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「……ああ、聞こえているよシュレディンガー」
「美しい……そして大きな力を持った歌声だ。世界のすべてを揺さぶるほどに」
「そんな彼女を狙う者がいる。こちらも強い力だ」
「だが彼女は別次元の存在だ。彼女は『完全』に近い力を持っている……彼女自身も気づいてはいないだろうが、彼女の存在は世界そのものを揺るがしかねない」
「……ならば、僕達も微睡みから目覚めるべきだろう」
何処かで猫の鳴き声がする。
第5話 不思議の国のアイズ
「カ……カルル姉様!?」
「う、嘘だろ……? カルル姉ちゃんがこんな所にいるわけがない。だって、あの人は……あの人は……!」
ネーナとグッドマンが驚愕に声を震わせる。
「貴女達の姉、カルル・ブロッサムは死んだと言いたいのね? でもお生憎様……私は生きているわ。この右手の能力……」
カルルは唇を笑みの形に歪め、右手を地面についた。
「『分解』と共にね」
次の瞬間、カルルを中心にして木組みの床が陥没した。
アイズは理解した。彼女の能力が単純な『破壊』ではなく、物の構造を『分解』してしまうものであることを。その証拠に、威力の凄まじさの割には一つ一つの木材への損害はほとんどない。
「No.5『カルル』……その能力はあらゆる物理的結合を無効化するものだと聞いてはいましたが、まさかこれほどとは……」
「……いいえ、違います」
コトブキの呟きに答えたのはトトだった。
「あの人の本来の能力にこれほどの力はありません。力を引き出している者がいるのです……彼女のすべてと引き換えに」
「トト?」
アイズが振り向くと、トトは車の上に立ち、じっとカルルを見つめていた。
その雰囲気は普段のものとはまるで違っていた。
カルルは崩れた駐車場の上を悠然と歩いてくる。
「グッドマン! 姉様を止めて!」
ネーナが叫ぶが、脚部を分解されたグッドマンには為す術もない。
誰もが何もできずにいる内に、カルルはネーナの目の前にまで歩み寄る。
とてもよく見知った顔が……同じプライス博士に生み出された姉妹として長い時間を共に過ごした者の顔がそこにはあった。
「ネーナ……久しぶりね」
「カルル姉様、どうして……」
カルルは妖しく微笑むと、相変わらず感情の抜けたような、抑揚のない声で言った。
「貴女がここにいて良かったわ……さぁ、見ていなさい。世界が変わる瞬間をね」
「世界が変わる瞬間……? どういうこと、それは……」
カルルはネーナの問いには答えず、トトに視線を向けた。
「貴女に会うのは初めてだったわね。私はカルル……貴女の姉よ」
「見え透いた嘘はやめて下さい」
トトが冷たく言い放つ。
カルルが酷薄な微笑みを浮かべる……と同時にトトに向かって右手を突き出した。カルルの前方からトトの足下にかけての地面が崩れていく。
しかし、
「戻れ!」
トトが短く叫んだ途端、地面が元に戻った。
『なるほど、この体じゃ勝てないか……』
それまでとは明らかに異なる、幼い少女のような声がカルルの口から響く。
カルルの背後に黒い影のような物が浮かび上がった。
「何がどうなってるの?」
呆然としているアイズの隣で、支店長が呟く。
「凄いな……分解された物が元に戻っている」
「それって……」
「この世界の物理法則に反するということですね」
コトブキは言った。
『プライス博士もおかしなことをするわ。これほどの力を生み出しておきながら……その力、渡してもらうわよ!』
カルルの背後に揺らめく影から、凄まじい稲妻が迸る。
稲妻はトトからも発生し、二人の間で衝突し渦を巻いた。
「あれは……エコーデリック!?」
ルーカスの船の中で見た光景を思い出し、驚くアイズ。
『流石ねトト。純粋な力じゃ貴女には勝てそうもないわ』
カルルは稲妻を放出しながら、ニッと唇の端を上げた。
『……でも、貴女以外の人はどうかしら?』
「なっ……!?」
トトの一瞬の隙をついて、カルルの稲妻がアイズに襲いかかる。
「アイズさん!」
トトはアイズを庇い、稲妻の直撃を受けた。
ゆっくりとその場に倒れるトト。
「……ト……ト……?」
アイズが地面に膝をつき、トトを抱きかかえて呆然と呟く。
『美しい友情ってやつかしら? ……さぁ、渡してもらうわよ』
カルルが二人の前にまで歩み寄り、右腕を伸ばす。
そのとき、唐突にトトが目を開いた。表情がガラリと変わり、カルルがそうであるのと同じように、トトの口から別の声が響く。
『いいえ、貴女のような子供には渡せないわ……エンデ』
瞬間、カルルを含む3人を光が包み、一気に爆発した。
そして光が消えた時、そこに3人の姿はなかった。
「……消えてしまった……」
3人が消えた場所に立ち、呟く支店長。
そこにグッドマンが歩いてきた。
