験を奨励しているような記事を書いたりしてましたが、そうした体験のみに囚われ、追い求める風潮にとても違和感を覚えた時、全身、全霊が震えるようにも...そう、そうした体験に特有の、あの感覚を伴って気付かされたことがありました。
それは、神的なハタラキ無しには起こり得ないという、全く当たり前すぎるようなことだったのです。
その感覚とは、まさに私が“神の手に捉えられる“と呼んでいるものに他なりません。
そういうことは神の意志が働くのは言うまでもありませんが、又神との縁というものがあるのを強く感じています。
それは、“そうだ、これだった!“というキョーレツな想起がもたらされることによるのです。(私はここで、あるいは“過去世“の存在を仄めかすことを言っているのかもしれませんが、本当のところは分かりません)
然るに、こういうことを離れ、蔑ろにして、究極の悟り、完全覚醒を目指そうなどという、我意に駆られ、慢心した心的態度からは、“狂相“の道しかイメージに浮かんで来ません。
先とは違った意味で、“いい加減に目を覚ませ!“と叫びたくなろうというものでしょう!
神との縁...母がよく“神様は居るのよ、お前は守られているのよ!“と言っておりましたが、神という言葉は知らなくとも、私は物心ついた時からそうしたものを感じていました。これがあの想起をもたらすのかもしれませんが...
しかし、普通には自分は神との縁があるかどうかは分からないものですね?
だから、その気があれば、ものは試しでもいいから祈りをしたり、神のことを思ってみたらいいのです。
もし、それがごく自然に、“す~っ“、と入って行く感じがしたり、何よりもそうすることで、安らぎや喜びが感じられるようならば、あなたは神と縁があるのは間違いないでしょう。
そして、あなたにそういう、神縁、神慮があるならば、起こるべき時には、精神的目覚めも起こるでしょう。
しかし又、私なんかは、神縁の無いものなど一人も居ないと思っているのですがねえ?
だって、誰も生まれ出て来れないはずじゃありませんか?
神といってもこの場合、あなたが直接つながる、縁の深い神のことであるのは言うまでもありませんが!...“えっ?“
...という訳で、まあ、過去世とか分からないことはいいから、今生で神との縁を深めたらいいのでしょう。
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死んでみなきゃ分からないが...②

2023-06-18 09:44:14 | スピリチュアル
昨日の続きです。
人の個性は、死後全体意識というか、大本の意識のようなものに還元されて、消え去ってしまう、という説も根強くあるようなのですが、そう言ったり、信じるのは勝手でしょうが、本当のところは死んでみなきゃ分かりません。
だからこういうことは、生きている人がそれに近いような体験をし、それを通して類推するしかないのです。
おお、そうだ!、“臨死体験“ってヤツだ!...それは正に生きている人間にしか与れないことに違いないんですよ!...死人にクチ無し。
で...その大本の、私はよく“普遍意識“と呼んでいるのですが、“普遍性“というものを抽象観念でなしに、自己意識と分かちがたく、目の当たりに感じたことからそう表しているのです。
こういうことは、個性の拠って来たる、その自己がそれに完全に還元されてしまえば、こうして表現すること自体、不可能なのです!
つまり私は普遍なるものと一つとなる...そういう状態に帰ったということ...正に“回帰“したということをキョーレツに感じたのです。それが自己なるものの本来性と言えるでしょう。
そこでは、自己の後天的要素、“何の誰べい“という一個人性はその普遍意識に還元されるように、後退してしまいます。
自己は、その普遍意識に、正に“つながっている!“という帰属感というものもあるのですが、それとは別に私は私である、という後天的なものでない、適切な言い方は難しいのですが、本来的な個性というものもキョーレツに感じているのです。(“別に“、というのは感じ方を言っているのであり、実際は一つのものなのかどうかは分かりません)
つまりこのことは、この言い表し難い、“すべてで一つ“、ということを目の当たりにさせるものは、どこから来るのか、ということを言いたいのです。
そして、そうした“すべてで一つである私は生き通しのもの“、という感覚がもたらされるのです。
この感じは、思考機能が後退した、純粋意識が顕わになった状態にあってのものなのであるのは言うまでもありません。
だから、“すべてのカルマを清算しなければならない“、とか“すべてのチャクラを開かなければならない“だののことは、思考の産物だということが分かるのです。どっからもそんな思いなど出てきゃしません!
しかしながら、上記したようなことは、“目のまだ黒い“宗教やスピに関心を持つ方なら、私もそうであるように、一度はどっかで聞いたかして、そういうものに与りたいと、いや、帰りたいと思っているのではないですか?...
本来の自分とは、あらたに獲得したり、到達するようなものでなく、顕わになっていないだけで、元々ここに在るのです。
何度も言うように、死んだ後のことは分かりません。多分、誰にも分からないようになっているのでしょう。
しかし、少なくとも生きているうちからその未知なる世界についての、なにがしかのことは感じることは出来るはずです。
そして、それは人生をより広く、深く、より幸福に生きることにつながるのではないでしょうか?!
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死んでみなきゃ分からないが...

