森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

僕達の惑星へようこそ -インデックス-

2007年12月20日 | 僕達の惑星へようこそ


 いつものように『処刑』を終え、独り街を歩いていた夜。
 雨の中、僕は彼女に出会った。
 魔女の名を語る彼女との出会いが、この街に生きる僕達の運命を変えていく。
 『処刑』グループのリーダー、リョウの。
 『ビジネス』を営む女子高生、カナの。
 ……そして、誰にも心を開けずにいた、僕の。


第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」 

 1-1 …… 11/28更新
 1-2 …… 11/29更新
 1-3 …… 11/30更新
 1-4 …… 12/01更新
 1-5 …… 12/02更新

第二話「黄色い煉瓦で造られた交差点の話」

 2-1 …… 12/03更新
 2-2 …… 12/04更新
 2-3 …… 12/05更新
 2-4 …… 12/06更新
 2-5 …… 12/07更新

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」

 3-1 …… 12/08更新
 3-2 …… 12/09更新
 3-3 …… 12/10更新
 3-4 …… 12/11更新
 3-5 …… 12/12更新
 3-6 …… 12/13更新
 3-7 …… 12/14更新

第四話「青年と少女が宇宙の旅に出る話」

 4-1 …… 12/15更新
 4-2 …… 12/16更新
 4-3 …… 12/17更新
 4-4 …… 12/18更新
 4-5 …… 12/19更新

エピローグ&プロローグ

 E&P …… 12/20更新

エピローグ&プロローグ

2007年12月20日 | 僕達の惑星へようこそ

 OUT OF TIMES

 結局、偉そうな自己犠牲精神にのっとって歩いて行った僕は、田島さんの娘さんが望んだように裁判にかけられることはなかった。リョウが全ての事件の主犯は自分であり、他の者は自分が巻き込んだだけだと言い張ったからだ。
 おかげで僕は、しばらく警察の厄介になっただけで釈放された。
 僕は田島さんを何度も訪ね、謝罪を繰り返している。娘のレイナちゃんは未だに僕のことを許してくれていないが、田島さんとは結構良い関係を築くことができていると思う……多分。
 数週間後、パールさんは意識を取り戻した。
 十三回目の生還を遂げたパールさんは、僕らを見て「くだらない……」と呟き、少しだけ涙を流した。
 カウボーイはリョウの刑事裁判における証人の役を買って出たが、別に重い罰を望んでいるわけではないようだ。結局は周囲の動きに押される形で賠償請求に踏み切った田島さんも、必要以上の請求はしなかった。
 カナと僕は、世間で言うところの『恋人同士』の関係を行っている。『行っている』と言ったのは、彼女が最初に条件を出したからだ。その条件は、一年ごとに関係を継続するか終了させるかを話し合う、というものだった。
 彼女は自分にとって不利益になる者と付き合っても意味がない、どちらか一方でも好きでなくなったらすぐさま関係を終了させるべきだと言った。でも絶対に私と付き合って損はさせませんから、と言ったカナの照れたような表情は、とても可愛らしかった。
 僕はこれまで人と関係することを恐れていたが……彼女との関係だけは壊したくないと思っている。
 僕はカナに、努力する、と答えた。

 先輩は、努力する、と言ってくれた。
 私はこれまで数人の男性にこの条件を出したことがある。でも皆、うるさいことを言う女だと思ったのか、真剣に取り合おうとはしなかった。酷い時には、それ以上話をすることもなく別れを突きつけられたこともあった。まあ、その時はそんな男と長く関係を続けなくて正解だったって思ったけど。
 私としては先輩との関係はこれまでになく真剣なものだったから、関係を悪化させる可能性のある条件を出すのには少しためらいがあったのだけれど、これだけは譲れない条件だった。そして先輩は、私の出した条件に少し戸惑いながらも、照れたような微笑みを浮かべて、努力する、と言ってくれた。
「うまくできるかどうかわからないけど、努力するよ」
 ……と。
 そう言った時の先輩の表情は、本当に綺麗だった。

 リョウは刑務所の中で退屈しない生活を送っている。僕を含めて数人の者がひっきりなしに面会に来ているからだ。
 この前はジンの姿も見た。彼は毎回、リョウに会ってもらえないらしいが、それでも懲りずにやってきている。一度話しかけた時、顔の傷は大したことはない、と言っていた。その瞳からは僕に対する敵意は消えていなかったけれど、もう、僕たちが対立するようなことはないだろうと思う。
 カナの友人のクミという女の子ともよく会う。彼女のことは一度だけ見て知っていたが、再会した時は見違えるほど綺麗になっていたので驚いてしまった。彼女は差し入れのお菓子の詰まった袋を握り潰しそうになりながら、お願いだからカナにだけは自分がここに来ていることを言わないで欲しいと言った。
 僕はカナから、しばらくはクミに私が彼女の行動を知っていることを言わないでいて欲しいと意地悪な表情で頼まれていたので、黙って同意しておいた。

 私は自分の我侭を押し通す為にあんな条件を出したわけじゃない。ただ、やっぱり恋愛っていうものは、どちらか一方から与えるだけではいけないと思う。
 私は先輩にできる限りのものを与えようと思う。先輩の方から私との関係を終了させると言い出す可能性もあるんだから。
 そうそう、私は春休みを利用してアメリカに行こうと計画している。できれば先輩にも一緒に来て欲しいけど……そうすると、クミはダメだろうな。まあ、そんなに気にする必要もない。お互いに、もうそろそろ独り立ちしてもいい頃だと思うし、彼女とは世界中の何処にいてもネットを通じて話ができるんだから。
 ……母とは少しずつ話し合う機会を増やしていこうと思っている。

 リョウと僕は短い面会時間の中で取り留めのない話をする。最近の街の様子とか、流行っていることとか……カナのこととか……やはり女の子のことについては彼の方が色々と詳しいようだ。
 裁判の時、リョウは田島さんやその他の被害者の人達に向かって頭を下げて謝った。いつになるかわからないが、必ず償いをすると。
 リョウについては様々な意見が飛び交っているが、僕は彼のことを本当に格好いい男だと思っている。
 ……きっと、これからも。

 面会時間が終わって僕達が別れる時、僕は決まって指で銃の形を作り、リョウを撃つ真似をする。リョウは笑って心臓の辺りを押さえ、撃たれた真似をしてみせる。
 僕らにはそれで十分だ。
 僕らの旅も、まだ始まったばかりだ。

 PM.11:23

 田島亮介は数杯目のグラスを少しずつ傾けながら、隣に座っている男を横目で見た。
 三年前に妻が亡くなって以来、幼い娘と二人暮らしになった田島は、仕事が終わったらまっすぐ家に帰るようにしている。しかし今日は何となく、昔馴染みの飲み屋に顔を出してみる気になったのだ。
 隣の男は別の町から出張して来たらしい。早い時間から浴びるように酒を飲み、誰彼かまわず当たり散らしていた。
「わかりますか? こんなことじゃダメなんですよ! こんなことじゃ、この国は本当にダメになってしまう」
 田島はあまり真剣に男のことを相手にしていなかったが、遂に手に持ったグラスを振り回して割ってしまい、その破片で左の頬を切ってしまったのを見て、仕方なく男の体を支えて声をかけた。
「どうしたっていうんです? ほら、血が出てる」
 田島は店の者に掃除用具と医療用具を持ってくるように頼むと、男を椅子に座らせた。
「ダメなんですよ……こんなことじゃダメなんです」
 酔いの為か、男はさして痛みを感じている様子もなくブツブツと呟き続けている。
「何がダメなんです?」
 田島は男の三日月形に裂けた頬の切り傷を見ながら尋ねた。運良く薄皮一枚を切り裂いただけのようだ。これならじきに塞がるだろう。
「僕はね、信じてるんですよ。人と人との間には確かな信頼関係が必要だって……いや、違う。そうあるべきなんですよ。人間というのはね」
「それは私も思いますね」
 田島は店員を待ちながら呟いた。
「幾ら社会が情報化されたと言っても、結局は社会というものは人間が動かしているんですから……」
「違う! そうじゃないんだ!」
 男は突然叫び出し、血走った眼で田島を睨みつけた。
「そうじゃない。僕が言っているのはそんなものじゃなくて、もっと根幹的な繋がりなんだ。本当にお互いを必要とする関係、二つに別れた磁石が引き合うような……打算や計算のない関係が僕らには必要なんだ」
 最後の『僕ら』は、『僕』に置き換えても良かったかもしれない。
 男は掠れた声で喋り続けた。
「僕らには……本当の心の平安が必要なんだ。一時しのぎの快楽や、金で買ったような愛情なんかあってはならないんだ」
「ごもっとも、ごもっとも……」
 田島は少しうんざりしながら相槌を打った。
「貴方の言いたいことはよくわかりますよ。私にも小さな娘がいますがね。やはりしっかりとした人間関係の中で育って欲しいと思いますよ」
 しかし男は田島の話を聞いている様子もなく、うつむいて低く呟き続けていた。
「僕だって人並みの恋愛や人生を楽しみたいんだ……それなのにあいつらときたら僕のことをまるで珍しい動物か何かのように見やがって……僕はお前らみたいな奴らと親密な関係なんか持つ必要はないんだ。お前らが僕のことをどう思っているか知らないが、僕だってちゃんと人を愛せるんだ。ただお前らと関係を持ちたくないだけなんだ。いつか誰かが現れるんだ……誰かが。そして僕らは完璧な関係を築くんだ……完璧な……」
 男はそこまで言って、急に怒りに顔を歪めた。そして今までの考えを振り払うように腕を振り回した。田島が慌てて腕を避ける。
「畜生! どうして、どうして僕らは誰かを必要としなければならないんだ!?」
 男は叫び、立ち上がり……バランスを崩して床に倒れた。
「……まったく……」
 田島は男を床に座らせた。
「何を言っているのかよくわかりませんが、人と人との関係なんて妙な縁で繋がっているものですよ。私の死んだ女房とは見合い結婚でしたが、結構うまくいっていましたし……まあ、こんなことは貴方にはどうでもいいことですかね」
 田島は店員が救急セットを持ってきたのを見て、ではお大事に、と言って店から出ようとした。
「……なあ、どうして人は誰かを必要とするんだろうな?」
 小さな声で男が呟いた。
「さあ、それが人間ってものなんじゃないですか?」
 田島は振り返って答えた。
「それに、貴方がどう思っているかは知りませんけど、私はまだこの世界に失望しきってはいないんですよ」

 店員は男の傷の手当てをしようとしたが、冷たく敵意を感じさせる目でじろりと睨まれたので、仕方なく割れたグラスの掃除にとりかかった。
 男は床から立ち上がると、よろめきながら近くの席に座った。そしてコートのポケットから紙切れを取り出した。
 そこには、『明日、午前十時に駅前で。K&K』と書かれていた。
「僕だって、運命的な出会いってものを信じてるんだ……」
 男は呟き、金を払って店を出た。
 夜空には月もなく、雨が降りそうだった。

                           -了-

第四話 「青年と少女が宇宙の旅に出る話」 5

2007年12月19日 | 僕達の惑星へようこそ

 AM.8:17

 それは不思議な男だった。
 まるで慌ただしい周囲の時間の流れから切り離されたように、彼は静かだった。
 表情も、気配も、瞳も……全てが静かだった。

「先輩?」
「……やあ、カナちゃん」
 いつもと同じ少し戸惑ったような沈黙の後に、彼ははにかみ、返事をした。

「先輩、何処に行ってたんですか? 大変だったんですよ、パールさんもカウボーイさんも……リョウさんも……」
「うん……知ってるよ」
 彼は呟き、じっとカナを見つめた。
「腕、大丈夫?」
「えっ……だ、大丈夫ですよ! ほらっ!」
 彼の不思議な雰囲気に呑まれていたカナは、我に返って慌てて腕を振った。
「そう、それは良かった」
 彼は優しく微笑んだ。
 それから彼は備えつけのテレビに目を向けたが、カナは彼を見つめ続けた。
 彼の体からは潮の匂いと……別の女の匂いがした。
 カナは彼が何処か遠くに行ってしまったような気がした。
 胸に大きな穴が開いたようだ。
 ……そんなことには慣れっこだ、とカナは考えようとした。
「ドロシーさんは何処ですか?」
「行っちゃったよ。何処かへね」
 彼は口元に指を当てて小さく笑った。
「ふーん。やっぱりあの人、人間じゃなかったんだ」
 カナはロビーの長椅子に座った彼の隣に腰かけ、わざと強気な口調で呟いた。
「確かに……確かにそうだね」
 楽し気に笑う彼の横顔は綺麗だった。
 元々端正で繊細な顔立ちだったが、怯えや卑屈さといった影がなくなり、目は輝いている。カナはいつの間にか、彼に見惚れている自分に気がついていた。
 彼は変わってしまったのではない。カナは考えた。多分、これが本当の彼なのだ。まだ弱々しくて不安定だが、彼はやっと自分の殻から抜け出して、新たな一歩を歩み出そうとしている。
 ……私がそれを手助けできたら良かったのに。そして、彼にとって特別な存在になれたなら……。
 でも、彼は私の手の届かない所に行ってしまった。
 カナは自分がひどく冷たい所に取り残されたような気がした。

「リョウ……」
 テレビを見いてた彼が、不意に呟いた。
 それは朝のニュース番組で、内容は先程カナが見ていたものと変わらなかったが、カナのいる病院の前から中継が入っていた。
 テレビに映っている建物の中に自分がいるというのは、何となく奇妙な気分がする。
「リョウは無事なのか?」
「怪我は酷いけど、そんなに悪い状態じゃないそうです。この病院の何処かにいるはずですよ」
「そうか……」
 その時、カナは不意にリョウの行動の理由がわかったような気がした。
「先輩」
「何?」
 カナは彼にもたれかかりながら呟いた。
「リョウさんは……先輩のこと……好きだったんでしょうか?」
 彼の体が一瞬緊張するのが感じ取れた。しばらくの沈黙の後、長々と息を吐ききり、呟く。
「……多分、そうだったんだろうね」
「…………愛してたと思います?」
 カナは彼の顔を覗き込むようにして尋ねた。
 彼は落ち着いた目でカナを見た。
「そうかもしれないけど……肉体関係を望んでたとは思えないな。何て言うか……」
 彼は少し考えてから言った。
「何て言うか、リョウは寂しかったんじゃないかな? リョウは誰かを求めてたんだ。でもそれは、愛情とか欲情とかいうものとは少し違うと思う……言いにくいけど、わかる?」
「わかります……とても」
 カナが言うと、彼は少し寂しそうに笑った。
「そう……でも僕は、それを受け止めてあげられなかった」
「そんなことないですよ」
 カナは呟いた。
「あの人は他人を独占することでしか愛情を示せない人です。ただの我侭です」
「でも人は一人では生きられない。誰かと関係しなければ生きていけないんだ。例え、それがどんな方法でもね」
 彼は誰かと似た台詞を言った。その台詞は、カナの頭の中に嫌な記憶を呼び起こした。
「先輩も……そう思いますか?」
「何を?」
「人は誰かと一緒でないと生きていけないって」
「…………ああ」
 彼はカナの体を優しく抱き締め、囁くように言った。
「さっきね。ドロシーと別れてから、ある人に会ったんだ。その人は口では嫌なことばかり言うけど、本当はとても繊細な人なんだ。僕はその人を駅まで送ってあげたんだけど……車の中でずっと泣いてたんだ」
「どうしてですか?」
 彼のカナを抱き締める力が少し強くなった。
「それはよくわからない。ただ、今まで自分が傷つけてきた人に謝りたいって言ってたよ。今まで自分が愛していたのに心を打ち明けられなかった人に……って。それからこんなことを言っていた」
 彼は一息ついてから言った。