「まるで夢でも見ていたような気分だぜ」
「グッドマン君? ……脚は大丈夫なのか?」
「ああ、それがどういうわけか、治ってるんだよ」
グッドマンは軽く飛び跳ねて見せた。
「信じられない……私達の治癒能力がいくら高いと言っても、こんなことは……」
「と言うか……何もかも元通りになっているように見えませんか?」
ネーナに続いて、支店長が言う。
カルルの右手によって陥没したはずの木組みの床が、いつの間にか元に戻っているのだ。
このときは誰も気がつかなかったが、復元のレベルはカルルが襲撃してくる直前にまで及んでいた。カルル自身の手によって分解されたホールの舞台のみならず、アイズがつかまったときに外れたロープの留め金にいたるまで。
「……グッドマン君の言うように、まるですべてが夢だったように思えてきますね。あの二人の少女がいたということさえも……」
支店長が夢から覚めたような口調で言う。
「いいえ、確かに彼女達はここにいましたよ」
コトブキは言った。
「あの歌声は、我々の心の中に確かに残っているのですから……」
「いつかまた出会うその日まで……か」
他の皆がホテルに戻った後、コトブキは一人、空の彼方を見て呟いていた。
「やれやれ……また長生きしなきゃならん理由ができたな」
気がついたとき、アイズはまったく別の場所にいた。
別の……しかし、とても見覚えのある場所に。
「……ここは……」
「アイズ? どうしたの、ぼんやりして」
「えっ?」
呼びかけられて、アイズは気がついた。自分のすぐ後ろに母親がいることに。
そこはハイムの家、アイズ専用の衣裳部屋だった。鏡に映る自分は豪奢なドレスを着ており、母親が後ろで髪を整えてくれている。
アイズの様子に、母親はため息をつきながら言った。
「しっかりして頂戴ね。今日はあなたの14回目の誕生日なんだから」
「緊張しているのだろう。今日が本格的な社交界デビューだからな」
部屋の戸口に立っていた父親が笑う。
普段は仕事ばかりで会話のない父だが、口調も雰囲気も優しく穏やかだ。
「エリオット、貴方がそんなだからアイズがやる気を出してくれないのよ。同じ14歳で政府の要職に就いている子もいるって言うのに……」
「エリーナ」
父親が優しく咎める。
「アイズはアイズだ。ゆっくりと育てばいい。そうだろう?」
しぶしぶながら母親が頷く。父親は「そんなことより」とアイズを招いた。
「アイズの為に特別に作らせた物があるんだ」
3人は屋敷の広間へと出た。見覚えのある大勢の顔が並び、今夜の主役の可愛らしい姿を見て感嘆の溜息をもらしている。
「さあ、あれを見て御覧」
父親は広間の中央に置かれた布のかかった物を指差した。
言われるままに見ていると、サッと布が取り外され……現れたのは、宝石をちりばめた水晶の像……アイズをモデルにして作られた物だった。幼さの残る顔立ち、大きな瞳、細い手足と長い髪……そう、あの頃はまだ長かった。
「アイズの今の姿を永遠に留めておきたくてね。どうだい? 気に入ったかい」
「ごめんなさい。私、あれは受け取れないわ」
アイズは言った。父親が眉を潜める。
「どうしたんだい? パパのプレゼントが気に入らないかい?」
「アイズ、お父様に失礼でしょう?」
「そうじゃないわ」
アイズは首を横に振った。
「昔の私は確かにこうだったわ。それに、これはこれで楽しかった……でも私は決めたの。ここから出て行くって……」
「アイズ? パパ達のことが嫌いなのかい?」
「嫌いじゃない。嫌いなんかじゃないよ。そうだってこと、旅に出てから気づいたわ」
アイズは目に涙をためて両親を見た。
「……でも、私は……私はそれでも、まだここに戻る訳にはいかないの」
「だから、もう消えてよ。お願いだから!」
アイズの周囲からすべてのものが消えた。
父親も母親も、居並ぶ人々も屋敷も、すべて。
そして、アイズは何処までも続く夜の海の上に立っていた。
何処かに出ている月が波を明るく照らし、目に見えない床でもあるのだろうか、アイズの体は落ちることも濡れることもない。
「海? ……森の中にいたと思ったのに」
「すべての場所は海に繋がっているのさ」
背後で声がした。
「森も山も、人の心も深く掘り下げれば海へと辿り着くことができる。そして、ここはそんな所だ」
振り返ったアイズが見たものは意外な……いや、意外すぎるものだった。
キャバレーの看板のような安っぽい電飾のついた月があり、その上に一匹の猫が寝そべっている。月を吊るしてあるワイヤーなんか見え見えだ。
ただ、それが何処に繋がっているのか、いくら上を見てもわからない。
「ある物理学者が言ったそうだよ。振り返れば月がある……ってね」
「……貴方なの? あんな悪趣味な夢を見せたのは」
「いや、僕じゃないよ。それにしても流石だね、僕が喋ってるのを見ても驚かないなんて」
