人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと全託

2021-07-14 11:24:28 | 人生の教師
言うまでもないことですが、私が言っていることはすべて正しいとは思っていません。
間違っていることもあるかもしれません。
でも正しいかどうかは分からないけど、どうしても言わざるを得ない、何かに迫られるような感じで言い表してしまうこともあるのです。
しかし、それもあくまで私の個人的な観方、感じ方を伝えているにすぎないので、(誠実な人間を気取る訳でもないですが...)それについてどう感じ、判断されるかは読者の自由なのです。

五井先生が伝えていたのは、祈りの道であり、その「世界平和の祈り」の行をし続けていたら、いつの間にか神への全託の道が開かれると言われています。そして、悟道、本心の座も開かれるのだ、と。
この行とは多くの場合、白光の会員ならご存じのように、五井先生のその口笛や柏手による誘導のテープを聞きながら行うという形を取っているのです。
しかし、私はあまり熱心に行じたことがないからか、自分の内側が開かれるという感じを受けたことがほとんどありません。
その理由として、どうしても外から伝わる音声に意識が向かってしまい、内側に向けられることが無いからではないかと思われます。
テープを用いない場合であっても、やはりそういう感じには中々ならないのですが、この理由は、"世界平和"というものが、どうにも抽象的な感じを受けてしまい、それがダイレクトに自分とつながる感じがしてこないためだろうと思われます。
五井先生は、初めは、"守護霊、守護神への感謝"ということを主眼にしていたのですが、後からそれに"世界人類が..."という文言を付け加えて生まれたのが「世界平和の祈り」なのです。
これは、段々、混迷の様相を呈する世界を救済するという意図から、本心開発の道にプラスして、外向きの"世界平和"の方に意識を向けさせようとしたのでしょう。
しかし、私には、それで内的に深まるという感じもしてこないし、抽象的な世界平和のことにも意識が向かず、意識が分散されて何とも中途半端な感じがしてしょうがないのです。
ここで、一人一人の現実に向き合ってみましょう。この二つの軸で、自分自身、どちらに意識が向きますか?...私の場合、世界がどうとかなるということは、非現実的にしか思えず、すぐに実現しそうな方にどうしても向いてしまうのですが...
この行を通じて、果たして何人の人が本心を開発出来たかは知る由もありませんが、私はあまり聞いたことがありません。
(某宇宙人画伯のように、"誰でも祈っていたらチャクラが開き、無理なく悟りが開かれるのですi"、などと宣っているのは、何の根拠もないことを盲信しているだけで、自らが迷い続けていることを表明しているだけでしょう)
こんな風な訳で、私は五井先生の提唱する主たる行には、あまり信頼を置いていないのです。
しかし、先生の著書を読めば、随所に祈ることで、全託の道が開かれるとあります。
ある時、私はそのところを読んでいるだけで、私の内なるものが開かれて、すべて任せられるという感じに導かれたことがあります。
"そんなことで、そんな風になる訳が無いだろi"、という向きは、意識が思いを超えたものに向く、向いてしまうということが、どういうことか理解していないのですi...私が思う、行う何かで、そうなるんじゃありませんi
私の思いを超えたものそのものによって、自ずから開かれるのです。
そうなると何をどう祈るというもので無しに、形の無い祈りが始まり、もう全託するしかない状態に導かれてしまうのです。
この祈りは、要するに祈りとも言えないもので、ダイレクトに私の実存に即したものであるのは言うまでもありません。
そこで、私は「世界平和の祈り」の行に限らず、すべての形ある行というものは、方便であると理解したのです。
方便に囚われることは、本末転倒ではないか?、自分に合わないものをいつまでも無理にし続ける必要はありません。
囚われないということは、自由であるということです。自由でなければ、どうしてすべてを任せられる、全託の道が開かれようか?
もし、五井先生が目の前に居たとして、私が先のように、"私にはあの行は合わないようなのですが、どうしたらいいでしょうか?"と尋ねたら、おそらく先生は、"あなたの自由に、好きなようにやったらいいんだよi"、と言われるのではないでしょうか?
そうなったら、もう直ちに何かが始まる予感がしちゃいそうですi
私は先生自身、その行というものにさほど拘っていなかったのではないかと思います。
とにかく、これも随所で言われていたように、"思いを神に向け、神の中に入れちゃうのですよi"、ということを主眼にしていたのではないでしょうか?
これはズバリ、神に意識が向く、向けられるということに他ならないのです。
こういうことは、五井先生に導かれたことが少なからずあるのです。
私は、表向きの五井先生よりも、隠された裏側の五井先生の方に同調していたことを強く感じています。

