Sさんという、東西の宗教、神秘思想などに通じていて、自身の精神的目覚めの体験についても、その著書などで書き表している人がおります。
私は共感出来るところも多く、その言葉を超えた体験の模様というものはハッキリと伝わるものがあります。
この方が現在ではかなり回復されているようですが、少し前自身がうつ病であることをそのブログで公表されていました。
この方は教師的なこともされているので、こういうことを隠さずに言えるということは本当に勇気の要ることであり、実に敬服に値すると思います。
夜眠れない、薬に頼りきりの毎日、ネガティブに感じる言葉を沢山もって、ありのままに述べられておりました。
悟りとか覚醒に与ることはあっても、苦難はその事とは別に起こる時には起こるのです。
そんなこと、何ら特別でない、フツーの人間のことなんだから、当たり前のことでしょi
目覚めると、煩悩から、苦難から離れることが出来るというのは、世の人が勝手に抱いているイメージに過ぎないのです。
これがよく内容が見極められていないまま、イメージばかり一人歩きしている所謂"悟り"のイメージと結びつくのでしょう。
むしろ、突然それまで抱いていた人生観、世界観、価値観などが揺さぶられ、崩壊してしまうような事態(感じ方は各々ですが)になることを考えてみて下さい。
心身のバランスが失われ、虚無感などに襲われることというのは、付きものとも言えるのです。
私なんかは数日してすっかり、その眩いばかりの覚醒のあらましなど元の木阿弥になってしまい、そして一年後ぐらいして、うつ病に近いようなネガティブな思念に囚われる事態になってしまいました。
このことについて、Sさんは"光の存在"と言っていましたが、神、キリスト、ハイアーセルフ、見えざる導師...呼び名は何であれ、常に意識をそれに向けていることが肝要かと思います。もっともその精神的苦難自体が見えない導きの中にあるのかも分かりませんが...
Sさんは又、ブログで「私は悟ってなどいませんi」とハッキリ述べておりました。
私も"あなたは悟ったのですか?"と訊かれたら、キッパリ否定するでしょう。
その"目覚めに与った"事態というのは、ハッキリ実感することはあっても、"悟りに達しました"などとは決して言えないのです。
今日、多くの事例のある、突発的な覚醒などは、それに達することを目指して努力していた訳でも無く、それは"自己を超えたところで起こる"ことだからです。
それは自分が自分を超える、超人になるということでは全く無いのです。こちらの手は離れている...だから"煩悩も欲望も無い境地に達しました~"などと自己に帰されることなど何も無いのです。
"私は悟ったi"などと宣うのは、おそらく自称覚者しか居ないでしょう。
"私がどうなった、こうなった"というのは、ちっとも私が超えられていません。要するに思われたままの、自分の力で何かを為せるという自己の限界内の延長にすぎません。
むしろ、フツーの人以上に"エゴ性が強い"とみた方がいいでしょう。エゴ性に気付くことが出来ないのです。それは自己を超えたものによらなければ気付けません。
そして、常に自分を高い境地に、進んだ人間であるように人に思わせ、何か問題でも起きたら、自分をサゲないように取り繕うのです。
そういう人にとり、ありのままの自分を認めることは、おそらく悟りの修行よりも難行苦行でしょう。
一体、目覚めるとはどういうことでしょうか? ありのままの自分に目覚めることではないでしょうか?