2023-06-17 09:47:17 | スピリチュアル
何度となく言うように、私は死後の世界や前世のことなど、それ自体を否定していません。
ただ、そういう不可知な、不確定なものを確かなものと妄信することに否定的なだけです。
いや、自分自身ではそうしたことについて、揺るぎない確信めいたものもあるにはあるのですが!...しかし、公には上記したような次第なので、そういう思いは引っ込め、自分の見解を表す際には、“これはあくまで私の想像ですが...“という文句を必ずつけ加えたりしているのです。
そういう訳で、今日は人間の個性というものは、死後存続するのか否かについて感じていることを記してみたいのですが...結論はやっぱり死んでみなきゃ分かりません!(ちょん!)
というよりも、まず個性とは何か、ということから触れないとならないでしょうが、性格とか人格とか、もう面倒くさくなりそうなので、それはここでは、後天的に形成されるものでなく、持って生まれたもののことだと言ってしまおう!
後天的なものは多分、死後(それがあるとして)残らないだろうことは、大方の人も感じておられるでしょう。(これは、死とはどういうものか?、という命題にも関わるものでしょうが、ここでは触れない)
そして、固有名詞で呼ばれるような私は、死を待たずとも、表層意識(思考)が後退して純粋意識が目覚めた時に希薄になり、代わってそれまで隠れていた、持って生まれた自分の個性が顕わになるのです。
私は何を感じて生きて来たのか?、私でなければ感じられない、他の誰でもない唯一無二の私!
それは、個性の拠って来たる源でなくて何であろう...
持って生まれたものには、何一つとして、無駄な、無意味なものなどありません。
ただ、その表に出て、分化したものと、その本来性には感じ方として大きく異なったものがあるのは言うまでもありません。
それで、私もそうでしたが、“それまで自分だと思っていたのは幻想であり、本当の、本来の自分に目覚めた!“、と感じたりするのです!
そして、その本来の自分は、何か生き通しのように感じるのです!...だから私は、“もうここで果ててもいいや!“と感じて、死の恐怖が消えてしまったのです!
と...件のことについて、到底一口で言い表すことは出来ないものながら、これで結論めいたことを言ったことになるでしょうか?
いいや、それはあくまで、まだ目の黒い私が言っていることに過ぎないのですよ!
一つ言えることは、このことは、“表層の思いがすべて“と思い込んでいる向きには、それを超えたものがあることを知る契機となるということでしょう。
そして、又それは、こうして“生きている“人間にとって、計り知れない恩恵をもたらすものであることは間違いないでしょう。
そしてそしてこのことは、どこまでもあなた自身の問題であり過ぎるのです。
“これが霊界の、輪廻転生の真相だ“、などとどんな他者の言葉も鵜呑みにしてはなりません!(深く共感したのなら、それを自分の奥深くで感じていたらいいでしょう)
一体、いつまで自己の内奥からでない、中身の無い思念世界をぐるぐる回り、輪廻に迷い続けるつもりなのか!
何年後だと!...バカを言うな!、最後の審判は、ずっとその終わりなき輪廻と隣り合わせなのだ!
だから、人間は、生きても死んでも目覚めなければならないのです!
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直接的に知ること

