森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

2002年12月07日

2007年12月07日 | あるシナリオライターの日常

 午前8時30分、起床。
 30分間チャット。
 師への定期レポート作成開始。

 午前10時分、レポート作成終了。メールで送信。
 午前11時、出発。
 今日は京都で巨人軍川中選手の挙式披露宴。来賓として出席する師に、披露宴終了後直接指導を賜るべく京都へ。

 午後0時30分、からすま京都ホテル着。
 午後0時50分、姉弟子の一人と初顔合わせ。午後5時からの講義にも関わらず午後1時の集合命令に疑問。予想通り、午後1時を過ぎても師の姿はなし。やはり誤字だったか。
 やむなく自習。互いに適当な単語を書き並べた紙を交換し、そこから得られる情報のみでプロットを構築するトレーニング。

 午後3時、一旦解散。寺町京極を散策。
 会場変更の連絡。ハートンホテル京都へ。

 午後5時~7時、講義。

 午後8時30分、実家へ。
 午後9時、海藤来訪。本日の講義内容を復習。新企画について意見交換。

 午前0時、就寝。

第二話「黄色い煉瓦で造られた交差点の話」 5

2007年12月07日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.7:45

「久し振りに泣いたせいかな? 何かすっきりした気分だよ」
 僕は大きく背を伸ばし、深呼吸をした。
「……何もしなかったのに?」
 ドロシーが呆れたように言う。
「やっぱり、貴方何処かおかしいんじゃない?」
「実はね、僕は宇宙人なんだよ」
 僕が軽く受け流すと、ドロシーはバカにされたような顔をしたが、すぐに吹き出した。
「ハハハ、宇宙人と魔女の組み合わせか……悪くないね」
 僕らは無断で近くのマンションの屋上に上がり込み、缶入りの紅茶で宴会を開いた。街を通り抜ける風は強く、気温は低かったが、これはこれでそれなりに洒落たお茶会だ。時計を持ったウサギがいないのが残念だが……あれ、気狂いの帽子屋とお茶を飲むのはドロシーじゃなかったっけ?
「夜景が綺麗ね。まるで星の海みたい」
 ドロシーが紅茶の缶を片手に呟く。
 周囲に高い建物のない十二階建てのマンションの屋上からは、近くのラブホテル街から繁華街の明かりまでよく見えた。昼に斉藤と揉めた歩道橋はどの辺りだろう? こうして上から眺めていると、何もかもが小さく見える。
「……僕には遊園地に見える。バカ騒ぎの繰り返しだよ」
「見解の違いってやつね」
 ドロシーは手すりに腰かけると、風に乱れる長い髪を手で押さえつけて振り返った。
「そうだね。昔から、遊園地って言葉をよく連想するんだ……どうしてかな?」
「昔、迷子にでもなったんじゃない?」
「そうかもしれない。何て言うか、いつも何処かに閉じ込められているような気がするんだ。メリーゴーラウンドみたいにグルグル回っているんだよ」
「アタシもメリーゴーラウンドは嫌いよ。だって何処にも行けないんだもの」
 僕はドロシーの隣に腰かけた。
「君は何処か行くところがあるのかい?」
 ドロシーは僕の方を見ると、何処か含みのある微笑みを見せた。
「アタシは海へ。それからその向こう、朝開きの海の彼方へ……」
「……何なんだい、それは?」
「トップシークレットよ。お楽しみがなくなるわ」
 僕はドロシーの奇妙な言動にはとっくに慣れていたので、特に気にすることもなく話を続けた。
「目的があるっていうのはいいことだね。僕は何処にも行けないよ。僕の時間は止まっているんだ。ここからは抜け出せない」
「時間と友達じゃないのね」
「僕は魔法が使えないからね」
 冗談めかして言うと、ドロシーはクスクスと笑って僕の胸に顔を寄せてきた。
 僕はドロシーの肩を抱き、引き寄せて抱き締めた。すぐ近くに彼女の心臓の鼓動を感じる。このまま抱き締めていれば、いつか僕らの心臓は一つになることができるだろうか?
「何が見える?」
 僕はドロシーの耳元に口を寄せて囁いた。
「ビルの上に綺麗な星が見える。オレンジ色の小さな星」
 ドロシーは僕に抵抗することもなく体を委ねていた。僕の問いに答える時に、胸の中を空気が移動するのが感じ取れた。
「僕は違う所を見てた。不思議だね、こんなに近くにいるのに別の所を見ているなんて」
「貴方とアタシは違う人間だから……」
 落ち着いた声でドロシーは言った。
「そうだね、違う人間だから違うものを見るんだね……でも、少し悲しい」
「どうして?」
「……昔、恋をすれば一つになれると思っていたから。恋をすれば、その人と一つになれるって……そうすればもう寂しくない」
「それは無理よ。他人は他人、貴方は貴方よ」
「……そうだよね」
 ドロシーは軽く息を吐くとこう言った。
「他人が何を見ているかはわからないわ。でもそれを聞くことはできる。聞いてよく考えれば理解もできる。決して一つにはなってくれないけど、そうすれば世界は広がるわ」
 僕はドロシーの肩に額を当てて目を閉じていたが、顔を上げると本当に街の明かりが星のように見えた。