感心しながら、猫は言った。
「僕はただ、彼の手助けをしているだけなんだ。実際、さっきのは僕も悪趣味だと思うよ。もっとも、君がこんなに早く出てこられるとは思わなかったけどね。多分、彼も驚いてるんじゃないかな?」
「彼って誰? ……っていうか、そもそも貴方は何なのよ?」
「僕は……そうだね、シュレディンガーとでも呼んでおくれよ。深き知性の海に住む古き猫の一族さ」
「深き知性の……何ですって?」
「<深き知性の海に住む古き猫の一族>だよ。古より様々な伝承や神話、おとぎばなしの中に登場する猫はすべて僕の仲間なんだ。ちなみに僕はかの不思議の国のアリスに出てくる高名なチェシャ猫の大学の後輩さ。もっとも彼は数学専攻で、僕は物理が専門だけどね」
「不思議の国のアリスって何?」
「それを説明するには時間が幾らあっても足りないな。物理学者は時間とは仲が良くないからね。ただ一つ言えることは、ここが様々な次元の合わさる所だということ……君は今、世界の果てにいるんだ。さて、そろそろ席を替わろうか?」
世界が暗転し、別の場所に変わる。
そこにはトトがいた。アイズはトトに近づくが、それは幻らしく触れることができない。
と、シュレディンガーとは別の声が響いた。
「現実とは不安定、不確定なもの……すべてはいずれ無に帰すものです。なのに貴女は、どうして生きるのですか? そんなに必死になる必要があるとは思えませんが……」
その声を聞いて、アイズは言った。
「たとえ世界が幻でも関係ないわ。大切なのは“何故生きるか”じゃない、“どう生きるか”よ。私は私の信じる生き方を貫くわ」
そしてシュレディンガーの方を見て言った。
「隠れてないで出てきなさい!」
すると、シュレディンガーの口を通して別の声が言った。
「やはり……貴女は強い人ですね」
シュレディンガーが大きく口を開く……どんどん膨れ上がる口は、やがて大きな穴となった。そしてすべてはシュレディンガーの口に飲み込まれ……アイズは再度別の空間へと辿りついた。
そこは取り立てて変わったところのない部屋で、中央にテーブルがあり、紅茶の用意がしてあった。椅子が3つ……1つは空席で、後の2つには眠るトトと一人の男が座っていた。
「僕はコープ……思考精神型生命体のコープです」
自己紹介の後、コープはアイズに椅子を勧めた。しばらく無言で紅茶を飲む二人。
「何故このような場所が存在するのか、そして僕達は何なのか……」
沈黙を破ったのはコープだった。
「疑問に思っているようですね」
「まあ……ね。疑問に思わない人はいないんじゃない?」
アイズが話を促す。
コープは紅茶をもう一口飲むと、ティーカップを置いた。
「とある科学者によると、人間に限らず動物や植物、果ては鉱物や自然現象に至るまで……すべてのものには精神があり、それらの精神の根底には大きな海のような場所があるのだそうです。僕達は、その『精神の海』に住まう者」
「それってつまり、貴方達は神様か何かだってこと?」
アイズの言葉に、コープは苦笑した。
「そう呼んだ人もいましたね。ですが、その呼び名は不適切です。確かに僕達は『世界の精神』に干渉することができます。しかし規模こそ比較になりませんが、周囲の精神に干渉する能力は人にも備わっているんですよ。あなたがたの世界で言うところの『魔法』がそれです」
「じゃあ、風を操ったり空を飛んだりするのは……」
「大気の精神と自らの精神を同調させているのでしょう。僕達の規模になれば、台風を発生させたり気流そのものを操作することさえ可能になりますが」
スケアの風の魔法を思い出し、なるほど、と頷くアイズ。
コープは続けた。
「しかし僕達も所詮は世界の一部です。僕達が世界を創造したわけではありません」
「……じゃあ、世界に宿る精霊みたいなものかしら」
「そのように思っていただければいいでしょう」
コープはにっこりと笑うと、話を続けた。
「正直なところ、何故存在しているのか、僕達自身にもわからないんですよ。今まで色々と考えてきましたが、おそらくは、世界の精神的均衡を保つ役割を果たしているのではないか……あるいは、無限に存在する世界同士を繋ぐ通信機のようなものなのかも知れません。もしかしたら、何処か別の世界で、僕の通信を受けて貴女のことをお話にしている人がいるかも知れませんね」
「……ヤなこと言わないでよ」
アイズは少し嫌そうな顔をした。
「で? その精霊が、私達に一体何の用なの?」
「今から32年前のことです。ヴァギア山脈中央の未開の地に探検隊がやってきました。しかしその時、ある事故によって一人の若い科学者を除いて探検隊は全滅してしまったのです。そして僕達はその科学者に興味を持ち、ここに彼を招いた……今の貴女と同じように」