「世界中に愛と平和がもたらされることを……人と人とが本当にわかり合える世界が実現することを」
「変な人……」
 カナは吐き捨てた。それとよく似た台詞にも嫌な気分がつきまとっていたからだ。
「そうでもないよ」
 彼は呟いた。
「その人は、ただ他人が恐いだけなんだ。本当は誰かを愛しているのに、素直にそれを伝えることができないんだよ」
「そんなこと……あるんでしょうか?」
 カナは彼の顔をじっと見つめた。彼はカナを見つめ返した。
「僕も人が恐くて仕方がなかった。実を言うと、カナちゃんのことも恐かったんだよ」
「……それ、本当ですか?」
 カナは少し驚き、
「うん、ずっと誰もが恐かった。ずっとね。でも心の中ではわかってたんだ。僕は一人では生きられない。でも誰も僕と共にはいてくれない……愛してなんかくれないと思ってた」
「そんなこと……そんなことないですよ!」
 体を起こして彼の目を見つめた。
「……そうだね。そんなこと、ないんだね」
 彼はゆっくりと目を閉じ、掠れる声で呟いた。
「何を怖がってたんだろう、僕は……誰かに愛されたかったら、自分から愛せばいいだけなのにね」
 そして彼は、何処か遠くの方を見つめるようにして言った。
「カナちゃん、前に君はエンタープライス号に乗りたいって言ってたよね?」
「ええ。でも冗談ですよ?」
 カナが言うと、彼は本気とも冗談ともつかない表情で言った。
「思うんだけど……僕達はもう、スタートレックの世界にいるんだよ」
「??? どういうことですか?」
 カナの疑問の眼差しに微笑みを返し、彼は穏やかな口調で続けた。
「この世界は星の海……一人の人間は一つの星だ。僕は『僕』という星のたった一人の住人で、星と共に宇宙を旅するんだよ。人間は一人一人、宇宙人だ。皆、自分の星に住んでいる。一人が一つの文化や歴史を持っていて、それぞれ別の考えを持っている。同じ星は一つとしてないんだ。星は旅の途中に別の星と巡り会う。星と星は仲良くなって交流したり……うまくいかなくて戦争をしたり……ただすれ違うだけの時もある。ただ、どんなに仲が良くなっても、どれだけの時を共に過ごしても、二つの星は同じになったりはしない。だって、星は一つ一つ違うんだからね」
「悲しい考え方ですね」
 カナは呟いた。
「そうでもないよ」
 彼は言った。
「僕達はスタートレックの世界にいる。僕達は自分の星を動かして宇宙を旅するんだ。ワクワクしない? 宇宙は広いんだ。これからどんな星の住人と出会えるかってね」
 彼の瞳に綺麗な光がともった。
「『宇宙は最後のフロンティア』だよ……僕らの旅は、まだ始まったばかりなんだ」
 カナは少しうつむいて黙っていたが、不意に顔を上げると彼の手を取った。
 そしてそのまま彼の手を自分の胸に押しつけた。
 彼が一瞬動揺し、困惑した表情を見せる。
「いつか……私の星に来て下さい。正式に御招待します」
 彼の手のひらの温もりを感じながら、カナははっきりとした口調で言った。
「そして一緒に旅をしましょう。……宇宙を」

 その時、ロビーの横を賑やかに騒ぎながら、田島親子と桜田が通った。
「あの人は」
 彼が長椅子から立ち上がった。
「いけません、先輩!」
 カナは彼の手をつかんで止めた。
「いけません、先輩。あの人は……」
 彼は振り返り、少し戯けた口調で言った。
「謝ってこなくちゃ。リョウの分もね」
「そんな……」
 彼はカナの手を握り返し、穏やかに微笑んだ。
「さっきの言葉、嬉しかったよ。いつかきっと、カナちゃんも僕の星に来てよ。あんまり居心地のいい所じゃないと思うけどね」
 彼はカナの制止を振り切り、田島の方に歩き出した。

 カナは歩き去る彼の後ろ姿を見つめていた。
 彼からは別の女の匂いがした。多分、心もその女のものだ。今更自分が何をしても無駄かもしれない。カナは自分が交渉の場に出遅れたことを悟った。
 しかし。
 ……しかしだ。
 カナの心の中で、何かがまだ諦めてはいけないと言っていた。例え不利な交渉であろうとも続けるベきだと。そして交渉が成立すれば、きっと大きなものを手に入れられるだろうとも。
 それが何なのか、はっきりとはわからない。
 いや、多分簡単な単語で言い表すこともできるのだろうが……言葉にしてしまうと、きっとつまらなくなってしまうだろう。
 カナは自分のボキャブラリーの中から、その言葉を探すのをやめた。
「あ~あ、本気で好きになっちゃったかな?」
 カナは大きく伸びをして呟いた。

第四話 「青年と少女が宇宙の旅に出る話」 4

2007年12月18日 | 僕達の惑星へようこそ

 AM.7:03

 夜が明けてから間もないというのに、病院のロビーは非常に混雑していた。
 そこを埋め尽しているのは怪我人でも病人でもなく、手にカメラとマイクを持った情報の飢餓に陥った者達……つまりマスコミの大群だった。
 どうやら昨夜の一件が知れ渡ったらしい。カナは腕に包帯を巻いていたので早速マスコミに取り囲まれたが、「私、彼と喧嘩して階段から落ちちゃったんですよ! ねぇ、彼ったら酷いと思いません!?」と言ったら波が引くようにカナの周りから消えた。
 それからマスコミは、昔テレビで見た大学紛争のように病院側の人々と押し合い、ついに建物の外に閉め出されてしまった。
「何なんだか……」
 カナは呟き、気を取り直して自動販売機でコーヒーを買おうとしたが、お金を持っていないことに気がついた。
 仕方なく、カナはロビーのソファーに座って備えつけられたテレビを見ることにした。どうやら昨夜の事件はかなりの注目を浴びたらしく、ワイドショーに呼ばれた数人の評論家が意見を交わしている。
 彼等はこの事件のことを『時代の象徴』とか『青少年犯罪の凶悪化』といった言葉で表現していたが、カナは何か違うなと思った。
 やがて何処から持ち出してきたのやら、リョウの経歴が写真と共に紹介された。神野涼(20)……無機質な文字が画面上に張りついている。この番組を見ている限りでは、誰の目にも凶悪で手のつけられない不良と映るだろう。やはり何かが違う。
 それから数人の者にインタビューした映像が流れたが、皆一様にリョウのことを精神異常者や誇大妄想家のように語っていた。それらの者の映像にはモザイクがかかっていたり、首から下のみが映っていたりしたが、喋り方(勿論音声も変えてあった)や服装の特徴から、カナは大抵の者の正体を容易に推察することができた。
 中にはリョウのグループのメンバーもいたが、皆リョウのことを他人のように話している。そして事件の関係者の話が生中継で入ってきたとの解説者の言葉と共に、スケアクロウの支配人、オカダの顔が映った。
 マスコミはスケアクロウの中にまで入っているらしく、オカダの後ろでは『K』が黙々と機材の片づけをしている。
 最初、オカダはレポーターの質問に緊張した面持ちで答えていた。しかし、レポーターの不躾な質問がきっかけとなったのだろう、いきなり感情を爆発させた。
「そりゃよお! 俺だって店を滅茶苦茶にされたんだ、リョウには腹を立ててるよ! 今すぐにでもここに引きずってきて土下座でもさせてやりたいよ! パールとカナちゃんに絶対に謝らせてやるよ! 頭が割れるくらいに怒鳴りつけてやるよ! でもなあ、だからってアイツのことを二足三文の『わけのわからない奴』として扱うのはやめろよな! アイツには色々と文句を言いたいけど、アイツはアイツで人間なんだ! テレビの見せ物じゃねえ! お前らリョウのことを何にも知らない癖に偉そうに語ってんじゃねえよ! お前らに何がわかるってんだ! ファーーーーーーーーーーーーーック!」
 それは多分、ワイドショー史上最長の『ファック』だった。
 すぐさま画像が切り替わり、アナウンサーが大変お聞き苦しい所があったと視聴者に謝っていたが、カナは今までの意見の中で一番聞きやすかったと思った。何故ならオカダが本心のままに喋っていたからだ。
 ……もしかしたら、リョウと自分は似たタイプの人間かもしれない。
 ふと、カナはそう思った。だが……何だろう? 何が似ているのだろう?
 カナは背もたれに体を預けて天井を眺めた。
 ……何だろう?

「何て言うか……貴方達は『特別』な感じよね」
 かつて、クミがカナとリョウについて言ったことがある。しかし、カナはいまいちピンと来なかった。
 裏表がある性格だから? これは確かにそうだ。リョウもカナも、常に複数の顔を使い分けている。それは多分、二人共が世界に違和感を抱いているから……世界に違和感……うん、これは何かぴったりとくる。
 カナはリョウが、いつも何処か冷めた表情をしていることを知っていた。
 あれはいつだったか、スケアクロウのパーティーにつき合わされたことがある。バカ騒ぎに疲れてぼんやりとしていたカナは、同じくリョウがイスに座ってぼんやりしていることに気がついた。リョウはカナの視線に気づくと、カナを見てニヤリと笑った。
 それは同類の犯罪者に向けられた、ある種の連帯感を感じさせる笑みだった。
「まったく、やってられないよな?」
 彼の表情を、カナはそう解読した。
 ……彼は孤独だったのだろうか?
 何処か寂しそうだったのは確かだ。いつも他人を見下しているようで……それでいて頼りなさそうな目をしていた。
 多分、そこが人を惹きつけたのだろう。
 ただし、そんなリョウも唯一人の者に対しては非常に無防備な表情を見せることがあった。カナも同じ男には不思議と無防備なままで接することができた。
 少なくとも、そこだけは似ているかもしれない。

「あ、すいません……」
 ソファーの背もたれに軽い衝撃が走り、少し慌てた声がした。
 カナが振り返ると、そこには車椅子に座った初老の男がいた。どうやら車椅子がソファーにぶつかったらしい。
「いいえ。それより、大丈夫ですか?」
 カナは立ち上がって男に尋ねた。男は車椅子の向きを変えようとしていたが、腕にも怪我をしているらしく、思うように動かせないでいる。カナが見兼ねて手伝おうとした時、少しかん高い声と連続するスリッパの音が聞こえてきた。
「まったくもう! お父さんたら無茶するんだから!」
 それは小学校高学年くらいの女の子だった。長い髪が頭の上で二つに分けられ、小動物の尻尾のように伸びて跳ねている。
「どうして一人で動こうとするのよ! 私が押してあげるって言ってるのに!」
「いや、すまないね……だが、レイナに迷惑をかけるのも何だしね……」
「何言ってるのよ。体まだ治ってないんだから!」
 少女はブツブツ言いながら車椅子を動かすと、カナに気づいて慌てて頭を下げた。父が御迷惑をおかけしまして、と大人びた口調で言い、父親の方に目を向ける。男は恥ずかしいような照れたような顔で微笑むと、改めてカナに謝った。
 その時、カナは男の胸にかかった名札から、彼が『田島』という名字であることを知った。

 カナと田島親子は一緒に病院の中を散歩していた。少女一人で車椅子を押すのは大変だろうと思ったので手伝いを申し出たカナは、田島を残して自動販売機にジュースを買いにいった時に、少女から意外な話を聞かされることになった。
「お父さんね……これここだけの話なんだけど。さっきテレビに出てた男に怪我させられちゃったの」
 少女……田島の娘で名前はレイナと言うらしい……は、カナが父親の怪我のことを尋ねるとこう答えた。
「さっきのって……リョウのこと?」
 言ってから、カナはリョウと言っても通じないかと思ったが、レイナの方はちゃんとわかったらしい。
「多分それ! お姉さん知ってるの? ……はまあいいとして、お父さんね、おとといの夜にあの男に殴られて怪我したんだって! 他にもいっぱいいたらしいんだけどね」
「へえ……世間は狭いなあ」
 カナは呟き、包帯の上から右腕を押さえた。リョウが暴力事件を起こしているのは知っていたが、何もあんな人の良さそうなおじさんを襲うことはないではないか。もしかしたら先輩もそれに参加していたら嫌だなあ、と考えていたカナは、レイナが何か言ったので驚いて返事をした。
「ねえ、お姉さんは何が欲しい? お父さんがお姉さんにもってお金くれたから」
 カナは礼を言ってから、別に喉が乾いていないからと断ろうと思ったが、気を取り直してコーヒーを一本買った。
「ねえ、レイナちゃん? お父さんは訴えたりするのかな? そのリョウって男を」
 それから、カナはこうつけ加えた。
「……リョウだけじゃなくて、その他の仲間も……」
 するとレイナは、自分の分のジュースを買いながら不機嫌そうな顔で言った。
「お父さんたら、訴える気とかほとんどないんだよ? だってさあ、あんな酷いことされたんだもん訴えるのが当然じゃない! それからお金も……賠償金って言うの? それも払ってもらって当然じゃない! そう思うでしょ? お姉ちゃんも!」
 カナは田島が訴えない方がいいなと思っていたので、レイナの言葉に少し動揺し、曖昧な返事をした。その時、
「レイナ。このようなことをお金で解決するのはどうかと思うよ?」
 突然背後から落ち着いた声がしたので、カナは驚いて缶コーヒーを落としそうになった。
 振り返ると、そこには車椅子に乗った田島の姿があった。
「お父さんたら! お人好し過ぎるんだから!」
 レイナが唇を尖らせる。それから彼女は、カナに向かって同意を求めるように言った。
「お父さんたら、夢みたいなことを考えてるんだよ? いつかきっと、あの時に襲ってきた人達が反省して謝りに来るって。そんなことあるわけないじゃない」
 ひどく大人びた口調で、レイナが父親に説教する。
「それくらいわかってよね? だからお父さんは人が良過ぎるってバカにされるんだよ。私だってそれくらいはわかってるんだから……こないだ学校で盗られたハーモニカだって結局出てこないし!」
 最後の台詞でいきなり小学生に戻ってしまった娘に、田島は落ち着いた声で言った。
「だがね、レイナ? 彼等は若いんだし、そんなに厳しくするのもどうかな? 彼等にはまだ長い人生が残ってるんだ、いつかわかってくれるよ。それに、私はもう元気だし……ねえ? レイナ?」
 するとレイナは、唇をギュッと噛み、小さく呟いた。

「その『若い人達』って、お父さんの何分の一の価値があるの?」

「……レイナ……」
 田島が困った顔をして、レイナの肩に手を伸ばす。その時、高いハイヒールの音と共に、誰かが廊下の角から姿を現した。
「まあ田島さん、ここにいらっしゃったのですか? それにレイナちゃんも!」
 それは細身の体に明るい色合いのスーツを着込んだ、華やかな雰囲気の女性だった。年は二十代後半だろう、長くまっすぐな黒髪の間からピアスをつけた白い耳が見える。
「病室にいらっしゃらなかったから心配したんですよ?」
「これは桜田君、じゃなかった桜田課長」
 田島が車椅子の向きを変えようとして、苦しそうに体を折り曲げる。桜田と呼ばれた女性は慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 田島さん」
「御心配なく課長、気を使わんで下さい。課長こそお仕事の方は大丈夫なのですか? 私なんぞの為に……」
「御心配なく、午後から出社いたします」
 田島はひたすらに低姿勢だったが、桜田は有無を言わせぬ迫力で田島を押し切った。
「それから課の者も時間が空き次第見舞いに来ると言っておりました」
「頼みますから気を使わんで下さい……」
「いいえ! 田島さんあっての第一課ですよ?」
 そして桜田は田島の車椅子を押して病室に向かい始めた。
「……私、あの人嫌い」
 尚も遠慮する父親を見ながらレイナが呟いた。
「いい人じゃない?」
 カナが正直な感想をもらすと、レイナは露骨に顔をしかめた。
「嫌いだよ。だってあの人、死んだママと同じ香水をつけてるんだもん」
 それからレイナは田島の後を追って走り出そうとした……が、クルリと向きを変えてカナの方を見た。
「ねえ、お姉ちゃん?」
「何?」
 レイナはじっとカナを見つめて言った。
「お姉ちゃん、犯人の男の人と知り合いでしょ?」
 それは違う……言いかけて、カナは思い直した。
「……うん、まあ知り合いかな?」
 カナは自分の右腕を指で示した。レイナはそれを見て頷いて言った。
「おとといね、お父さんが怪我させられた時に救急車を呼んだ人がいるのね。警察の人の話なんだけど、今までの事件だったら、犯人はそんなことしないらしいの。それはもしかしたら、お父さんが今までで一番酷い怪我をしたから恐くなったのかもしれないけどね」
 レイナはしばらく黙ってから言った。
「まあ、それでも私は救急車を呼んでくれて嬉しいと思うわけ。もし、お姉ちゃんが救急車を呼んだ人に会ったら言っといてくれないかな?」
「何て?」
 カナが尋ねると、
「裁判の時は手加減してあげるって!」
 レイナはそう言って大きく手を振り、田島を追って走っていった。
「頭のいい子ね……」
 カナは呟き、缶コーヒーを持ってカウボーイの所に戻ろうとした。
 その時、カナはロビーに一人の男が立っていることに気がついた。

