森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

第5話

2009年04月29日 | マリオネット・シンフォニー
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「……ああ、聞こえているよシュレディンガー」




「美しい……そして大きな力を持った歌声だ。世界のすべてを揺さぶるほどに」




「そんな彼女を狙う者がいる。こちらも強い力だ」




「だが彼女は別次元の存在だ。彼女は『完全』に近い力を持っている……彼女自身も気づいてはいないだろうが、彼女の存在は世界そのものを揺るがしかねない」




「……ならば、僕達も微睡みから目覚めるべきだろう」




 何処かで猫の鳴き声がする。




第5話 不思議の国のアイズ


「カ……カルル姉様!?」 
「う、嘘だろ……? カルル姉ちゃんがこんな所にいるわけがない。だって、あの人は……あの人は……!」
 ネーナとグッドマンが驚愕に声を震わせる。
「貴女達の姉、カルル・ブロッサムは死んだと言いたいのね? でもお生憎様……私は生きているわ。この右手の能力……」
 カルルは唇を笑みの形に歪め、右手を地面についた。
「『分解』と共にね」
 次の瞬間、カルルを中心にして木組みの床が陥没した。


 アイズは理解した。彼女の能力が単純な『破壊』ではなく、物の構造を『分解』してしまうものであることを。その証拠に、威力の凄まじさの割には一つ一つの木材への損害はほとんどない。
「No.5『カルル』……その能力はあらゆる物理的結合を無効化するものだと聞いてはいましたが、まさかこれほどとは……」
「……いいえ、違います」
 コトブキの呟きに答えたのはトトだった。
「あの人の本来の能力にこれほどの力はありません。力を引き出している者がいるのです……彼女のすべてと引き換えに」
「トト?」
 アイズが振り向くと、トトは車の上に立ち、じっとカルルを見つめていた。
 その雰囲気は普段のものとはまるで違っていた。

 カルルは崩れた駐車場の上を悠然と歩いてくる。
「グッドマン! 姉様を止めて!」
 ネーナが叫ぶが、脚部を分解されたグッドマンには為す術もない。
 誰もが何もできずにいる内に、カルルはネーナの目の前にまで歩み寄る。
 とてもよく見知った顔が……同じプライス博士に生み出された姉妹として長い時間を共に過ごした者の顔がそこにはあった。
「ネーナ……久しぶりね」
「カルル姉様、どうして……」
 カルルは妖しく微笑むと、相変わらず感情の抜けたような、抑揚のない声で言った。
「貴女がここにいて良かったわ……さぁ、見ていなさい。世界が変わる瞬間をね」
「世界が変わる瞬間……? どういうこと、それは……」
 カルルはネーナの問いには答えず、トトに視線を向けた。
「貴女に会うのは初めてだったわね。私はカルル……貴女の姉よ」
「見え透いた嘘はやめて下さい」
 トトが冷たく言い放つ。
 カルルが酷薄な微笑みを浮かべる……と同時にトトに向かって右手を突き出した。カルルの前方からトトの足下にかけての地面が崩れていく。
 しかし、

「戻れ!」

 トトが短く叫んだ途端、地面が元に戻った。
『なるほど、この体じゃ勝てないか……』
 それまでとは明らかに異なる、幼い少女のような声がカルルの口から響く。
 カルルの背後に黒い影のような物が浮かび上がった。

「何がどうなってるの?」
 呆然としているアイズの隣で、支店長が呟く。
「凄いな……分解された物が元に戻っている」
「それって……」
「この世界の物理法則に反するということですね」
 コトブキは言った。

『プライス博士もおかしなことをするわ。これほどの力を生み出しておきながら……その力、渡してもらうわよ!』
 カルルの背後に揺らめく影から、凄まじい稲妻が迸る。
 稲妻はトトからも発生し、二人の間で衝突し渦を巻いた。

「あれは……エコーデリック!?」
 ルーカスの船の中で見た光景を思い出し、驚くアイズ。

『流石ねトト。純粋な力じゃ貴女には勝てそうもないわ』
 カルルは稲妻を放出しながら、ニッと唇の端を上げた。
『……でも、貴女以外の人はどうかしら?』
「なっ……!?」
 トトの一瞬の隙をついて、カルルの稲妻がアイズに襲いかかる。

「アイズさん!」
 トトはアイズを庇い、稲妻の直撃を受けた。

 ゆっくりとその場に倒れるトト。
「……ト……ト……?」
 アイズが地面に膝をつき、トトを抱きかかえて呆然と呟く。
『美しい友情ってやつかしら? ……さぁ、渡してもらうわよ』
 カルルが二人の前にまで歩み寄り、右腕を伸ばす。
 そのとき、唐突にトトが目を開いた。表情がガラリと変わり、カルルがそうであるのと同じように、トトの口から別の声が響く。

『いいえ、貴女のような子供には渡せないわ……エンデ』

 瞬間、カルルを含む3人を光が包み、一気に爆発した。
 そして光が消えた時、そこに3人の姿はなかった。

「……消えてしまった……」 
 3人が消えた場所に立ち、呟く支店長。
 そこにグッドマンが歩いてきた。
「まるで夢でも見ていたような気分だぜ」
「グッドマン君? ……脚は大丈夫なのか?」
「ああ、それがどういうわけか、治ってるんだよ」
 グッドマンは軽く飛び跳ねて見せた。
「信じられない……私達の治癒能力がいくら高いと言っても、こんなことは……」
「と言うか……何もかも元通りになっているように見えませんか?」
 ネーナに続いて、支店長が言う。
 カルルの右手によって陥没したはずの木組みの床が、いつの間にか元に戻っているのだ。
 このときは誰も気がつかなかったが、復元のレベルはカルルが襲撃してくる直前にまで及んでいた。カルル自身の手によって分解されたホールの舞台のみならず、アイズがつかまったときに外れたロープの留め金にいたるまで。
「……グッドマン君の言うように、まるですべてが夢だったように思えてきますね。あの二人の少女がいたということさえも……」
 支店長が夢から覚めたような口調で言う。
「いいえ、確かに彼女達はここにいましたよ」
 コトブキは言った。
「あの歌声は、我々の心の中に確かに残っているのですから……」

「いつかまた出会うその日まで……か」
 他の皆がホテルに戻った後、コトブキは一人、空の彼方を見て呟いていた。
「やれやれ……また長生きしなきゃならん理由ができたな」


 気がついたとき、アイズはまったく別の場所にいた。
 別の……しかし、とても見覚えのある場所に。
「……ここは……」
「アイズ? どうしたの、ぼんやりして」
「えっ?」
 呼びかけられて、アイズは気がついた。自分のすぐ後ろに母親がいることに。
 そこはハイムの家、アイズ専用の衣裳部屋だった。鏡に映る自分は豪奢なドレスを着ており、母親が後ろで髪を整えてくれている。
 アイズの様子に、母親はため息をつきながら言った。
「しっかりして頂戴ね。今日はあなたの14回目の誕生日なんだから」
「緊張しているのだろう。今日が本格的な社交界デビューだからな」
 部屋の戸口に立っていた父親が笑う。
 普段は仕事ばかりで会話のない父だが、口調も雰囲気も優しく穏やかだ。
「エリオット、貴方がそんなだからアイズがやる気を出してくれないのよ。同じ14歳で政府の要職に就いている子もいるって言うのに……」
「エリーナ」
 父親が優しく咎める。
「アイズはアイズだ。ゆっくりと育てばいい。そうだろう?」
 しぶしぶながら母親が頷く。父親は「そんなことより」とアイズを招いた。
「アイズの為に特別に作らせた物があるんだ」
 3人は屋敷の広間へと出た。見覚えのある大勢の顔が並び、今夜の主役の可愛らしい姿を見て感嘆の溜息をもらしている。
「さあ、あれを見て御覧」
 父親は広間の中央に置かれた布のかかった物を指差した。
 言われるままに見ていると、サッと布が取り外され……現れたのは、宝石をちりばめた水晶の像……アイズをモデルにして作られた物だった。幼さの残る顔立ち、大きな瞳、細い手足と長い髪……そう、あの頃はまだ長かった。
「アイズの今の姿を永遠に留めておきたくてね。どうだい? 気に入ったかい」

「ごめんなさい。私、あれは受け取れないわ」
 アイズは言った。父親が眉を潜める。
「どうしたんだい? パパのプレゼントが気に入らないかい?」
「アイズ、お父様に失礼でしょう?」
「そうじゃないわ」
 アイズは首を横に振った。
「昔の私は確かにこうだったわ。それに、これはこれで楽しかった……でも私は決めたの。ここから出て行くって……」
「アイズ? パパ達のことが嫌いなのかい?」
「嫌いじゃない。嫌いなんかじゃないよ。そうだってこと、旅に出てから気づいたわ」
 アイズは目に涙をためて両親を見た。
「……でも、私は……私はそれでも、まだここに戻る訳にはいかないの」

「だから、もう消えてよ。お願いだから!」

 アイズの周囲からすべてのものが消えた。
 父親も母親も、居並ぶ人々も屋敷も、すべて。
 そして、アイズは何処までも続く夜の海の上に立っていた。
 何処かに出ている月が波を明るく照らし、目に見えない床でもあるのだろうか、アイズの体は落ちることも濡れることもない。
「海? ……森の中にいたと思ったのに」

「すべての場所は海に繋がっているのさ」
 背後で声がした。
「森も山も、人の心も深く掘り下げれば海へと辿り着くことができる。そして、ここはそんな所だ」
 振り返ったアイズが見たものは意外な……いや、意外すぎるものだった。
 キャバレーの看板のような安っぽい電飾のついた月があり、その上に一匹の猫が寝そべっている。月を吊るしてあるワイヤーなんか見え見えだ。
 ただ、それが何処に繋がっているのか、いくら上を見てもわからない。
「ある物理学者が言ったそうだよ。振り返れば月がある……ってね」
「……貴方なの? あんな悪趣味な夢を見せたのは」
「いや、僕じゃないよ。それにしても流石だね、僕が喋ってるのを見ても驚かないなんて」
 感心しながら、猫は言った。
「僕はただ、彼の手助けをしているだけなんだ。実際、さっきのは僕も悪趣味だと思うよ。もっとも、君がこんなに早く出てこられるとは思わなかったけどね。多分、彼も驚いてるんじゃないかな?」
「彼って誰? ……っていうか、そもそも貴方は何なのよ?」
「僕は……そうだね、シュレディンガーとでも呼んでおくれよ。深き知性の海に住む古き猫の一族さ」
「深き知性の……何ですって?」
「<深き知性の海に住む古き猫の一族>だよ。古より様々な伝承や神話、おとぎばなしの中に登場する猫はすべて僕の仲間なんだ。ちなみに僕はかの不思議の国のアリスに出てくる高名なチェシャ猫の大学の後輩さ。もっとも彼は数学専攻で、僕は物理が専門だけどね」
「不思議の国のアリスって何?」
「それを説明するには時間が幾らあっても足りないな。物理学者は時間とは仲が良くないからね。ただ一つ言えることは、ここが様々な次元の合わさる所だということ……君は今、世界の果てにいるんだ。さて、そろそろ席を替わろうか?」