話が読めずに訝しげな顔をしているアイズに、コープは語った。
「彼は天才でした。途方もない発想と創造力の持ち主でした。ほんの些細なきっかけで世界のすべてを理解し、再構成してしまうほどのね。彼がここで得た知識を用いて新たな命を創り出してみせたときには、僕達も感心したものですが……しかし、まさか彼女のようなものまで生み出してしまうとは思いませんでした」
「それってまさか……」
「そう、この少女の生みの親……後に世界的な科学者となるプライス博士のことですよ」
トトを見ながらコープは言った。
「彼の生み出したプライス・ドールズ……その最後にして最高傑作である彼女の精神は、『世界の精神』と直結しているんです。僕達と同じようにね」
「僕達には力があります。その気になれば世界中の生命の意志を操作することも、世界を支配する法則を捻じ曲げることすらもできる……しかし、その力を使うことは滅多にありません。何故なら、それは可能性を摘み取ることになるからです。貴女やプライス博士のような、僕達の予想を超えた『面白い意志』の可能性をね。彼女も自らの能力については薄々自覚しているのでしょう、滅多にその力を使うことはないようですが……彼女の力を狙う者がいる。ご存知ですね?」
アイズは頷いた。
「この世界の精神の海に住む者として、僕達は彼女の存在を見過ごすことはできません。彼女の存在はこの世界を崩壊の危機にさらしてしまうかもしれない。このまま彼女を永遠の眠りにつかせることも……」
その時、コープはアイズが物凄い目つきで睨んでいることに気がついた。
「……と、思っていたんですけどね。貴女に会うまでは」
コープは眼差しを和らげた。
「貴女達二人に興味が湧いてきたんですよ。貴女達がこの力をどのように使うのか見てみたい。それがどのような結果をもたらすことになるのかをね」
「それじゃあ、トトを目覚めさせてくれるの?」
「二人でここに留まるという方法もありますよ。どうです? 今までに体験したことのないような生活を提供できますが」
「……私は旅を続けるわ。勿論、トトと一緒にね」
アイズは席を立った。
「紅茶、おいしかったわ……ありがとう」
「やれやれ、振られてしまいましたか……ふふっ、やはり面白い。僕がその気になれば、貴女に心変わりをさせることもできるというのに……不思議とそんな気にならない」
コープはアイズに黒い宝石を渡した。それは独りでにアイズの手の中に沈み込み、右手の甲に半分埋め込まれた形で落ち着いた。
「彼女の力は、今まで私が封印していたのですが……それが解放の鍵です。使い方は、自分達で考えて下さい」
と、何処からか現れてコープの膝の上に飛び乗るシュレディンガー。
「コープ、ルール違反だよ。ちょっとサービスしすぎなんじゃないの?」
「……ま、よしとしましょうよ」
薄れゆく景色の中、アイズは質問をした。
「私達を狙ってるのって、やっぱりハイムなの?」
「その通りです。11年前にリードランス王国を滅ぼしたハイム共和国……貴女の生まれた国です。もっとも、彼等は国民に対してはその事実を隠してきたようですがね」
「どうして、ハイムがトトの力を狙うの?」
「それを説明するには少しばかり時間が足りませんね。数多くの人と国の歴史が複雑に絡み合った結果ですから……まぁ、いずれわかるときが来るでしょう。自分が何者なのかと問うことは、自分に至る歴史を問うことに繋がっていくわけですしね」
コープは更に続けた。
「ただ、これだけは言っておきましょう。あの国はただの独裁国家ではない。そう見せかけてはいますが、その裏に潜む者がいる。そうですね、それは僕達に近く……そして貴女の本当の敵となる……とも言っておきましょうか」
「敵……ね」
漠然としていて何が何だかわからない、と思ったが、アイズはそれ以上尋ねるのをやめておいた。これも『サービスしすぎ』なのだろう。
しかし、もう一つ……どうしても気になることがある。
「最後に聞きたいんだけど……トトの『歌』もコープと同じ力なのかな」
「半分はそうですし、半分はそうではありません」
コープは言った。
「歌は心の深さで決まるものです。彼女はプライス博士によってとても深い心を育まれている……良い歌は人の心を動かすものです」
「そうそう、歌はいいよね」
シュレディンガーが笑って言う。
「もし良かったら、今度君の歌を聴かせてよ」
気がつくと、アイズは森の底の川岸にいた。隣ではトトが眠っており、荷物を載せたボートが岩に繋がれて揺れている。そして手元には、猫の絵が描かれた紅茶の缶が一つ。
「紅茶、おいしかったわ……ってのは、少しヤなセリフだったかもね……でも、偉そうでヤな奴等!」
紅茶の缶を乱暴にボートの中に放り込む。
その時アイズは、コープとシュレディンガーの笑い声を聞いたような気がした。
