森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

レポート -インデックス-

2008年10月27日 | レポート

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 レポート-2 …… 10/25更新
 レポート-3 …… 10/26更新
 レポート-4 …… 10/27更新

レポート-4

2008年10月27日 | レポート

 サオリは新塚健児の最後の写真集が好きだ。
 それは彼が仕事の為に撮った作品ではなく、本当に個人的な作品集としてまとめたもの。何処にでもある風景、花や空の写真。特に目を惹くものが写っているわけではないし、派手な構図もない。見えるのは、世界の中心から少し離れた場所に立ち、寂し気な瞳で世界を眺めている一人の男の姿だけだ。
 この写真集には小説家の処女小説の表紙に使われた写真も含まれている。何でもその写真を気に入った小説家がタカハラを通して頼み込み、製版の際に使わせてもらったのだそうだ。
 逆光に照らされて輝く何処までも続く道。
 新塚健児の好んだモチーフだという。
 その写真を眺めながら、サオリは考える。
 人は何を知り、何を知ることができないのだろう、と。

 失踪した美人学生。
 その秘められた生い立ち。
 人を自殺へと導く宗教団体。
 その幹部でありながら自らは生き延びた男。
 一つ一つの要素を調べ上げるのは可能だ。それらはいつか結びつき、一つの形を作り上げるかもしれない。それが真実に近づくということなのかもしれない。
 だが、それはサオリから見た真実に過ぎない。
 アヤナにとっての真実は何処にあるのだろう。彼女を取り巻く問題の構造は解明できるかもしれない、だがそれは本当に彼女の問題なのか?
 他人から見れば問題に見えることが、その人にとっても問題であるとは限らない。他人の目には些細に映ることも、本人にとっては深刻な事態であるかもしれない。
 私は貴方ではなく、貴方は私ではない。
 人は他人のことを完全に理解することはできない。
 近づくことは出来ても真実が重なることはない。
 人の心は一つの世界のようなものなのかもしれない。
 時の流れは一つではなく、真実はその世界によって姿を変える。
 サオリにはサオリの世界があり、オカダにはオカダの世界があり、タカハラにはタカハラの世界がある。
 小説家には小説家の世界があり……アヤナにはアヤナの世界がある。

「私達は何を知ることができるんでしょうね。真実に辿り着けないならば、何を書く意味があるのでしょう?」
 最後にそう言い残し、小説家は立ち去った。彼もサオリと同じく真実を知ることの壁にぶつかったようだ。
 彼はこのことを小説に書くだろうか。材料は長編小説が書ける程に揃っているはずだ。推理小説にしてしまうのもいい。それともサスペンスものに仕上げるべきだろうか。あまりに現実離れしていて安っぽいものになってしまうかもしれない。だが彼は何らかの形でこれを文章にするだろう。同じ真実を求める者として。サオリはそう思った。
 科学者が実験を繰り返し、その結果を組み合わせて世界の形を確かめるように、小説家は自らの中に物語を作り、世界の形を確かめる。その作業はまた、サオリ達がホムンクルスを通じて生物の進化過程を突き止めようとすることにも似ているだろう。どちらも真実には至らない。だが実験を通し、文章を通し、物語を創り出すことによって、次の一歩を踏み出すことができるはずだ。
 それはまだ見ぬ誰かと出会う為に、宇宙へとロケットを飛ばすことに近いだろう。真実を求めることは、わかり合えぬ誰かに手を差し伸べることだ。
 いつまでもわかり合えないかもしれない。手が届くことはないのかもしれない。
 だが、手を伸ばし続けるのだ。

 サオリとオカダは数日前に婚約した。まだ早いかもしれないけどな、と言ってオカダは銀の指輪を差し出した。オカダは海外に渡りミュージシャン修行をしていた時期があり、その時に知り合ったブルースミュージシャンにこれを貰ったそうだ。元々は対になったシルバーリングで、そのミュージシャンはピアスにしてつけていたらしい。今はサオリの左手の薬指に輝いている。オカダは職業柄、指に物をつけられないので、肌身離さず持っているギターの弦にくくりつけている。
 今、オカダは長年の夢であるクラブの経営に向けてスタジオミュージシャンの仕事をこなしている。サオリは彼が夢を実現させることを願っているが、バンド活動が休止中なのは少し残念だと思っている。
 オカダは少し頼りない割に心配性だが、誠実にサオリのことを愛してくれている。サオリも精一杯彼の気持ちに応えるつもりだ。彼と出会う以前にタカハラと関係を持ったことについては、タカハラ自身と話し合っているし、サオリもあれは社会勉強のようなものだったと思っている。オカダは生涯のパートナーだと思う。そのパートナーと出会う前に多少なりとも経験を積めたことは、決してマイナスにはならないはずだ。
 タカハラはサオリを気遣ってか、最近は研究室に顔を出さない。だが口にこそ出さないが、彼もアヤナの帰りを待っているようだ。
 サオリも待ち続けている。
 ……どうして?
 それは自分自身にすらわからないことだ。

 アヤナの父親が残したノートに記されている一文がある。小説家の話によればフランスの作家の言葉を引用したもので、神の存在を失った時代の人間に対する言葉。
 牧師が引用するには相応しくない言葉だ。

『 幻想と光を奪われた宇宙で
  人は孤独な異邦人となる
  彼の追放は終わることはない
  何故なら彼は失われた故郷の記憶や
  約束の土地の希望さえも剥奪されているのだから 』

「……それでも、私はあの人を知っている」
 サオリは小さく呟いた。



                   Amen.