 世界が暗転し、別の場所に変わる。
 そこにはトトがいた。アイズはトトに近づくが、それは幻らしく触れることができない。
 と、シュレディンガーとは別の声が響いた。
「現実とは不安定、不確定なもの……すべてはいずれ無に帰すものです。なのに貴女は、どうして生きるのですか? そんなに必死になる必要があるとは思えませんが……」
 その声を聞いて、アイズは言った。
「たとえ世界が幻でも関係ないわ。大切なのは“何故生きるか”じゃない、“どう生きるか”よ。私は私の信じる生き方を貫くわ」
 そしてシュレディンガーの方を見て言った。
「隠れてないで出てきなさい!」
 すると、シュレディンガーの口を通して別の声が言った。
「やはり……貴女は強い人ですね」
 シュレディンガーが大きく口を開く……どんどん膨れ上がる口は、やがて大きな穴となった。そしてすべてはシュレディンガーの口に飲み込まれ……アイズは再度別の空間へと辿りついた。
 そこは取り立てて変わったところのない部屋で、中央にテーブルがあり、紅茶の用意がしてあった。椅子が3つ……1つは空席で、後の2つには眠るトトと一人の男が座っていた。
「僕はコープ……思考精神型生命体のコープです」

 自己紹介の後、コープはアイズに椅子を勧めた。しばらく無言で紅茶を飲む二人。
「何故このような場所が存在するのか、そして僕達は何なのか……」
 沈黙を破ったのはコープだった。
「疑問に思っているようですね」
「まあ……ね。疑問に思わない人はいないんじゃない?」
 アイズが話を促す。
 コープは紅茶をもう一口飲むと、ティーカップを置いた。
「とある科学者によると、人間に限らず動物や植物、果ては鉱物や自然現象に至るまで……すべてのものには精神があり、それらの精神の根底には大きな海のような場所があるのだそうです。僕達は、その『精神の海』に住まう者」
「それってつまり、貴方達は神様か何かだってこと?」
 アイズの言葉に、コープは苦笑した。
「そう呼んだ人もいましたね。ですが、その呼び名は不適切です。確かに僕達は『世界の精神』に干渉することができます。しかし規模こそ比較になりませんが、周囲の精神に干渉する能力は人にも備わっているんですよ。あなたがたの世界で言うところの『魔法』がそれです」
「じゃあ、風を操ったり空を飛んだりするのは……」
「大気の精神と自らの精神を同調させているのでしょう。僕達の規模になれば、台風を発生させたり気流そのものを操作することさえ可能になりますが」
 スケアの風の魔法を思い出し、なるほど、と頷くアイズ。
 コープは続けた。
「しかし僕達も所詮は世界の一部です。僕達が世界を創造したわけではありません」
「……じゃあ、世界に宿る精霊みたいなものかしら」
「そのように思っていただければいいでしょう」
 コープはにっこりと笑うと、話を続けた。
「正直なところ、何故存在しているのか、僕達自身にもわからないんですよ。今まで色々と考えてきましたが、おそらくは、世界の精神的均衡を保つ役割を果たしているのではないか……あるいは、無限に存在する世界同士を繋ぐ通信機のようなものなのかも知れません。もしかしたら、何処か別の世界で、僕の通信を受けて貴女のことをお話にしている人がいるかも知れませんね」
「……ヤなこと言わないでよ」
 アイズは少し嫌そうな顔をした。
「で? その精霊が、私達に一体何の用なの?」

「今から32年前のことです。ヴァギア山脈中央の未開の地に探検隊がやってきました。しかしその時、ある事故によって一人の若い科学者を除いて探検隊は全滅してしまったのです。そして僕達はその科学者に興味を持ち、ここに彼を招いた……今の貴女と同じように」
 話が読めずに訝しげな顔をしているアイズに、コープは語った。
「彼は天才でした。途方もない発想と創造力の持ち主でした。ほんの些細なきっかけで世界のすべてを理解し、再構成してしまうほどのね。彼がここで得た知識を用いて新たな命を創り出してみせたときには、僕達も感心したものですが……しかし、まさか彼女のようなものまで生み出してしまうとは思いませんでした」
「それってまさか……」
「そう、この少女の生みの親……後に世界的な科学者となるプライス博士のことですよ」
 トトを見ながらコープは言った。
「彼の生み出したプライス・ドールズ……その最後にして最高傑作である彼女の精神は、『世界の精神』と直結しているんです。僕達と同じようにね」

「僕達には力があります。その気になれば世界中の生命の意志を操作することも、世界を支配する法則を捻じ曲げることすらもできる……しかし、その力を使うことは滅多にありません。何故なら、それは可能性を摘み取ることになるからです。貴女やプライス博士のような、僕達の予想を超えた『面白い意志』の可能性をね。彼女も自らの能力については薄々自覚しているのでしょう、滅多にその力を使うことはないようですが……彼女の力を狙う者がいる。ご存知ですね?」
 アイズは頷いた。
「この世界の精神の海に住む者として、僕達は彼女の存在を見過ごすことはできません。彼女の存在はこの世界を崩壊の危機にさらしてしまうかもしれない。このまま彼女を永遠の眠りにつかせることも……」
 その時、コープはアイズが物凄い目つきで睨んでいることに気がついた。
「……と、思っていたんですけどね。貴女に会うまでは」
 コープは眼差しを和らげた。
「貴女達二人に興味が湧いてきたんですよ。貴女達がこの力をどのように使うのか見てみたい。それがどのような結果をもたらすことになるのかをね」
「それじゃあ、トトを目覚めさせてくれるの?」
「二人でここに留まるという方法もありますよ。どうです? 今までに体験したことのないような生活を提供できますが」
「……私は旅を続けるわ。勿論、トトと一緒にね」
 アイズは席を立った。
「紅茶、おいしかったわ……ありがとう」
「やれやれ、振られてしまいましたか……ふふっ、やはり面白い。僕がその気になれば、貴女に心変わりをさせることもできるというのに……不思議とそんな気にならない」
 コープはアイズに黒い宝石を渡した。それは独りでにアイズの手の中に沈み込み、右手の甲に半分埋め込まれた形で落ち着いた。
「彼女の力は、今まで私が封印していたのですが……それが解放の鍵です。使い方は、自分達で考えて下さい」
 と、何処からか現れてコープの膝の上に飛び乗るシュレディンガー。
「コープ、ルール違反だよ。ちょっとサービスしすぎなんじゃないの?」
「……ま、よしとしましょうよ」

 薄れゆく景色の中、アイズは質問をした。
「私達を狙ってるのって、やっぱりハイムなの?」
「その通りです。11年前にリードランス王国を滅ぼしたハイム共和国……貴女の生まれた国です。もっとも、彼等は国民に対してはその事実を隠してきたようですがね」
「どうして、ハイムがトトの力を狙うの?」
「それを説明するには少しばかり時間が足りませんね。数多くの人と国の歴史が複雑に絡み合った結果ですから……まぁ、いずれわかるときが来るでしょう。自分が何者なのかと問うことは、自分に至る歴史を問うことに繋がっていくわけですしね」
 コープは更に続けた。
「ただ、これだけは言っておきましょう。あの国はただの独裁国家ではない。そう見せかけてはいますが、その裏に潜む者がいる。そうですね、それは僕達に近く……そして貴女の本当の敵となる……とも言っておきましょうか」
「敵……ね」
 漠然としていて何が何だかわからない、と思ったが、アイズはそれ以上尋ねるのをやめておいた。これも『サービスしすぎ』なのだろう。
 しかし、もう一つ……どうしても気になることがある。
「最後に聞きたいんだけど……トトの『歌』もコープと同じ力なのかな」
「半分はそうですし、半分はそうではありません」
 コープは言った。
「歌は心の深さで決まるものです。彼女はプライス博士によってとても深い心を育まれている……良い歌は人の心を動かすものです」
「そうそう、歌はいいよね」
 シュレディンガーが笑って言う。
「もし良かったら、今度君の歌を聴かせてよ」

 気がつくと、アイズは森の底の川岸にいた。隣ではトトが眠っており、荷物を載せたボートが岩に繋がれて揺れている。そして手元には、猫の絵が描かれた紅茶の缶が一つ。
「紅茶、おいしかったわ……ってのは、少しヤなセリフだったかもね……でも、偉そうでヤな奴等!」
 紅茶の缶を乱暴にボートの中に放り込む。
 その時アイズは、コープとシュレディンガーの笑い声を聞いたような気がした。


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2009年04月25日 | Weblog
 何気なくgooブログランキングを見てみて吃驚。
 当ブログがランキングに入っていました。
 といっても、9736位/1217779ブログですが。
  ※gooブログのランキングは上位10000件以外は非表示

 ランキング入りを果たしたのは4月22日だけで、すぐにまた非表示に戻ってしまいましたけれど。
 このまま順調に読者さんが増えてくれれば、今後もマリオネット・シンフォニーの更新日くらいはランキング入りできそうです。

第4話

2009年04月22日 | マリオネット・シンフォニー
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 静寂に包まれていた会場内に、ピアノの美しい旋律が響き渡った。
 そこに一つの歌声が重なり、複雑で繊細なハーモニーを紡ぎ出してゆく。
 ホールに集まった観客は皆、可憐な歌姫の歌声に聴き惚れた。
 一人の少女……トトの歌声に。

 曲調が一転してアップテンポの曲になった。
 トトが舞台の上でクルリと回転し、頭の上で手拍子を打つ。
 途端、それまで無言で聴き入っていた観客が沸き上がった。まるでトトの指先でスイッチが切り替わったかのように。
 彼女の歌声が天を舞い、地を駆け巡る。
 その度に、ホールの中には割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
「ありがとうございます、皆さん……では次の曲です」
 興奮に軽く上気した顔で、トトは言った。

「相変わらず、トト君の歌は素晴らしいですな」
「……そうね」
 コントロール室で会場の様子を眺めながら、アイズは頷いた。
 すぐ隣ではコトブキが照明や音量を調節している。隅のほうではグッドマンが酒を飲んでおり、支店長とネーナは舞台袖だ。
 そしてトトは……ステージの上で数百人の観客の視線を浴びながら、堂々と、楽しげに歌っている。
「トト、輝いてるなあ」
 アイズは少し複雑な気持ちで呟いた。

 ここで話は少し遡る。


第4話 『分解』のカルル


 4日前。

「凄いね~、このホテル」
 広々とした浴槽に浸かりながら、アイズは言った。
 トゥリ-トップホテル・ヴァギア支店は、大樹の内部をくり抜いて造られた正真正銘『総天然素材』のホテルだ。そしてアイズ達にあてがわれた部屋は、最高級のスィートルーム……この大きな浴室がついている部屋だった。


 浴室の大きな窓からは、何百、何千もの木々の葉が風にそよいでいるのが見える。
 つい先程まで浮浪者同然の姿でいたことが夢のようだ。
「国にいた時、ここのことを聞いたことがあるよ。超一流のホテルだって。トトのお姉さんって、こんな所に務めてたんだね」
「そうですね……」
 トトが気のない口調で答える。
「……さっき言われたこと、考えてるの?」
 少しムッとしながら、アイズは尋ねた。

 ことの起こりは昼間、ネーナとグッドマンに出会ってから間もなくのこと。
「歌を、歌ってくれませんか?」
 案内されるままに通された部屋で二人を待っていたのは、支店長からトトへのディナーショー出演依頼だった。
「私からもお願いするわ。今ちょっと大変なことになってるのよ」
「大変なこと?」
「ええ、土壇場でライバルホテルにゲストを引き抜かれちゃってね。一応別のゲストの手配はしたんだけど、どうしても間に合わせ程度の人達しか空きがなくって……」
 ネーナが困った顔で言う。
 トトは少し考えていたが、すぐににっこりと微笑み、言ったのだった。
「そういうことでしたら……はい、是非歌わせて下さい」