「……ああ、聞こえているよシュレディンガー」
「美しい……そして大きな力を持った歌声だ。世界のすべてを揺さぶるほどに」
「そんな彼女を狙う者がいる。こちらも強い力だ」
「だが彼女は別次元の存在だ。彼女は『完全』に近い力を持っている……彼女自身も気づいてはいないだろうが、彼女の存在は世界そのものを揺るがしかねない」
「……ならば、僕達も微睡みから目覚めるべきだろう」
何処かで猫の鳴き声がする。
第5話 不思議の国のアイズ
「カ……カルル姉様!?」
「う、嘘だろ……? カルル姉ちゃんがこんな所にいるわけがない。だって、あの人は……あの人は……!」
ネーナとグッドマンが驚愕に声を震わせる。
「貴女達の姉、カルル・ブロッサムは死んだと言いたいのね? でもお生憎様……私は生きているわ。この右手の能力……」
カルルは唇を笑みの形に歪め、右手を地面についた。
「『分解』と共にね」
次の瞬間、カルルを中心にして木組みの床が陥没した。
アイズは理解した。彼女の能力が単純な『破壊』ではなく、物の構造を『分解』してしまうものであることを。その証拠に、威力の凄まじさの割には一つ一つの木材への損害はほとんどない。
「No.5『カルル』……その能力はあらゆる物理的結合を無効化するものだと聞いてはいましたが、まさかこれほどとは……」
「……いいえ、違います」
コトブキの呟きに答えたのはトトだった。
「あの人の本来の能力にこれほどの力はありません。力を引き出している者がいるのです……彼女のすべてと引き換えに」
「トト?」
アイズが振り向くと、トトは車の上に立ち、じっとカルルを見つめていた。
その雰囲気は普段のものとはまるで違っていた。
カルルは崩れた駐車場の上を悠然と歩いてくる。
「グッドマン! 姉様を止めて!」
ネーナが叫ぶが、脚部を分解されたグッドマンには為す術もない。
誰もが何もできずにいる内に、カルルはネーナの目の前にまで歩み寄る。
とてもよく見知った顔が……同じプライス博士に生み出された姉妹として長い時間を共に過ごした者の顔がそこにはあった。
「ネーナ……久しぶりね」
「カルル姉様、どうして……」
カルルは妖しく微笑むと、相変わらず感情の抜けたような、抑揚のない声で言った。
「貴女がここにいて良かったわ……さぁ、見ていなさい。世界が変わる瞬間をね」
「世界が変わる瞬間……? どういうこと、それは……」
カルルはネーナの問いには答えず、トトに視線を向けた。
「貴女に会うのは初めてだったわね。私はカルル……貴女の姉よ」
「見え透いた嘘はやめて下さい」
トトが冷たく言い放つ。
カルルが酷薄な微笑みを浮かべる……と同時にトトに向かって右手を突き出した。カルルの前方からトトの足下にかけての地面が崩れていく。
しかし、
「戻れ!」
トトが短く叫んだ途端、地面が元に戻った。
『なるほど、この体じゃ勝てないか……』
それまでとは明らかに異なる、幼い少女のような声がカルルの口から響く。
カルルの背後に黒い影のような物が浮かび上がった。
「何がどうなってるの?」
呆然としているアイズの隣で、支店長が呟く。
「凄いな……分解された物が元に戻っている」
「それって……」
「この世界の物理法則に反するということですね」
コトブキは言った。
『プライス博士もおかしなことをするわ。これほどの力を生み出しておきながら……その力、渡してもらうわよ!』
カルルの背後に揺らめく影から、凄まじい稲妻が迸る。
稲妻はトトからも発生し、二人の間で衝突し渦を巻いた。
「あれは……エコーデリック!?」
ルーカスの船の中で見た光景を思い出し、驚くアイズ。
『流石ねトト。純粋な力じゃ貴女には勝てそうもないわ』
カルルは稲妻を放出しながら、ニッと唇の端を上げた。
『……でも、貴女以外の人はどうかしら?』
「なっ……!?」
トトの一瞬の隙をついて、カルルの稲妻がアイズに襲いかかる。
「アイズさん!」
トトはアイズを庇い、稲妻の直撃を受けた。
ゆっくりとその場に倒れるトト。
「……ト……ト……?」
アイズが地面に膝をつき、トトを抱きかかえて呆然と呟く。
『美しい友情ってやつかしら? ……さぁ、渡してもらうわよ』
カルルが二人の前にまで歩み寄り、右腕を伸ばす。
そのとき、唐突にトトが目を開いた。表情がガラリと変わり、カルルがそうであるのと同じように、トトの口から別の声が響く。
『いいえ、貴女のような子供には渡せないわ……エンデ』
瞬間、カルルを含む3人を光が包み、一気に爆発した。
そして光が消えた時、そこに3人の姿はなかった。
「……消えてしまった……」
3人が消えた場所に立ち、呟く支店長。
そこにグッドマンが歩いてきた。
「まるで夢でも見ていたような気分だぜ」
「グッドマン君? ……脚は大丈夫なのか?」