 世界は一つではない。住む星が同じでも、それを眺める者の数だけ異なる世界が存在する。そして世界は、眺める者の立ち位置によってもその姿を様々に変える。
 その者の考え方、信仰する宗教、社会的地位、脳の構造、その時の感情……複雑な条件に応じて世界は様々に姿を変える。僕が美しいと思うこの世界は、アナタにとっては吐き気を催すものであるかもしれない。
 僕は地上に降り注いだ数多くの星を見つめた。あの星の中では、僕と何の関係もない人達が生活しているのだろう。家族で夕食の途中だろうか? 一日の話をしているのだろうか? テレビを見ているのだろうか? あるいは夜空の星を眺めているかもしれない。
 そして僕は離れたところからそれらを眺めている。多分、誰も僕のことに気づきはしないだろう。そして僕もあの星の住人達のことを何も知らない。それでも僕は星を眺め、彼等は生活を続けている。
 幼い頃、僕は自分が世界の中心にいると思っていた。
 自分から見えない所で人が動いていることを自覚していなかったのだ。
 しかし世界は一つではない。僕もアナタも一つずつ世界を持っている。それが重なることも衝突することもないかもしれない。アナタは僕とは何の関係もなく人生を終えるかもしれない……そしてアナタは、世界を酷い所だと思っているかもしれない。
 それでも僕は、この世界はそれほど悪くないと思っている。僕にはそう見えるのだ。
 アナタには世界はどう見えるのだろうか?

「そろそろ行こうか?」
 永久に続くかと思われた時間は、ドロシーの言葉によって終わりを告げた。
「行くって……何処へ?」
「九時から約束があるんでしょう?」
「スケアクロウでの集まりのこと?」
 僕は不機嫌に呟きながらドロシーの体を求めた。
「別に行く必要はないよ。あいつらとの関係はうまくいってないし、会いたくない奴も多いし……」
 それにしても、ドロシーはどうしてスケアクロウでのことを知っているのだろう? カナとの話を聞いていたのだろうか?
「正直、行きたくはないんだ。君は知らないだろうけど、あそこには僕の良くない仲間がいる。僕はそいつらとはもうつき合いたくないんだ」
「……そうなの」
 僕はドロシーの肩を両手でつかみ、少し体を離して彼女の瞳を見つめた。月の光に照らされて、ドロシーの瞳は美しく輝いている。
 人の目をまっすぐに覗き込んで話をするなんて、生まれて初めてかもしれない。
「僕は君のことが好きだ」
 自分でも意外なほどに流暢に、想いが言葉となって流れ出た。
 言ってしまえば後は楽だった。ただし自分の声が自分のものでないような気がしたが。
「僕は君といると……何て言うか、気取らなくてすむし、とても楽なんだ。君はとても変わっているけど……そこが魅力的なんだ」
 変わっている、という言葉を愛の告白に使ってもいいのだろうか? 少し疑問に思ったが、それでも僕は言葉を続けた。
「僕は君といれば変われそうな気がする。まだ出会ってから丸一日もたってないけど、僕には君が必要なんだ」
「……それは……」
 ドロシーは、彼女には珍しく言葉を詰まらせると目を伏せた。
 僕の勘違いでなければ、彼女の瞳は悲しげだった。しかし数秒の沈黙の後、再び僕を見つめた瞳には、いつもの悪戯っぽい光が宿っていた。
「ダ~メ、アタシは行くところがあるんだから」
 ドロシーは屈託なく微笑むと、踊るようにして僕の手を振りほどき、後方に逃れた。
「どうしてだ? ……どうして僕じゃダメなんだ!?」
 僕は叫ぶようにドロシーの背中に呼びかけた。
 ドロシーは僕に背を向けたまま階段への歩みを止めた。ビルの谷間を吹き抜けた一陣の風が僕達の間の空気を押し流し、ドロシーの長い髪が音をたててはためく。
「……ほら、パーティーに遅れるわよ」
 風がやんだ時、ドロシーは笑顔で言った。