第四話 「青年と少女が宇宙の旅に出る話」 3

2007年12月17日 | 僕達の惑星へようこそ

 AM.6:07

 カナはベッドの上で目を覚ました。
 辺りは暗く、カーテンのかかっていない窓から見える空に太陽の姿はない。空は淡いすみれ色を呈しており、夜明けが近いことを告げている。
 カナはパリッとした堅いシーツの上で体を動かし、ここが何処かを探ろうとした。
 自分の体温のこもった蒲団をどけて上体を動かそうとした時、右腕に鋭い痛みが走った。見ると何重にも包帯が巻かれている。カナは自分が病院にいることを思い出した。
 ……そうだ、自分は腕をリョウに切られて病院に担ぎ込まれたのだ。
 それからカナは、傷を縫う為に病院の中を運ばれていく気配を薄れてゆく意識の中で感じていたことを思い出した。
 確か医者は、隣にいた誰かに傷はそんなに深くないし出血も少ないから大丈夫だと言っていた。それから医者は応急処置が良かったのだろうと言った。
 最後にクミの声を聞いたような気がしたのだが……気のせいだろう。
 そう思ったカナは、自分の足下に突っ伏すようにしてクミが眠っているのを見て吃驚した。どうやらクミの言う通り、情報の伝達速度は上がっているらしい。今度、パソコンの使い方を教えてもらおう。
 カナはクミが穏やかな寝息をたてているので、起こさないように慎重にベッドから抜け出した。立ち上がった時に一瞬目眩いがしたが、何とか大丈夫だった。
 スリッパがなかったので、直接素足で堅い床の上に降りた。足の裏からしっとりとした冷たさが伝わってくる。カナの意識は次第に覚醒し、冴えていった。
 ピアノの高いキーを叩いたような不思議な静けさが病室を満たしていた。夜明け前の空気が白い病室を青く染めている。
 カナはクミの頬をそっと撫でた。クミは少し呻いて体を動かした。カナは微笑み、今度は頬に軽くキスをし……ふと、クミのスカートの裾が破れていることに気がついた。
 病室を出ると、薄暗い廊下が延々と続いていた。所々には、窓からの光が青白い筋を投げかけている。そんな中、目を引く赤いものがあった。それはカナの病室の前に置かれた長椅子に寝転んだミンクだった。
 ミンクは筋肉質な腕を投げ出していびきをかいていた。派手な服はくしゃくしゃになり、化粧の落ちかけたゴツゴツとした頬に無精髭が生え始めている。カナはそんなミンクを見て微笑み、ありがとうございます、と小さな声で言った。
 それからカナは何を思うでもなく歩き出した。

 病室と同様、廊下も静まり返っていた。
 と、パタパタという足音と共に、廊下の遠くの方を白い看護婦の姿が走り去るのが見えた。何処かの病室から呻くような声が聞こえ、病室内がにわかに騒がしくなる。そして、またパタパタという足音と共に看護婦達が駆けつけてきた。
 冷えきった病院の中で、そこだけパッと火がついたように慌ただしくなり、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
 カナは少し離れた暗闇の中からそんな様子を見ていたが、また歩き出した。

 廊下で赤ん坊を連れた夫婦とすれ違った。二人は声をひそめて赤ん坊に話しかけていたが、カナに気づくと幸せでたまらないといった笑顔でお辞儀をしてきた。
 カナはぼんやりと赤ん坊を見つめていたが、慌てて微笑み、お辞儀を返した。
 二人は幸せそうにカナの隣を通り過ぎた。
 カナは親子を見送って、しばらく立っていた。
 ……あの赤ん坊が、幸せな人生を送れればいいのだけれど。

 しばらく歩くと、とてもとても静かな場所についた。その一帯には、今まで微かにしていた人の活動の気配というものがまったく感じられなかった。
 ある病室の前の廊下に、壁に背をつけて座る一人の男の姿があった。
 男は革のズボンに包まれた長い右脚を投げ出し、折り曲げた左脚の膝の上に腕を乗せ、じっと病室のドアを見つめていた。
 細かい皺の刻まれた精悍な顔の中で、濡れたようなエメラルド色の瞳が光っている。
 男は一瞬でも病室のドアから目を離すと何かが失われてしまうかのように顔を動かさなかったが、カナが近づくとチラリとカナの方に目を向けた。
「……何だ……君か……」
 流れるような発音でカウボーイは言った。眠っていない為か声に力はなく、疲れ果てた感じだ。カウボーイは微笑み、カナが無事で良かったと言った。
「この中には……あの女の人がいるんですか?」
 カナは病室のドアを見ながら言った。ドアには『面会謝絶』との札がかけられている。カナはパールが、カウボーイを庇ってリョウに切られた瞬間のことを思い出していた。
「あの人、助かるんですか?」
 カナはカウボーイの隣に立って尋ねた。
「難しいところだな……」
 沈んだ声でカウボーイは答えた。
「傷は深いし、出血も酷かった。だが、大丈夫だ」
「本当ですか?」
「……多分ね」
 カナはカウボーイの言葉が不謹慎だと思ったので気を悪くした。
「恋人なんでしょう? そんな言い方ってないですよ」
 カウボーイは不機嫌なカナの顔を見て少し微笑んだ。
「パールは……ああ、パールというのは彼女のことだが……僕の恋人じゃないよ。逆に僕のことを憎んでるくらいだ」
「……そんな……どうしてですか?」
 カナが尋ねると、カウボーイは寂しそうに言った。
「それはね、彼女が自殺しようとするのを止めるからだよ」
「自殺? どうして……」
 カウボーイは少し口籠ったが、ふっと息をつくと話し始めた。
 本当は、ずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「彼女は僕の友人の恋人でね。結婚の約束もしていた。彼は売り出し中の新人のカメラマンで、彼女はモデルだった。幸せそうだったよ。何処から見てもお似合いのカップルだった」
 カウボーイは何処か遠くを見るように病室のドアに目を向けた。
「だがある日、二人は事故に巻き込まれた。二人が歩道で立ち話をしている所に車が突っ込んできたんだ。彼は咄嗟にパールを突き飛ばしたが、自分は車を避けることができなかった。即死だった」
「悲しい……事故ですね」
「偶然の事故だよ。事故の理由は運転手の心臓発作によるものだった。そして運転手もまた死んだ。せめてもの救いは、パールが助かったことか……」
 カウボーイは少し皮肉っぽく続けた。
「しかし、彼女はそうは思わなかった……それから彼女は突発的に自殺を試みるようになった」
「どうしてですか?」
「さあ、どうしてだろうね。でも多分、彼女は優し過ぎるんだ。彼女は自分が生き残ってしまったことに負い目を感じている」
「……そんなこと……」
「僕だってそう思うよ。あいつがパールを突き飛ばしたのは彼女に生きて欲しかったからだ。しかし彼女は、どうしても自分に生きる価値があるのかわからないらしい。だから自殺を試みて自分に生きる価値があるのか試しているんだ。何度も、何度も……」
 カウボーイは自分の隣に座ったカナを見ながら言った。
「彼女にとって自殺行為は自分の価値を測る賭けのようなものだ。だから彼女は誰かがそばにいないと自殺を企てない。病院に運ばれるまでが、彼女の賭けの時間となるんだ」
「どういうことですか?」
 カウボーイは少し微笑んだ。花崗岩のような肌の向こうで、翠の瞳が優しく揺れる。
「彼女は死にたいんじゃない。本当は生きていたいんだ。生きていてもいいという証拠が欲しいんだ……君は、奇跡ってやつを信じるかい?」
 いきなりの質問に、カナは少し戸惑った。
「あんまり信じません……けど?」
 カウボーイは頷いて言った。
「僕も運命とか奇跡とかいう考え方は嫌いだ。だが十二回だよ?」
 カナは眉をひそめた。
「何が、ですか?」
「パールがこれまでに行った自殺未遂の回数さ。彼女は手加減というものを知らなさ過ぎる。本当に自分を生と死の境目に追い込んでしまう。一度は高速道路でドアを開けて車から飛び出そうとしたし、ある時は瓶一杯の睡眠薬を飲み干した。この前、浴室の扉に鍵をかけてから手首を切った時にはもうダメだと思ったよ。何せ骨まで見えてたんだから……」
 思わず想像してしまい、カナは気分が悪くなった。
 しかしカウボーイは続けた。それは何処か自分に言い聞かせているようだった。
「だが彼女は生き残った。生と死のギリギリの境界まで行って、それでも帰ってきた。僕は信じているんだ、彼女は生きる為にここにいるんだと。そして、彼女がいつかもう一度恋をすることができたら、本当に奇跡だって起こるだろうと」
 カナはじっとカウボーイを見つめた。
「パールさんのこと……本当に愛してるんですね」
 カウボーイは少し照れ臭そうに笑った。
「よしてくれ、僕はそんなに偉い人間じゃない。実業家というのは最も人を信用しない人種なんだから……ただ……」
「ただ?」
「誰かの為に生きるってのも悪くないかな? って最近思ってる……ハハ、年だなあ」
 カウボーイの笑顔は、まるで子供のように純粋だった。

「そうだ。この病院に着いてすぐに、君の友人から番号を聞いて君の家に電話をしたんだが、誰もいなかったんだ。もし出かけている先を知っているなら、早く連絡をとった方がいい」
 カウボーイの言葉に、カナは少し表情を固くした。
「家には……私の家には誰もいません」
 カウボーイはカナの顔を見て失礼なことを聞いたかと尋ねた。
「いいえ」
 カナは病室のドアを見た。それから独り言でも言うように話し始めた。
「私の父は七年前に亡くなりました。母はまだ元気ですが家にはいません。いつも若い男と一緒に遊び回っています。別に、悪い人じゃないんですけどね」
 カナは少し微笑んで言った。
「ただ……何て言うんでしょうね? いつも誰かと一緒にいないとダメな病気……誰かに尽くしていないとダメな病気……そんな感じの人なんです。いつも何処かのろくでもない男を見つけてきて、バカなくらいにのめり込んで。まあ、すぐに別れちゃうんですけどね。まるで恋をして自分が傷つけられるのを楽しんでいるみたい。きっと、ああいうのを『自虐的』って言うんでしょうね」
 カナは薄い寝間着の上から自分の体を抱き締めた。
「そのくせたまに帰ってきたら、私に女らしくしろとか勉強しろとか言うんですよ? 嫌になりますよね。そう思いません?」
 返事を期待していたわけではなかった。カナは床に視線を落とし、呟いた。
「私は母みたいにはなりません……バカな女なんかになるつもりはないですから」
「成程ねえ……」
 カウボーイが思わせぶりな口調で呟く。自分が笑われたような気がして、カナはキッとカウボーイを睨んだ。
「何か可笑しいですか?」
「いや……ね」
 カウボーイは少し微笑みを浮かべてカナを見た。
「君は自分の価値がわかっていないなと思ってね」
「私の……価値ですか?」
「そうだよ、君はかなりつまらないことに自分を縛られてしまっている。もっと自由に、我侭になるべきだ」
「……我侭だって言うんだったら毎日言われてます」
 言ってから、カナは少し黙り……試すような目でカウボーイを見た。
 そしてカナは、自分の『ビジネス』のことを話し始めた。カウボーイは黙って聞いていたが、話が終わるとクスクスと笑い出した。
「何が可笑しいんですか?」
 カナが強い口調で言う。
「いや、君の話がとても素晴らしかったのでね。君はいい実業家になれるよ。保証してもいい」
 カナはバカにされているようで面白くなかったが、不意に真剣な目で見つめられて言おうとしていた文句を飲み込んだ。
「君の恋愛に対する考え方は正しいと思う。普通我々は、経済は非人間的な行為であり恋愛は人間的……いや本能的な行為だと考えてしまう。だがそれは違う」
 カウボーイはゆっくりとした口調で言った。
「実際には経済とは非人間的な行為ではない。昔の学者が言っているが、経済は平等に二人の人間の欲望を満たすことができる唯一の仕組みだ。例えば、海辺に住む者が塩を作り、平原に住む者が穀物を作る。どちらも人間にとって必要な物だ。だが、常に両方が充分に手に入るとは限らない。だから両者がそれを交換することによって……海辺の者は穀物を得て、平原の者は塩を得ることによって、お互いの生活を成り立たせる。これが経済の基本理念だ。
 勿論、いざこざが起こって誰かが傷つくかもしれない。しかしそれでも、武力によって足りない物を手に入れようとするよりは遥かに犠牲は少ない。経済とは二人の者が生きる為、そしてお互いの安全と自由を守る為に、それぞれ少しずつの努力をすることなんだ。これは君の言う理想的な恋愛の形と同じだね」
 カウボーイの言葉に、カナは知らず知らずの内に頷いた。
「だが、これはあくまでも理想だ。世の中には、ただひたすらに自分の利益だけを追い求めることを経済だと思っている者が多い。自分の欲望を満たす道具だと思っているんだね。そしてこれは、恋愛にも当てはまる」
 カウボーイは少し笑って続けた。
「現に僕だってそうしてきた。例えばパールのことだって……僕は博愛精神から彼女を助けたわけじゃない」
「どういうことですか?」
 カウボーイは少し言いにくそうに言った。
「最初はね。僕もパールのことは嫌いだったんだ。何しろあいつは恋敵だったからね」
「??? 恋敵?」
 カナは目を丸くした。
「実はね、相手の男の方を僕が好きだったんだよ。まあ肉体関係はなかったが……この国はバイセクシャルというのものを一方的に否定するから困るね」
 少し戯けて言い、カウボーイがペロリと舌を出す。カナはどう反応していいのかわからず、ただ黙っているしかなかった。
「最初は思ったよ。どうしてあいつが助けた命を粗末にするんだ? それなら最初から、お前が死んでいれば良かったんだってね。あいつは本当に才能ある男だったのに……」
 カナが何も言えずにいるのを気にすることもなく、カウボーイは話し続けた。
「恋愛というものには、とてもエゴイスティックな感情がつきまとう。それは経済より遥かに複雑でねじれているので、簡単には理解できないことが多い。例えば、誰かに傷つけられているように見えても実は本人がそれを求めていたり、逆に愛している相手を支配して傷つけることしかできなかったりする者もいる。思うんだが、君のお母さんもそんな人なんじゃないかな?」
「そんな……」
「君の父親は、どうして亡くなったんだい?」
 その質問を受けた途端、カナは勢いよく喋り始めた。そこには、少し自慢するような響きがあった。
「私の父は私の家に養子に来て、祖父の始めた会社で働いていました。ある時会社が潰れかけて、それで父は必死に努力して。会社は持ち直したんですけど、父は無理が祟って体を悪くしてしまいました。そしてそのまま……」
 そこでカナは少し口を噤んだ。
「……母は死んだ父の遺骸の前で泣いていました。私が悪かった、って……でも」
「夫が死んだのは自分の家の会社のせいだ。そう思ったのかもね」
「そんなこと……」
「だが、それも可能性の一つだ。君のお母さんは夫が死んだのは自分の会社……いや自分の家が無理をさせたせいだと思った。だから今度は自分自身を誰かの為に傷つけさせることを選んだ」
「どうしてそんなことわかるんです? 違うかもしれないじゃないですか」
「そうだね、違うかもしれない」
 カウボーイはじっとカナの目を覗き込んだ。
「私に本当のことはわからない。私はただの部外者だ。だがそれは君も同じだ。君は君の母親とは別の人間だ。だから本当のことなんかわからない」
「でも」
 カウボーイは目を伏せたカナの肩を軽く叩いた。
「憎むのなら話を聞いてからにしたまえ。外見だけで物事を判断するのは実業家として最も恥ずべき行為だ。それに、君の母親が本当に男好きなだけだったとしても、それはそれでかまわないと僕は思うね。未亡人になったんだ、死んだ人間に遠慮して人生を楽しまないのは経済的じゃない。例え、君が死んだ父親をどんなに愛していたとしてもだ」
 カナは少しムッとして言った。
「私、そんなありふれた人間じゃないです!」
「どうだか?」
 カウボーイは病室のドアを見つめた。
「そう言えば、あのリョウとかいう男も……」
「何ですか?」
「……いや、困った男だと思ってね」
 カウボーイは笑った。カナは何が何だかわからなかった。

「君はもっと恋をした方がいい」
 もう行こうとして立ち上がったカナは、やぶから棒なカウボーイの台詞に戸惑い、足を止めた。
「君は、パールと僕の関係の中で、僕が損をしていると思うだろ?」
「……そうですね」
「最初は僕もそう思ってた。君の言葉を借りれば、自分は経済的に考えて損をしているってね。だけどそれは違うんだ。実際には、僕はパールから多くのものを貰っている。とても多くのものをね……貰い過ぎじゃないかってくらいだ」
「本当ですか?」
「本当さ。彼女に会うまで、僕は本当にエゴイスティックなことを考える男だった。自分がどうすれば有利になるかばかり考えていた。自分がどうすれば愛されるのかばかり考えていたと言ってもいい。……だがね、最近わかったんだ。本当に経済で儲けたかったら、まず自分から相手に何かを与えた方がいいってね」
「……本当ですか?」
 二度目の強い問いかけに、カウボーイは真剣な眼差しで応えた。
「嘘は言わない。まずどんな相手でも愛すること、そうすれば相手は君が思ってもいなかったものを与えてくれるだろう。そしてそれは、表面的で薄っぺらな繋がりなんかじゃなく、確かな絆となって君を支えてくれる。中には思い上がって調子に乗る奴もいるだろうが、そんな奴は切り捨てればいい。この方法は、そんな人間を短期間で的確に見分けることができる方法でもある。君がまず愛することで、相手は君のことを愛してもいいと思うんだ。大人の社会でも『関係』というのは結局はそんなものだ、みんな怖がってる。だからこそ、まずは愛してあげることだ。そうすれば君は、もっと多くのものを得ることができる。もっとも、それは金銭的な基準で測れるものではないかもしれないがね」
 カウボーイは胸の中央の辺りを叩き、少し充血した目でウインクをした。
「……そうですね」
 カナは微笑んだ。
「ああ、そうだ」
 カウボーイも微笑んで言った。
「もし君の都合が良ければ、僕の会社に来ないか? 別に社員になれとは言わないが、君に世界を見せてあげられるよ」
 カナは丁重に断り、礼を言って頭を下げた。こんなことをしたのは久し振りだ。それに大人の男性に正直に礼を言えたのも。
 カウボーイはにっこり笑って……あくびをした。相当眠いらしい。
 カナは笑い、コーヒーでも買ってくると言って歩き出した。