「ああ、それがどういうわけか、治ってるんだよ」
グッドマンは軽く飛び跳ねて見せた。
「信じられない……私達の治癒能力がいくら高いと言っても、こんなことは……」
「と言うか……何もかも元通りになっているように見えませんか?」
ネーナに続いて、支店長が言う。
カルルの右手によって陥没したはずの木組みの床が、いつの間にか元に戻っているのだ。
このときは誰も気がつかなかったが、復元のレベルはカルルが襲撃してくる直前にまで及んでいた。カルル自身の手によって分解されたホールの舞台のみならず、アイズがつかまったときに外れたロープの留め金にいたるまで。
「……グッドマン君の言うように、まるですべてが夢だったように思えてきますね。あの二人の少女がいたということさえも……」
支店長が夢から覚めたような口調で言う。
「いいえ、確かに彼女達はここにいましたよ」
コトブキは言った。
「あの歌声は、我々の心の中に確かに残っているのですから……」
「いつかまた出会うその日まで……か」
他の皆がホテルに戻った後、コトブキは一人、空の彼方を見て呟いていた。
「やれやれ……また長生きしなきゃならん理由ができたな」
気がついたとき、アイズはまったく別の場所にいた。
別の……しかし、とても見覚えのある場所に。
「……ここは……」
「アイズ? どうしたの、ぼんやりして」
「えっ?」
呼びかけられて、アイズは気がついた。自分のすぐ後ろに母親がいることに。
そこはハイムの家、アイズ専用の衣裳部屋だった。鏡に映る自分は豪奢なドレスを着ており、母親が後ろで髪を整えてくれている。
アイズの様子に、母親はため息をつきながら言った。
「しっかりして頂戴ね。今日はあなたの14回目の誕生日なんだから」
「緊張しているのだろう。今日が本格的な社交界デビューだからな」
部屋の戸口に立っていた父親が笑う。
普段は仕事ばかりで会話のない父だが、口調も雰囲気も優しく穏やかだ。
「エリオット、貴方がそんなだからアイズがやる気を出してくれないのよ。同じ14歳で政府の要職に就いている子もいるって言うのに……」
「エリーナ」
父親が優しく咎める。
「アイズはアイズだ。ゆっくりと育てばいい。そうだろう?」
しぶしぶながら母親が頷く。父親は「そんなことより」とアイズを招いた。
「アイズの為に特別に作らせた物があるんだ」
3人は屋敷の広間へと出た。見覚えのある大勢の顔が並び、今夜の主役の可愛らしい姿を見て感嘆の溜息をもらしている。
「さあ、あれを見て御覧」
父親は広間の中央に置かれた布のかかった物を指差した。
言われるままに見ていると、サッと布が取り外され……現れたのは、宝石をちりばめた水晶の像……アイズをモデルにして作られた物だった。幼さの残る顔立ち、大きな瞳、細い手足と長い髪……そう、あの頃はまだ長かった。
「アイズの今の姿を永遠に留めておきたくてね。どうだい? 気に入ったかい」
「ごめんなさい。私、あれは受け取れないわ」
アイズは言った。父親が眉を潜める。
「どうしたんだい? パパのプレゼントが気に入らないかい?」
「アイズ、お父様に失礼でしょう?」
「そうじゃないわ」
アイズは首を横に振った。
「昔の私は確かにこうだったわ。それに、これはこれで楽しかった……でも私は決めたの。ここから出て行くって……」
「アイズ? パパ達のことが嫌いなのかい?」
「嫌いじゃない。嫌いなんかじゃないよ。そうだってこと、旅に出てから気づいたわ」
アイズは目に涙をためて両親を見た。
「……でも、私は……私はそれでも、まだここに戻る訳にはいかないの」
「だから、もう消えてよ。お願いだから!」
アイズの周囲からすべてのものが消えた。
父親も母親も、居並ぶ人々も屋敷も、すべて。
そして、アイズは何処までも続く夜の海の上に立っていた。
何処かに出ている月が波を明るく照らし、目に見えない床でもあるのだろうか、アイズの体は落ちることも濡れることもない。
「海? ……森の中にいたと思ったのに」
「すべての場所は海に繋がっているのさ」
背後で声がした。
「森も山も、人の心も深く掘り下げれば海へと辿り着くことができる。そして、ここはそんな所だ」
振り返ったアイズが見たものは意外な……いや、意外すぎるものだった。
キャバレーの看板のような安っぽい電飾のついた月があり、その上に一匹の猫が寝そべっている。月を吊るしてあるワイヤーなんか見え見えだ。
ただ、それが何処に繋がっているのか、いくら上を見てもわからない。
「ある物理学者が言ったそうだよ。振り返れば月がある……ってね」
「……貴方なの? あんな悪趣味な夢を見せたのは」
「いや、僕じゃないよ。それにしても流石だね、僕が喋ってるのを見ても驚かないなんて」
感心しながら、猫は言った。