 PM.8:00

「知ってる? 自分の声って耳の骨に響くから、自分では少し低く感じるんだって。ってことはさぁ、私の声は自分で感じてるより高いってことよね……ねえ、クミ。私の声って高いかな?」
 雑誌を読んでいたカナは、小さなコラムに目を止めて隣にいるクミに話しかけた。
「知らないわよ、そんなこと。私は貴女の頭の中に潜り込んだことはないから、貴女が自分の声をどれくらいの高さに感じているのかなんてわかりっこないわ。個人的な感想としては、貴女の声はバカみたいに高くはないと思う。ただしデリケートな作業を行っている時にはかなり神経に障るけど!」
 リズミカルにキーボードを叩きながら、クミは少し怒ったように答えた。
 江藤久美はカナと同い年の少女だ。かなり背が高く、長い髪を無造作に後ろで束ね、厚めの黒縁の眼鏡をかけている。服装は大きめの白いブラウスと、くすんだ色合いのロングスカートだ。
「それはゴメンね、クミ。それにしてもクミは面白いこと考えるね。人の頭に潜り込んだことはない……か。そうだね、一度、人の頭の中に潜り込んでみたいね。男とかがどんなこと考えてるのか気になるよね。特に私を抱いてる時なんて、男はどんなこと考えてるのかな?」
 カナは机に肘をついて考え込んだ。こちらは制服から着替え、体にぴったり合った黒のセーターと短めのチェックのスカートを身につけている。薄らと目元に施された青色の化粧が、カナの瞳に更に光を与えている。
 そばにはティーカップが置かれ、白い湯気を立ち昇らせていた。上品に顎に添えられた指はなめらかな曲線を描き、黒い睫と瞳は濡れたように深い色をしている。
「やっぱり、射精する時は大したことを考えてなさそうだよね」
 カナは髪をかき上げて笑った。
「……私は貴女の発想の不謹慎さの方が不思議だわ」
 クミはキーボードから指を離し、背もたれに身体を預けた。
「ほら、これで貴女が朝に会った男が何か言ってきても大丈夫よ。携帯からの操作一つでインターネットを通じて警察と会社に売春のことが伝わるようにしてあるから……勿論、貴女の名前や存在は一切出ないけどね」
「流石はクミね」
 カナが褒めると、クミは少し頬を赤らめてそっぽを向いた。
 二人がいるのは狭い単身者用マンションの一室だった。隙間なく並べられたパソコン等の機材と専門書によって、一層狭くなっている。
 クミはカナの中学生時代からの友人だ。彼女はカナと同じ中学校に通っていたが、三年生の春から不登校を始め高校には進学していない。今は親の名義で借りているこの部屋で一人暮らしをしており、カナ以外は誰もこの部屋にやってくることはない。もっとも、少し前に大きな地震があってからしばらくの間は、カナもこの部屋には寄りつかなかったが。
 そしてまた、ここは若松加奈と江藤久美によって経営されるデートショップ『K&K』の事務所でもある……いや、あった。
「大体、カナには援助交際なんて無理だと思ってたわ」
「そうかな? 一番効率のいい仕事だと思ったんだけどなあ」
「カナ。貴女は結局、自分が一番可愛いと思ってる。そんなタイプは援助交際なんてしない方がいいわよ」
「クミは自分が嫌いなのね」
 カナが呟くと、クミはため息をついてキーを叩いた。
「貴女は結局、自分しか愛していないのよ。みんなが自分を愛してくれると思ってる……貴女は他人を利用しているだけよ」
「……何かあったの? クミ。機嫌が悪いけど」
 クミはモニターから顔を遠ざけると、夕食用のハンバーガーを口にした。
「別に。ただ前から言いたかったのよ……今日は色々あったしね」
 カナはクミが不機嫌なことには慣れているので、慎重に穏やかな口調で話を続けた。
「確かに私は自分を中心に考えるけど、それを悪いと思ったことはないよ。自分を傷つけるほど他人に奉仕するのは間違ってると思うしね」
「悪かったわね、どうせ私はろくでもない男に騙されたわよ」
 カナは眉をひそめた。
「別にそんなことは言ってないよ」