 カウボーイはカナの後ろ姿を見送り、また病室のドアを見つめた。
「……早く戻ってこいよ、真珠。ここはまだまだ楽しい所だぜ?」

第四話 「青年と少女が宇宙の旅に出る話」 2

2007年12月16日 | 僕達の惑星へようこそ

 AM.11:27

 カナはベッド脇の小さな机の上に置いてある缶ジュースを取ろうとして、缶を取り落とした。
 絨毯の上に落下し、不規則なバウンドをして中身が流れ出す。
 カナは慌てて缶を拾ったが、既にかなりの量が流れ出てしまっていた。カナはこれはシミになるかもしれないなと思い、男の方を見た。
 幸い、男は相変わらずテレビに集中し、缶のことには気がついていないようだった。
 カナはみっともない所を見られなくて良かったと思い、缶を机の上に戻すと指についたジュースを舐めた。
 ……疲れた。
 カナは心の中で呟き、ベッドに横たわって天井を見上げた。
 白いカナの肢体が映っている。カナは天井が鏡張りであることに初めて気がついた。カナの白く滑らかな腰の付け根を、引っ掻いたような鏡の傷が通っている。
「ずっと下向いてたからなあ……」
 男とのセックスは、ある意味非常に楽なものだった。カナはまったく動かなくていいのだから。男はカナをうつ伏せにさせた後、カナの肩と後頭部を押さえつける形で被い被さると、前戯も何もなくいきなり挿入し、後はただひたすらピストン運動を繰り返した。
 ……本当に、ただひたすらに繰り返した。
 男の動きにはまるで変化というものがなく、メトロノームか何かがついているかのように規則正しかった。おまけにそれが延々と続くのだ。
 物事は機械のように繰り返せばいいというものではない。特に女性の体から快感を引き出すには、それなりの複雑な手続きが必要だ。擦っていれば勝手に終わる男とはわけが違うのだ。
 しかし男の動きは正確なくせに非常にもたもたしており、一回の挿入で引き出されかけた快感は、次の動きの前に水がこぼれるように消えてしまい、更なる快感へと発展することはなかった。
 別にこの男と楽しみたい気持ちがあるのではない。自分の体がまるで快感を覚えず、この行為をビジネスと割り切れたらどんなにいいだろう?
 逆に、男が凄いテクニシャンで、為す術もなく感じさせられてしまうというのも、まあ『退廃的』でいい。少なくとも、快感とも苦痛とも言えない中途半端な感覚を延々と与えられるよりは……。
 カナはどうにかしてまったく感じないか、それともそれなりの快感を得られる体勢を見つけようとした。しかし男はがっちりとカナの肩と腰を押さえつけ、カナが動くことを許さなかった。男の動きから得られるものは、カナの中のバロメーターで常に『苦痛』と『変な感じ』の中間を指していて、どちらにも移動しようとはしなかった。
 カナは頭がおかしくなりそうだった。まるで下半身をネバネバしたぬるま湯に浸されているようだ……熱く心地よいお湯でもなく、自分の体温が感じられる水でもない、ただひたすらに気持ち悪いぬるま湯……それは氷水よりもカナから体温を奪っていき、言いようのない不快感をこびりつかせた。
 カナは泣き叫んで男から離れたい衝動にかられたが、男は腰の動きを変えることなく、凄い力でカナを押さえつけている。
 カナは嗚咽をもらしそうになったが、声を出して感じているように思われるのも絶対に嫌なので、必死になって耐え続けた。
 男は最後までまったくリズムを変えることなく腰を動かし続けた。
 永久に続くかと思われた地獄のような不快感をひたすらに耐えていたカナは、男が射精した後にもカナの体を離さなかったので、遂に気が狂いそうになった。そして男の力が弛んだ一瞬の隙をついて脇腹に肘打ちを食らわせ、何とか脱出に成功した。
 知らず知らずの内に涙がこびりついた目で男を睨みつけると、男は淡々とコンドームの処理をしていた。永久に続きそうなピストン運動の摩擦でコンドームが破れてしまうという悪夢を見ていたカナは、男のコンドームが正常だったのを見て息をついた。

 何の準備もなく挿入されたせいで、膣が炎症でも起こしているように痛む。
 カナは男がもう一度やると言ったら男を殺してでもこの部屋を出る気でいたが、男は相変わらず情欲の欠片もない目でカナをチラリと見ると、そのままカナに背を向けてベッドを降りた。
 ベッドの端に移動して枕元の置き時計をつかみ、いつでも男に投げつけられるように身構えていたカナは、男が服を着始めたので緊張を解いてベッドの上に横たわった。
 これでもし、男がカナに笑いながら「気持ち良かったか?」とでも尋ねていたなら、カナは男を本当に殺してしまっていただろう。カナはクミも言う通り、非常にプライドが高いのだ。それを守る為なら何でもするだろう。カナはそう自覚していた。
 しかし男は何も言わず、知らずに一命を取り留めた。
 男は椅子に座ってテレビのスイッチをつけた。
 カナはぼんやりと画面を眺めていたが、やがて自分を抱き締めるように体を折り曲げた。

 AM.11:30

 カナは天井に映る自分の体を眺めていた。
 窓から細く射し込んだ光はカナの張りのある左の乳房にかかり、その白い肌を更に白く輝かせている。すっきりと浮かび上がった鎖骨から腹部への流れを眺めながら、カナはぼんやりと考えていた。
 あの男は、一体何なのだろう?
 最悪なセックス……カナは十数回目の同じ結論を下した。
 確かに彼とは行きずりの関係でしかないし、愛情のこもった繊細な……満足できるセックスを望むことは最初から間違っている。終わればそれっきりで問題はない。
 あの言い知れぬ不快感は、まだべったりとカナの体の内側にこびりついていた。まるでガン細胞のようにじわじわと繁殖し、体を侵食してゆくような気がする。
 ……何が気持ち悪かったのだろう?
 カナはさっきからこの疑問の答えを探していた。その時、男の見ているテレビから「お前なんか人間じゃない」との台詞が飛び出し、カナに答えを与えた。
 そう、男はカナのことを人間として扱っていなかったのだ。
 今までにも、カナをただ単に性欲の対象としてしか見なかった者は多い。彼等は滅多にありつけないご馳走のようにカナの若い体に飛びついた。時にはその欲求が暴走し、乱暴な行為に走らせることもあったが、そういった客はむしろカナとしては扱いやすかった。買い手の欲望が大きいければ、売り手であるカナは精神的優位に立ちやすいからだ。
 相手がカナの体を求めれば求めるほど、カナの商品としての価値は上がり、相手の欲望をコントロールすることは容易くなる。
 しかし、この男はカナの存在そのものを否定した。彼はカナの人格を否定し、一個の人間として自分と交流することを拒絶した。
 ……つまり彼は、私のことをダッチワイフか何かのように扱ったわけだ……。
 カナはそう結論づけ、同時に激しい憤りを感じた。
 カナは、セックスというものは皮膚の擦りあいではなく『交流』の一形態だと考えている。勿論、客とカナとの間には金の取引が横たわっているが、それでもカナは客との交流を大切にしてきたつもりだった。
 実際、ことが終わったらさっさと帰ってしまう同業者が多い中で、カナはおじさん達の世間話や愚痴を辛抱強く聞くという、彼等の家族でさえ行っていない崇高な行為をサービスとして提供していた。
 人生に疲れたおじさん達は、十七歳の可憐な天使が自分の話を熱心に聞き、しかも時折「それは大変ですね」とか「がんばって下さいね」などという言葉を与えてくれるというだけで、規定の料金の何倍もの金を当然のごとく支払ってくれた。
 カナは冷静な実業家ではあったが、常に計算で動いているわけでもない。彼女は話を聞いて自分が大変だなと思うから「大変ですね」と声をかけているだけなのだ。相槌を打つことに金がかかるわけでもなく、大した時間の浪費になるわけでもないのだから、幾らサービスしてもかまわない。その考え方が、カナを実業家として成功させていた。

 ふつふつと湧き上がってきた怒りは、しかしそれ以上の疑問によって打ち消された。
 ……でも、何でそんなことするんだろう? それで気持ちいいのかな?
 ダッチワイフを人間に近づけるというのなら……まだわからなくもない。しかしその逆をして何の意味があるのだろう?
 勿論、無反応のマグロでも人形よりは気持ちいいだろうとの自信はある。でも、折角こうして生身の人間とセックスできるのだから、どうせだったら人間らしい反応を楽しむベきではないだろうか?
 少なくとも自分が男だったらそうするだろうな、とカナは考えた。
「……ねえ」
 男はカナが声をかけてきたことに驚いたのか、痙攣したような動作で振り返った。
「ねえ、どうしてこんな朝早くからこんなことしてるの?」
 カナは昨夜から抱いていた疑問を口にしてみた。すると男は、何だそんなことかといった嫌そうな表情をし、無言のままテレビの方に目を戻した。
 テレビでは昼のニュース番組をやっていたが、男は特に熱心に見ているわけでもなく、時間潰しでもするように大きな冊子を見ている……それは全国の鉄道の時刻表だった。
 どうやら彼は、本当に帰りの電車の時間までの時間を潰しているようだ。
 彼は小さな声で昼過ぎの列車で帰るんだと言った。
 カナはせっかく女の子と一緒にいるのだから、もっと有意義な時間の過ごし方があるのではないかと思ったが、男はもうカナには何の興味も示さず、自分一人の世界に閉じ籠ってしまった。

 テレビではニュースが流れ続けていたが、不意に画面が切り替わり、アメリカで起きた事件の速報に変わった。
 それはとあるアメリカの地方都市の更に外れの荒野で、ある男が爆死したという事件だった。話によると、その男は勤め先の軍需施設から爆薬を盗み出し、荒野に積み上げて、その中に立てこもったらしい。
 男は全国のあらゆる所に自分の考えを書いた手紙を出し、集まったマスコミと軍と野次馬の前で演説を行ってから、積み上げた爆薬を銃で撃ち抜いた。その爆発は、男を中心として半径数百メートルを吹き飛ばしたという。
 幸いなことに、集まっていた者は皆、男の忠告に従って遥か彼方に逃げていたので、野次馬とマスコミと軍の関係者の鼓膜が破れかけたことを除けば、被害は数キロ離れた町の老婆が爆発の音に驚き、椅子から落ちて腰を痛めたくらいだった。
 凄まじく派手で大がかりで……その割に被害の小さな自殺だ、と解説者は語る。
 だが、それは被害の範囲を人間とその従属物に限定した場合の話だ。現地のレポーターも解説者も、一瞬にして命を奪われたであろう荒野の植物や小動物については、一切触れていなかった。
 騒動の中心となった人物は、軍需施設で長年に渡り爆薬の製造と管理を行ってきたという四十代の独身男性だった。
 男の最後の演説を要約するとこうだ。
「私は長年爆薬を扱う仕事をしてきたが、これ以上自分の造った爆弾で人が死ぬのは耐えられない。だからここで爆薬を処理して自分も死ぬ」
 そして最後にこう言った。

「全ての人々に愛と平和がもたらされることを! 戦争のない世界が実現することを私は願う!」

 その後レポーターは、男は非常に物静かで同僚と話をすることも少なかったこと、誰も彼が何を考えているのか知らなかったこと、女性との浮いた話もまったくなかったこと……そして男の部屋から世界中の紛争や対立に関する雑誌や新聞記事の切り抜きが見つかったことを伝えていた。
 やがて生中継で画面に映し出されたのは、唾を飛ばしながら喚き散らしている軍需施設の最高責任者だった。
 彼の話の内容はこうだ。
「誰が爆弾で死のうが知ったことか! もっと軍は爆弾を落とすべきなんだ。そうしないと在庫が処分できんではないか! 理由なんかどうでもいいんだよ、爆弾を落とせればそれでいいんだ! どうせ死ぬのは知らない下等民族どもなんだからな!」
 それからしばらくの間、画面には花畑の映像と『しばらくお待ち下さい』の文字が流れることになった。
「何でそんなことしたのかな……抗議なら、他に方法は幾らでもあるのに……」
 カナは首をかしげて呟いた。
「大体どうしてそんなこと、そのおじさんがしなくちゃいけないんだろう?」
「……やるしかなかったんだ。彼にはそうするしかなかった」
 返事を期待していたわけではなかったカナは、男がいきなり反応したので驚いて起き上がった。男はテレビから目を離すことなくじっとたたずんでいる。
「……どうして?」
 カナは質問した。出会ってから初めて、彼と『会話』ができるかもしれないと思ったのだ。
「どうして彼はこんなことをしたんだと思うの?」
「……多分……本当に世界の平和を望んでたんだろう……」
「どうして?」
「彼は……人を愛してたんだ」
「……どうして?」
 カナは同じ質問を繰り返した。
「どうして、この人がそんなことを思ってたってわかるの? この人は今までほとんど人付き合いをしたことがなかったって言ってたじゃない。もしかしたら、本当は人を殺したいと思ってた可能性だって」
「彼はどうすればいいかわからなかったんだ……ずっと」
 男が呟く。その声は今までの中で最も掠れた小さな声だったが、不思議と胸に響くものがあった。それから男は信じられない台詞を……少なくともカナはこの男が言うことは絶対にないと思っていた台詞を吐いた。
「結局、人は独りでは生きられないんだ……誰かと関係しないと生きていけないんだ」
 カナは驚いていた。いきなり目の前に宇宙人が現れて「やあ、あそこのコンビニのパンって美味しいよね」と言われたくらいに驚いていた。
 つまりこんな例えを思いついてしまうほど、カナは驚き、混乱したのだ。
 カナの視線に含まれた驚愕と懐疑を感じ取ったのか、男は初めてカナの目を見た。
 男の目は大きく見開かれ……まるで初めてカナという存在に気づいたようだった。男の手が震え、ビニール製の安っぽいソファーの肘置きに爪が突き刺さった。
「……僕が悪いんじゃない……」
 男の声に込められていた感情は、一瞬にして爆発した。
「僕が変なんじゃないんだ! この世界が変なんだ。皆、嘘つきで傲慢で……気持ちの悪い奴らばかりなんだ。大体お前は何だ!」
 カナはどうして男が叫び出したのかわからなかった。そもそも、カナはテレビの男について喋っていたはずなのだ。
 男は立ち上がってカナを睨みつけた。
「体なんか売って、そんなことが許されると思っているのか!」
 買ったのは自分じゃないか。そう思った途端、男の両手が迫り、カナはベッドの上に押し倒された。
 喉が押し潰され、気道を通る空気が奇妙な音をたてる。
 ぼやけた視界の中で、男の頬の傷が奇妙に赤く浮かび上がっている。
 カナは震える指先で男の腕を掻き毟った。だが男の力は想像以上に強く、指は今にも皮膚を突き破りそうな程にきつく食い込んでいる。
「体を売るなんて最低だ! そんなことで愛なんか得られるものか……お前らのような奴がいるからこの国は悪くなったんだ!」
 男は泣き叫んだ。
 涙を流していたわけではない。だが男は、間違いなく『泣いて』いた。
「人と人はもっと深く結びつくべきなんだ! お互いがお互いを愛し合い、傷つけることなどあってはいけないんだ! お互いを信頼し合い、裏切るようなことは起こってはいけないんだ……世界には愛が必要なんだ!」
 彼の最後の言葉は、『世界』ではなく『僕』と置き換えても良かったかもしれない。
 しかしカナは、男の言葉など聞いてはいなかった。

 男は腹部に衝撃を感じ、カナの喉を離して腹を押さえ、床に這いつくばった。胃液を吐き出しながら何度も床を叩き、やっとの思いで顔を上げる。
 そこにはベッドの上に立つ少女の姿があった。両の瞳に怒りの炎を宿し、自分を見下ろしている。
 少女は一糸纏わぬ姿だったが、男の目には神々しくすら見えた。この少女なら自分を救ってくれるんじゃないか……そう考えた。
 しかし、カナにそれを期待するには、気づくのがあまりにも遅過ぎた。

「貴方が私を買ったんでしょう!? さっさと金を払って帰りなさい!」
 少女の唇の隙間から、天啓のごとき言葉が放たれた。

 AM.11:45

 カナは床に這いつくばった男が立ち上がるのを見つめていた。
 男は燃え尽きたような表情でコートを纏い、財布を取り出し中からまとめて紙幣を引っ張り出した。そしてそれが何枚なのか確かめようともせず、全部をカナの足下に放り投げた。
 男は地獄行きの判決を下された亡者のような足取りで部屋を去った。

