人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

戦慄の世界戦

2015-05-19 15:13:07 | 回想+音楽館
この連休中はボクシングの世界戦ラッシュで、それもKO勝利が多く実にその醍醐味を堪能させてもらいました。
(米国でも”世紀の対決”と評判になった試合もありましたが、対戦した両者はとっくにピークを過ぎており”これがそんなに騒がれる試合なのかなあ”と思いましたが…)
現在のボクシング界は団体も階級も複数化しており、レベルを云々されることも有るのですが、それらを割り引いたとしても内山高志選手や山中慎介選手などは歴代でもトップクラスの実力者だと思います。
ところで最近実に51年!ぶりに世界タイトルマッチの映像を見る機会が有りました。
昭和39年春に行われたフェザー級戦で、この年は私にとり何もかも初めて尽くしだったのですが、生まれて初めてしっかり固唾を飲んで観ていた試合として記憶されているのです。
挑戦者は関光徳。この時点で東洋に敵なしと言われ、実力はありながら王者になれなかった悲運のボクサーとして語り続けられている選手です。今のように幾つも王座が有れば…3階級制覇くらい可能だったかもわかりません。
して、相手のチャンピオンは…(これが悲運の所以です)ウルチミノ・”シュガー”・ラモス。キューバからメキシコに亡命してきた強打者で、唯一の負けは失格負けだけという実質無敵の王者です。しかもリング上で二人も死に追いやっている本物の殺人パンチャーときてます!
私はこの試合を51年前、テレビで見ていて戦慄が走って(寒い夜だったと記憶してますが)寒気を感じ、まるで悪夢にうなされるような気持ちで床に就いた想い出が有ります。…6ラウンド、関はラモスの強打をまともに食って仰向けにダウン!やっとこさ立ったもののさらに追い打ちを食って又同じようにダウン!その瞬間関のコーナーからセコンドが駆け寄り棄権してしまいました…
”関が呆気なく負けてしまった!ラモス!何という強さ、恐ろしさだ!コイツに勝てるヤツは当分居まい!”と思ったものでしたが…(実はこの半年後、ラモスと同じく無敵の新鋭サルジバルに王座を明け渡し、意外な短命王者に終わります。関はこの二年後メキシコでこのサルジバルと激闘を演じます。)
改めてこの試合を観てみると、どうもあの時とは印象が違いました…ラモスは成程いかにも強打者という感じだが、力任せで動きも単調に見えます。ボクシングはやってみないと分からないですが、多分今のトップクラスのボクサーには通用しないと思いました。理由はジャブが少ない、”イン”、”アウト”のメリハリに欠ける、そして何よりスピードが違いすぎる…その点で同じ強打者でも内山選手辺りと違うところです。
ずっと今昔の試合を通して見て、我らの時代の英雄、具志堅用高氏が言っていたことを思い出します。
「ボクシングはヤパシ、シュピードちゅねー!」
それにしても人間の記憶というものは実に曖昧なものですね。
長いこと私の中でほとんど神格化…と言ったらオーバーですが、”こりゃあ、強ええ!”と思っていたボクサーも改めて見ると平凡なボクサーに見えてしまう…(ただ試合中何度も”ラモース!ラモース!”と連呼しているセコンドの声は51年前も今も変わってない、と感じました)
過去は”こうだった、ああだった”と我々はその記憶に基づいて、固定したイメージを作ってしまい、残された記録も当然ながら全く同じものの再現です。
いくら繰り返しても同じですね。
だが…我々の感じ方は違うのです。何度同じものが繰り返されようが、感じ方は決して同じではありません。
過去は変えられるのです。それが悪いものだろうと、良いものだろうと…

私は大のラテン音楽フリークなのですが、昭和39年頃には普通に巷にあふれていたと思います。
アップテンポのマンボと並んで定番だったのがボレロというラテン歌謡です。
日本、いや世界にこれを知らしめたのは、ご存じトリオ・ロス・パンチョスです。
確かこの年に来日して、テレビのミュージックフェア(今もやってるお化け番組)かなんかで観た記憶が有ります。
という訳で…アザーサイド音楽館今宵は…(これは何時聴いても”シュガー”だ)