「はっきり言って私は反対よ。そりゃあ、私だってトトの歌は好きだし、それを沢山の人に聴いてもらうのはいいことだと思うわ。でも、トトは追われてるんだよ? それも……」
 トトを追っているのが自分の国であることを思い出し、アイズは口籠った。
「とにかく、私はホテルのショーに出るのには反対だからね」
「……私、アイズさんには本当に感謝してます」
 浴槽の湯を手のひらにすくい、トトが呟く。
「でもこれだけは譲れません。『歌』はお父様が私に与えてくださった力なのですから……私はお父様の娘として、自分の生き方を貫きます」
「与えられた力ってさあ、それって勝手に押しつけられたものじゃないの? そんなものに律儀に従うことはないよ」
「そんなことはありません」
 トトは強い口調で答えた。
「この力は……私達に与えられた力は、それぞれが人と共に生きてゆく為の手助けとしてお父様が贈ってくれたものです。お父様は言いました。自らの力を活かし誰かの為になることをせよ、それが自らの道をも照らし出すことになるのだから、と……私はお父様の言葉を信じます」
「そんなものかな?」
「そうですよ。親が子供に何かを与えるのは当然のことじゃないですか。私達の場合は、それが少し他の人達と違っているだけですよ」
「そんなに親のことが信じられるなんて、うらやましいわ」
 アイズは小さく呟いた。

 トトがディナーショーに出演するようになって以来、ホテルの集客数は日を追うごとに増していった。
 それはトトの実力の証でもあったし、初日の料金を無料にして誰でも入れるようにしたり、スピーカーを使ってトトの歌をホテルの外にまで流すという支店長の経営戦術が功を奏した結果でもあった。
 そして今。
 4日目を迎えたトトのコンサートは、クライマックスを迎えつつあった。

「もしかしたら私、トトに嫉妬してるのかもしれない」
「嫉妬……ですか?」
 アイズの呟きを耳に止めて、コトブキが振り向いた。
「ああ、そりゃ仕方ないな。うちの妹の方が可愛いもんな」
 グッドマンの言葉を無視して、アイズは言った。
「出会ってから少ししか経ってないけど、私、トトのことを可愛いだけの弱い子だと思ってた。でも、本当はあの子のほうがずっと多くの物を持ってたんだよね。自分の存在を示すことのできる能力ってやつを……」
「それに優しい兄弟も揃ってるぜ?」
「……そうね……」
「おいおい、しょぼくれた声を出すなよ。お前らしくもない」
 自分で茶化しておいて、少し慌てた様子でグッドマンがフォローを入れる。
「才能や能力は人から与えられるものではありませんよ」
 コトブキが言った。
「それらは自らの手で見つけ出し、育んでゆくものです。ただ、それは自分一人の力だけでできることでもない。誰かの協力が必要です。親や兄弟……そして友人などのね」
「…………」
 黙ってしまったアイズを見て、コトブキは微笑んだ。
「大丈夫、友人の実力を認められるならば自分の力にも気づくことができますよ。貴女にもきっと何かがある。今は眠っている才能がね」
「私の才能……どんな才能なのかな」
「サバイバルの才能じゃねえか? どんな所でも生きていけそうだぜ、お前」
「……それ、ありそうで嫌だ」
 懲りずに茶化すグッドマンの言葉に、少し嫌そうな顔をするアイズ。
「昔、貴女によく似た人に会ったことがありますよ。とても才能に溢れた……素晴らしい人でした」
 コトブキの苦笑混じりの言葉に、アイズは膨れっ面で呟いた。
「私はそんな人とは違うよ」

 やがてディナーショーはクライマックスを迎え、割れるような拍手と共にステージが終わった。
 舞台袖から出てきた支店長とネーナが、ホテルを代表してトトに花束を渡している。
 アイズは汗だくになりながらも嬉しそうに微笑んでいるトトをじっと見つめていたが、ふとあることに気がついた。
 数人の人影が、客席の隙間をすり抜けてステージに近づいていく。
 それらの人影は、皆一様に白いマントを身にまとっていた。
「……あいつらだ」

 暗闇の中、幼い少女が両手をコントロールパネルの上にかざす。
「どんな歌にも終わりは訪れるもの……」
 クスクスと笑う幼女の指先が、ぼうっと白い光に包まれる。
「このステージにアンコールはいらないわ」
 途端、幼女の背後に聳える巨大なコンピューターが動き出した。

 終わることのないアンコールに応じて、トトは再び舞台の中央に立った。
 割れんばかりの歓声が響き、トトが手を振る。
 そしてバンドが演奏を始めようとした時、トトの胸に付けられた連絡用の小型通信機からアイズの声が響いた。
『トト! そこから逃げて!』
 瞬間。
 白いマントの男達が、舞台のトトに向かって襲い掛かった。

「ええい、間に合え!」
 アイズは咄嗟にコントロール室のパネルを操作した。
 舞台の上に取りつけられていたライトが落下し、一人の男を押し潰す。
 それに他の者が気を取られた隙に、舞台袖にいた支店長とネーナがトトを連れて逃げ出した。
 そして、アイズもコントロール室を飛び出していた。

「やるなぁ、あいつ」
 グッドマンが感心の口笛を吹く。
「呑気にしている場合ではないだろう」
 コトブキが呆れたように言った。
「早く行ってやりたまえ。それが君の仕事だろう?」
「言われなくても……」
 酒瓶を宅の上に置き、グッドマンは立ち上がった。
「わかってるさ」

 トトを連れて舞台から降りようとした支店長とネーナは、白いマントの女に行く手を遮られていた。
「歌姫を頂きましょうか? ホテルマンさん」
 女が無感情な声で言う。
 支店長は周囲を見回した。このような事態を想定して雇った大勢の優秀な警備員が、マントの男達と戦っている。しかし、まるで歯が立っていない。
「いい部下を持っているみたいね」
 支店長の心理を看破して、女は薄く微笑み、右手を突き出した。
 その右手がぼんやりと光る。

 と、その時。

「どいてどいて~っ!」
 何故かロープに掴まったアイズが落ちてきて、女にぶつかった。

 コントロールルームは会場全体を見下ろせる高い位置にあった。
 普通は下に降りるには階段を使うのだが、急いでいたアイズは窓の外に垂れ下がっていたロープで滑り降りようとした。
 ……が、実はそれは天井に仮止めしてあっただけで、ロープの端はステージの真上の枝に括りつけられていた。
 アイズの体重がかかった途端、仮止めの金具が外れてしまったのだ。
 そしてアイズは空中ブランコに乗ったように、ステージ中央に運ばれることになってしまった。

「いたたたた……」
「アイズさん! 大丈夫ですか!?」
「あー、大丈夫大丈夫。私身体だけは丈夫だから」
 慌てて駆け寄ってきたトトに笑って応えると、トトは涙ぐんで飛びついてきた。
「ごめんなさい……ごめんなさい! 私、周りの人に迷惑が掛かるってこと何も考えてなかったんです! 私が歌ったらこうなることくらい、わかってたはずなのに、私……!」
「トトが悪いんじゃないよ。トトは自分にできることを精一杯やっただけでしょ? 悪いのはあいつらよ」
 アイズはマントの女の方を睨みつけた。

 マントの女はたいしてダメージを負った様子もなく、立ち上がった。
「よくも邪魔をしてくれたわね……貴女は誰なのかしら?」
「答える必要なんてないわ。そっちこそ何者なのよ」
 アイズが気丈に訊き返す。
 と、
「おおよそのことはわかっているわ」
 ネーナが進み出た。
「ハイムの手の者でしょう? リードランスの次は、このフェルマータをも狙っているということかしら」
「半分正解ってところね。でも今日の目的はその子だけ……ネーナ、貴女にしては不正確で感情的な分析ね」
 相変わらず無感情な声で女が言う。
 だが『ネーナ』と呼ばれた瞬間、ネーナは不思議な感覚に襲われた。この声……何処かで聞いたことがある。
 いつ? 何処で……? とてもよく知っている声のような気がするのに、どうしても思い出せない。
「……貴女……誰?」

 その時。
 空を切り裂く音が響き、マントの男達が吹き飛んだ。
「何だ!?」
 マントの女が驚いて周囲を見回す。
 瞬間、空を切る音と共に『何か』がマントの女と交錯し、今度は彼女が舞台の端に叩きつけられた。
「な、何!?」
「もう、来るのが遅いわよ!」
 驚くアイズを尻目に、ネーナが不機嫌な声を上げる。
「どうせまた正義の味方気取りでかっこいい登場シーンを狙ってたんでしょう!」
「ひでーや姉ちゃん、今から決め台詞を言おうとしたのによ~!」
 情けない声と共にステージに舞い降りたのは……。
「グッドマン!」
「おう、待たせたなトト、アイズ! 後は俺に任せな!」
 待ってましたとばかりに格好をつけて、グッドマンが気障ったらしい台詞を吐く。
 しかし、アイズはそんな言葉を聞いてはいなかった。
「まだ終わってないわ!」
 アイズが叫んだと同時に、再び立ち上がった女の右手がステージの床に触れる。
 瞬間、幼い少女のような笑い声が辺りに響いたかと思うと、ステージが一瞬にして崩壊した。

「あっちゃ~、ステージが滅茶苦茶だ」
 完全に陥没し、もうもうと立ち昇る木屑によって覆われたステージを空中から見下ろして、グッドマンが言った。
 グッドマンの周囲には、中途半端な姿勢で浮遊するアイズ達の姿があった。舞台が崩れた瞬間、グッドマンがその場にいた全員を『能力』で連れて空中に避難したのだ。
「ああ、何ヶ月もかけて彫り抜いた舞台が……」
 支店長が青い顔でうめき、
「あんなに大きな舞台を一瞬で破壊するなんて、何て力……」
「あの人……私達を追って来たんです。とても嫌な感じがする」
 アイズとトトが顔を見合わせる。
「グッドマン、早くトト達を安全な場所に誘導して!」
 舞台を見つめていたネーナは、鋭い声でグッドマンに言った。
「なんだよ姉ちゃん、そんな深刻な声を出して……言われなくても今から」
「グズグズしないで! いいから早く脱出するのよ、私の分析が間違っていなければ、これは……!」
 瞬間、煙を突き破ってマントの女が五人に襲い掛かった。

 グッドマンが速度を上げ、女の攻撃を避けてホールから飛び出る。
 しかし余りに速度を上げると、ネーナやトトはともかく普通の人間である支店長やアイズに過剰の負担がかかる。
 そのことに気づいたグッドマンの一瞬のためらいが、続く女の攻撃を避ける余裕を彼から奪った。

 女のぼんやりと輝く右手がグッドマンに襲い掛かる。
 アイズがもうダメかと思った瞬間、何かの塊が女を弾き飛ばした。
 その隙にグッドマンはアイズ達を着地させ、女を追って再度飛翔した。

「助かりましたよ、コトブキさん」
 支店長は言った。
 そこには水圧消化器のホースを抱えたコトブキが立っていた。
 この辺りで最も恐いのは火災だ。実際には木が水分を含んでいるので火災は起こりにくいのだが、乾燥期には危険も増す。そこでホテルに常備されているのがこの消化器……大型消防車級の圧力で水の塊を噴出できる装置なのだ。
「ご無事で何よりです、支店長。他のお客様の避難に少し手間取り駆けつけるのが遅れてしまい、申し訳ありません」
「とんでもない。助かりましたよコトブキさん、よくやってくれました」
 コトブキは軽く一礼すると、消火器を床に置いて言った。
「アイズさん、トトさん。脱出用の車を用意しました。こちらへ」