 部屋を出る時、男は振り返って呟いた。
「お前なんか嫌いだ……死んじまえ……」
 と。

 部屋を出た男は何故かエレベーターを使わず、狭い非常階段を使って下に降りようとして途中で足を滑らせ、一階まで転げ落ちた。
 男はボロボロになったコートを気にすることもなく、掠れる声で呟いていた。
「……僕は君のことが怖いんだ……」

 AM.11:46

 カナはシーツの中で自分の体を抱き締めていた。
 乳房のやわらかな感触と、皮膚の下の細い骨が感じられた。
 カナは誰かに抱き締めてキスして欲しかった。本当にカナのことを理解してくれる誰かに……抱き締めて欲しかった。
 カナは男から声をかけられることが多かった。数人の男性とは付き合った経験もある。その関係は肉体関係にまで発展することもあったし、プラトニックなものもあった。ただ全てが同じような終わり方をした。
 男は皆、大体一ヶ月くらいでこう言った。そんな女だとは思わなかった……と。
 そして大抵、その直後にカナのもとを去って行った。
 かつて、クミに言われたことがある。
「確かに、貴女を理解できる男がいたとしたら、それはかなりの変わり者でしょうね」
 いつでも憎まれ口を叩く背の高い親友を思って、カナは少し微笑んだ。クミは自分が同情されていると思っているようだが、それは違う。
 クミがいなかったらどうなってしまうだろう? 彼女との友情を心の支えにしているのは自分も同じだ。
 だがその時、クミの言葉を思い出し、カナは更にきつく自分の体を抱き締めた。

 ───貴女にとっては恋愛だって束縛なんでしょうね───

 それは違う、とカナは思った。
 カナには誰かが必要だった。
 それはありのままのカナを抱き締めてくれる者でなければならなかった。カナは可愛いだけの御人形になるつもりはなかった。
 カナはベッドの中で考えた。
 こういう気分を『孤独』と言うのだろうな……と。

 AM.11:58

 カナは服を着ると部屋を出た。追加料金を取られたくなかったのだ。
 カナはいつまでも落ち込んでいるのはやめにしようと考え、それから週明けに数学のテストがあることを思い出した。
 空は綺麗に晴れていた。
 カナは気分直しに別の男のことを考え始めた。予備校でいつも窓際の席に座って外を眺めている、少し年上の男のことだ。
 カナは彼の何処か寂しそうな目が好きだった。いつも窓から何を見つめているのか知りたいと思っていた。
 半年程前、街で知り合ったリョウという男に紹介されて、カナは彼と知り合った。相手もどうやらカナのことは予備校で知っていたようだった。
 リョウは彼を呼んでカナの『ビジネス』のことを話した。カナはどうしてそんなことを言うんだとリョウを怒ったが、彼は少し黙ってから「それは凄い」と呟いた。それは興味本意な言い方ではなく、カナのことを軽蔑したようでもなかった。彼はカナのことを、本当に『凄い』と思ったようだった。
 その後、彼と親しくなればなるほどに、カナは彼の知識の広さと深さに驚かされた。彼はまた、繊細な感受性と鋭い洞察力を持っていた。ただ残念なことに、その繊細さに邪魔をされて、十分に能力を発揮できていないように感じられた。
「まあ、あんな変わった人を理解できるのは、やっぱり相当の変わり者だってことよね」
 呟いて、カナは少し意地悪く笑った。
 クミは性懲りもなく、今度はリョウのことを気に入っているらしい。
 確かにカナもリョウのカリスマは凄いと思っていた。彼に『ビジネス』のことを勝手に話したことを除けば、自分のことを見下さずに対等な関係を持ってくれているリョウのことを、必要以上に嫌う理由はない。
 しかしカナは、リョウとこれ以上の関係になるつもりはなかった。何と言うか……根本的な所で、リョウがカナに対して敵意を抱いているような気がするのだ。
 それにリョウは、仲間と共に夜の街で好き放題に暴れている。そしてカナは、彼がリョウの仲間に引き込まれていることを知っていた。
 できることなら、カナは彼がそんなことをするのをやめて欲しいと思っていた。
 しかし、そうなるとリョウと対立することになるかもしれない。流石のカナも、あのリョウと敵対するのは危険だろうなと考えざるをえなかった。

 カナは背伸びをして嫌な感じを振り払い、光に満ちた街に一歩目の足を踏み出した。
 こんなにいい天気なのだ。もしかしたら思いがけない出会いが待っているかもしれないじゃないか……。
「エンタープライス号、発進~!」
 カナは子供っぽく呟いた。

第四話 「青年と少女が宇宙の旅に出る話」 1

2007年12月15日 | 僕達の惑星へようこそ

 AM.11:25

 カナは白いシーツの上で目を開いた。
 薄暗い部屋の中、皺のついたシーツにはカナと男の匂いがこびりついている。厚手のカーテンの隙間から射し込む光の筋の中で、白い埃の群れが舞っている。カナはベッドから頭を浮かせて男の姿を見つめた。
 男は部屋の隅に置かれたソファーに座ってテレビを眺めていた。
「ねえ、終わったんだから帰っていい? 契約時間は十二時までになってるけど、何もしないんだったらいてもしょうがないでしょ?」
 男は三十分前に『終了』してから、ずっとテレビを眺めていた。

 カナと男が知り合ったのは……正確には、契約を交わしたのは昨日のことだ。クミの話によると、男は別の町の一流商社に勤めるサラリーマンとのことだった。クミはカナの安全を確保する為、仕事の前には必ず相手の身元を調べるようにしてくれている。
 男の身元は確かだった。彼は一週間程この町に出張に来ているらしい。出張ついでのちょっとした息抜きと言ったところだろう、とクミは言った。
「まあね、会社は一流でもその男が一流とは限らないしね」
 昨日の夜、カナはクミにふざけて言っていた。
「でもこの人、何でこんな朝早くにやりたいんだろうね?」
 翌日、眠い目を擦りながら待ち合わせの場所に行ったカナの前に現れた男は非常に気味の悪い男だった。
 見た目が悪かったわけではない。男は背が高く高級そうなコートを着ていたし、特徴的な所はないものの、顔立ちも整っていた。男は薄い唇の端を曲げ、少し高い声でカナに話しかけてきた。
 カナは男に、まるでスタートレックに出てくるアンドロイドの『データ』のような印象を持った。
 ……いや、『データ』の方がまだ人間らしい、とカナは頭の中で訂正した。
 男は小さな声でぼそぼそと話しながらカナについてくるように言った。
 男が顔を横に向けた時、カナは彼の左頬に三日月型の傷があることに気がついた。

 何が気持ち悪いのだろう?
 顔が悪いとか、変な臭いがするというのならカナも酷い例を体験したことがある。しかし男から与えられる不快感は、それらとは異なるものだった。
 男はホテルの前で立ち止まって振り返り、建物を指差して中に入るように言った。
 カナは午前中から予約を入れているのだから、もっと何処かに連れ回すのかと考えていた。若い女の子と1日中デートを楽しみたいと考える中年の男は結構多い。
 しかし、どうやら男は本当に今からやるつもりらしい。モーニングサービスがつくとでも思っているのだろうか?
 自分でホテルに入ると決めたくせに、隠れるように素早くホテルの中に滑り込んだ男が、まだ外にいるカナに早く来るように指図する。ゆっくりと歩いていくカナを、臆病そうな光を目に浮かべて見つめている。どうやら、この場に及んでカナが逃げ出すのではないかと考えているらしい。
 カナとホテルに入る所を人に見られたくもないようだ。こんな朝早くから少女を買う行為自体、十分に恥ずべきことだと思うのだが。
 カナが男に追いつくと、男は小さな声で文句を言った。カナが頷いて男の目を見つめると、男は慌てたように顔を背け、わかればいい、と呟いた。
 カナは先程から、この男に対する不快感の正体を突き止めようとしていたが、この場に至ってそれが男の態度からくるものだということに気がついた。カナは目を見ようとせずに話をされるのも嫌いだし、男が細かいことで文句を言うのも嫌いだった。何より、意気地のない男は大嫌いだった。
「料金は一時間単位で支払って貰うからね。一分でも延長したら追加料金。それと必ずコンドームをつけること、これを守れなかったら罰金だからね」
 エレベーターの中で、カナは営業用のやや冷たい口調で男に話しかけた。男が体を強張らせたのがわかる。
 カナは童顔なので客がつけあがることが多い。勿論カナはそのことを自覚していたし、普段ならもっと穏やかな回避法を使うのだが、今回は少し苛立っていたので脅しをかけることにした。
「最初にも言ったけど、もし規定の時間内に私から連絡が来なければ仲間の男達がここに押しかけて来るわ。だから変なことはしない方が身の為よ……まあ、そちらの御要望にはできる限り応じるけど? ……別料金でね」
 エレベーターが目的の階についた。カナは男よりも早くエレベーターを降りると、最近練習している『悪い女っぽい顔』で男にこう言った。
「おじさんは私とお医者さんごっこしたい?」
 男があからさまに動揺し、顔を激しく引き攣らせる。
 カナは満足し、男から見えない所で小さく舌を出した。

 クミはよく自分のことを棚上げにして、男には気をつけるようにとカナに言う。
 勿論、カナも用心はしているが、実際にはそれほど心配していない。男が女に勝っているのは基本的な体力だけで、男というものは女よりも単純で……純粋な生き物だとカナは考えている。
 よく女は仕事のプロになれないと言われるが、カナは少し違うように思っている。男はたった一つの仕事という愉しみに人生の全てを捧げられるほどに純粋で、女はたった一つの愉しみだけでは満足できないほどに欲深い存在なのだ。
 特に、男の『使命』とか『信念』などの苦痛さえ伴う信仰にも似た考え方は、カナにはいまいち理解できない。決して嫌いではないが、度が過ぎるとバカらしく思えるのだ。
 小さい頃、カナは近所の男の子達がテレビのヒーローごっこに夢中になる気持ちがよくわからなかった。遊び自体が嫌いなのではない。どうして内容をあそこまで忠実に再現する必要があるのだろうか? 遊びは遊びなのだから、自分達で勝手に設定を作って遊べばいいじゃないか。カナはそう考えていた。
 だが、今なら何となく『推察』できる。
 男の子達は遊びの愉しみよりも、自分達をテレビのヒーローに近づけるという作業に夢中だったのではないだろうか?
 カナはこれまでずっと大人というもの……特に中年のおじさんが嫌いだった。
 彼等はカナの考えや行動を認めず、古臭い習慣や形骸化した常識でカナを束縛しようとする。カナは常々、彼等は自分とは違う生物なんじゃないだろうかと考えていた。
 だが最近、おじさん達と接する機会が多くなり、カナはあの男の子達とおじさん達にそれほどの差がないことを発見した。
 おじさんと男の子の違いは遊び場の違いでしかない。男の子達は家や公園や学校で遊び、おじさん達は『社会』の中で遊ぶ。その目的は何でもいい。ヒーローのように世界を救うのでも、会社の売り上げを伸ばすのでも……国の経済力を上げるのでもいい。ようは一つの目的に向かって仲間と共に行動できればいいのだ。
 この点で見る限り、おじさん達と男の子達はまったく変わらない。あえて違いを挙げるなら、『社会』という枠組みの中には人が多過ぎてなかなか主役が回ってこない……それくらいだ。
 カナは、でっぷりと太って頭の禿げ上がったおじさん達の目の中に、ほんの一瞬同級生の男の子達と同じ輝きを見る度に、やっぱりこの人達と自分は同じ生物なんだな、と考えることがある。もっとも、未だに好きにはなれないが。
 ちなみに、小さい頃のカナは女の子と遊ぶことよりも男の子と遊ぶことが多く、ヒーローごっこの時のヒロイン役はカナの指定席だった。
 カナは男の子と一緒に走り回るのが好きで、グループのリーダー格でいつも主役をやる子が好きだった。特に「僕は大きくなったら絶対に正義の味方になるんだ」と言っている時の彼が好きだった。
 そして彼もカナのことが好きだと言っていた。しかしカナのことが好きだったのか、カナの演じるヒロインが好きだったのかは未だに疑問だ。

 カナが部屋に入ると、男は落ち着かないハツカネズミのように部屋の中を歩き回って何かを調べていた。カナは、もしかしたら部屋に仲間の男が大勢待ちかまえていてレイプでもされるのではないかと警戒していたが、どうやらそんなこともなさそうだった。
 これは知り合いの子に実際に起こったことなのでカナも気をつけているが、心の何処かでは、それはそれで楽しいかもしれないと思っているところがある。
 クミは変な本の読み過ぎだと言うが、カナは性的快感に対する探究心が強い。特に『行きずりの男に身も心も犯される』というのは……前に見た映画みたいで刺激的なシチュエーションではないだろうか?
 雑誌で読むところによると、女の性的快感のオルガニズムは男のものよりも遥かに深くて複雑だとの話だ。それなら、折角女の体に生まれたのだ、行ける所までは行ってみたい。
 こういう考え方を『退廃的』と言うのだろうな、とカナは考えた。
 ただ、実際に自分がそんな自虐的な快楽に身を委ねるかと考えると首を横に振らざるをえない。クミもよく言うが、カナはかなり自己中心的な人間だ。カナにはまだやりたいことが幾らでもある。『身も心も……』というような恋愛など、自分の行動の妨げだと考えてしまうだろう。本当に危険なのは、自分よりもむしろクミの方だ。カナはそう判断している。
 カナは自分の行動を制限されるのが嫌いだ。今までの客の中にも毎月かなりの金額を支払ってもいいから自分の愛人にならないかと誘った者がいたが、カナはきっぱりと断ってきた。
 肉体関係を持ったくらいで自分を思い通りにできると思われるのは吐き気がする。
 クミが一度、皮肉っぽく言った。貴女にとっては恋愛だって束縛なんでしょうね、と。
 カナはそれは違うと答えた。恋愛しても相手の奴隷になる気はないだけだ、と。
 今までの客はクミの選択が良かったおかげか、問題を起こしたことはなかったが、カナにエクスタシーのエの字くらいしか与えることはなかった。
 しかし今日の客は……それよりも酷そうだった。

 男は部屋のチェックを終えると、カナをシャワールームに放り込み、出てきたところでそのままベッドに横たわらせた。
 カナは少し落ち着かない気分になった。自分の体に自信がないわけではないが、男の目からは欲望や劣情といったものがまったく感じられず、ただ測定用の機械のようにカナの体を眺めている。
「ねえ、立ってるだけじゃつまらないでしょ? 時間もなくなるし……ねえ」
 カナとしては不本意だが、この沈黙には耐えられそうになかった。普通の客なら、カナの体を見ればみっともないくらいの反応を示したはず……これは自惚れで言っているのではない。一流のセールスマンが自分の弁説に自信を持っているように、カナも商売の基礎となる自分の体の及ぼす効果については完璧に理解していた。
 商売をする上で最も重要なのは、売る側が買い手に対して心理的に上位に立つことだ。売りつける商品がつまらない瓶の蓋でもかまわない。大切なのは自分の売りたいという気持ちを伝えることではなく、相手に買いたいという気持ちを抱かせることなのだ。それに必要なのは、自分の商品に対する絶対の自信。自分がその商品にどれほどの自信を持っているかを伝えることができればいい。
 勿論、過剰に演出してはいけない。あくまでもさり気なく、だ。そうすれば相手は自分の自信に満ちた態度によって商品への欲望をかき立てられる。態度は低く、だが気持ちは高く……これがカナの考える商売のコツだ。
 更に上級のテクニックとして、相手に『売りたくない』という態度をとる、というものもある。人間は隠されると却ってそれが欲しくなる。隠すのは自慢するのと同じこと……一番いけないのは相手に媚びることだ。
 しかし、カナはそうは思いながらも、珍しく自分から誘う方法を選択した。
 自分は裸でベッドの上に転がっている。相手はそれを立ったまま眺めている。おまけに服を着たままだ。
 これでは自分がバカみたいではないか?
「ねえ、早くしようよ……ね? ……何かしてあげようか?」
 カナは相手が相変わらずの態度なので、これだけはやりたくないと思っていたが、知り合いのバカな女の口調を真似しながら男の下半身に手を伸ばした。
「やめろ!」
 男は突然反応し、カナの手をつかんで乱暴にベッドの上に突き飛ばした。男の瞳に言いようのない光が浮かび、蝋人形のような顔に血の気がさす。口元が痙攣したように震え引きつり、頬の三日月型の傷が醜く歪んだ。
「じゃあ……何がしたいって言うんですか?」
 カナはベッドの上で仰向けになったまま肘をついて上体を起こすと、初めて彼女本来の顔になって男を睨みつけた。
 男はしばらく血走った目でカナを見つめていたが、やがて低く唸るように呟いた。
「余計なことは言わなくていい……」
 それから男はカナの下半身に視線を這わせるとこう言った。
「後ろを向いて四つん這いになれ」
 最後に、男はカナに奇妙な命令を出した。
「そのまま動くな。何もしなくていい」
 一瞬、男の口調に怒りとも悲しみともつかない感情が含まれたような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
 カナは信じられなかった。これまでに『動いてくれ』と言った客はいても、『動くな』と言った客はいなかった。後ろからするのが好きな客はいた。前からが好きな者もいたし……下からが好きな者も、数秒ごとに姿勢を変えなければ気がすまない者もいた。
 しかし皆、相手の反応がないと不満そうだった。ある男などは、以前に買った娘がいかに無反応でつまらなかったかということを、カナに延々と語った。商売熱心なカナは無反応……あまり好きではない表現だが……マグロ状態は客に対して失礼だと考えているので、感じているふりをしてあげたところ、その客は規定の三倍の料金を支払ってくれた。
 良質なサービスは常に料金に反映される。言い換えれば、こちらの提示した料金が支払われる以上、売り手としてもその範囲内で最大限のサービスを提供すべきなのだ。
 今までの例外は六十近くの男で、これは彼が慢性のヘルニアを患っているせいだった。
 だが今回の男は、まだ若いのにカナが反応することを拒否した。それで本当に楽しいのだろうか? カナの今までの経験から考えても、それで楽しいとは思えないのだが……。
 男は服を脱ぎながら、カナに早く四つん這いになるように言った。
 カナはよくわからない得体の知れなさを感じながら、体の向きを変えようとした。
 その時、男が低い声でカナにへその所の蝶の模様は何かと尋ねた。
 それはカナが先週入れたタトゥーで、青の発色が綺麗で気に入っているものだった。カナが説明すると、男は軽く鼻で返事をした。
 カナは男がつまらなそうに小さく舌打ちするのを聞き逃さなかった。それはまるで、高い金を出して買った商品に傷を見つけたような反応だった。