Trio Los Panchos,”Contigo”








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恩寵に導かれた瞑想会

2015-05-17 19:15:43 | 祈りと瞑想
この連休に入った頃から、自由な時間が持てるようになったためか、自然に瞑想心地?、祈り心地?になりやすくなりました。
そんな時、あるブログを通じて瞑想会があるのを知りました。
これが奇遇な事に、その会の場所を知った日、仕事でそのすぐ近くに来ていたのでした。
期日が迫っていたので、もう締切りかな、と思ったのですが、とんとん拍子に決まってしまい昨日行ってきました。
その瞑想は前から一度は触れてみたいと思っていた、アジス・クリストフ~フーマンの系統のものです。
約三時間もみっちり瞑想したのは凡そ18年ぶりくらいでしょうか、さすがに体力の衰えを感じたことはあったものの、テクニカルなものは抑えられ、くつろぎ、デマカセ?(出るに任せるの意)など、自然の流れにそったプログラムが私には良かったと思いました。
まず、本で読んだだけで漠然としか分からなかったプレゼンス(気付き)、ビーイング(在ること)、ハートについて主宰のMさんからの丁寧な説明があり、とても分かり易かったです。
これらのことが偏るとどういう事になるか…枯れ木のようにちっとも味わいが無くなる…宙に浮いて地に足が付かなくなる…フニャッとニタニタ変な感じになる…こうした別の観点から何となく腑に落ちるものが有りました。
実際のワークでは、私は初めて接したのですが、シンキングボールというチベット密教などで使われる鐘?がずっと何とも言えない響きを轟かせているのでしたが、これが実に体に反応するのです。(いや体が…と言っていいかもわかりません)
ただこの聞いているだけというか、それに身も心も任せていると…ヤッパリ始まりました!デマカセ?が…
習った覚えのない太極拳のような体動が自然と起こります。(私はかれこれ10年くらい”やらされて”います)
その後ジベリッシュというデタラメの言葉を発しながらの瞑想では、初めだけ意志的に発していたものが、すぐこれまたデマカセの発声となります。
そしてシンキングボールの音と、デマカセ体動と、デマカセのハミングとの何とも言えない無為?味なコラボにしばし浸っていたのでした。
それは日常の自意識を超えたところで起きるもので、何がどう影響を与えているのか判然としない、その三つの表現が混然一体になってるようでした。
ビーイングの瞑想はただただ安らぐというものですが、ハートの瞑想というのは全く馴染みが無かったせいかちょっと分かりづらかったです。
でも最後のまとめの瞑想に入って、あのいつものバイブレーション、恩寵に包まれる感じが持てました。
ここでは気づきもビーイングもハートも恩寵の中で一つになってしまう感じです。
こうしてワークを通して学ばせて頂き、改めて人間は頭、体、感性を与えられているものであり、このバランスが実に大事なんだな、とつくづく思いました。
Mさんとは最近巷で賑わしている、一方の観方に偏りがちな非二元的な説き方に対しても意見が合うところもありました。
ここでも”あっち側”と”こっち側”を混同することなく、一寸ブーム?(ホントはこういうのがブームになったら、この世界は終わってしまいかねません…)が頂点になった感のある今こそ、バランスあるスタンスが大切になってくると思います。(勿論私はああいう説き方そのものを否定するつもりは無いです)
又”恩寵か努力か”というのもアジス、フーマンの間では重要なテーマになっていたようですが、私の場合、普段は殆ど努力の事など意識はしてませんし、人に話すことも無いですが、結構猫のように?目敏い努力を怠らないところもあります。
それはしかし、何かに促されるものが有るからなのです。
今回は絶対に”恩寵”が無ければ行けなかっただろうことは確かな事です。
何故ならばブログは”恩寵と共にある”からです?…
(Mさん、又行きます。)