 クミが恋をしたのは中学二年の冬のことだ。
 普段のクミは落ち着いた雰囲気の近寄りがたい優等生に見えるが、実はそれは本当の彼女ではないということを、カナはその時に知った。
 彼女の他人への距離の取り方は極端だった。必要以上に遠ざけるか、自分をなくすほどに近づくか。その二つしかない。
 彼女は学内では本当の自分を出していなかった。勿論、成績が良いのは誰もが知る事実だったが、まるで他人が自分の私生活を知れば自分が死んでしまうと信じてでもいるかのように、自分の考えや意見を口に出すことがなかった。
 実際、少女漫画やアイドルグループに憧れる内気な少女であることは、学校でもカナしか知らないことだったのだ。
 自分とは対照的なカナに、どうしてクミが自分の内面を曝け出したのかはわからない。カナがその時点から学校の外の世界を眺めていて、同じく学校と距離を取っていたクミがそれに憧れたのかもしれないし、お互いに親とはうまくいっていなかったからかもしれない。対照的な二人だが、根元の部分で繋がるところがあったのだろう。
 しかし恋愛の仕方はかなり違った。
 クミが恋をしたのは年上の男だった。カナから見ると偉そうなことを言うだけの何の実力もない高校中退のフリーターだったが、クミは彼に異常なまでに心酔していた。
 確かに、内気なクミが明るくなったのはカナもいいことだと思っていた。しかし問題なのはその関係だった。
 男は会う度にクミに金を要求した。計画的で無駄使いをしないクミは、中学生としてはかなりの額の貯金を持っていたし、またクミの親も子供には金さえ与えておけばいいと思っているタイプだったので、クミが男に渡した金額はかなりの額になった。
 しかし、所詮は中学生だ。自由にできる額には限りがある。クミは次第に男に金を渡すのが困難になっていった。
 クミが男と別れた……いや、捨てられた時、彼女の心と体は既にボロボロになっていた。カナはクミが男と別れたことに安心していたが、事態は更に厄介な方向に進んだ。
 クミは男にどんなに酷い目にあわされても男を恨むことはしなかった。それどころか自分に責任があるように思い込む傾向があった。そしてまた、クミはその年頃の少女としては大柄でしっかりとした体格だったが、本人は女らしくないと気にしていた。この二つに失恋が拍車をかけたのだ。
 クミは食事の量を極端に減らし、無理なダイエットを始めた。同時に、学校を休むようになった。毎日のようにクミの家に通ってダイエットをやめさせようとしていたカナは、ついにクミから話を聞き出した。
「だって……彼の隣に別の女がいたの……私より綺麗で、痩せてる女が……それで彼が私のことを、太ってて嫌な女だって……だから、私はもっと痩せなきゃ……そうしないと彼が会ってくれないもの……」
 そう言って、骨と皮のみの体となっていたクミは飲んだばかりの牛乳を吐き出した。
 カナはその時に思ったのだ。自分が彼女についていてあげなければ、と。
 クミの男への想いを断ち切らなければならない。実の娘のことにも無関心なクミの親はあてにならない。
 カナは自分の手でクミを立ち直らせると決意した。