 グッドマンはいつになく静かに立っていた。
 前方には長いマントを翻しながら女が立っている。未だにフードに覆われているので顔は見えないが、相変わらずほっそりとした右手だけはマントから突き出ている。
 相手の攻撃方法は右手による直接攻撃だ。破壊力は凄まじいが、攻撃パターンは単調……勝機は充分にある。
 だが。
「右手による破壊能力……か」
 グッドマンはこれとよく似た力を知っていた。
 とても、よく知っている力だ。
 と、
「貴方と戦う気はないわ、グッドマン……」
「何?」
 瞬間、マントの女が床を蹴った。
 襲い来る右手をかわし、グッドマンが上空に逃れる。
 すると女はグッドマンには構わず、そのままアイズ達のいる方向に向かって走り出した。

「しまった!」

 駐車場にアイズ達の姿を見つけ、マントの女がニッと微笑む。
 次の瞬間、グッドマンが背後から追い越し、女の正面に降り立った。マントの女が右手を振り上げる。
 危険な輝きに包まれた右手が身体に触れる直前、グッドマンは自らの飛行能力――周囲の空間を歪める力――を全力全開で発動させた。
 まるで竜巻に巻き込まれた布切れのように、突っ込んできた女が回転し、弾き飛ばされる。
「とどめだ!」
 グッドマンは膝をついた女に向かって飛翔した。女は右手を地面についている。あの右手が地面を離れる前に蹴りを放てばこちらの勝ちだ。
 だが、グッドマンは見てしまった。
 立ち上がりかけた女の顔からフードが外れるのを……そして、その素顔を。
 グッドマンの表情に、信じられないものを見た恐怖が浮かび上がった。

「この道をまっすぐに行けば森林地帯の裏側へと抜けられます。途中まで同行いたしますので、詳しいことは車の中で」
 コトブキの言葉にアイズは頷いた。
「わかったわ。……本当にありがとう、コトブキさん。このホテルの人は皆いい人ね」
「伊達に一流と呼ばれている訳ではありませんからね」
 支店長がにっこりと笑う。
 その時、ネーナの叫び声が上がった。

 振り返ると、そこにはグッドマンの姿があった。
 右脚から腰にかけて、機械組織で構成された身体をバラバラに砕かれたグッドマンの姿が。

 彼の前には、白いマントの女が立っている。
 フードの奥に隠れていたのは、長く艶やかな黒髪……そして左半分が無惨に焼け爛れた、恐ろしくも美しい女性の素顔。

 ネーナが引き攣った悲鳴を上げた。




「カ……カルル姉様!?」




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第3話

2009年04月15日 | マリオネット・シンフォニー
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 風が、闇を裂いた。
 ズンッ、と鈍い音が響き、辺りに静寂が訪れる。
 激しく痙攣するようにもがいていた男の身体が、やがてゆっくりと動きを止めたのを確認し、スケアは男の身体から腕を引き抜いた。
「……さあ、行きましょう。ここにいると危険です」
 しかし、返事はない。
 スケアは顔を上げ、目を覚ましたような表情を見せた。
 トトが目を閉じ身体を小さくして、アイズの胸にしがみついて震えている。アイズはトトを庇うように抱きしめ、スケアから一定の距離をとり明らかな警戒の眼差しを向けている。
 スケアは自分の腕に目を落とした。
「……また……やってしまいましたね」
 数々の男達の身体を貫き、大量の液体にまみれた腕。床には己の操る風に全身を切り裂かれ、あるいはこの手に貫かれ叩き潰された者達の残骸が散らばっている。
「時代が変わり、どんなに月日が流れても、戦いに歓喜する私の心は変わらない……」
 スケアは小さく微笑み、心の中で呟いた。

 あれから11年……私はいつになれば、この終わりのない戦争から逃れることができるのですか……?








 教えて下さい……アインス。








第3話 歌唄いの少女


 大マスト地下での戦いは呆気なく終わった。
 襲いかかってきた男達はスケアの放つ風の刃に切り裂かれ、あるいはスケア自身の手で貫かれ叩き潰された。
 その傷口から吹き出たのは血ではなく粘つく油のような液体、中にあったのは肉ではなくパイプや金属部品だった。
「……スケアさん、貴方は一体何者なの? それに、こいつらは……」
 油断なく身構えながら、アイズが尋ねる。
「人にあらざるもの……自らの意志を持たず、ただ使役されるだけの哀れな操り人形達です」
 スケアは自嘲するように呟くと、表情を引き締めて言った。
「すべて説明してさし上げたいのですが、今は時間がありません。とにかく、ここから逃げましょう」
「敵は片付けたんじゃないの?」
「……いいえ」
 スケアは身体の周囲に風を集め始めた。
「まだ終わりではありません」

 その時、一人の女が微笑んだ。
 白いマントに身を包んだその女は、人形の様に空ろな目を微笑みの形に細め、大マストのメインシャフトに触れた。
 月明かりのない夜の町に、幼い少女のような笑い声が響く。
 瞬間、メインシャフトは崩壊した。

 メインシャフトの崩壊と共に、轟音と残骸を撒き散らし、大マストそのものが崩壊してゆく。
 そんな中、雨のように降りそそぐ破片をスケアの風で吹き飛ばしながら、アイズ達は脱出に成功していた。
「危なかったわね!」
 片腕を眼前に掲げて砂埃を遮りながら、アイズが叫ぶ。
「まだ終わりではないようです!」
 スケアの言葉を待っていたかのように、アイズ達の周囲に凄まじい人数のマントの男達が現れる。スケアはアイズとトトを抱えると、跳躍して男達から距離を取り、近くにあった車のそばに着地した。
「お願いしますアイズさん、彼女を連れて町を脱出して下さい! 北に進めば私の仲間と合流できるはずです!」
「でもこの車、鍵がかかってるわ!」
 スケアは無言でドアを引きちぎると、ボンネットを腕で貫きエンジンをかけた。
「さあ、早く!」

 アイズとトトを乗せた車は、大マストを失って騒然とする町を突っ切り、北に向かった。
 その時、アイズは重要なことを思い出した。この町は空中に浮かんでいるのだ。
 200年代に入って急速に科学技術が発展し続けている現在、大抵の車は路面状況に左右されることのない浮遊機構を備えていたが、空が飛べるわけではない。下は砂漠だし、アステルの風に包まれている状態だから落ちても死ぬことはないだろうが、それでもやっぱり恐いものは恐い。
「だからって、迷ってる暇はないよね……行くわよ!」
 自らを奮い立たせるように声をかけ、更にスピードを上げる。
 トトはそれまで無言でアイズの体にしがみついていたが、ふと何かに気づいて声を上げた。
「いけません、そっちに行ってはいけません! そこには……います!」
 次の瞬間、前方の地面に亀裂が走り、岩盤が車ごと突き上げられた。
 白い人影が地面の中から飛び出し、アイズ達の車に迫る。

『ダメぇっ!』

 トトが叫んだ。アイズの頭に直接響いてきた、あの声で。
 途端、一陣の突風が吹き抜け、周囲の空間から泡が吹き出した。
 アイズは知らなかったが、それはアステルの風の第二波。そして、空気と水とが再度分離を開始する瞬間だった。
 泡の勢いは加速度的に増し、すべてを飲み込む上昇気流となる。

「アイズさん!」
 追っ手を全滅させ、追いついてきたスケアは見た。分離する空気と水が巨大な竜巻となり、アイズ達の乗った車を巻き込む瞬間を。
 車はまるで天の意志に導かれるように上空へと消えた。
「なんということだ……!」
 その時、町が大きく揺れた。
 大マストの崩壊と同時に、町を空中に安定させていたコントロールシステムまでもが崩壊したのだ。加えてこの気流の乱れ……このままでは町そのものが大地に激突し、壊滅してしまいかねない。
「……アイズさん……どうか、彼女をよろしくお願いします」
 祈るように呟き、スケアは両腕を広げた。

 刹那、風が変わった。

 白いマントの女は竜巻に吹き飛ばされ、少し離れた建物の上に着地していた。
 身体の具合を確かめるように、腕を伸ばしたり、上体を反らしたりする。
「あーもう、扱いづらいなあ」
 女の口から、外見とは不釣り合いな幼女のような声が漏れた。
「アステルの風のせいね、きっと……ここは動きにくいわ。それがわかっててトトをここに隠したのね」
 女は不機嫌そうに呟いていたが、ふと風の流れが変わったことに気づいて顔を上げた。


 この空中に浮かぶ町全体が、一つの巨大な風の流れに覆われている。まるで町を守るように、バランスを保ち、ゆっくりと地上に導く風……その風の中心に一人の青年の姿を見つけ、女は口笛を吹いた。
「やるぅ。……ん~、今ならスケアを殺すのは簡単だけど、この風が止まるとこっちも危ないなぁ」
 女はやれやれと溜息をつくと、
「かと言って、この風じゃ外には出られないし……仕方ない、しばらくおとなしくしてようっと」
 その場から姿を消した。

 一時間後。
 空気と水は完全に分離し、町は無事海面に着水した。

 翌朝。
「アイズさん。起きて下さい、アイズさん!」
「う……ん、もう少し……って……えっ!?」
 眠い目を擦りながら目を開いたアイズは、目の前で絶世の美少女が大きな瞳を潤ませていることに気づいて飛び起きた。
「こ、ここは?」
「よかった……大丈夫なんですね……!」
 状況を把握しきれていないアイズに抱きつき、泣きじゃくるトト。

「へぇ……じゃあ貴女、人間じゃないんだ」
 しばらくの後、アイズは車を点検しながらトトと話をしていた。
「はい。私はプライス・ドールズNo.24『トト』……お父様のことは御存知ですよね?」
「悪いんだけど、知らないわ」
 トトは目を丸くした。
「御存知ないんですか? 世界でも五本の指に数えられる科学者ですよ?」
「どうも私は、その世界ってのを知らないらしくてね」
「……えっと、えっと、えっと……」
「そんなに悩まなくてもいいわよ」
 何と説明しようかと頭を抱えているトトを見て、アイズは微笑んだ。
 アイズ達の乗った車は延々と続く穀物畑の中に落ちていた。
 車に積んであった地図で見てみると、港町から砂漠を越え、低い山脈を挟んで更に北に大穀倉地帯があると記されている。
 アイズは自分達の移動距離が100kmを超えていること、車の何処にも損傷が見られないことに驚いたが、それは竜巻が車を運び、車の浮遊機構がクッションの役割を果たしたのだと思うことにした。
 世の中には自分の常識では計り知れない現象が数多く存在する。旅に出てわずか数日ではあったが、アイズはそのことを身に染みて理解していた。
 だからアイズは、車の周囲の地面が大きく抉れていることについても深く考えることをやめた。考えてもわからないものはわからないのだから。
 それはとても大きな手が車を運び、置いていった跡の様に見えた。
「よし、点検おしまい! さて、これからどうしよっかなぁ」
 車にもたれかかって、アイズは苦笑した。
「実はさ、貴女に会うことが旅の最初の目的だったのよ。だからこの先、何処に行けばいいのかわからないのよね」
「……あの」
 トトはおずおずと提案した。
「でしたら、お父様を探すのを手伝っていただけませんか? 私一人では心細いですし……」
「うん、それはいいけどさ。お父さん……プライス博士だっけ? 行き先に心当たりでもあるの?」
「いえ……でも、他の兄姉に会えばわかるかも知れません。ほとんどの方はお父様の元を離れて暮らしていますし、私はあまり会ったことはないのですが……」
 トトは地図の上の一点を指差した。
「ここに一人、姉がいるそうです」
 大穀倉地帯の更に北に連なる、長大な山脈の一端。
 そこにはヴァギア山脈森林地帯と書かれていた。