「僕はただ、彼の手助けをしているだけなんだ。実際、さっきのは僕も悪趣味だと思うよ。もっとも、君がこんなに早く出てこられるとは思わなかったけどね。多分、彼も驚いてるんじゃないかな?」
「彼って誰? ……っていうか、そもそも貴方は何なのよ?」
「僕は……そうだね、シュレディンガーとでも呼んでおくれよ。深き知性の海に住む古き猫の一族さ」
「深き知性の……何ですって?」
「<深き知性の海に住む古き猫の一族>だよ。古より様々な伝承や神話、おとぎばなしの中に登場する猫はすべて僕の仲間なんだ。ちなみに僕はかの不思議の国のアリスに出てくる高名なチェシャ猫の大学の後輩さ。もっとも彼は数学専攻で、僕は物理が専門だけどね」
「不思議の国のアリスって何?」
「それを説明するには時間が幾らあっても足りないな。物理学者は時間とは仲が良くないからね。ただ一つ言えることは、ここが様々な次元の合わさる所だということ……君は今、世界の果てにいるんだ。さて、そろそろ席を替わろうか?」
世界が暗転し、別の場所に変わる。
そこにはトトがいた。アイズはトトに近づくが、それは幻らしく触れることができない。
と、シュレディンガーとは別の声が響いた。
「現実とは不安定、不確定なもの……すべてはいずれ無に帰すものです。なのに貴女は、どうして生きるのですか? そんなに必死になる必要があるとは思えませんが……」
その声を聞いて、アイズは言った。
「たとえ世界が幻でも関係ないわ。大切なのは“何故生きるか”じゃない、“どう生きるか”よ。私は私の信じる生き方を貫くわ」
そしてシュレディンガーの方を見て言った。
「隠れてないで出てきなさい!」
すると、シュレディンガーの口を通して別の声が言った。
「やはり……貴女は強い人ですね」
シュレディンガーが大きく口を開く……どんどん膨れ上がる口は、やがて大きな穴となった。そしてすべてはシュレディンガーの口に飲み込まれ……アイズは再度別の空間へと辿りついた。
そこは取り立てて変わったところのない部屋で、中央にテーブルがあり、紅茶の用意がしてあった。椅子が3つ……1つは空席で、後の2つには眠るトトと一人の男が座っていた。
「僕はコープ……思考精神型生命体のコープです」
自己紹介の後、コープはアイズに椅子を勧めた。しばらく無言で紅茶を飲む二人。
「何故このような場所が存在するのか、そして僕達は何なのか……」
沈黙を破ったのはコープだった。
「疑問に思っているようですね」
「まあ……ね。疑問に思わない人はいないんじゃない?」
アイズが話を促す。
コープは紅茶をもう一口飲むと、ティーカップを置いた。
「とある科学者によると、人間に限らず動物や植物、果ては鉱物や自然現象に至るまで……すべてのものには精神があり、それらの精神の根底には大きな海のような場所があるのだそうです。僕達は、その『精神の海』に住まう者」
「それってつまり、貴方達は神様か何かだってこと?」
アイズの言葉に、コープは苦笑した。
「そう呼んだ人もいましたね。ですが、その呼び名は不適切です。確かに僕達は『世界の精神』に干渉することができます。しかし規模こそ比較になりませんが、周囲の精神に干渉する能力は人にも備わっているんですよ。あなたがたの世界で言うところの『魔法』がそれです」
「じゃあ、風を操ったり空を飛んだりするのは……」
「大気の精神と自らの精神を同調させているのでしょう。僕達の規模になれば、台風を発生させたり気流そのものを操作することさえ可能になりますが」
スケアの風の魔法を思い出し、なるほど、と頷くアイズ。
コープは続けた。
「しかし僕達も所詮は世界の一部です。僕達が世界を創造したわけではありません」
「……じゃあ、世界に宿る精霊みたいなものかしら」
「そのように思っていただければいいでしょう」
コープはにっこりと笑うと、話を続けた。
「正直なところ、何故存在しているのか、僕達自身にもわからないんですよ。今まで色々と考えてきましたが、おそらくは、世界の精神的均衡を保つ役割を果たしているのではないか……あるいは、無限に存在する世界同士を繋ぐ通信機のようなものなのかも知れません。もしかしたら、何処か別の世界で、僕の通信を受けて貴女のことをお話にしている人がいるかも知れませんね」
「……ヤなこと言わないでよ」
アイズは少し嫌そうな顔をした。
「で? その精霊が、私達に一体何の用なの?」
「今から32年前のことです。ヴァギア山脈中央の未開の地に探検隊がやってきました。しかしその時、ある事故によって一人の若い科学者を除いて探検隊は全滅してしまったのです。そして僕達はその科学者に興味を持ち、ここに彼を招いた……今の貴女と同じように」
話が読めずに訝しげな顔をしているアイズに、コープは語った。