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本心に誠実であること

2021-07-12 11:50:57 | 求道、探究
精神的な道においては、思いを超えたものに与ることが極めて重要であることは、クドイほど言っていることです。
言うまでもなく、それにより自分の思いと、それを超えたものとが識別されるのです。
これが分からないと、いつまで経っても、思いの世界にすぎないものに真実性があると"思い込み"、何らかの発信をしている人などは、自分も迷い、周囲の人間も迷わせ続けることになるのです。
その多くの場合、自分自身が確かめた訳でも無いのに、例えば、霊界や何次元の世界のことや、悟りに至るには何段階も踏まなければならないとか、(某宇宙人画伯が信じているように)それには通常言われるチャクラの他に、霊的なチャクラを開かなければならない(肉体的なそれもよく分かっていないにも関わらず、そんなものは聞いたことないi)とか...他人の言葉の受け売りが持ち運ばれ、それが又不特定多数の人間へと"安売り"されてゆくのでしょう。
ある教師に信従したり、ある教えに依拠してゆくこと自体が悪いこととは思いません。
しかし、誠実な人間であるならば、人の言葉を借りるにしても例えば、これは誰それの言葉であることを明示し、自分自身にはその真実性は分からない、従ってその取捨は、各人の判断でゆだねられるべきことを表明するものでしょう。
こういう例は、滅多にお目にかかることがありません。
かくして宗教、スピ界隈には、盲信、狂信、虚偽、盗用...がはびこり、スピリチュアルなものこそは、リアルなものであることを見えなくさせてしまうに至るのです。(もう、この界隈は、死霊のさまよう、精神の墓場と化したようではないかi)
要するに、かような思念、観念の奴隷とは、没個性的な集合的観念に取りつかれ、自分自身に向き合い、そうあることが出来ない人間、主体性の欠如した人間なのです。
こういう人は内省することが出来ません。
自分が信じ込み、発信していることが、本当に自分の心の底からの表れなのだろうか? これが蔑ろにされるならば、"本心"の開発、悟りといったことなど、その入り口にも立っていない、ということを知るべきなのですi
誠実であることは、他人にも自分の本心にも誠実であるということです。これはモラルの問題ではありません。
"私は本当は何も知っていないi ...私自身のことが分かっていないのだから..."
このような自覚から、思いを超えたものへの道が開かれるのです。
それは、自分の限界が示される、ということに他ならないのだから...そこに超えたものが予感されるのです。これは予断(他から持ち込まれる、思い込み、定見)を許さないことなのですよi
いつも言うように、こういうことは、思われた、考え続ける自分からは開かれません。
しかし...自分自身、本心に誠実であるならば、神の方があなたを放っておかないでしょう...。
本心と神的なものとは切り離されないものなのだから...。
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神は在る

2021-07-11 06:02:43 | 独語
神は本当に居るのかどうかは分からない
それが何であるかも分からない
神とは何か?
考えない訳でもない
それは、霊的な何かなのだろうか?
霊的なハタラキとは?
しかし、考えようとすると...
あれあれ、考えていたことがこの身に...
ああ、神よi...
考えられなくなってしまう...
思いで追うことが出来ない
神に向かおうとしたものが、向かう先に...
向かえ(迎え)られてしまう
捉えようとして、捉えられてしまう
何も考えることはない
心が休まり、充足してしまうから...
考えられない、考えることがないということは...
ゆだねる、任せるということ
神、霊なるもの、聖霊、現臨、祈り、全託...
どの言葉が、即時に浮かぶだけで...
考える先に、迎え入れられる
考え、問う先に在るもの...
ああ、神よ...

神とは何か?
その問と答えは、
問うものも、答えるものもなく、
愛、平安...
在ることのうちに消え去る...