「お父様は生涯の課題として、人間を超える存在の創造に着手しました。今までに生み出されたプライス・ドールズは24人。私はお父様の最後の作品なんです。それがどうやら、悪い人達に狙われたらしくて……お父様は私をあの場所に隠し、御自分も身を隠されたんです」
 車を北に走らせながら、アイズは更にトトから話を聞いていた。
 プライス・ドールズとはプライス博士が手がけた“人の形をしたモノ”すべてを指す呼称であり、その特性は個体によって様々だという。全身を機械で構成された者もいれば、機械体と有機体の両方で構成された者、有機体のみで構成された者もいるそうだ。
 唯一つ、すべてのドールズに共通するのが、人を超えた能力を有しているということ。
「ドールズ……の人って、みんな凄い能力を持ってるの?」
「はい。私達は皆それぞれに、お父様から特別な能力を与えられています。基本的な身体能力も、個人差はありますが、並の人間の比ではありません。あの高名なリードランスの円卓騎士に匹敵する方もいます」
「またリードランスか……」
「何か?」
「ううん、こっちの話よ。ところでさぁ」
 アイズは尋ねた。
「トト達を追っていた悪い人って、どういう奴らなの?」
「詳しいことは知りませんが、お父様はよくハイムという言葉を口にしていらっしゃいました。国の名前みたいなんですけど……ご存知ですか?」
「……まあ、知ってるかな」
 アイズは曖昧に答えた。

 翌日、二人はヴァギア山脈森林地帯に到着した。
 そこは巨大な死火山のカルデラに広がる森林地帯だった。生息する樹木は大きなもので直径百メートルにも及び、樹高も高層ビル級のものが立ち並んでいる。
 樹木の内部は空洞になっており、人々はこの空間を居住区として、逞しく張り出した枝を道として利用していた。
 配られていたパンフレットによると、特殊な景観と緑の豊富さもあって、大陸有数の観光地なのだという。樹木が階層状に積み重なって形成された森は奥に進むにしたがって深さを増し、中央部の底を見た者はいないそうだ。

「で、そのお姉さんは何処にいるわけ?」
 森のレストランで一日ぶりの食事をとりながら、アイズは尋ねた。
「さあ?」
「さあって……」
「私も話を聞いただけですので……」
「顔はわからないの?」
「多分、見れば何となくわかるんじゃないでしょうか。24人しかいない姉妹なんですから」
「……普通24人もいないわよ」
 呟きながら、アイズは財布の中を覗き、溜息をついた。
 アイズの所持金は底をつきかけていた。一昨日の夜、トトの歌声を聞いて港町のレストランから駆け出したとき、荷物を置き忘れてきたのがまずかった。おかげでこの町についてから、旅(というか生活)に必要な道具を再度買い揃える羽目になってしまったのだ。
 このままでは数日と待たずに路頭に迷うことになる。この辺りは観光地だからホテルは多いが、料金も高い。アイズは巨木をくり抜いて造られた高級ホテルを見上げながら呟いた。
「こうなったら、お金を稼ぐしかないわね」
「稼ぐんですか? どうやって?」
 きょとんとするトトに目を向けて、アイズはニッと笑った。
「才能は有効利用しなくちゃね」

 しばらくの後、町の広場にはアイドルのような衣装に身を包んだトトが立っていた。
「しっかり頑張ってよ、トト」
 アイズはトトの衣装を揃える為に残りの所持金を使い果たし、すっからかんになった財布を振って笑ってみせた。
 手っ取り早くお金を稼ぐ方法として、アイズはトトに歌を歌わせることを思いついた。彼女がアイズを呼び寄せた時のように、電波に乗せると追っ手に見つかってしまいかねないが、直接声に出して歌うぶんには問題ないだろうと思ったのだ。
 意外なことに、トトは乗り気だった。
 アイズは歌を歌うことに関して、彼女が貪欲なまでの意欲を見せることに少し驚いた。
「嬉しいです。こんな風に誰かに自分の歌を聞いてもらえる機会が来るなんて思ってもいませんでしたから」
「やる気じゃない。それじゃ、頼むわ」
 トトの衣装を整え終えて、アイズが脇に退く。
 目を閉じ、両手を胸の前でそっと握り締めて、トトは軽く息を吸った。
 次の瞬間、その場にいたすべての人がトトの方へと視線を向けた。

 同時刻、トゥリートップホテル・ヴァギア支店内。
「えっ? この歌声は……」
 ホテルの通路を歩いていた女性が、外の歌声に気づいて走り出した。近くの部屋の扉を空け、中に入って窓際に駆け寄る。
 と、そこに二人の男性が入ってきた。
「ひでーよ姉ちゃん、荷物持たせて先に行くなよ~」
「どうかしたのかい、ネーナ君?」
 だが、ネーナは答えない。
 男性の一人……背の高い二十代半ばのホテルマンらしき男は、同じ窓辺から外を見下ろした。
「ほぉ……これはすごい」
 すぐ近くの広場に、かなりの人だかりができている。そしてその中心にいるのは、二人の少女だった。
 美しく響く澄みきった歌声が、風に乗って運ばれてくる。
「支店長、部屋の用意をお願いします。それから、今夜のショーに予定していたステージをすべて変更して下さい」
「じゃあ、あの子があの?」
 支店長と呼ばれた男性が目を丸くする。
「そうです。グッドマン、行くわよ」
「え? あ、おい姉ちゃん、荷物はどうすんだよ!」
 きびすを返し、早足で階下に向かうネーナを追って、グッドマンも部屋から出て行く。
 入れ替わりに、初老の男が入ってきた。
「どうかしたのですかな、支店長? ネーナ君達がえらく急いだ様子で出て行きましたが……おや、この歌声は」
「ああ、コトブキさん」
 コトブキと呼ばれた初老の男もまた、トトの歌声に気づいて窓辺に寄った。
「あの子ですよ。ほら、少し前に連絡が入った……」
 支店長が歌を歌っている少女を指差して言う。
 しかし、コトブキの目はその隣……可憐な歌姫を見守るようにして立つ、一人の少女に釘付けになっていた。
「あの子は……」

 トトが歌い終えると、辺りは深い静寂に包まれた。
 ……と、誰かが手を打ち鳴らし……やがて広場は、割れんばかりの拍手喝采で包まれた。
「さて、ウォーミングアップは終了です」
 トトが満足げに微笑む。
「今ので?」
 トトの実力と予想外の盛況に驚いていたアイズは、トトの言葉に更に面食らった。
 その時、どやどやと人がやって来た。どうやら役人らしい。
「お嬢さん方、すぐにやめて下さい。この町で無届の街頭パフォーマンスを行うことは禁止されています」
「??? どういうことですか?」
「世の中には芸術を解さない人間もいるってことよ」
 世俗に疎いトトに代わり、役人と交渉しようとするアイズ。
 その時。
「ねえ、貴女。もしかしてトトちゃんじゃない?」
 声をかけてきたのは、スマートなスーツに身を包んだ知的な美女だった。
「貴女は……ネーナ姉様……ですか?」
 トトが驚いたように尋ね返す。
「もしかして、この人がトトのお姉さんの?」
「ええ、多分……顔を見たら、データベースから急に映像が出てきて……」
「なるほど、流石は姉妹ね」
 感心したように頷くアイズ。
 そこに更に一人の男が現れた。全身をカウボーイの様な衣装で固めた、野性的な風貌の青年だ。
「姉ちゃん、どんどん先に行くなって……あれ? こいつは確か……」
 男は背負っていた山のような荷物を降ろし、トトの顔をまじまじと見つめた。
「初めまして、トトです。グッドマン兄様」

「ネーナさん、彼女達はあなたがたの関係者ですか?」
「ああ、申し訳ありません。この子は私達の妹なんです」
 話の腰を折られて戸惑っていた役人達に、ネーナは深々と頭を下げた。
「今夜のショーに出演するためにわざわざ来てくれたのですが、まだ舞台の準備が整っていなくて……私達とも入れ違いになってしまって、それでやむをえず外で予行演習をしていたんです。そうよね、トトちゃん?」
 トトのほうを振り返り、ネーナがウィンクを飛ばす。
 わけがわからないままもトトが頷くと、役人達はしぶしぶ引き返していった。
「ありがとう、ネーナさん。助かったわ」
 役人達を見送って、礼を言うアイズ。ネーナはにっこりと微笑んだ。
「いいわよ、本当のことなんだから」
「へ?」
 何のことかわからずに、顔を見合わせるアイズとトト。

「さて、忙しくなりそうですね。コトブキさん、至急重役会議の用意をして下さい。私は彼女達を迎えに行きます」
 広場の騒ぎが鎮まったのを確認して、支店長が部屋を出て行く。
 コトブキはしばらくの間、じっとアイズを眺めていたが、
「やれやれ、ついに娘に逃げられたか……今頃慌ててるだろうなぁ、エリオットの奴」
 苦笑交じりに呟いた。


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第2話

2009年04月08日 | マリオネット・シンフォニー
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 陽炎の立つ灼熱の砂漠を、一人の青年が歩いている。
 背の高い青年だ。ぼろぼろのフードつきマントに身を包み、厳しい陽射しを遮っている。
 一際強い風が吹き、マントが大きくはためいた。
 この光景を見る者がいれば、すぐにその異様さに気づいただろう。
 何故ならマントの下に、衣服と銃以外のものがなかったからだ。

 彼は荷を負っていない。
 砂漠の只中にありながら、水筒の一つさえも。

 ……と、風が変わった。
 青年が立ち止まり、顔を上げる。
 いつの間にか、切り立った崖の縁に到達していた。見渡す限りの空は透き通るような青……いや、違う。
「これは……」
 青年はフードを脱ぎ、片手をかざして空を仰ぎ見た。
 空の色が、変わってゆく。透き通るような青から、深い藍色へと。
「……アステルの風か」
 呟き、青年はふと目を凝らした。
 切り立った崖の下、眼下に広がる砂漠の中に、一人の少女の姿がある。

 数瞬の後、崖の上に青年の姿はなかった。


第2話 風を操る者


 アイズは一人、延々と続く砂漠を彷徨っていた。
「一体、ここは何処なのよ」
 アイズは周りを見回して呟いた。遥か遠くに霞む地平線、盛り上がった砂山、切り立った崖……海は何処にも見えない。どうやらかなり内陸へと入ってしまったらしい。
「それにしても、こう暑くっちゃたまらないわね……水が欲しいわ。あー、やっぱり近道なんかするんじゃなかったかなぁ」