「彼は天才でした。途方もない発想と創造力の持ち主でした。ほんの些細なきっかけで世界のすべてを理解し、再構成してしまうほどのね。彼がここで得た知識を用いて新たな命を創り出してみせたときには、僕達も感心したものですが……しかし、まさか彼女のようなものまで生み出してしまうとは思いませんでした」
「それってまさか……」
「そう、この少女の生みの親……後に世界的な科学者となるプライス博士のことですよ」
トトを見ながらコープは言った。
「彼の生み出したプライス・ドールズ……その最後にして最高傑作である彼女の精神は、『世界の精神』と直結しているんです。僕達と同じようにね」
「僕達には力があります。その気になれば世界中の生命の意志を操作することも、世界を支配する法則を捻じ曲げることすらもできる……しかし、その力を使うことは滅多にありません。何故なら、それは可能性を摘み取ることになるからです。貴女やプライス博士のような、僕達の予想を超えた『面白い意志』の可能性をね。彼女も自らの能力については薄々自覚しているのでしょう、滅多にその力を使うことはないようですが……彼女の力を狙う者がいる。ご存知ですね?」
アイズは頷いた。
「この世界の精神の海に住む者として、僕達は彼女の存在を見過ごすことはできません。彼女の存在はこの世界を崩壊の危機にさらしてしまうかもしれない。このまま彼女を永遠の眠りにつかせることも……」
その時、コープはアイズが物凄い目つきで睨んでいることに気がついた。
「……と、思っていたんですけどね。貴女に会うまでは」
コープは眼差しを和らげた。
「貴女達二人に興味が湧いてきたんですよ。貴女達がこの力をどのように使うのか見てみたい。それがどのような結果をもたらすことになるのかをね」
「それじゃあ、トトを目覚めさせてくれるの?」
「二人でここに留まるという方法もありますよ。どうです? 今までに体験したことのないような生活を提供できますが」
「……私は旅を続けるわ。勿論、トトと一緒にね」
アイズは席を立った。
「紅茶、おいしかったわ……ありがとう」
「やれやれ、振られてしまいましたか……ふふっ、やはり面白い。僕がその気になれば、貴女に心変わりをさせることもできるというのに……不思議とそんな気にならない」
コープはアイズに黒い宝石を渡した。それは独りでにアイズの手の中に沈み込み、右手の甲に半分埋め込まれた形で落ち着いた。
「彼女の力は、今まで私が封印していたのですが……それが解放の鍵です。使い方は、自分達で考えて下さい」
と、何処からか現れてコープの膝の上に飛び乗るシュレディンガー。
「コープ、ルール違反だよ。ちょっとサービスしすぎなんじゃないの?」
「……ま、よしとしましょうよ」
薄れゆく景色の中、アイズは質問をした。
「私達を狙ってるのって、やっぱりハイムなの?」
「その通りです。11年前にリードランス王国を滅ぼしたハイム共和国……貴女の生まれた国です。もっとも、彼等は国民に対してはその事実を隠してきたようですがね」
「どうして、ハイムがトトの力を狙うの?」
「それを説明するには少しばかり時間が足りませんね。数多くの人と国の歴史が複雑に絡み合った結果ですから……まぁ、いずれわかるときが来るでしょう。自分が何者なのかと問うことは、自分に至る歴史を問うことに繋がっていくわけですしね」
コープは更に続けた。
「ただ、これだけは言っておきましょう。あの国はただの独裁国家ではない。そう見せかけてはいますが、その裏に潜む者がいる。そうですね、それは僕達に近く……そして貴女の本当の敵となる……とも言っておきましょうか」
「敵……ね」
漠然としていて何が何だかわからない、と思ったが、アイズはそれ以上尋ねるのをやめておいた。これも『サービスしすぎ』なのだろう。
しかし、もう一つ……どうしても気になることがある。
「最後に聞きたいんだけど……トトの『歌』もコープと同じ力なのかな」
「半分はそうですし、半分はそうではありません」
コープは言った。
「歌は心の深さで決まるものです。彼女はプライス博士によってとても深い心を育まれている……良い歌は人の心を動かすものです」
「そうそう、歌はいいよね」
シュレディンガーが笑って言う。
「もし良かったら、今度君の歌を聴かせてよ」
気がつくと、アイズは森の底の川岸にいた。隣ではトトが眠っており、荷物を載せたボートが岩に繋がれて揺れている。そして手元には、猫の絵が描かれた紅茶の缶が一つ。
「紅茶、おいしかったわ……ってのは、少しヤなセリフだったかもね……でも、偉そうでヤな奴等!」
紅茶の缶を乱暴にボートの中に放り込む。
その時アイズは、コープとシュレディンガーの笑い声を聞いたような気がした。
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