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シタテルヒコの出現

2015-05-13 22:29:46 | 日本的霊性
遅まきながらではありますが、私のブログネームの由来について書いてみます。別に深い意味など無いのですが…
実は当初決めていた名前が有ったのですが、悔し残念! 既に使われていた…それはアマノワカヒコという名です。
この名は日本神話でも悪名高い反逆者、裏切者として知られています。
この神はいわば日本神話のユダみたいな存在なのです。
記紀に依れば彼は、高天原から天孫降臨に先立ち、葦原中つ国平定のために使わされました。
ところがその国のオオクニヌシの姫神、シタテルヒメと恋仲になり、結婚してしまい何時になっても戻ってきません。
そこで朝廷の主神は使いをやって偵察させたのですが、ワカヒコはそれを弓矢で撃ち殺してしまいました。
その血の付いた弓矢が戻って来たのに怒った主神は「ワカヒコに邪な心が有るのなら当たってしまうがいい!」と再び放ち、哀れ彼はそれに射抜かれ絶命してしまうのです…
神話のことなのでこの話にどんな意味が有るのかは分かりません。
ただアマノワカヒコのイメージで伝わるものと言えば、天つ神の分際で国つ神と結ばれ、任務など放ったらかしにして恋愛至上主義に走るエロ神
勝手に中つ国乗っ取りを企てた、謀叛神…というものです。
しかし私は昔からその掟破りの婚姻の話の裏には、天つ神(天系)と国つ神(地系)との和合という意味合いが隠されているように思われてなりません。
ワカヒコ自身にそのような意図が有ったかどうかわかりませんが、平定という名目の神代の朝廷による武力支配で無しに、和合という型が示されたのではないか、そのような神意が働いていたのではないかと感じているのです。
この国譲り、天孫降臨を巡る話には他にも様々な事が秘せられているらしいのですが、私が出雲大社を中心に周囲を訪れてみて疑問に感じたことは、国つ神の中心であるオオクニヌシが何故、ほとんど大社の主神だけで、他の神社ではスサノオ、クシイナダヒメばかり祀られているのか?という事なのです。
大国主とはいかにもとってつけたような名前で、造られた神という気がしてならないのです。
一説ではシタテルヒメの父神はニギハヤヒであるとも言われ、本当の国王を抹殺するために、でっちあげられた可能性もあります。
ニギハヤヒはある筋では、天系地系の和合を地上に満たすべく再び世に顕れる日の出の大神であると比定されています。
アマノワカヒコとはその先触れだったのでしょうか?
勿論真相は神様に聞いてみなければ分かりませんが…

で、このシタテルヒコなるネーミングですが、なんてこたない、この曰くつきの夫婦神の名をくっつけただけです。
実は先の神話の後半に、死んだアマノワカヒコと瓜二つの、アジスキタカヒコネという神が出現するのですが、これが復活したアマノワカヒコと同一
神だとも言われ、もしかしたらシタテルヒコなる別名もあったかもわかりません。
まあ、とっさに思いついたブログネームですけど…

シタテルヒメとは別のところで御縁が有りまして、大阪で働いていた頃丹後の某所で、ある霊感者を通じこの神様のお諭を受けた事が有るのです。
この方こそかつて豊岡の某教会で「要の伝え」という神示を降ろしていたO氏その人です。
確か「めぐる景色は移り変われど、その本にある変わらぬ根をたずねるべし…」という神歌の一節はずっと私の念頭に残っています。