「本当に、一人で行くのか?」
「うん、これは私の旅だからね」
「そうか」
 数時間前、アイズは不時着したイート・イット号の前でルーカスと別れの言葉を交わしていた。場所はハイム共和国から海を隔てた大陸にある、フェルマータ合衆国の海岸だ。
 あのとき。
 エコーデリックの中でアイズのラジオが受信したのは、幽かな歌声だった。
 伴奏も効果も加わっていない、たった一人の少女の歌声。
 一声で惹かれ、心奪われた。
 知らず涙がこぼれていた。
 同時に、アイズは自らの旅の目的を見いだしていた。
 この人に会いに行こう。
 この歌を歌っている人に会いに行こう。
 それが旅の最初の目的だ。
「今日は聖サミュエルの日だったな。悪くねえ偶然だ」
「??? 何それ?」
「聖サミュエルは『出発と開拓の守護者』……旅人の守護者だ。大抵の船乗りは出立にこの日を選ぶ。逆に『成功と繁栄の守護者』聖オードリーの日には、船を降りて港で騒ぐ。もとはある国の習慣だったんだが、いつの間にか世界中の船乗りの間に広まったのさ」
「ある国……って?」
 アイズが何気なく口にした質問に、ルーカスは答えようとして、やめた。その代わりに「もう無くなった国だ」と呟いた。
「ここから海岸沿いに行ったところに港町がある。内陸の砂漠を突っ切ったほうが早いんだが、まあ遠回りしたほうが懸命だな。何事もなけりゃ明日の夕方には着けるだろうよ」
「うん、わかった……本当にありがとう、ルーカスさん」
 アイズは礼を言った。ルーカスは照れたように笑い、そうだ、と付け足した。
「異常気象には気をつけろよ。上空でエコーデリックが発生したときには、地上にも何らかの影響が出ることがあるからな」

「この際、異常気象でも何でもいいから、雨の一つでも降って欲しいわ……」
 額の汗を拭い、アイズは空を仰ぎ見て、
「……あれ?」
 ふと立ち止まった。
 眩い陽光に照らされて、大気が青く輝いて……いない。空には雲一つなく、太陽が沈むにはまだ幾分の余裕がある。にも関わらず、深く沈んだ藍色を呈している。
「どういうことよ、これ……」
 不可解な現象に戸惑うアイズ。しかし、事態はそれだけに留まらなかった。突然地響きがしたかと思うと、空気がビリビリと音をたてて小刻みに振動し始めたのだ。
「ちょっと、今度は何よ!?」
 アイズが慌てて周囲を見回した……瞬間。
 巨大な影が突然辺りを覆い尽くした。反射的に振り向いたアイズの目前に、大量の水が……壁のように聳え立った津波が押し寄せる。
 激流に飲み込まれる直前、誰かに抱きかかえられたような気がしたが、アイズはそのまま意識を失った。

 次に目を覚ましたとき、アイズは誰かの背に揺られていた。
「え……わっ!? あ、貴方は……?」
「あ、気がつきましたか……おっと」
 慌てた拍子に落ちそうになったアイズの身体を支え、青年は優しく微笑んで言った。
「スケア・クラウンと申します。貴女はアステルの風に巻き込まれてしまったんですよ」
「アステルの風……?」
「ええ。ほら、見て下さい」
 スケアに促されるままに顔を向けたアイズの目の前を、小さな魚が横切った。まるで海藻の隙間を縫うようにしてアイズの髪の間を通り抜け、泳ぎ去る。
「……魚……」
 魚の行方を目で追いながら呆然と呟くアイズ。
「その様子からすると、アステルの風を見るのは初めてのようですね」
「え、ええ……」
 スケアの説明によると、これは大気と水の融和現象らしい。簡単に言えば、水と空気の境界線が無くなってしまうのだ。通常は2日ほどで元に戻るが、その間アステルの風が通過した地域では、水棲生物と陸棲生物が一緒に生活するという奇妙な光景が見られるという。
「……いくら異常気象って言っても、ほどってものがあるわよね……」
 感心半分、呆れ半分に呟くアイズ。
「何か仰いましたか?」
 アイズの呟きを耳に止めて、スケアが顔を向ける。
「あ、いいえ……あの、そろそろ降ろしてくれませんか? 一人で歩けますから……」
「そうですか」
 地面に降りると、アイズは少しふらついた。スケアが慌てて肩を支える。
「通常の空気とは違って、多少の浮力がかかっています。気をつけて下さい」
「ど、どうも」
 青年を改めて真正面から見て、アイズは思わず感心の溜息をもらした。
 かなりの美男子だ。背も高いし、声は涼やかで耳に心地良い。格好はみすぼらしいが、それを差し引いても十二分におつりが来る。
「? どうかなさいましたか?」
「あ、いえ別に」
 アイズは照れ笑いと誤魔化し笑いを半分ずつ浮かべながら、
「それにしても……すっごい眺めですね」
 と改めて周囲を見渡した。
 アステルの風が通り抜け、海水と空気が入り混じった光景は不思議なものだった。先程までの不毛な砂漠が、様々な海藻の茂る豊かな海底へと姿を変えている。頭上を横切る影に気づいて顔を上げると、トカゲのような生き物が鈍重そうな身体を巧みに動かし、スイスイと空中を泳いでいた。
「この辺りはアステルの風の多発地帯で、生物もそれに合わせて生きているんですよ。例えばあれらの海草に似た植物などは、普段は乾燥した状態で生命活動を休止させ、砂の中に埋もれているんです。あの動物も、普段は砂の中で寝ているそうです」
 アイズは心底自分の無知を思い知った。
 今朝の電波の飛び石といい、エコーデリックといい、今回のアステルの風といい……ハイムを出てからというもの、驚きと感心の連続だ。
「外の世界って、すごい……」
 スケアの説明を聞き流しながら、アイズは溜息混じりに呟いた。

 話を聞くと、スケアもアイズと同じ港町に向かっていると言うので、二人は同行することにする。どうやらかなりの距離をアステルの風に流されたらしく、港町はもうすぐそこだとスケアは言った。
 数十分後。
 群青の空から夕日の名残が消える頃、二人は港町に到着した。

 その港町の外観は、アイズの知識の範囲を遥かに越えていた。まるで大きな船のように空中に浮かび、ほんの数本の錨によって元々は海底であった大地と繋がっている。
「どうやらこの町も、アステルの風に合わせた構造を取っているようですね」
 呆気に取られているアイズをよそに、スケアは平然と言った。
「さて、我々も上がりましょうか」
 小さい魚とか鳥ならともかく、どうやってあんな上まで上がるんだろう、とアイズが思っていると、スケアがアイズの体を抱え上げた。
「貴方はここに慣れていらっしゃらないでしょうから」
 このような行為が許されて、しかもそれが自然に見えるところが美男子の美男子であるところよね……などとアイズが思っていると、不思議なことが起きた。
 二人の周りの空気――正確には水と空気が混じったもの――がゆっくりと渦を巻き始めたかと思うと、二人の体が浮上し始めたのだ。
 アイズが呆気にとられている間に上空の町はグングン近づき、やがて二人の体は貴族が馬車から降りるよりも上品に町の外れに着地した。

「スケアさんって、魔法能力者だったんですか!?」
 町に着地した途端、アイズは襲い掛かるような勢いでスケアに尋ねた。
 ハイムにいた頃、聞いた話がある。この世には魔法と呼ばれる力を行使できる人間が存在し、一撃で岩を砕いたり、空を飛んだり、手や目からビームを出したりするそうなのだ。
 もっとも、ハイム国内ではそれは只の冗談だと思われていた。しかし今、アイズの目の前に空気を操って空を飛ぶ人間がいる。
「え、ええ、そうですよ。三級資格免許も持っていますし」
 アイズの勢いに気圧されながらも、スケアが平然と肯定する。
「……もしかして、結構いるの? 魔法能力者って」
「ええ、世界中にいます。国際認定証が出ているくらいに」
「でも、私の国にはそんな人いなかったよ?」
「それは変ですね。学校で適性試験を行っていないのですか?」
「知らないわ、聞いたこともない。そんな……じゃあ、ハイム以外の人は学校で魔法を習ったりするんだ……」
「……ハイム?」
 その名を聞いた途端、スケアの顔色が変わった。

「アイズさん……このようにお知り合いになれたのも何かの縁です。どうですか、一緒に夕食でも。ご馳走しますよ」
「え、ホントに?」
 アイズが驚いて顔を上げると、スケアは真剣な顔で頷いた。
「ええ……私も色々とお聞きしたいことがありますから」

 空中に浮かんでいることを除けば、町の様子は普通の港町と変わりなかった。
 埠頭には何隻もの水空両用船が停泊しており、表通りは商店で賑わっている。町の中央には大マストと呼ばれる巨大な塔があり、先端に光を灯し灯台の役割を果たしていた。
「じゃあ、本当にビームを出したりできる魔法能力者っているの?」
「ほんの一握り……恵まれた素質があり、厳しい修行をおさめた人間だけですが」
 町外れの静かなレストランに入ったアイズは、スケアから話を聞いていた。彼が言うところによると、自然界の魔力を利用することは基本的に誰にでも可能なことなのだそうだ。
「じゃあ、簡単なやつなら私にもできるようになるかな?」
「自然界の一員として、人間にも元々備わっている能力なんですから、できないことはないでしょう。まあ、それでもできない人もいますが、それはどうやっても泳ぐことのできない人がいるのと同じようなものです」
「泳ぐのは得意だけど……」
 アイズの心配そうな呟きを耳に留めて、スケアは微笑んだ。
「大丈夫ですよ、きっと。あの優秀な魔法騎士を数多く生み出したリードランス王国の生まれなんですから」
「……リードランスって?」
 スケアはアイズの言葉に眉を潜めた。
「リードランスのことも知らされていないのですか?」
「だから、それは何なの?」
「十年以上前に滅ぼされた国です。今ではハイム共和国と名前を変えています」
「それってつまり、私の国のこと?」
「その通りです」
 スケアはじっとアイズの顔を見つめ、尋ねた。
「もう少し……あの国の内状について詳しく教えていただけませんか? あの国の方とお会いするのは初めてなので……」

 その時、突然歌が聴こえた。
 エコーデリックの中で聴こえたあの歌だ。たが今回はラジオを通してではない、頭の中に直接響いてくる。
「……聴こえる?」
「は? 何がですか?」
 スケアがきょとんとする。
「歌よ。歌が聴こえない?」
「……いえ、私には何も……」
 戸惑うスケアをよそに、アイズは店から外に飛び出した。

「歌? ……まさか」
 スケアは何処からか取り出した小型ラジオのスイッチを入れた。幽かな……この世のものとも思えない美しい歌声が響いてくる。
「これは……No.24! やはりこの町か!」

「何処? 何処から聴こえてくるの?」
 周囲に遮るもののない広場に出て、アイズは耳をすました。
 歌声は町の中央に聳え立つ巨大な塔……大マストから聴こえてくるようだ。
 アイズは大マストに向かって走り出した。

 同時刻。
「見つけたわよ」
 何処とも知れない暗闇の中で、幼い少女が呟いた。
「そこにいるのね、No.24……やっとつかまえたわ」
 幼女はすっと手を動かした。
 細く小さな人差し指の先端が、白く淡い光に包まれる……。

 スケアはアイズを追って大マストへと走っていた。
 その時、彼は気づいた。町の中に“何か”が入り込んできたことに。
 そして、それが敵であることに。
「来たか、エンデ……!」
 彼の周囲の空気が渦を巻く。
 次の瞬間、スケアの体は空を舞っていた。

 アイズが大マストの中に入ると、そこでは時計の内部のように大きな歯車やピストンが動いていた。普段ならマスト守と呼ばれる技師が常駐しているのだが、何処にも姿がない。そして、そんなことは知らないアイズは、ためらいなく奥へと続く扉を開けた。
 誰かが動く物音がした。
 反射的に立ち止まったアイズの目前に、マスト守の死体が落ちてくる。そしてその向こうには、白いフードつきマントを羽織った男の姿があった。
 マスト守と揉み合ったのだろう、フードが中途半端に外れている。その下に見える男の顔には死人のように表情がなく、まるで生きている人間の気配がしなかった。
 アイズは判断力の優れた少女だ。だがこのときばかりは、例え判断力の優れていない人間でも気づいただろう。それが普通の人間ではないということに。
 アイズは逃げ出した。
 しかし大マストの入口に更に数人、同じようにマントを羽織った男が現れた。