「何度も言うようだけどさ、私は恋愛でも自分を第一に考えるべきだと思うよ。誰かの為に自分を捧げるっていうのは、それはそれで凄いことだと思うけどさ。それでも私は自分の意見を持つべきだと思う。恋愛はビジネスと同じだよ。お互いの利益にならないなら別れるべきだよ。私達は男の奴隷じゃないわ、人生の取引相手よ」
「それはね、カナは可愛いから。カナだったら男は幾らでも寄ってくるもの。楽しかった? 汚いオヤジ達にちやほやされて」
「クミ!」
 カナの鋭い声に、クミはビクリと体を震わせた。
「……ごめん、カナ……言い過ぎた……」
 呟いて、憑き物が落ちたようにうなだれる。
「何か……あったの? クミ?」
 明らかにいつもと違うクミの様子に、カナは真剣な表情で尋ねた。
「……あの男に会ったの。さっき夕食の買い出しに行った時に……」
「あの男って、まさか」
「そう。あの中学の時の奴よ」
 クミは拳を握り締めて呟いた。
「また別の女の子を連れてた。それも昔の私と同じ、中学生くらいの子を……」
「何て奴……!」
 カナは険しい表情で拳を握り締めた。
「私……あの男の姿を見てね、物陰に隠れたの……私は何も悪くないってわかってるのに……それでも、まだあの男と向き合うことはできないの」

 中学三年生の時、クミはカナと話し合って親元を離れることにした。学校をやめる必要はないとカナは言ったが、クミは今までのすべての関係を断ち切りたがっていた。
 クミの親はもっと大きな部屋を用意できると言ったが、クミは断った。そしてその代わりに、クミは最新のパソコン設備を手に入れた。
 クミはデスクトップに表示されている自分に送られてきたメールを見つめた。
「カナには悪いけど、この世界はまだ外見が大きな判断材料なのよ。それなら、私はそんな世界はいらないわ」
 クミはパソコンのケースを撫でながら呟いた。
「この中は私にとっての天国よ。ここは『外見』のまったくない世界。自分の考えと知識を直接やり取りできる世界……昔、何処かの評論家が言ってたわ。表現した物こそが、その人の真実だって……私もそう思う。この中での私は痩せっぽちで大柄な女じゃない。一人の表現者なのよ」
 最近、クミはネット上で様々なアイドルや漫画・アニメ・ゲーム関係の評論や、それについての表現活動を行っている。今ではかなりの有名人らしい。もっとも、クミは決して現実の場に姿を現すことはなかったが。
「でもそれじゃ、誰がクミを抱き締めてくれるの?」
 カナが言うと、クミは寂しげに微笑んだ。
「現実の世界では誰かと話をすることもできないのよ……私はね」
「クミは自分で自分の価値を見限ってるんだよ。私はクミって凄い人だと思う。あんな男とは比べ物にならないくらいにね」
 そう言って、カナは立ち上がると、クミを背後から抱き締めた。
「……ありがとう。貴女には世話になりっぱなしなのに、酷いことを言ってしまって」
 クミはカナの胸に頬を寄せた。
「気にしない気にしない。私は自分勝手な女だって言ったでしょう? 私は、何の面白みも実力もない、自分にプラスにならない人間と関係を持つのは時間の無駄だと思ってる。でも、そんな私がクミとはうまくいってるんだよ? つまり私はクミの能力を、とても買ってるってこと。クミは私の有能なパートナーだよ。私達は無敵のコンビなんだから……あ、こんなこと言うとまた人を利用してるって言われるかな?」
 クミは顔を上げて微笑んだ。
「そんなことないわ、私も貴女から沢山のものを貰ってるから……私達の間には、公平なビジネスが成り立ってるわ」