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”が” から ”に”へ

2015-05-11 00:06:42 | 求道、探究
G.Wも終わり、我々は又飽きもせず、毎日の糧のため終わりなき日常に埋没するわけですね?…
”朝っぱら上司からガミガミ…顧客からはクレームの電話が殺到…ああ、もうやってられまへんわ!いや、ダメダメ日ごろの探究は何だったのか! ことはただ起こっているだけ、イラついている私個人何て居ないんだった…し、しかし何とか自分に言い聞かせようとしても、どうもならんじゃないの!ああ、もうスピ系なんかやーめた! アホクサ!”(まあ、このように自分と気付きというものが二つになってしまうのが世の常なんですが…)
ある、ある…勿論私にも…
非二元論者が何と言おうと、我々は二元性からは逃れられない!これが現実じゃないですか?
究極の真理と思しき分離的思考の彼方の世界と、これでもかこれでもかと問題だらけの現実世界との二元世界…。
常識を持った人なら分かり切ったことでしょうが、この二元性を混同したら、多分あなたは混乱した人になるでしょう。
”混乱している”と自覚出来たらいいのですが…
もし、ワケ分かんなくなってしまった時、助けになるのは何かといったら、日ごろウザく感じているこの常識の世界です。
私はつくづく思います。”この現実に存在しているもので否定されるものは何一つ無いんだ”と…勿論いつも宗教とかスピ系で悪者にされてる自我とか思考とかも、です。
むしろ問題の種は、このように否定すべくもないものを否定したり、一元とか二元とか分けられないものを”どっちかでなければならない”ものにしたり、どっちが上だとか下だとか判断したりする事にあると思います。
”オカシクなっちまった”と感じたら理想的な統合的意識でなく、当たり前の分別心というものに訴えるべきなんです。
それがあなたにとってその時の救世主です。
もう少しスピ系的になると、それが自我だろうと真我だろうと”自分はここにいる”という感覚です。
瞑想指導者のK先生は瞑想に関した内面的な話をする際 ”これはあくまで内面の道を歩む上での話です”とこの二元性の混同に留意されていました。
そもそもこうした混同、混乱は何故起きるのでしょうか?
自分というものを起点にして何かを捉えようとしたり、分かろうとしたり、信じようとしたりするからではないでしょうか…
小難しいことのようですが、何か喜ばしいものが突然立ち上がってきた時、それに意識が向かう先にそのものがすでに来ているのです!
要はそれを捉えようとか、分かろうとするのではなく、それが自ずから顕れ出ようとするのに任せればいいだけなのです。
つまり自分でなく、自分なのです。
(私はなるべく例えば覚醒体験などについて”覚醒する”でなく、”覚醒に預かる”という表現を使うのはこのことによります)
そうなれば、ああ、分かっちゃいるのに(ホントは何も分かっちゃいない)何でこうなるのか”という煩悶も無くなるのではないでしょうか。
霊的な進化とか成長とか言ったって、現世で生きてる我々はどの道死んでハイ…です。
自分がどのレベルだとか、そんなことチッポケな自分の分際で分かる訳ないじゃありませんか!
又、ある先生やマスターがどのレベルだとか言ってる向きもあります。
多分そう言う人にとってマスターという存在はオカルト・グッズに等しい、遊び道具みたいなものなのでしょう…
その信奉するマスターがどんなに深みに達していようと、その人は自分に弄ばれるだけでしょう…
自分の中の真の主体は対象には決して上ってきません!
それが上がってきた時、自分も対象も消えます。否定だとかどっちかという判断無しに…
そして、”ああ、何一つ否定されるものも無く、判断も無い…有難いが有るだけなんだ”と感じられて来ます。
捉えようとか、分かろうとかいった自意識的なものと違って、感じることは無条件です。
それは例えば、職場のクソ面白くない場面だろうと感じられます。
自分でなしに、自分