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」 7

2007年12月14日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.11:50

「良かった、やっと救急車が来たよ」
 僕は車のフロントガラス越しにスケアクロウのあるビルを眺めた。救急車は合計三台来ており、内一台はコンビニの前に止まっている。
「助かるといいな。カナちゃんも、パールさんも……リョウも」
 僕はハンドルに顎を乗せながら呟いた。何だかひどく疲れていたが、奇妙な達成感のようなものが全身を包んでいる。妙な話だ、まだすべてが解決したわけでもない、カナにも失礼だと思う。だが僕は、ともかく全力を尽くして自分にできることをやり遂げたのだ。それが何なのかと尋ねられると、はっきりと答える自信はないが……。
「ところで、さっきリョウに何て言ったんだ?」
 僕は隣のドロシーに尋ねた。
 彼女と僕は近くの路上に止めてあったリョウのマスタングに乗っていた。ドアは勿論ロックされていたのだが、いつの間にリョウから奪ったのか、ドロシーが持っていたキーで開けてしまったのだ。結局、彼女がさっさと乗り込んでしまったので、僕も同席せざるを得なくなってしまった。
「良かったね、って言ったのよ。探していたものが見つかって良かったね……ってね」
「……? どういうこと?」
 しかしドロシーは笑って答えなかった。
「それよりもドライブに行きましょうよ」
「ドライブ?」
「そう、夜明けの海までね……車は運転できるでしょ?」
 ドロシーは座席で伸びをした。

 AM.1:48

 僕らのいる町から東に山を一つ越えると海につく。綺麗な砂浜を抱える小さな町で、夏には多くの海水浴客で賑わう所だ。しかし今の時季に来る者などいるはずもなく、真夜中ということもあって、ただ黒い海が広がっているだけだった。
「……暗いね。まるで大きな黒い壁みたいだ」
 僕は海岸沿いの道路脇に停車すると、ドアにもたれながら呟いた。
「そのうち明るくなるわよ」
 ドロシーは車を降り、海岸へ続く階段を降りていった。
 僕が後に続くと、階段の下には一本の小さな街灯が立っていて、その近くには様々な物が置いてあった。どうやら粗大ゴミが不法に捨ててあるらしい。
 その中に、大きな白いソファーがあった。
「ああ、これはいいわね」
 ドロシーはソファーを引っぱり出すと、叩いて砂を払い始めた。近くで見ると、それはまだ新品と言ってもいい物だった。
「それをどうするの?」
 尋ねると、ドロシーはソファーを運ぶのを手伝うように言った。
「これに座って待つのよ。まだ時間はあるしね」

「……海を眺めていると、昔のことを思い出すよ」
 ソファーに腰かけて黒い海を眺めながら、僕は独り言のように呟いた。
 隣ではドロシーが、僕にもたれるようにして座っている。
「さっき……リョウとやり合った時に頭を打ったせいかな? 妙なことを思い出したよ」
「何?」
「昔のこと。本当に小さかった頃の話だ」
「……聞きたいな」
 ドロシーが小さな声で言う。
 僕はドロシーの肩を抱き寄せ、視線を海から空に移して話し始めた。
「昔、両親が僕を連れて遊園地に行ったことがあったんだ。僕の両親は仲が悪くてね、いつも喧嘩ばかりしていた。本当は二人とも、全然悪い人なんかじゃないんだ。一人で腹を立てたりする人じゃないんだ。いつも機嫌が良くて僕に優しかったよ……一人ならね。
 僕は未だにあの人達が、どうして喧嘩していたのかわからない。別にどちらかが浮気していたわけでもなかったし……共稼ぎだったから経済的なことでもないと思う。ただ、あの人達は顔を合わせると必ず喧嘩した。何気ない一言でもすぐに腹を立てて喧嘩を始めるんだ。まるで二人とも、相手の言葉が違う意味に聞こえているみたいだったよ。
 最近思うんだ、あの二人は、同じように聞こえる『違う言語』を使っていたんじゃないかってね。二人とも違う惑星からこの星に来た宇宙人で、使う言語は似ているんだけど微妙に意味が違う……実際そんな感じだったよ」
「それならどうして結婚したのかな?」
「さあね、それもわからないよ。多分、出会った時はそんなに言葉がずれてなかったんじゃないかな?」
 僕は話を続けた。
「とにかく、ある日僕達は遊園地に行くことになったんだ……」

 PM.1:48

 遊園地は曇りだった。
 まだ昼間なのに辺りは暗く、青い雲が空を被い、日の光はその隙間に白く見えるだけだった。でも僕は上機嫌だった。今日は珍しく家族揃っての外出だし、両親の機嫌もいい。二人で一緒に話をして笑ってなんかいる。
「やっぱり、こういうのが家族ってものだよね」
 僕はテレビのホームドラマを思い浮かべながら呟いた。僕は昔から『型通り』が好きだった。少なくとも型にはまらずバラバラになるよりはいい。
 とにかく、僕は上機嫌だった。ピエロに赤い風船も貰ったし。
「ママ。僕、あれに乗りたいな」
 僕の指差した先には大きなメリーゴーラウンドがあり、青い雲の下で回転していた。
 僕は沢山ある木馬や馬車の中から、白い木馬を選んで乗った。空色の角の生えた綺麗なやつだ。最初から目をつけていたのだ。
「パパ、ママ! 見える!?」
 僕は木馬の上で両親に手を振った。両親は僕を見て笑いながら手を振り返してくれた。僕は嬉しくなって勢いよく体を前後に振ると、まっすぐに木馬の進む方向を見つめた。
 音楽が鳴り響き、メリーゴーラウンドは動き始めた。微かな地響きと機械の軋む音がし、木馬は上下に動きながら進み始めた。
 僕は両親に手を振り続けた。両親の姿が中央の柱に消えるまで手を降り続け、消えてから前に向き直った。
 メリーゴーラウンドは回転した。
 一周目、僕が元の位置に戻った時、両親は僕に手を振ってくれた。
 二周目、両親は何か話していたが、僕に気づいて手を振った。
 三周目、両親は僕を見ることもなく言い争っていた。僕は声をかけることもできず、ただそれを眺めていた。
 両親の姿が柱の影に消える時、彼等が大きな身ぶりで言い争っているのが見えた。

 AM.1:59

「嫌だって思ったよ。今日は親の喧嘩している所は見なくていいと思ったのに、ってね。勿論、そんなにはっきりと思ったわけじゃない。それに近いことさ……何せ小さかったからね」
 僕は少し話すのをやめた。ドロシーは何も言わず、ただ静かに待ってくれている。
 まだ冬には程遠いが、流石に夜中の海岸は寒い。しかしドロシーと触れあっている所はとても暖かかった。
 僕は話を再開した。
「……どうしようか考えたよ。でも、どうしようもないだろ? メリーゴーラウンドは回転しているんだ。嫌でも元の位置に戻ってしまう……親のいる所にね。どうしてなんだろう? って思ったよ。今日は何もかもうまくいきそうだって思ったのに……完璧な『家族』みたいだったのにって……ゴメン、これは今つけ加えたね。でき過ぎてる」

 親は喧嘩した後、必ず僕に離婚したらどちらについて行くか尋ねた。そんなこと答えられるわけがない。僕は両親のどちらも好きだった。でも両親は、お互いを憎んでいた……いや、お互いを理解しようとしていなかった。
 僕は今でも疑問に思う。人間は本当に、お互いを理解し合えるのだろうか? 他人を信じたり、愛したりできるのだろうか?
 僕の両親の間に『愛』というものはあったのだろうか? 今は別々の星に住んでいる、言葉も通じない二人が、かつて一度でも同じ星に住んだことがあったのだろうか?
 僕は未だにこの問題に答えを出していない。ただ、僕に言えるとしたら、誰かと誰かが会話して、愛し合って、お互いを理解し合えるとしたら、それはとても凄いことなんじゃないかってことだ。
 多分、本当の奇跡ってやつは、そういうものなんじゃないかと思う。

「僕がどうあがいてもメリーゴーラウンドは動くのをやめなかった。そこから逃げ出せれば良かったんだけど、僕は木馬の上から動けなかった。きっと物凄く混乱してたんだろうね……メリーゴーラウンドを止める代わりに、自分の時間を止めてしまうほどに」
「……自分の時間?」
 僕にもたれていたドロシーが、顔を上げて僕を見つめた。
「後から聞いた話だけどね。僕は木馬から落ちて、そこで倒れたまま動かなくなったそうなんだ。意識を失ったとか、息をしていないとかじゃなくて……ただ精神を一時停止させたみたいだって医者が言ったって」
「元には戻ったの?」
「勿論さ、だから僕がここにいるんじゃないか。でも、それから一週間もその状態が続いたそうだよ。目を覚ました時には、両親はもう離婚してた……まあ、嫌な所を見ずにすんで良かったのかな」
 僕は小さく息を吐いて言った。
「もっとも、僕が時を止めている間に両親が仲良くなってくれていたなら、それが一番良かったんだけどね」
 僕は両手に顔を埋めて言った。
「……臆病なんだろうな、僕は。傷つくのを怖がってる……誰かを傷つけるのも怖がってる。僕は他人のことを理解できないし、誰かのすべてを許すことができない……自分勝手でエゴイストだ。僕は、愛し合うっていうのは誰かと痛みを共有することだと思う。わかり合えなくて誰かが僕を傷つけて……僕も理解できずに傷つける。それでも、それを許し合うのが愛だと思う。でも僕は、それに耐えられそうにない」
「……大丈夫だよ。そのうちできるようになる」
 ドロシーが囁いた。
「それから、アタシは愛っていうのは喜びを共有することだと思うな」
「…………そうかもね」
 僕はドロシーを見つめた。暗闇の中で、彼女の瞳が星のように煌めいていた。
「何ごとも経験だよ。最初は誰だってできないものよ」

 AM.2:13

 ごく自然に、僕達の唇が触れ合った。
 まるで僕らの間に引力が働いたように、僕らの体は互いを引き寄せ合った。
 ……もしかしたら、本当に力があるのかもしれない。ニュートンだってアインシュタインだって解明できないかもしれないが……確かに何かの力だ。
 この世界の法則は、僕らに生きろと言っているのかもしれない。

 僕が偉そうに言うことではないかもしれないが、人と人が愛し合う上で最も大切なことは、相手に何かを与えようとすることだと思う。そして、自分がどれだけ相手のことを大切に思っているか、どれだけ必要としているか……それを伝えることが必要不可欠なんじゃないかと思う。
 そうすれば、相手も自分に何かを与えてくれるだろう。
 ……もっとも僕の場合、貰い過ぎたような気もするが。

 AM.6:17

 白い輝きが闇を切り裂いた。
 闇の隙間から射し込まれた光は世界を空と海と大地に分け、空に暗い雲の波を、海に輝く光の波を浮かび上がらせた。
 闇は瞬く間に千々に砕け散り、世界は光を受け入れた。
「……朝だね」
 僕は呟いた。体全体が微かな疲労感に包まれている。耳鳴りがして、意識が自分の体よりも少し上の方にあるようだ。素肌に直接当たる朝日が心地よい。
「そうね、綺麗」
 僕の上に覆い被さるようにして座っていたドロシーは、僕の額の髪をかき上げて僕の目を覗き込み、意地悪く微笑んだ。
「悪くなかったわ……少し経験不足だけどね」
 ……この女は本当に最後まで余計なことを言う。僕は不機嫌な顔を作りたかったが、自然と笑みがこぼれていた。
「わかった……努力するよ」
 何だってこんなことを言ってるんだか……まあいい。
 僕が起き上がると、ドロシーは服を身に纏い始めていた。
 僕には何故かわかっていた。
 ……もう、会えないってことが。

 僕が服を着て立ち上がると、すぐ近くから波の音が聞こえた。いつの間にか、波打ち際がすぐそこまで迫ってきている。満ち潮なのだろうか? 砂浜の上に薄く広がった水面は朝日を反射し、硝子でできた平野のようだ。
 ドロシーは赤いサンダルを脱いで肩にかけ、足を波に浸していた。大地が呼吸しているような、そんなリズムで打ち寄せた波は、ドロシーの足にじゃれ合った後、素っ気なく退いていく。
「水はもう冷たいね。でも気持ちいいよ」
 振り返ったドロシーの顔の向こうに、白く輝く太陽が見えた。初めて会った時には月が輝いていた……たった二日前の出来事なのに、もう何年も彼女と共に生きた気がする。
「……ほんとだ、もう冷たいね」
 僕は素足で砂浜に降り、波に足を浸した。
 見ていただけではわからなかったが、水は本当に冷たく、浸した足が冷たく堅い物で締めつけられている感じがした。足の裏で薄く積み重なった砂が崩れ、砂の粒が指の間に入り込んでくる。少しすると、徐々に冷たさにも慣れてきた。
 僕は足の裏の感触を確かめながらドロシーの方に歩き始めた。
 僕が隣に立つと、彼女は顔にまとわりつく髪を気にすることもなく僕を見つめた。
「もう行かなきゃ」
 ドロシーが言った。
「うん」
 僕は呟いた。
「もう会えないかもね」
 ドロシーが言った。
「…………」
 僕は答えなかった。
 僕達は自然と太陽を見つめた。
「でも……でも僕は、必ず君の所に行くよ。いつか必ずね」
「……うん」
 朝日を見つめたままドロシーが呟いた。

 僕はその場で体の向きを変えると砂浜を戻った。
「……じゃあね。また、何処かで……」
 僕がソファーの所まで行った時、後ろでドロシーの声がした。
 僕は振り返らずに歩き続けた。

 AM.6:28

 砂浜から続く階段を素足で登り、道路脇に止めておいたマスタングの所まで来た時、僕はそこに一人の男がいることに気がついた。
 男は車のすぐ横のガードレールにもたれかかって座り込んでいた。高級そうな灰色のスーツを着込み、同じ灰色のコートに身を包んでいたが、コートはあちこち破れて汚れており、濃い灰色のネクタイはだらしなく首に引っかかっている。男は大きく口を開けて眠っていたが、僕に気づいたのか目を開けて、口についたよだれを拭き取った。
「やあ、これ君の車かい? 子供のクセにいい車に乗ってるじゃない」
 男の顔はかなり端正なものだったが、まるで体の内側から腐ってきているような雰囲気が表情に現れていた。僕は男の左の頬に、大きく曲がった三日月形の傷があることに気づいた。
「最近のガキは酷いもんだ、まるで下品なブタの集団だよ。真面目に働いて金を稼ごうなんて気がまったくない……親に甘やかされて育っているんだな、何処でも自分勝手が通用すると思ってる。奴らには、この国を良くしていこうって気がまったくないんだ」
 男は僕が無視して車のドアを開けようとするのにもかまわず喋り続けた。
「僕は心配してるんだぜ? この国の未来ってやつをさ。今にこの国はダメになる、みんな腐っちまうんだ……君達が初めの症状ってやつだな。この国はダメになる……これじゃ死んだ方がましだな!」
 そして男は、引き攣った声で笑い始めた。

「……それで、貴方は一体何をしたの?」
 僕は男に尋ねてみた。
 男は僕が返事をすることを予想していなかったらしく、酷く狼狽えて口籠った。
「それに……人生は捨てたもんじゃないよ。多分ね」
 僕は振り返って海岸を見た。
 潮が引いてきたのか、海岸線は少し後退しているようだった。砂浜には白いソファーがぽつりと置かれ、人の姿はない。
 ただ昇りつつある太陽によって、水平線の彼方から海岸にかけて光の道ができていた。

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」 6

2007年12月13日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.11:43,36s

 空気が抜けるような音がした。
 短くて高い音だ。
 しかし、何処か普段聞いている身の回りの音とは違う感じがする。何と言うか……とても乾いた堅い音で、心臓が締めつけられた。
 ……そう、怖い音だった。
 死神がキスをしたなら、こんな音がするだろうか?
 それとも……消音機つきの銃声か?