 PM.8:45

「どうする? 私はこれからスケアクロウに行こうと思ってたけど、やっぱり一緒にいようか?」
 カナは平静を取り戻したクミに尋ねた。
「ううん、いいわ。もう落ち着いたから……」
 クミは大きく深呼吸すると、さっぱりとした顔つきで微笑んだ。
「スケアクロウに行くんだったら、リョウさんの写真でも撮ってきてくれない? 壁紙にでもしようかと思ってるの」
「クミ、貴女って本当に男を見る目がないわね」
 カナの台詞に、クミは少し拗ねたように言い返した。
「カナだって男が目的なんでしょう? 貴女の趣味だって悪いわよ」
 カナは意味深な微笑みを浮かべながら、う~ん、と背伸びをした。
「クミの悪いところは自分の経済的価値を低く見積もり過ぎることだよ。やっぱり才能ある人間は有効利用しなくちゃね」
「その男もそんな人間なの?」
 カナは楽しげに答えた。
「それはわからない。でも何か気になるのよね。女の勘ってやつかな?」
 そしてカナは何を思ったのか、クミに近づくと彼女の頬に軽くキスをした。
「今度、一緒に遊びに行こうね。アミとかマコトも誘ってさ。人生は楽しまないとね」
 クミは真っ赤になった頬を誤魔化すように、乱暴にカナを振りほどいた。
「行くんだったらさっさと行きなさいよ! まったく、貴女はわけがわからないわ!」
 クミが怒鳴るのも気にせず、カナは笑いながら玄関のドアを開けた。
「じゃあね、行ってくるわ。そうだ、アメリカ行きの話は考えといてね!」
 カナはドアの隙間から手を振ると、あっという間に走り去った。
「何なんだか、まったく……」
 クミはしばらく怒ったふりを続けていたが、やがて堪えきれずに吹き出した。
「……何なんだか、まったく」
 今度は笑いながら同じ台詞を呟いたクミは、久し振りに幸せを感じている自分に気がついていた。
 それから、あることを思いついた。

 一時間後。
 クミの目前のモニターには、パソコンを使って『あの男』を社会的に破滅させる完璧なプランが表示されていた。
「今まで何で思いつかなかったんだろ。そうよ、何も直接会わなくたってあの男一人破滅させるくらいわけないじゃない」
 クミは早速作業にとりかかった。
 やがてお腹が減ってきたので、クミは夜食用に取っておくつもりだったハンバーガーも食べることにした。
「……また買い出しに行かきゃ」

 PM.9:38

「快楽とは部分的に肉体を抜け出すことであり、小規模な蘇生である。そして死とは恐らく彼岸へと続く痙攣であろう。ちょうど赤ん坊の泣き声が、快楽の頂点における叫びと似ているように」
「それって誰の言葉?」
 ドロシーが尋ねる。
「え……っと、マルコム、ド……シャザル……かな?」
 僕は壁の落書きの続きを読んだ。
 辺りは暗く、中途半端な電灯の光がその暗さを余計に際立たせていたが、その小さな落書きは、他の落書きの中で不思議と僕の目を引いた。
「それってどういう意味?」
 ドロシーが僕の腕を取って囁く。
「さあね、よくわからないな。何となくわかるような気もするんだけど」
「まあ、落書きってのはそんなものね」
 ドロシーが小さく笑ったのが聞こえた。
 クラブ『スケアクロウ』はオフィス街の一角、とあるビルの地下にあった。狭い螺旋階段を降りるに従って、壁を突き抜けて聞こえてくる重低音が大きくなってゆく。
「実はね。さっき屋上にいた時、君を後ろから襲って犯してやろうかと思ったよ」
「へえ?」
「言い方は悪いけど、それくらい好きだってことだよ。ここまで人を好きになったのは初めてだよ」
「物は言いようね。でも、そこまで好きになってくれたのなら、どうしてそうしなかったの?」
 僕の体にもたれながら、からかうような口調で尋ねてくる。
「……それができないくらいに君のことが好きになったんだよ」
 僕が言うと、ドロシーはクスクスと笑って僕の瞳を覗き込んできた。
「本当?」
「……本当だよ」
 僕はドロシーの瞳を正面から見つめ返した。
 ……もう、恐怖は感じない。
 やがて螺旋階段が終わり、僕達は分厚い扉を開け放ってスケアクロウの中に入った。