どんなダメな、ミジメな自分であろうと、ありのままの自分を受け入れるしかありません。そして、そこに自分はそのままで、自分を超えた、自分を超えた"我ならぬ我"への目覚めに与ることになるのです。
自己を超えるとは、このように紛らわしい二通りの観方がありますが、中身はまるっきり違います。
Sさんのような人こそが、誰でもの目覚めの証人なのでしょう。
私は共感出来るところも多く、その言葉を超えた体験の模様というものはハッキリと伝わるものがあります。
この方が現在ではかなり回復されているようですが、少し前自身がうつ病であることをそのブログで公表されていました。
この方は教師的なこともされているので、こういうことを隠さずに言えるということは本当に勇気の要ることであり、実に敬服に値すると思います。
夜眠れない、薬に頼りきりの毎日、ネガティブに感じる言葉を沢山もって、ありのままに述べられておりました。
悟りとか覚醒に与ることはあっても、苦難はその事とは別に起こる時には起こるのです。
そんなこと、何ら特別でない、フツーの人間のことなんだから、当たり前のことでしょi
目覚めると、煩悩から、苦難から離れることが出来るというのは、世の人が勝手に抱いているイメージに過ぎないのです。
これがよく内容が見極められていないまま、イメージばかり一人歩きしている所謂"悟り"のイメージと結びつくのでしょう。
むしろ、突然それまで抱いていた人生観、世界観、価値観などが揺さぶられ、崩壊してしまうような事態(感じ方は各々ですが)になることを考えてみて下さい。
心身のバランスが失われ、虚無感などに襲われることというのは、付きものとも言えるのです。
私なんかは数日してすっかり、その眩いばかりの覚醒のあらましなど元の木阿弥になってしまい、そして一年後ぐらいして、うつ病に近いようなネガティブな思念に囚われる事態になってしまいました。
このことについて、Sさんは"光の存在"と言っていましたが、神、キリスト、ハイアーセルフ、見えざる導師...呼び名は何であれ、常に意識をそれに向けていることが肝要かと思います。もっともその精神的苦難自体が見えない導きの中にあるのかも分かりませんが...
Sさんは又、ブログで「私は悟ってなどいませんi」とハッキリ述べておりました。
私も"あなたは悟ったのですか?"と訊かれたら、キッパリ否定するでしょう。
その"目覚めに与った"事態というのは、ハッキリ実感することはあっても、"悟りに達しました"などとは決して言えないのです。
今日、多くの事例のある、突発的な覚醒などは、それに達することを目指して努力していた訳でも無く、それは"自己を超えたところで起こる"ことだからです。
それは自分が自分を超える、超人になるということでは全く無いのです。こちらの手は離れている...だから"煩悩も欲望も無い境地に達しました~"などと自己に帰されることなど何も無いのです。
"私は悟ったi"などと宣うのは、おそらく自称覚者しか居ないでしょう。
"私がどうなった、こうなった"というのは、ちっとも私が超えられていません。要するに思われたままの、自分の力で何かを為せるという自己の限界内の延長にすぎません。
むしろ、フツーの人以上に"エゴ性が強い"とみた方がいいでしょう。エゴ性に気付くことが出来ないのです。それは自己を超えたものによらなければ気付けません。
そして、常に自分を高い境地に、進んだ人間であるように人に思わせ、何か問題でも起きたら、自分をサゲないように取り繕うのです。
そういう人にとり、ありのままの自分を認めることは、おそらく悟りの修行よりも難行苦行でしょう。
一体、目覚めるとはどういうことでしょうか? ありのままの自分に目覚めることではないでしょうか?
どんなダメな、ミジメな自分であろうと、ありのままの自分を受け入れるしかありません。そして、そこに自分はそのままで、自分を超えた、自分を超えた"我ならぬ我"への目覚めに与ることになるのです。
自己を超えるとは、このように紛らわしい二通りの観方がありますが、中身はまるっきり違います。
Sさんのような人こそが、誰でもの目覚めの証人なのでしょう。
真に悟り得た人を達成者という言葉に置き換えて書きますと、今の達成者という人達は、過去の達成者の結論や観方をまねているだけのような気がします。で、聞かされた人も、それが模倣にすぎないことに、気が付けない状況が、今のスピ界では?
>"私は悟ったi"などと宣うのは、おそらく自称覚者しか居ないでしょう。・・・超稀にはいるかもしれませんね。ただ、そうであってもその状態?に憧れなどしませんけど。エンライトさんの記事を読むと悟りへの憧れって消えますよね(笑)
同じような感覚の方にあえてうれしいです。邪魔かもしれませんが、書きこませてもらいますwww。
"私って個人は居ないんです"って、もろ浮いた特別な個人が居るようにしか感じなかったりします(笑)
根っこの方でそういう超個的なものを感じていながら、フツーに生きてりゃいいんじゃないですかね。
・・・そですw私その状態の継続が覚醒なんだと思い、「それ」であることを目指しましたがw全く無理でした。似たようなものは、全部疑似で、三度目はいまだに経験がないです(笑)ていうか、あたまおかしくなる一方で・・・仕事もできなくなったwww
>根っこの方で(中略)フツーに生きてりゃいいんじゃないですかね。
(笑)・・・おんなじ意見です~。。。