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心の底から思えること

2021-07-10 10:08:27 | 宗教
私が昔と今とで言うことが全然違う、まるで別の人間みたいに感じるのは、宗教教団、特にカルト的な傾向を持ったものに対する観方でしょう。
学生時代入っていたM教団などがそうだったのですが、多分私は半分くらい洗脳されていたと思います。
半分くらいだから、そこから抜け出せることが出来た訳で、内心では教団の教え、在り方に疑問を感じていた、という部分もあったのです。
ここで説かれている神こそが正しく、その教えに依らなければ救われないのだ、と言う...果たして本当にそうなのだろうか?
イチイチ、細かいことで、守るべき正法があり、それに背けば神から戒告があるのだ、と言う...神は本当にそんなことされるのだろうか?
私には、心の底からそういうことは思えなかったのです。ということは、既にそう思わせるものが私の中にはあった、ということです。
それは、その前から漠然と、自分なりに信じていた神についての思い方であり、それに照らされてそう感じてくるようなのでした。
しかし、それも周りがそう言っているから、従っているからということで、仕方無しにそれに準じていたのでした。
そうなってしまうのは、自分自身に自信が無かったからです。だからその教団にハマってしまう訳で...
内心はそう感じているのに、教団が言っていることがホントだったらどうしよう...それに自分の思い、我を出したら、正法に違うことなのだからいけないと言われているし...こういう葛藤があったのです。
私は自信が無かった...又視野が狭かった、教養が無かった...本など丸一冊読んだことも無かったのです。今とは別人みたいi
この半マインド.コントロールから抜け出せた切っ掛けは、ほぼ同時に起きたことで、学園祭の催しで、他の教団が同じように"手かざし"をして、悪霊追い出しをしている動画を観たことで、その教団の独善性が薄らいだことと、教団の後継者を巡る分裂騒動を目の当たりにしたことでした。
それで、私の教団に対して抱いていた思い込みの基盤は、一気にグラついてしまうことになったのです。
他からもたらされる思い込みなど元々基盤など無いのです。心の底から思える、感じるものではないのだから...
カルト思考にハマる人間は、思考に偏向があるということですが、今日のようにネットなどで、様々な観点からの情報に接することが出来る状況にありながら、何故そうなってしまうのかが不思議にも思えます。いや、そうだからこそ、容易く自分の観念に見合った情報に飛び付いてしまうのでしょう。
そこに本当の基盤というものが無いまま、その不確かな言辞に乗せられてしまうのでしょう。
そして、その定見に基づく信念によって、確固たる基盤を築こうとするのですが、それは観念による幻の基盤にすぎません。
彼らは、本当に心の底からそういうことを信じているのでしょうか?
自信を持って、これは私の真実の声ということが言えるのでしょうか?
あるいは、心の底から思えるものを感じられなくなってしまったのでしょうか?
そうなったら...信じる神でなしに、自己と切り離すことの出来ない、実存的な神に聞くしかないでしょう。
今の私は、ナチュラルにそうせざるを得ません...。
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本来的に分かること

2021-07-09 12:07:11 | 雑感
こないだ緊急事態宣言が解かれたらと思ったら、又四度目の発令となるとか...
何度目でもいいが、コロナは一度だって終息などしてないじゃありませんか?
いい加減、こういう不正確な言い方、何とかならないものでしょうか?
要するに、コロナのことは分からないことだらけなのでしょう。分からないことを分かったようなこと言うから、不正確にしか感じられないのです。
こういう状況下でオリンピック? 是非はともかく、今は開催目前にして事は進行しているのですよi...やる、やらないって今頃何を言っているのか、無観客でやる方針ってのが、今頃決まったのか...(まあ、いざ始まってしまえば、私もきっと夢中になって日本選手を応援するのでしょうねえ...これでいいのか? いいんでしょう...優勝出来たとしても素直に喜べそうにないでしょうが...)
コロナ禍自体もそうですが、こういう場当たり的なやり取りを見るにつけ、何だか夢を見ているみたいで、少しも現実感というものを持てません。
まるで、誰かが"船が出るぞう、乗り遅れるぞう!"、と言うので乗ってみたが、それがどこへ行くのか分からない、アヤフヤなところに居合わされているような感じです。
我々のすべての営みにおいて、この現実感というものが、拠り所となり基盤となるものでしょう。
それにより、"私はここに居る"という足場に立てることが出来るのです。現実感覚と実存感覚は切り離せないものです。
これは頭脳知でなく、感覚で分かることなのです。
ほとんどの人はそのことに意識することもなく、当たり前のように感じていることで、これが分からないと、自分の外で飛び交っている真偽の分からない言葉ばかりに翻弄され、難破船に乗り合わされるようなハメになってしまうのでしょう。
コロナを巡っての、こういう現実にあってこそ、"本来的に分かること"に立脚することが大事です。
世の中がこうなってくると、昔から変わらない花や、動物などの画像や動画などに接して、その美しさ、可愛さがより一層リアルなものに感じられます。
これは、そう感じている自分が意識されているということでもあるのでしょう。
本来的に分かることは、そのことをアレコレ考え巡らさなくとも、自然と意識が赴くようなことで、自分が喜び、幸福に感じるようなことです。
これに反して不安、恐れに感じることは、考えても分からないことなのに、考えてしまう...それで考えて自分なりの何らかの結論に至ったとしても、多くは本当の真実は分からないのです。
かくしてアヤフヤな、他人が、世の中がそう言っている話で溢れかえっているのです。
夢のような世の中で、夢のようなオリンピックが開かれようとしてますが、コロナはコロナ、これはこれ..."夢中"で応援している時は、多分夢のようには感じないでしょう。
そういう自分に、"私はここに居る"、という実感が呼び覚まされることもあるかもしれません。
オリンピック開催が良いのか悪いのかは分かりませんが、そのこと自体は、本来的にいいことなのでしょう。

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