 リョウの右手が何かに引っ張られたように動き、手の甲から赤い筋が何本も吹き出た。銀色のナイフは宙を舞い、少し離れた床に音をたてて落ちる。
 リョウは呆然と自分の右手を見つめ……自力では動かなくなったそれを左手で支えた。
「……な、何だと……」
 掠れた声で呟き、あの音のした方向を振り向く。
 そこには、片手に銃を持ったドロシーが立っていた。
 ドロシーの長い黒髪は、風もないのにたなびいているように見えた。赤い唇をきつく閉じ、静かな瞳でリョウを見つめている。
「な、何なんだ……お前は……」
「さあね……貴方には関係のないことよ」
 ドロシーは銃をリョウに向け直した。
 リョウの額に玉のような汗が吹き出し、唇から血の気が退いてゆく。
「さて、どうする? このままおとなしくすれば命は助けてあげるわ」
 ドロシーは銃を持つ手を肩にかけるようにして、リョウに向かって歩き出した。
「個人的には、それじゃあつまらないんだけど。アタシと遊んでくれるかしら?」
 刹那、リョウがドロシーから銃を奪おうと飛びかかった。しかしリョウの手が彼女を捕らえることはなく、逆にリョウの腹部にドロシーの膝がめり込んだ。
「アタシが十秒数える。貴方がその間に逃げる。ルールはわかった?」
 腹部を押さえてうずくまるリョウのこめかみに、ドロシーが銃口を押し当てる。リョウは素早い動きでドロシーの足を払おうとしたが、その脚は空を切り……次の瞬間、リョウの側頭部にドロシーの回し蹴りが炸裂した。
「一!」
 着地と共に、ドロシーは少し離れた所に倒れたリョウに銃口を向けた。
「二! ……どうする、坊や?」
 リョウはギラギラ光る目でドロシーを睨んでいたが、口から流れる血の筋を拭うとスケアクロウの出口に向かって走り出した。
「あいつ、逃げる気か!」
 オカダが叫ぶ。
「三!」
 ドロシーはリョウを追って歩き出した。
「ドロシー!」
 我に返った僕が叫んだが、ドロシーは振り返ることなく歩き去った。

 PM.11:45,00s

 リョウは消耗した体を壁にもたれかけさせて、スケアクロウから地上へと続く螺旋階段を必死に這い上がっていた。
「六!」
 階段の下の方から、あの女の声がする。
 何者なんだ、あの女は……リョウは埃まみれのコンクリートの階段に爪を立てた。
 あの女がすべての原因なのか? そうだ、あの女が現れてから何もかもが狂いだしたんだ。若松も、カウボーイも……あいつも。
 俺はただ……リョウは考えた。畜生、頭の中が鉛でできているみたいだ……!
「……俺はただ!」
「七!」
 螺旋階段に女の声が響いた。さっきよりも大きくなっている。目に流れ込む汗を拭い、リョウは最後の力を振り絞って地上へと駆け上がった。

 スケアクロウがあるビルは比較的大きな道路に面しており、道路を挟んで向かい側には二十四時間営業のコンビニエンスストアがある。何とか地上に辿り着いたリョウの目に、コンビニの看板を彩る電飾が見えた。
「八!」
 すぐ下から女の声が聞こえた。
 リョウは明かりに吸い寄せられる蛾のように、コンビニを目指して歩き出した。

「九!」
 地上に出てきたドロシーが見ると、リョウは道路を横切っている途中だった。
 ドロシーは微笑み、銃を構えた。
「……そして十!」

 深夜のオフィス街に人通りはなかった。灰色の街灯が腕を伸ばした巨人のように立ち並び、小さな光の輪をアスファルトの地面に投げかけている。その輪の中に、黒いコートを着た長身の男が倒れ込んだ。
 男……リョウは地面に左腕をついて顔を上げると、大きく息を吐いた。
「畜生……!」
 リョウは氷のように冷たくなった右手を抱え、上半身を起こした。拭っても拭っても目に汗が流れ込み、コンビニの明かりがぼやけて見える。リョウは立ち上がり、再び歩き出した。
 その時、リョウの右の太ももが、自分の意志とは関係なしに跳ね上がった。
 一瞬の沈黙の後、太ももに焼けた鉄棒を突っ込まれたような激痛が走り、リョウは悲鳴を上げて地面に倒れた。必死になって視線を巡らせ、道路の向こうで銃を構えている女の姿を見定める。
 何か言っている……畜生、頭に響く気色の悪い声だ! 頭がガンガンする……何て言ってるんだ!?
 ……と、女が微笑み……リョウの耳が、突然彼女の言葉を聞き取った。

「車道に寝てると危ないわよ?」

 二つの光が突っ込んできた瞬間、リョウは咄嗟に身を翻して中央帯へと逃れた。
 騒音と振動と大量の排気ガスを撒き散らし、鉄製の巨大な獣がすぐ脇を駆け抜けてゆく。
「……畜生……!」
 リョウは地面に仰向けに転がりながら吐き捨てた。右の太ももは焼けつくように痛い。幸い骨はやられておらず、出血もたいしたことはなさそうだ。
 やがて、女がこちらに向かって歩き出した。リョウは体を転がして起き上がると、道路の向こう側を目指した。
 あそこまで行けば助かる。何故かそう思いながら。

 PM.11:45,00s

「まだ救急車は来ないのか!?」
 オカダは頭を押さえながら叫んだ。自分の店で怪我人が出ただけでもショックなのに、今度は銃撃戦ときた! オカダは地道な将来設計が崩れるのを感じて胃が痛くなった。
「バート! パールは大丈夫なのか!?」
 オカダはほとんど祈るような気持ちで尋ねた。カナは何とか大丈夫そうだが、パールの傷は深い。これで死人が出たら洒落にならない。
「慌てるなよ」
 カウボーイは静かに呟いた。
「息は小さいが何とか持ちこたえている。へたに騒ぐのが一番悪い」
 カウボーイは悲しげな顔でパールの頬を撫でた。
「……大丈夫、彼女は死なないよ」

 僕は床に座りながらカナがミンク達に囲まれて倒れているのを見た。カナの顔には血の気がなく、白い肌は更に青白くなっている。
 ……ドロシーはリョウをどうするのだろう?
 僕の脳裏にリョウを追って去っていくドロシーの後ろ姿が浮かんだ。
「ドロシーは僕達とは違う世界に生きている。彼女が殺すと決めたら本当に殺すよ。どんな方法でもね」
 不意の声に顔を上げると、カウボーイが僕を見つめていた。
「良かったじゃないか。リョウとは対立してたんだろう? 丁度いいじゃないか……ドロシーは必ず彼を殺す。勿論、ドロシーも決して捕まることはない。心配しなくていい」
 カウボーイは僕を挑発するように言った。
「いい話じゃないか。邪魔な奴なんだろ? ナイフを振り回して、人を勝手に傷つけて……自業自得ってやつだな」
 僕は黙って目を伏せた。確かにその通りだ。
 ……でも、どうしてだろう? 僕はそれでも彼を憎む気にはなれなかった。
 確かに彼の行動は許せない。でも、あれが彼の本意だったとは思えない……何だろう? 僕達の間には何かが欠けている気がする。とても些細な、それでいて決定的な何かが。
「彼と僕の間には言葉が通じていない気がする。まるで翻訳ミスで本当に言いたいことが伝わっていないみたいだ」
 僕は呟いていた。
「……どうすればリョウと話ができるんだろう?」
 カウボーイはそんなこと知ったことかといった顔をしていたが、やがて、仕方ないなあと言わんばかりのため息をもらし、言った。
「それはきっと、君が話しかけていないからじゃないかな?」

 PM.11:45,46s

 出口に向かって走り去ってゆく青年の背中を、カウボーイは微笑みながら見つめていた。
「確かに悪くないな、ドロシー」
 カウボーイは顎を撫でて呟いた。
「……それでも俺には似てないと思うぞ?」
「おい『K』! いい加減にレコードを回すのをやめろよ!」
「朝まで回す契約だ。カウボーイ、何かリクエストはあるか?」
 何処までもマイペースな『K』の問いに、カウボーイは小さく笑って言った。
「それじゃあ、ビートルズの『tomorrow never knows』がいいな」
「わかった」
 いきり立っているオカダをよそに、『K』は新たなレコードを取り出した。
「お前ら……状況を考えろっ!」

 PM.11:46,37s

 コンビニでは、男女の店員二人が楽しげに話をしていた。
 特に大学生の男子店員は女子の店員と遊びに行く約束を取りつけられたので上機嫌だった。やったね、こんなに可愛い子と一緒に仕事ができるなんて自分は本当にラッキーだ。昨日は探していた服が安く買えたし、今日の晩飯は旨かった。人生の調子がいいというのはこんな感じだろうか? このまま一気に、この子ともうまくいくような気がする。普段はいい加減にしているバイトにも、少しはやる気が湧いてくるってものじゃないか?
「あっ……いらっしゃいませ、こんばんは!」
 その時ちょうど入ってきた客を、男子店員は最高の笑顔で迎えた。店長が見ていたら感激したかもしれない。
 しかし、入ってきた客はそれどころではなさそうだった。

「おいお前!」
 リョウはコンビニのカウンターに左手を叩きつけた。カウンターの向こうで、二人の店員が笑顔を凍りつかせて飛び跳ねる。
「刃物はあるか!?」
「……あ、ありませんよ、そんな物!」
 女子店員が気丈に答えた。男子店員は壁にへばりついて震えている。
 リョウは小さく舌打ちして辺りを見回すと、飲料用の冷蔵庫の前に太ったパンク風の男を見つけた。ヘッドホンで音楽に聴き入っているせいか、こちらの騒ぎには気づいていない。リョウはニッと笑うと、音もなく男の背後に近づき冷蔵庫の扉を蹴りつけた。勢いよく閉まった扉に手首を挟まれ、男が悲鳴を上げる。
「よお、キタジマ……いい所で会ったな?」
 リョウはキタジマの頭を扉に打ちつけて言った。外見に似合わず臆病なキタジマが、目に涙を溜めながらリョウを見る。
「ものは相談なんだが……お前のオモチャを貸してくれないかな?」
 キタジマがぶんぶんと頷き、震える指先でジャケットの内側を指し示す。リョウは薄く笑い、金と緑に染められたキタジマの髪をつかむと、もう一度扉に叩きつけた。
 その時、コンビニの自動ドアがゆっくりと開いた。
 同時にコンビニの防犯カメラが動かなくなったが、二人の店員はそれには気づかなかった。

 PM.11:47,12s

「み~つ~けた」
 ドロシーは親しい友人と待ち合わせた時のように楽しげにコンビニの中に入った。
 両腕は後ろで組まれ、前からは銃の存在は見えない。
「どうしてだ……?」
 リョウはコンビニの入り口の正面に位置している飲料用の冷蔵庫の前に、ドロシーに背を向ける形で両膝をついていた。
「……どうしてこんなことになったんだ?」
 リョウはゆっくりと立ち上がった。
「それは貴方が、我侭を言い過ぎたからじゃないかな?」
 ドロシーは物珍しそうに店内を見回しながら呟いた。
「そして人を傷つけた。ちょっとお仕置きが必要ね」
「……何がいけない?」
 リョウは額を軽く扉に打ちつけた。
「何がいけなかった? 俺の親父は自分の欲しいものはすべて手に入れた。金も女も地位も名誉も、自分の妻が子供を生めない体質だということがわかると子供まで金で手に入れた。沢山の人が泣く所を見たよ……それでも奴は少しも悪いとは思っていない。むしろ負けた奴が悪いとさえ思ってるぐらいだ」
 リョウはドロシーの方を振り向いた。リョウから少し離れた所では頭から血を流したキタジマが必死で床を這っており、パンと惣菜の売り場からインスタント麺類の棚へと移動しつつある。
「それに比べて俺はどうだ? 確かに沢山の物を与えられたさ。金も玩具も学歴も、十五の時には女までね。だが俺が本当に欲しい物は何一つ与えられなかった。自分で手に入れようとしても、いつも親父の存在が邪魔をした!」
 リョウは血まみれの震える右手を胸の所まで上げると、人差し指を辛うじて伸ばして十字を切るような仕草をした。
「誓ってもいい……俺が本当に我侭を言ったのは、これが初めてなんだぜ?」
 その瞬間、だらりと垂らしていたリョウの左手の中に、小型のナイフが魔法のように出現した。

 PM.11:48,19s

 戦いの終了を告げたのは、炭酸飲料の缶が弾けて中身が吹き出た音だった。
 弾丸は冷蔵庫の扉と複数の缶を貫いた後に最奥の缶にめり込んでおり……それよりも先に、リョウの左肩の皮膚と肉の一部をえぐり取っていた。
 リョウは肩を押さえて床に崩れた。口からは悲鳴の代わりに声にならない微かな息と、数滴の体液がこぼれている。
 彼の額に、冷たい金属の塊が押し当てられた。
「……髪が少しちぎれたぞ……」
 ドロシーはナイフに切り裂かれた髪を触りながら、静かに尋ねた。
「……どうする?」
「殺せよ……もう生きていたくもない」
 リョウが泣きそうな声で呟く。
「…………そう」
 ドロシーは引き金にかけた指に力を込めた。
 その時、コンビニの中に一人の男が駆け込んできた。

 PM.11:48,35s

「待ってくれ、ドロシー!」
 僕がコンビニに入ると、ドロシーはまさにリョウの頭を撃ち抜こうとしていた。
「ドロシー、リョウを殺さないでくれ! そいつは……!」
 僕は大きく咳き込みながら叫んだ。頭の中が混乱し、言葉にならない考えが物凄いスピードで駆け巡る。
「……そいつは……!」
 僕は考えた。生まれて初めて、必死で誰かに自分の考えを伝えようとした。そうだ。表に出さなければ、すべては伝わらないのだ。
「殺さないでくれ、ドロシー!」
 すべての思いを込めて、僕は叫んだ。


「リョウは僕の友達なんだ! たった一人の友達なんだ!」


 ドロシーは僕の方を振り向かずリョウに銃を突きつけたままだったが、
「……まったく、バカなんだから……」
 と呟き、銃を腰のホルダーに戻した。そして床を見つめたまま動かないリョウの耳元で短く囁くと、僕の方に歩いてきた。
「行こうか?」
 ドロシーは何事もなかったかのように言った。
「……何処に?」
「何処かよ。そうだなあ、海が見たい」
「でもリョウが……」
「大丈夫よ、死にはしないわ……多分ね」
 そんな無責任なことを呟き、コンビニを出ていってしまう。僕は迷った末にリョウの方に駆け寄ろうとしたが、
「行けよ! 何処にでも好きな所に行っちまえ!」
 リョウがうつむいたまま叫んだ。
 それでも僕が迷っていると、リョウは大きくため息をつき、掠れる声で言った。
「……心配するな……俺は大丈夫だ」
 僕はリョウのことが本当に気がかりだったが、リョウの言葉に願いのようなものを感じて、ドロシーの後を追って外に出た。

「……何なのよ、あれは……」
 コンビニの女子店員は、去って行く二人を目で追いながら呟いた。
 隣では男子店員がカウンターの下にうずくまって震えている。こんな情けない奴とは絶対につき合ってやるものかと女子店員は思った。
「電話……あるか? 携帯は落としちまったらしい」
 不意に掠れた声がした。声の方向に顔を向けると、血だらけの男が肩を押さえながらカウンターに手をついていた。
「で、電話ですか?」
 女子店員は震える声で尋ねた。もしかして仲間でも呼ぶつもりだろうか?
 しかし血だらけの男は唇を曲げて苦しそうに笑うと、こう言った。
「警察にかけたいんだ。ここにナイフを持って暴れた男がいますってね」
 言いながら、男はカウンターから滑り落ちた。
「……できれば君が代わりにかけてくれないか? 俺にはもう、そんな力はないんだ」  

 女子店員が慌てて奥に引っ込んでゆく様を見届けて、リョウは目を閉じて呟いた。
「まったく……あの女、本当に最後までくだらないことを言いやがる……」
 その時、リョウの顔に暖かい物が触り、手の傷口に布が巻かれた。
「大丈夫ですか?」
 リョウがうっすらと目を開けると、一人の少女が傷の手当てをしながらリョウの顔を覗き込んでいた。少し痩せ過ぎだがスタイルのいい子だな、とリョウは思った。
「俺なんかの手当てをすることはない……俺は死んだ方がいい」
 リョウはもう一度目を閉じて呟いた。しかし少女は手当てをやめなかった。
「でも貴方はまだ生きています。何があっても生きていれば人生は捨てたものじゃないって、私の友達が言ってました」
 この店オリジナルのデザートセットが大量に詰まった袋を下げながら、クミは言った。