2023-06-16 09:22:42 | 雑感
あの反面教師の画伯が自身のブログで、“一般的に言って“と切り出して、死後の世界のことに関したことを書いておりました。
私はてっきりそれについての一般論を引き合いにして、それを自分で検証をするものだと思ったのですが...
これまでと同様、まったくそういう主体性を持った考察など展開されず、いつも通りの誰かの説に迎合して、ただ“そう信じたい、信じさせられる“ことにつなげられてしまうのでした。
ずっとこうした思いのクセ(流転する思いの輪廻)から抜け出すことが出来ないようで、信じやすい人間の心の闇を見るような思いにさせられました。
一般的な話をするんなら、信じたい思いは、引っ込められてなければオカシイ!
それで何?...死後、人間の個性は存続するかどうかって?
あのね、何で目の黒い人間が、決めつけたこと言えるか、ってんですよ!
この御仁は、どうか?も何も、信ずる観念に支配されていて、“死後の個性の存続“のためにも“覚醒しなければならない!“のだそうです。
いやだから、こういう幼稚な心的状態から目覚めることが先決でしょう。
決めつけたこと言えば、そうでなきゃ、純粋意識の目覚めの契機など絶対に開かれる訳無いのです!...それは、まったく持って、自己自身に直結したものなのだから!
本当にスピリチュアルなことというのは、神についても、霊的存在とされるものでも、決めつけたことは言えないはずなのです。思いを超えたものなのだから!
多分、実証に基づいた結論は出ないだろうけど、検証、考察は大いに為されるべきだと思います。
もっとも、そういうこととは別に、自己自身に直接感じるということはあります。
それは、頭だけの、よそからの情報から知り得たこととか、そんなペラペラなものとは比較にならないほどのインパクトを持っていたりします。
ある意味では、自分自身の結論ともなり得るものかもしれません。
しかし、それは言うまでもなく、他の人、あなたにとってのものじゃないのです!
私があなた自身の結論らしきものが分からない如く...それが“直接的に知る“という意味なのです。(これに基づいた考察こそが、今一番求められるものではないでしょうか?)
そういう意識状態に目覚めることがつまりは、覚醒、エンライトメントに与ることなんだ!
...っていうような暗黙の了解ってありまっしゃろ?
一般論かもしれませんが?!...
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真理の探究と幸福

2023-06-14 09:30:29 | 求道、探究
宗教やスピ、特に哲学など精神的な道では、その目的として真理を得ることと捉えられていることが多いようです。
中には、真理を探求すること自体が目的のようになっている例もあるでしょう。
私自身そういうことに熱くなったことのあるクチなのですが、よくよく考えてみたら真理を獲得するとか、到達するということがどういうことかよく分からないのです。だからとりあえず探求しているのでしょうね?(笑)
最初の頃は、スピ的な本などに“この世界には見える世界だけでなく、霊界という見えない世界があるのです!“、と書いてあるのを読んで、“そおだったのか!“、と短絡的に分かったつもりになってしまうものですね。
それは、ただそう書いてあることを頭で分かっただけで、自分が直接真理を知り得たことでもなんでもないのです。
だんだん、そういうのは、真理に到達することじゃないってことが分かってくるのが普通でしょう。
そして、もう一つ分かってくるものがある!...これがなければ、真理の獲得はおろか、探求もバカバカしくてやってられなくなるであろうものです!
それは、そのプロセスで得られる、喜び、愛、平安といった幸福感と結びつくものです。
それは、言うまでもなく頭で理解出来るものじゃありません。感じるもの、感性にうったえてくるものです。
あくなき真理の追究...それは多分に知的な興味から為されるものですが、それに果たして何の意味があるのかと、知的に考えてみると...何のために?...考え続けるだけ空しくなってきやしませんか?
どこまで行っても頭の中の追究ごと...そこにはオチるということが無いのです。そしてそれは不幸なことです。幸福に与ることが出来ないということは!...
心が愛、平安にある時、安らぎがある...心はそこに落ち着くのです。
この意味で、真理の探究の目的は幸福に与ることとは言えるでしょう。
ということは、愛、平安と切り離された、抽象的なだけの真理というものは無く、頭の中だけの真理の探求なんてのはあり得ないのです。
もっとも、私も経験がありますが、そんな中にも、単なる知的好奇心が満たされたものでなしに、“これが真理なんだ!、幸福なんだ!、と感じることもあるものですが、これが知らずにそういうものを感じているということなのでしょう。
そういうことはね、何か惹きつけられるようにも、最初から感じていたりするものなんですけど...それが私がよく言っている、見えない導きというものなのでしょう...。

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