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裏の修練の種々相

2015-05-10 00:31:20 | 祈りと瞑想
規格外の霊的修練を伝えるS会には、どこに導かれるのか分からない危険なムードが沢山ありました…。
でも誤解されないようにこれだけは言っておきます。
以前その会についてとんでもない歪曲した記事を観た事が有りましたが、そこは私が考えるような所謂洗脳カルト集団、邪教集団の範疇には入らない、ということです。(今はどうか知りませんが…)
何よりそこを辞めた後もこうして何事も無く、過ごしていられる訳ですから…
ただ、その修練は強烈なバイブレーションにより、理性が飲み込まれてしまうようなところがあり、実修に当たっては慎重にもっと望んだ方がいいと感じたのです。
おまけにエゴを助長しかねない、魂の段階的進化論のようなのが信仰?されているのですから…
K先生が推奨している元波動瞑想は”ただ受け入れる、全てを委ねるだけ”という点でこの修練と通底するところがあり、時に同じように自然発生的な体動に移行してしまう事も有るのですが、心身のバランス面を考慮するとより安全だと思いました。(ただS会の修練は危険な分、容易に思考から離れることは出来ます、しかしその反面体動の方に意識が向かってしまい、その瞑想のように内面に意識が向くことはあまりありません)
私が知っているものでは、広い意味で小池先生、手島先生の原始福音集会もある意味~宗教的なものの裏側にあるという意味で裏の修練と仮に表現します~この道につながるものと言えます。
(キリスト教ではマイスター・エックハルトや十字架のサン・フアンに代表される、神秘主義の系譜が知られており、これもその流れに通うものが有ると思われますが、私は直接関わったことないのでよく分かりません。)
手島先生は祈りと瞑想に関する手引きをいくつか書かれており、信者の間でそうした集会もよく為されていたようです。
小池先生は何より特筆されるべきは、聖霊を受けるという事態には十字架と切り離してはならない、ということを強調されていたことです。
十字架とは自我性を突破させ、全託に向かわせるという聖霊それ自身の力と私は理解しています。
このようにこうした集会では聖書などに触れることにより、霊的な感性が滋養されるという利点があります。ただ裏を返せば、それがあまり知的、感情的理解というものに偏り始めると直接経験的なものから二義的なものに代わってしまう、という傾向も無きにしも非ず、と思われますが…
私は小池先生の集会に初めて行った時は、周りが敬虔そうな人ばっかりで、”場違いなところへ来てしまったなあ”と思ったものですが、S会に行った時はそんな人は誰一人見ませんでした。(笑)
そして、そうした集会でよく聞かされる聖霊を受ける事に伴う所謂”回心”(ある種の覚醒体験)というものはほとんど聞かれませんでした。
(二人ほど聞いたことはあります)
野口整体の活元運動に代表される健康法、中国古来から伝わる気功法などにも自然発生的な体動に発展する運動が見られます。
それらは元々意識は身体的な方面に向けられているので、精神面でバランスが狂うという心配が無いだけ、健全なものだと思います。
とにかく神とか霊とかについてはほとんど語られることが無いということは、日ごろ精神世界にまつわる我々の意識がリアリティから遊離してしまう、アレコレの情報に振り回されなくなるということで、どれだけ精神的健全さが保たれることでしょうか!
当然のことながら、ここでも違う意味で霊的な目覚めについてはほとんど聞かれません。
ウーン…私は前世だとかオカルト進化論だとか、想念が現実から遊離しない範囲で精神的な滋養がもたらされてもいいと思うのですが…
心身一如と言う観点でも…
わが国には古神道に伝わる鎮魂法ミタマフリというのもありますが、私は関わった事が無いので、ここではパス…
このように概観してみると裏の修練には、各々類似性も認められますが、有り様、方向性も違う所もあります。
これは取りも直さず、そこに関わっている人たちの意識の有り様、方向性に応じているという事が言えると思います。
形なき命プネウマと意識の微妙な相関関係ですね。
ただ、これを書く前に感じたことですが、純粋にこの思いを超えた波動が私の心身に浸透した時、そこには全くどんな先入観念も、どんな流派も信仰も無く、一つのものが立ち上がっていた…それは全く私個人に帰されるものでなく、大本から来るものだ…ということです。
こういうのはOO法などと、とってつけた名称は要らないと思います。
そのうち一人一人に還元されるでしょうから…





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