 追い詰められたアイズは周りを見回した。小さな排気孔がある。金網で怪我をしそうな気もするが、迷っている暇はない。
 アイズは老朽化していた金網を蹴破り、排気孔の中に飛び込んだ。

 更に下の空間。
 天井の排気孔を塞いでいた金網の金具が外れ、落ちてきたアイズは床に尻餅をついた。
 かなりの距離を落ちてきたが、たいした怪我はしていない。アステルの風の影響で水と融和した大気から、それなりの浮力が働いたからだ。
「あいたたたた……」
 アイズは腰を押さえながら辺りを見回した。
 どうやら使われていない倉庫のようだ。位置的に考えるに大マストの基底部……町の中心部らしい。
 アイズは携帯用のライトを懐から取り出した。
 ……と。

『誰……?』
 声がした。あの歌と同じ、頭の中に直接響いてくる声だ。
『そこに……誰かいるの?』
「……ええ、そうよ。貴女は誰? 何処にいるの?」
 アイズはライトで周囲を照らした。しかし、そこには誰もいない。あるのはやたらと大きな鞄だけだ。
 本当に大きい……小さな女の子なら入れそうなくらいに。
「まさか、いくらなんでもそんなことは……」
 呟きながらも、鞄を観察する。鍵がかかっているようだ。それも見たこともない鍵。
 アイズは恐る恐る手を伸ばした。すると、指が鞄に触れた途端、鍵が呆気無く開いてしまった。驚くアイズに構うこともなく、鞄の蓋がひとりでに開いてゆく。
 そして、鞄の中にあったのは……淡い紫色の長髪に包まれるようにして横たわる、一人の少女の姿だった。


「貴女は……?」
 少女が目を開き、小さな声で尋ねる。ついさっき頭に直接響いてきた声や、ラジオから流れてきた歌声と同じ声。
「私はアイズ・リゲル……貴女の歌を聴いてここに来たの」
「……ありがとう……」
 紫水晶のような瞳から涙が溢れる。
 アイズが伸ばした手を取り、少女はゆっくりと起き上がった。
「私はトト……プライス博士に生み出されし二十四番目の人形です」

 その時、天井を突き破って先程の男達が舞い降りた。
 凄まじく重そうな音を立てて男達が着地する。
 そして、一斉にアイズ達に向かって鋭い爪のついた腕を伸ばした。
 トトが小さな悲鳴を上げてアイズの腕にしがみつく。
「大丈夫よ。貴女のことは私が守るから……」
 アイズはトトを庇って立ち上がった。それが自分の役目のような気がしたのだ。
 例え、自分に男達に対抗する手段が何一つなかったとしても。

 男達が一斉に襲い掛かってくる。
 刹那、破れた天井から別の影が飛び下りた。
 まるで見えない壁に激突したかのように、男達がその場に倒れる。
「大丈夫ですか、アイズさん!」
「スケアさん……はは、ナ~イスタイミング」
 アイズが脱力して床に座り込む。
「御無事で何よりです」
 スケアは男達に向かって身構えた。彼の伸ばした両腕の周囲に、目に見えるほどの風が集まっていく。
「ここは私に任せて下さい。すぐに片付きます」
 そう言って、スケアは微笑んだ。

 その時、アイズは気づいた。スケアが『三級』の魔法能力者ではないことに。そして……彼が決して見た目通りの人間ではないことにも。
 彼の微笑みを見た瞬間、アイズは初めてスケアのことを恐ろしく感じた。

 同時刻。
 町の遥か彼方では、アステルの風の第二波が発生しつつあった。
 それは第一波と同じく、大地を揺るがすほどの大きな衝撃を伴うものだった。


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第1話

2009年04月01日 | マリオネット・シンフォニー
インデックス




 ───280年 夏

 リードランス王国 中央管制室




「どうだい、ネーナ」
「ダメです……やはり通じません。通信が途絶えてから、もうすぐ1時間……どうやら回復の見込みはなさそうですね」
 中央管制室長ネーナ・ブロッサムは、機器を操作する手を休めて答えた。
 彼女の背後には二人の男性がいる。40歳程度の落ち着いた壮年と、30歳前後のまだ若い男だ。
「もうじきグッドマンが現場に到着するはずだ。そうすれば、何かつかめると思うのだが……おっと、噂をすれば、だ」
 落ち着いた壮年の言葉に重なるように、呼び出し音が鳴り、モニターの一つに精悍な青年の顔が現れる。
『これはやばいですよ、父さん。国境警備隊が全滅しちまってるんです』
「な……全滅!? どういうことだ!?」
 まだ若い男が思わず声を荒げる。
『ここに来る途中、城に向かっている武装した連中を見かけました。多分奴らの仕業じゃないかと……見て下さい』
 グッドマンの顔が消え、砦の悲惨な状況が映し出される。
「グッドマン、すぐにそいつらの元に向かって頂戴。こちらの態勢が整うまで、出来る限り足止めをお願い」
『おいおい姉ちゃん、俺の力を信用してねぇな? あんな奴ら、俺一人で蹴散らしてきてやるよ』
 ネーナの言葉に笑って答え、グッドマンは通信を切った。

 数時間後、グッドマンが全身傷だらけになって帰還する。
「冗談じゃねぇぜ、あいつら10万を越える大軍勢で押しかけてきやがった……!」




 リードランス大戦 勃発








 ───280年 秋

 リードランス王城内 廊下




「これ、何?」
 蒼髪の青年から一枚の書状を受け取って、紅の髪の少女は言った。
「救助隊の隊長に宛てた紹介状だよ。フジノ、君には今後、負傷兵の救助を中心とした任務についてもらう」
 青年が気乗りしない様子で答える。
「救助? 戦いじゃなくて?」
 不服そうな少女。
「そうだ。正直なところ、君には早く避難してほしかったんだが……そうも言っていられなくなった。ついさっき、プライス博士に呼ばれてね。ラトレイアが、息を引き取ったそうだ」




 リードランス王国騎士団長

 ラトレイア・アメティスタ 死亡








 ───280年 冬

 リードランス王国 中央管制室




「何だと、リードが孤立した!?」
 非常連絡の通信を受けて、金髪の青年が立ち上がった。
『はい! 野営しているところを、いつの間にか包囲されていたのです! 隊長は我々を逃がす為、単身敵の本陣に斬り込んで……!』
 血まみれの兵士が必死の形相で報告する。
「何ということだ……!」
 青年はすぐに別の通信に切り替えた。
「サミュエル、オードリー! すぐに出るんだ。任務内容はリードの救出、急げ!」




 リードランス王国近衛隊長

 リード 死亡








 ───281年 秋

 リードランス王国ハイム領『北の都』 王国軍総司令官寝室




 蛇腹状の剣をゆっくりと構え直し、蒼髪の青年は尋ねた。
「君は、“生きる”ということがどういうことか、考えたことはあるかい?」
「戦うことだ」
 黒塗りの剣を携えた小柄な少年が、まだ幼さを残した声で即答する。
「貴様を殺してフジノを手に入れる……そして二人で永遠に戦争を続けるんだ!」




 王家最後の蒼壁

 アインス・フォン・ガーフィールド 死亡








 ───11年後








第1話 エコーデリック


 密輸船【イート・イット号】の操舵士、ルーカス・アルビコックは、機関室の窓から遥かなる大空を見つめた。
 淡灰色の瞳に映るのは、何処までも高く澄み渡り、一点の曇りもない空。
 ……今の俺の心境とはえらい違いだ。
 ルーカスは大きく溜息をついた。見事な赤毛をぼりぼりと掻き毟り、冴えない足取りで機関部の点検作業に戻る。

 イート・イット号は現在、高度10000メートル付近を飛んでいた。
 彼の船は全長20メートルほどの小型の貨物船だ。後方の6メートルほどが推進用のエネルギー噴出部にあたり、残りの殆どを貨物室と機関室が占めている。
 古い船だが、小回りが利くし偽装もしやすい。密輸船としてはもってこいだ。
 それでも昨日の仕事はやばかったな、とルーカスは思う。
 昨夜から機関室の点検を続け、幾つかの場所でオイル漏れを見つけた。内側からでは確認できないが、外壁にも剥がれている箇所があるだろう。
 よくもまあ逃げきれたものだ。
 あの悪夢のような追撃。戦争中の対空砲のほうがまだ可愛げがある。噂には聞いていたが、あそこまで凄まじい所になっているとは思わなかった。

 今回の彼の仕事は、とある国から一枚の設計図を持ち出すことだった。
 その国の名はハイム共和国。十年程前の内戦で新たに誕生した、精密機械工業や重工業の分野で世界一の技術を誇る国だ。周囲は海に隔てられ、一部の企業が工業製品を輸出していることを除けば外界との接点はほとんどない。
 特に技術面での交流は皆無に等しく、ハイムの突出した科学技術の実態は全くの闇に包まれている。
 今回ルーカスが持ち出したのは、そんな技術の一つだった。

 荷物が設計図一枚で助かった。これが大荷物だったら大損だったところだ。
 機関室から貨物室へと続く扉を開け、ルーカスはまたも大きく溜息をつく。ただでさえ狭い貨物室が、大口径の貫通弾に撃ち抜かれて大破している。
 俺みたいなコソドロ相手に撃つもんじゃねぇな。もう一つの予定外の荷物も小さくて助かったぜ。
 ルーカスは貨物室の隅に目をやった。
 その『予定外の荷物』は、小さな船内の一つしかないベットの上を占領していた。

「……いい加減に起きやがれ」
 ルーカスは毛布に包まっている荷物を靴の先で軽く蹴飛ばした。
 荷物が小さなうめき声を上げ、薄く目を開く。


「あ……おはよう」
 荷物は──少女は目を擦りながら呟くと、一つ大きなあくびをもらした。
「昨日はよく眠れた?」

 あいつは一体何なんだ?
 ルーカスは操縦席に座りながら考えた。
 予定外の荷物をこのまま乗せていくわけにはいかない。機体の損傷も激しいし、航路を変更して何処かの港に寄らなければならないだろう。この辺りで目立つことなく安全に入港できる所となると……。
 と、目の前に何かが差し出され、ルーカスは驚いて顔を上げた。
 見ればあの少女が、紅茶の注がれたカップを両手に屈託なく微笑んでいる。
「昨日は徹夜だったんでしょ? 目覚ましの紅茶よ」
「……勝手に台所を引っ掻き回すんじゃない」
 ルーカスが文句を言うと、少女は小さく肩をすくめて答えた。
「ごめんなさい。もう朝食の準備もしちゃったわ」
 呆気に取られたルーカスが次の言葉を口にする間もなく、飲まないの? と自分のカップを傾ける。ルーカスが差し出されたカップを受け取ると、少女はにっこりと微笑んだ。
「用事が終わったら来てね」
 言い残し、そのままブリッジを出て行く。
「……朝食ね……」
 空のカップを片手にキッチンに向かう少女の肩越しに時計を見やり、ルーカスは今日何度目かの溜息をついた。