 教訓、時にはお気に入りの物を求めて遠出してみるのもいいかもしれない。きっと思いがけない出会いがアナタを待っている。
 それからスカートはミニよりロングの方がいい。いざという時に裂いて包帯として使えるから……。

 ちなみにキタジマは、インスタント食品の棚の所まで匍匐前進を続けた後、店の角で行き詰まった。しかしその数秒後、雑誌売り場の方に直角に進路を変え、再び前進を始めた。
 もしかしたらこのまま前進を続けたら再びリョウの所に戻ってしまうのではないかとの考えがキタジマの頭を過ったが、彼はそのことについては次の角まで考えないことにした。
 進み続けていれば、いつか何かが起こるだろう。そう思いながら、彼は前進を続けた。大切なのは進み続けること……生きるとはそういうことだ。

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」 5

2007年12月12日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.11:35,21s

「楽しんでるか?」
 不意に冷たい手が僕の視界を遮った。
 驚いて振り返ると、そこにはリョウが立っていた。顔には血の気がなく、目だけが異様に光っている。
「リョウ……君も踊りに来たのか」
 呟くように言った僕の言葉は、多分聞き取れなかっただろう。それでも、リョウは静かに笑って首を横に振った。
 リョウの様子は奇妙だった。まるで世界から切り離されているかのような……スケアクロウを満たすアップテンポの曲も彼の体を素通りしているようだ。
 彼は土砂降りの雨の中、傘をささずに立ち尽くしているように見えた。
「リョウも一緒に踊らないか? カウボーイ達のことなんかどうでもいいじゃないか」
 周りの者に押されて、僕達の間の距離が縮まる。僕の言葉を聞き取ったのかどうかわからないが、リョウは両手を伸ばすと、僕の顔に手をかけて両方の親指で僕の瞼を閉じた。
 リョウが僕の眼球を押しつぶすのではないかとの考えが頭をよぎる。
 しかしリョウは、それ以上指に力を込めることはなかった。
「リョウ?」
 僕は不安になってリョウに呼びかけた。その時、僕の額に何か暖かくてやわらかな物が一瞬触れた。それからリョウは自分の額を僕の額に当てた。
「……お前は何もわかっていない……」
 リョウの声は額の骨を通じて頭の中に直接響いてきた。
「…………リョウ?」
 僕は暗闇の中で手を伸ばした。しかしその手がリョウに触れることはなく、リョウの指も、額も僕の顔から離れていた。
 急に視界が戻り、僕は目を擦りながらリョウの姿を探した。
 過剰に目に入る光と色の中で、人込みの中を進むリョウの後ろ姿が見えた。行く先にはカナとミンク達がいる。
 ……そこにいてはダメだ。
 僕がリョウの後を追おうとした時、それまでリョウと話をしていたカナが、リョウの頬を平手で打った。

 PM.11:36,35s

 カナは自分の近くにリョウがいることに気づき、汗ばんだ額を拭ってリョウを見た。
「リョウさん……何かご用ですか?」
 感情をできる限り抑えた声で話しかける。勿論油断などしていない。カナはリョウのことが嫌いなわけではなかったが、非常に気をつけなければならない人物であることは十分に承知していた。
「……やあ、カナちゃん」
 リョウが口元を曲げて呟く。多分、微笑んだのだろう、とカナは判断した。目元は細くなっているし、表情も穏やかだ。だがどんなに外見が『微笑み』であっても、カナはリョウが笑っているようには見えなかった。
 不意に、リョウがカナの後頭部を持って顔を近づけた。
「さっきは悪かったな。ついカッとなっちまった」
 リョウがカナの耳元で囁く。こうでもしないとはっきりと聞き取れないことはわかっているが、カナは緊張に体を固くした。
「……ところで、カナちゃんはあいつとはどうなってるんだ?」
 リョウは言った。
「もしかして、好きなのかい?」
 カナは体を緊張させながらも強い口調で言った。
「そんなこと、リョウさんには関係ないじゃないですか」
「……成程ね」
 リョウが小さく笑ったのが聞こえた。
「カナちゃん! 大丈夫!?」
 ミンク達が近づいてきた。皆リョウを警戒し、少し距離を取ってリョウを睨んでいる。心配ないよ、と身ぶりで示し、カナはリョウを見つめた。
「リョウさん、私は先輩のことを一人の人間として評価しています。好きとか愛してるとか、男とか女とか、そんな俗っぽいものじゃなくて、あくまで興味ある対象だと思っています。先輩は、もっといろんなことができるはずです! 先輩をダメにしてるのは貴方じゃないですか!」
 最後の台詞を大声で叫び、カナはリョウから離れた。リョウはカナの大声に少し首を曲げていたが、
「成程ね、それが君の愛し方か……」
 今度は小さく呟いた。
「……俺は、そんなのは嫌いだな」
「何て言ったんです!?」
 カナが大声で怒鳴る。
 リョウは逆十字のピアスを指で揺らし、カナに近づいて、耳元で囁いた。
「お前は薄汚い売女だって言ったんだよ」
 刹那、カナの顔色が変わった。

 カナは平手でリョウの頬を叩いた。
 リョウは弾かれた顔を戻し、口元を歪ませた。
 次の瞬間、リョウの右手にナイフが握られていた。

 PM.11:38,47s

 誰かの甲高い悲鳴がフロアに響いた。
 それが引き金になったように、フロアは混乱し、様々な声や怒声が飛び交った。
 ほとんどの者が事態を把握できず、踊るのをやめて辺りを見回す。
 ……そして。
 多くの者が事態を正しく把握した途端、一斉にフロアから逃げ出そうとする流れが起き、まだ何も知らない者をも巻き込んだ。

 PM.11:38,50s

「カナちゃん!」
 僕は人込みをかき分けて走った。
 日焼けした太い腕が体に当たり、汗ばんだ肌が押し当てられる。それでも、僕は体を屈めながら人込みの中を駆け抜けた。

 PM.11:38,53s

 ミンクが叫んでいた。
 ミンクはカナがリョウに腕を切られた瞬間から叫び続けていた。その声はフロアの暑い空気を切り裂き、地の底に眠る死霊を呼び覚ましそうだった。
 カナは切られた右腕のつけ根を手で押さえたまま床に倒れていた。指の間から、真っ赤な鮮血が流れ出している。
「誰か! 早く救急車を呼んでよお!」
 仲間の女装した男達がカナの周りを囲んで叫ぶ。ミンクはやっと我に返ると、体を小刻みに震わせながら頷いた。
 そんな中、カナは床に倒れながらも必死に首を捻ってリョウを睨みつけていた。
 カナの視線の前を、黒革のブーツが横切った。

 PM.11:39,00s

 リョウはナイフについた赤い血を眺めながら歩いていた。
 ナイフから赤い血が一雫落ち、黒革のブーツが床を擦って嫌な音をたてる。
 リョウはナイフを大きく振り、血を払った。
 そして、目の前の大男を睨みつけた。

 PM.11:39,17s

「若い頃にはよく言われたよ。最近の若者はわけがわからないって……それこそ何千回、何万回とね」
 カウボーイは小さく笑って言った。
「だから、これだけは言いたくなかったな……なあ、そう思うだろ? 大人になんてなるものじゃないよな」
 カウボーイは拳を手の平に打ちつけた。
「……くそガキが!」

 PM.11:39,28s

 ドロシーはDJブースの前の金網にもたれながら何かの歌を口ずさんでいた。
 その後ろで、『K』はレコードを芸術的な動きでスクラッチした。

 PM.11:40,12s

「……畜生」
 リョウはナイフの柄を擦るように指を動かし、刃に反射する光を揺らめかせた。
「畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生」
 リョウは口の中で言葉を転がし続けた。
「…………畜生」
 その時、リョウの前に誰かが飛び出した。

 PM.11:40,47s

「やめて、この人を殺さないで!」
 リョウの前に飛び出したパールは、両腕を大きく広げて叫んだ。
「パール!」
 カウボーイが大きく目を見開き、

「パール!?」
 ドロシーも驚いて金網から体を離す。

「お願い……殺さないで……殺さないで!」
 パールの瞳は瞳孔が開き切り、頬の筋肉は引き攣っていた。元から色白だった肌は、青く染めた髪にも負けないほどに青ざめている。
 パールは全身を震わせて叫んだ。
「殺さないで……殺さないで! 誰も殺さないで!」
「…………黙れ」
 リョウは無表情にナイフを振った。

 PM.11:41,13s

 すべてがスローモーションのようだった。時は手に取れそうなほどにゆっくりと流れ、血飛沫は空中に止まっているかのようだった。
 僕は前にいた男を押し退けて、フロアの中央に飛び出した。
 赤い血の雫は床に落ち、破裂するように飛び散った。少し遅れて、青い髪の女が目を大きく見開いたまま倒れ込む。
「……リョウ……!」
 リョウはぼんやりと右手を眺めていたが、自分の手にべったりと赤い物がついていることに今更ながら気づくと、小さく悲鳴を上げて右手を大きく何度も振った。
 そして僕の言葉に振り向いた時……その表情は、泣き出しそうな子供のようだった。
 次の瞬間、僕は両腕を頭の上で交差させ、リョウの胴体めがけて突っ込んだ。

 PM.11:41,15s

「パール!」
 カウボーイは急いでパールのそばに駆け寄った。
 パールの胸元から首にかけて大きな赤い筋が走っていた。真紅の裂け目からはおびただしい量の血が溢れ出し続けている。
「パール……何てことだ……!」
「……バート……」
 パールが手を伸ばしてカウボーイの頬に触れた。
「ア……アタシ……アタシ、死ぬの? ……怖い……怖いよ……助けてよ、バート……」
「大丈夫だ、君は死にはしない! ドロシーも僕もついている!」
 カウボーイはパールを抱きかかえて必死に呼びかけた。
 その時、近くにいたリョウが倒れたので、カウボーイは顔を上げた。

 PM.11:41,33s

 リョウの体の上には、一人の青年の姿があった。リョウの上半身を床に押しつけ、力一杯殴りつけている。
「……ほ~ら、言った通りでしょう? クミ」
 カナは微笑み、気を失った。

「ああっ、止血、止血! ええっと、傷口の上をきつく縛るのよね!?」
 ミンクは大きく手を振りながら叫んだ。
「それから腕のつけ根も……傷口は心臓より上にするのよ?」
 隣にいたオレンジ色の鬘を被った男が口を出す。
「わかってるわよ、そんなこと!」
 ミンクは叫びながら手を振って自分を落ち着かせると、ドレスの裾を切り裂いてカナの腕を縛った。
「その服、高かったんでしょ?」
「そ~~んなことどうでもいいでしょ! 次は何処よ!?」

 PM.11:41,33s

 僕は無我夢中でリョウのコートをつかんだまま起き上がった。
 リョウはぶつけたらしい頭を押さえると目を開いて僕を見た。
 僕が上にいるとはいえ、リョウがそのまま反撃してきたら僕に勝ち目はなかっただろう。
 しかしリョウは自分の手にナイフがないことに気づくと、近くに落ちているナイフを取ろうとして手を伸ばした。
 その瞬間、僕は確信した。
 今なら、リョウに負けはしないと。

 僕はリョウの顔面を殴りつけた。それからリョウの髪をつかんで頭を床に打ちつけた。リョウは小さく悲鳴を上げると、初めて僕の存在に気づいたように睨みつけてきた。
「……てめえ……!」
 僕は冷静だった。何故かはわからないが、本当に冷静だった。いや、もしかしたら頭の何処かが麻痺したのかもしれない。それでも僕の頭と体は、自分のすべきことを正確に理解し、実行していた。
 僕はもう一度リョウの顔面を殴りつけると、立ち上がって叫んだ。
「立てよ、リョウ! ……勝負しようか!」

 PM.11:42,00s

 メリーゴーラウンドはゆっくりと回転を止めた。
 僕の周りで回転していた世界は正常な状態に戻り、時間の流れは通常の速さを取り戻していった。
 回転の中心には、僕とリョウだけが残った。

 僕はふらつく体を何とか支えながら立っていた。先程までの混乱は治まり、ただ心臓が音高く鳴り響いている。
 周りも徐々に見えるようになった。フロアには僕達二人以外誰もいない。皆ここから避難したらしい。リョウの向こうには、倒れたパールを抱えているカウボーイの姿が見える。
 その時、低い呻き声を上げながら、リョウが起き上がった。
 ぎらつくような目で僕を睨みつけてくるかと思ったが、リョウの目には力がなかった。
「……どうして……」
 リョウは泣きそうな声で呟いた。
「どうしてなんだよ……っ」
「そこまでだ、リョウ! 動くんじゃねえ!」
 何処からかオカダの声が響いた。
「何てことをしてくれたんだ! もう救急車と警察を呼んだからな、観念しろ!」
「うるさい…………うるさい…………うるせえって言ってるんだっ!」
 リョウはうつむきながら呟いていたが、急に立ち上がって叫んだ。
 そして、僕の方に顔を向けた。
「どうしてお前が俺の邪魔をする!? 俺達はもっとわかりあえるはずだろう!?」
 リョウは言った。
「初めて見た時から感じていた、お前は俺に近い人間だと。お前なら俺を理解できるはずだ! お前だって苦しいだろ? こんな世界嫌いだろ? どうしてこんな世界で生きなきゃいけないんだ。何でこんなに苦しまなきゃいけないんだよ! 俺達はもっとわかりあえる、理解できる……もうこれ以上、俺を苦しめないでくれ!」
「何よ! カナちゃんを傷つけといて勝手なこと言わないでよ!」
 カナを抱えてミンクが叫ぶ。僕は首を横に振ってミンクにやめるように頼むと、リョウの方に向き直った。
「リョウ、僕も君のことは嫌いじゃない」
 リョウが虚ろな目で僕を見る。僕の心に何かが突き刺さった。
 確かに、僕とリョウの関係は良いものとは言えなかった。しかし僕は、リョウと別れたいとか、リョウが憎いとか……そんなこと、一度だって思ったことはなかったのだ。それでも……いや、だからこそ、今ここで言わなければならない。
 僕はゆっくりと言葉を吐き出した。
「僕は君のことは嫌いじゃない。だけどリョウ、君のやったことは許せない! 絶対に許すわけにはいかないんだ!」
 リョウが大きく目を見開いた。
「……リョウ、僕も一緒に警察に行くよ。だからもうやめよう、こんなこと」
 僕はゆっくりとリョウに近寄った。
「今はまだ、君が何を考えてるのかよくわからないけど……それでも一緒にいるくらいならできるよ。少しずつわかり合えばいい……そうだろう?」
 僕はリョウの前に立ち、彼の手を取ろうとした。リョウは力のない目を僕に向けて立ち尽くしている。
 その時、誰かが後ろから僕を羽交い締めにした。
「……ジン!?」

「まずいな……」
 カウボーイは呟いた。パールの脈がどんどん弱くなっていく。
 その時、フロアの方でざわめきが起こった。カウボーイはそちらに目を向け、リョウに立ち向かった青年が羽交い締めにされているのを見て眉をひそめた。
「こっちもまずいな……まったく!」
「大丈夫よ」
 誰かがカウボーイの前に膝をついた。
「ドロシー……」
「本当、バカな子よね……」
 ドロシーは長い髪をかき上げて呟き、パールの頬を撫でた。喉から胸元にかけての傷口を辿り、心臓の辺りを優しく手で被う。
 心なしか、出血の勢いが弱まったように見えた。
「大丈夫よ、バート。この子は死なないわ」
 血にまみれた指を唇に当てると、ドロシーは立ち上がった。

「ジン! 邪魔をするな!」
 僕は懸命に体をひねってジンの腕を外そうとした。
「黙れ! お前のせいだ……お前がいるから悪いんだ! お前さえいなきゃ!」
 ジンは両腕にますます力を込め、僕の身体を締め上げた。肩の筋肉が圧迫され、骨が軋む。ジンの腕力はこれほどまでに強かったか!?
「どうして……どうしてお前なんだよ!」
 喉の奥から搾り出すような声で、ジンは叫び続ける。
 その時、リョウが床のナイフを拾い上げた。
「リョウ、殺しちまえ! こんな奴、殺しちまえ!」
 ジンの声が耳元で響く。リョウはジンの声も何も耳に入っていない様子で、ただナイフの刃を見つめていたが、
「……何でこんな簡単なことがわからなかったんだろうな?」
 不意に、明るく呟いた。
「何でかなあ? ……なあ、ジン?」
「リョウ……」
 ジンが緊張を解いたのがわかる。
 リョウは難しい問題の解き方に気づいた小学生のような、晴々とした表情を浮かべながら僕らに近づき……右手を振り抜いた。

 一条の閃光が僕の顔をかすめた。
 次の瞬間、僕は開放されていた……ジンの悲鳴と共に。

「ジン!」
 僕は解放されると同時に振り返った。ジンが顔面を両手で覆いながら倒れている。リョウが背後から僕の首をつかんだ。
 振り向いた先にはリョウの顔と……振り上げられたナイフの刃の煌めきがあった。