 こいつは一体何者なんだ?
 少女の作った『朝食』を食べながら、ルーカスは再び自問自答を繰り返した。
 いや、実際にはわかっている。彼女は密出国者だ。それも、ルーカスが知る限りでは史上初めての密出国者。
 ハイム共和国では民の出入国を禁じている。数少ない外交会議や海外企業との商談でもない限り、ハイムの民が国外に出ることはない。
 詳しくは知らないが、ハイムは共和国とは名ばかりの徹底した身分制度によって国民を管理しているそうだ。この少女はそんな国政に嫌気がさした下級層の国民なのか、それとももっと別の何かなのか?
 テーブルに並べられた料理に目を落とす。あの狭いキッチンと寄せ集めの食材で、よく短時間のうちにこれだけのものが作れたものだ。一人で生きていくだけの技術は身につけていると見ていいだろう。行動力があり、肝も据わっている。
 いくらなんでも、この年で追っ手のかかった政治犯やテロリストと言うわけではないだろうが。
「どう? 美味しい?」
「ん? ……ああ。うまいな。少なくとも俺の作った料理よりは」
「……何か褒められてる気がしないんだけど」
「そうか?」
 ルーカスの張り合いのない応答に、少女が軽く肩をすくめる。
 と、窓から明るい陽光が射し込み、外を見た少女は歓声を上げた。
「うわぁ……! すっごく綺麗な空ね!」
「そりゃそうだ。なんせ上空10000メートルだからな……ごちそうさん」
 ルーカスは食事を終えると、食器を片付けながら続けた。
「空は高く昇れば昇るだけ綺麗に見える。邪魔な雲は足元だからな、ぼやけて見えることもねえってわけだ」
「私の国なんか、いつもスモッグで曇ってるよ」
「そりゃあ良くねえな。綺麗な空が見えないんじゃ人生楽しくねえだろ」
「うん……少し前までは、そんなこと考えたこともなかったけどね」
 眩しそうに目を細め、少女は空を眺め続けている。
 ルーカスは食器を洗う手を止め、尋ねた。
「……で? お前は何者なんだ?」

「私はアイズ・リゲル。ハイムの特別市民よ」
 少女は答えた。
「特別市民?」
「第一市民より上の階級のこと」
 少女──アイズの返答は、ルーカスが予想していたものとはかなり異なっていた。察するに、一応は民主国家で君主のいないハイムでは最高の階級ということになる。
「その特別市民とやらのお嬢さんがどうして密出国なんかしたんだ?」
 ルーカスは尋ねた。
「あの国のことはよく知らねえが、豊かな国だろ? 下層の国民ならともかく、生活に不満はねえはずだ」
「そうだろうね。ハイムの生活水準は世界一だってよく宣伝してたしね」
「だったら、どうして国を出た?」
 アイズは少し黙っていたが、やがてもう一度窓の外を眺め、呟いた。
「そうだな……空が見たかったからかな」
「空が?」
「そう、いつも見てるのよりもっと広い空が。それに、まだ知らない国や人をね」
 アイズは微笑んだ。

「あの国はひどい所よ。すべてが与えられているけど、すべてがない」
 アイズが自分の国のことについて話し始めたのは、夕食を終えてくつろいでいるときのことだった。
 既に日は落ち、暗闇が空を覆い尽くしている。二人がかりで片付けてどうにか落ち着けるようになった貨物室の中、薄ぼんやりと輝く明かりに照らされた少女の貌からは、昼間の快活な面影は微塵も感じられない。
「世界一の環境とか言いながら、実際は私達を甘やかして管理してる。たった一つの国政機関とたった一つの情報機関……たった一つの考え方。そして私達は外の世界のことを何も知らない。自分達でそれを選んでるのよ。安楽な生活と引き換えに自分で物事を考えることをやめているのね」
 アイズは自嘲気味に呟いた。
「私達は飼い馴らされた動物と同じなのよ。不満があれば鳴いて騒げるけど、結局は檻の外へは出してもらえない。私は特別市民の子供として他の人より多くの物を与えられたけど、自分で手に入れたものは何もないって気づいたの」
「だから密輸船に忍び込んで密出国か? 無謀だな」
「あんまり回りくどいことを考えられない人間なのよ」
 アイズは微笑んだ。
「それは俺も同じだけどな」
 ルーカスは蒸留酒の入ったグラスを傾けた。
「そう言えば、おじさんの名前をまだ聞いてないわ」
「俺の名前はルーカス・アルビコック。何処までもオリジナルな空の男さ」
「オリジナル……か。いい言葉だね」
 アイズは微笑んだ。
「ところで、エルパニアの人が自分の名前を名乗ったってことは、私をこの船に乗せてくれるってことだよね?」
「…………!」
 ルーカスは表情を硬くした。
「変わった習慣よね、エルパニアって商業国家でしょ? 信用第一の商人が、取引相手にも本名を教えないなんて」
「……さっきのが本名とは限らねえだろう。第一、俺がエルパニアの人間だとどうして言える?」
 先程の『オリジナル』という言葉、あれはエルパニア特有の表現だ。自己を確立している、突出している、他の誰にもない自分だけの能力がある、などという意味を持っている。個性を大切にするエルパニアにおいては最高の褒め言葉であり、自らに用いることは自信の証明でもある。
 だが、この言葉の意味を知っていただけでは、ルーカスがエルパニアの民だという確信には結びつかないはずだ。
「だって貴方、これでもかってくらいエルパニア系民族特有の顔立ちをしてるわ」
 ルーカスの疑念をあっさりと吹き飛ばし、アイズが可笑しそうに笑う。
「それに少なくとも、普段使っている名前とは違うわね。それとも貴方は密輸品の受領書に本名でサインするわけ?」
「そんなところまで見てたのか」
「さっき偶然目に留まっただけよ」
 アイズはにっこりと笑みを浮かべた。
「貴方偽名は一つしか使わないのね。シンプルすぎるのも考えものよ」
 ルーカスは酔いが覚めていくのを感じた。
「ハイムの人間が他国の習慣を知っているとは思わなかったな」
「学校で習ったわけじゃないわ、家庭教師に教えてもらったの。でも良かった。私、いつ船から外に放り出されるかわからないし、変な所に売り飛ばされるんじゃないかって思ってたわ。でも、エルパニアの人は本名を名乗った相手に失礼は働かないのよね?」
「……ああ、その通りだ」
 ルーカスが苦笑交じりに呟くと、アイズはもう一度にっこりと笑った。
「そろそろ寝るわ。お休みなさい」

 アイズが貨物室の隅にあるベッドに潜り込むと、船内は急に静かになった。見慣れたはずの貨物室が、古ぼけた照明に彩られてやけに寂しく見える。ルーカスは空になったグラスに蒸留酒を注ぐと、一息に飲み干した。
 大した奴だ。まだ小娘だと思って油断していたら、完全にしてやられた。
 しかし、ルーカスは怒りも後悔もしてはいなかった。何故なら、自分が本名を名乗ったのは事実なのだから。何も知らない小娘だと思っていたにせよ、自分が下した判断を間違っているとは思わない。

 ルーカスは操縦席に戻った。どうも機体が安定していない。
 今夜も徹夜になるかもしれない。
 まあ、それもいいだろう。夜は星が綺麗に見えるし、あいつにベッドを貸してやる口実ができた。
 ……それにしても。
「本当に変わっちまったんだな……リードランスは」
 アイズの話を思い出し、ルーカスは小さく呟いた。

 翌朝。
 徹夜明けで少しまどろんでいたルーカスは、突如として吹き荒れた大音響の嵐に飛び起きた。
 船内に取り付けてある緊急用アラームでもこれほどの音は出ない。最初は空中海賊か国際警察でも襲ってきたのかと思ったルーカスだが、少し頭が冴えてくると、それが最近話題のグループの歌であることに気がついた。
 悪くない歌だが、いくら何でも音が大きすぎる。
 頭痛が起こり始めたルーカスは、音源と思われる貨物室に向かって叫んだ。
「アイズ、でかい音を出すな! うるさい!」

「ごめんね。私、音楽好きなのよ」
「戦争中継が好きなのかと思ったぜ……」
 ルーカスが嫌味たっぷりに言うと、アイズは申し訳なさげに微笑んだ。
 テーブルの上には小さなラジオが置かれており、今は小さな音量で歌が流れている。
「ハイムで放送される音楽って生温い音楽ばかりでさ。一度外の音楽を拾ってみたいってずっと思ってたの。だって、中からは全然聞こえないんだもの」
「あの国の周りには電子防壁が張り巡らされているからな」
 ハイムの電子防壁については自分もよく知っている。ハイム共和国全体を完全に海外から遮断する電子の壁……外との連絡が全く取れないというのは、忍び込んだネズミにとっては恐怖以外の何ものでもない。
「やっぱり外は電波の受信がいいわね。すっごくよく聞こえるわ」
 アイズは嬉しそうにラジオをいじっていたが、やがて何かに気づいたように眉をひそめた。
「ねぇ……気のせいかな、さっきから音楽番組しか入らないんだけど」
「何言ってんだ、当たり前じゃねぇか」
 逆に怪訝そうな顔をしたルーカスが、すぐに「ああ」と手を打つ。
「そうか、ずっとハイムにいたんだからな。知らないのも無理ねえか。それは電波の飛び石の影響だ」
「電波の飛び石?」
「ああ。通常の電波はたいして遠くには届かねえんだ。せいぜい1000キロかな。だが歌を乗せた電波だけは世界の反対側までだって届くのさ」
 それを聞いて、再びラジオをいじり始めるアイズ。
「本当だ、歌が終わったら受信しなくなってる。ねぇ、どうしてこんなことが起きるの?」
「原因は未だに解明されちゃいない。俺は精霊説を信じてるけどな」
「精霊説?」
「ああ」
 ルーカスはこともなさげに言った。
「風の精霊達は歌が好きなんだよ。だから歌を乗せた電波だけは、世界中に届けてくれるのさ」
「へぇ……」
「何だよ。何か変か?」
 アイズは、ううん、と微笑んだ。
「とっても素敵な考え方だと思うわ」

 その時、異常が起きた。ラジオが激しいノイズを撒き散らしたかと思うと、機体が大きく揺れ始めたのだ。
「な、何!?」
「まずい、エコーデリックだ!」
 ルーカスは立ち上がって叫んだ。

 何もない空間に閃光が迸る。
 それは瞬く間に視界全体を埋め尽くし、ある一点に向かって渦巻いた。
 先程までの穏やかな青空が一転し、光と轟音の世界に変わる。
「ねえ、エコーデリックって!?」
「空にできる落とし穴みたいなもんだ! それよりしっかりつかまってろ!」
 アイズに身体を抱えさせ、ルーカスは操縦桿を握り締めた。
「……綺麗……」
 アイズは窓の外を見ながら呟いた。
 一面の空が七色に輝く火花を放ちながら渦を巻く。それは幻想的で美しい光景だった。
「余裕あるじゃねえか!」
 ルーカスの苦笑混じりの声は轟音に掻き消され、アイズの耳には届かなかった。

 アイズはじっと窓の外を見つめ続けた。
 目の前に広がる幻想的で……しかし恐ろしい光景を。
 今までのようにテレビの画面で見ているんじゃない。実際に今、自分がその中にいる。
 アイズは震えていた。
 恐怖の為ではない。これから始まる自分の旅を感じたからだ。
 そうだ。今、自分の旅は始まろうとしているんだ。

 床に転がったラジオは強烈な磁場の乱れに巻き込まれて沈黙していたが、ふと一つの音色を奏で始めた。
 それは幽かな歌声。
 閃光と轟音に支配されたエコーデリックの中で、ラジオは一つの歌声を受信していた……。


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