レポート-3

2008年10月26日 | レポート
 サオリは昔の新聞から切り抜かれた教団の写真を眺めた。それは警察の強制捜査を受ける直前に行われた新聞社からの取材による記事で、教団の幹部が取材に応じた唯一の記録だ。そこでは他愛もない教義が語られていた。
 現実への不満。理想郷の意義。そして、それが死後の世界にしかないこと……過去に腐るほど存在した厭世的な主張、言い換えれば御大層な現実逃避だ。わからないのは、何故この主張に多くの人間が惹きつけられ、自らを死へと向かわせたのかだ。時代背景を考慮しても不可解さは残る。
 サオリはそこから暗い力の流れのようなものを感じ取った。明確な言葉で表現することはできない。だがその写真は、人を闇へと押しやる暗い力のようなものを連想させた。
 教団のシンボルマークである黒い蜘蛛のレリーフの前に、虚ろな目をした信者達が立っている。新聞に掲載される写真独特の荒い粒子のせいもあって、彼らは現実の人間には思えなかった。
 僕はアヤナさんについて何を知っていたんでしょうね? と小説家は言った。当時、彼女に関しては色々な噂が絶えなかったそうだ。
「家族とは血が繋がっていなくて虐待されて庭に住んでいるとか、金持ちの男の愛人だとか、別人のような格好をして遠くの街で遊んでいるのを見たとか、物凄い金額の遺産を相続しているとか……まあ、綺麗で無口な子にはとかく妙な噂がつきまとうものですけど、彼女は特別それが多くて。でも、正面切って訊ねる奴はいないんですよ。みんな遠くから見てる感じで……僕もその一人だったんですけどね」
 私は彼女について何を知っているのだろう?
 自分が知っているのは、研究室で計画の指揮を取る彼女の姿。そして、二人きりの時に優しく抱き締めてくれたこと。彼女の腕の中にいるとき、サオリは彼女に甘え、安心することができた。
 だが。
 彼女が時折覗かせた、全てに絶望したような表情。自分自身にさえ価値を見い出すことを諦めたような割り切った考え方……それらは何処からきたものだったのか。あの自らを摩り減らすような男性遍歴も、何かに追い立てられてのものだったのか?
 サオリはアヤナの側にいた。彼女の中の暗闇にも気づいていたはずだ。だが、サオリはそのことには気づかないふりをしていた。自分のことで精一杯だった。甘えるばかりで、相手のことなど考えていなかった。そして確かに側にいた存在が消えた時、知らなかったものの大きさに驚かされた。
 彼女が何を考え、何を見つめていたのか。故郷へと赴き、生い立ちを調べれば、真実に近づけると思っていた。だが現実はその逆だ。調べれば調べるほどに奇妙な事実が現れて理解を妨げる。

 例えば、新塚健児のこと。

 アヤナが姿を消した夜、新塚健児が交通事故で死亡している。サオリは新塚健児とアヤナの間に何らかの経緯があったと推察した。彼の事故現場に居合わせた直後にアヤナは姿を消しているし、タカハラの話からも彼とアヤナとの間に何らかの繋がりがあったと思われる。タカハラは新塚健児自身の口から、彼が一時期アヤナの故郷に滞在していたことを聞いていた。
 この事実を知らされた時、これこそが花村綾菜失踪の謎を解く鍵になると思ったものだ。だが意外なことに、彼とアヤナとの繋がりは何一つ見つからなかった。
 確かに親戚の者は彼の名を知っていたし、彼等の家に彼が訪れたこともあったようだ。しかし、
『ああ、確かに来たことがあったわね。でも一回だけだし、それっきり会ったことないわよ? ほとんど話をした記憶もないわ』
 と従姉妹の女性は言った。幾つかの事実を繋ぎ合わせてみると、確かに彼女の言葉は真実のようだった。アヤナの叔父と新塚健児の父親は仕事上の付き合いがあり、その関係で一度だけアヤナの住んでいた家を訪れた、ただそれだけのようだ。とてもアヤナと彼との間に繋がりがあるとは思えない。彼の死によってアヤナが姿を消さなければならない理由が何一つ見当たらないのだ。
 二人が再会した当時の様子から察するに、大学進学後に別の場所で再会していたとは思えない。だが十年近くの時の流れを越えてまで、アヤナを動揺させるような出来事が過去にあったとも考えにくい。勿論、いくらでも勝手な憶測は可能だが、そんなあやふやなものを根拠にしたくはない。
 失踪の原因を彼女の過去に求めていたサオリはそこで大きな壁にぶつかった。もしかすると全く別の要因が関わってくるのかもしれない。もし、それが事故や犯罪に関わるものならば、それはもう警察の領分だ。いくら口がうまくとも、小説家の手に負える範囲ではない。
 だが、それでもサオリは何処かに引っ掛かるものがあった。アヤナの失踪は彼女自身に原因があるように思えてならないのだ。それは研究者としての勘。渾沌とした世界の中に一筋の光明を見い出すことができる探究者としての感覚。サオリは自分にそれがあることを信じたかった。

 新塚健児に関する資料として、小説家は彼の撮った写真集を幾つか持ってきた。小説家は元々新塚健児のファンだったらしく、彼の作品には詳しかった。
 アヤナのことを考えるとき、サオリは時折それらを眺める。
 彼は撮影技術を専門学校で学んだような職業写真家とは違い、現場のアシスタントをこなしながら実践技術を培ってきたタイプだったので、アイドルのグラビア撮影から風景写真まで、かなり手広く仕事をこなしていた。アーティストとしてのエゴを表に出すこともなく、仕事や対象に合わせた画面作りをしていた。だが根底に流れる感覚は全てにおいて共通していた。儚気な、それでいて凛とした視線。それは控えめだが決して揺らぐことのない、芸術家としての姿勢に思えた。
 サオリはロック以外の芸術には疎いが、才能ある人間だったのだな、と思う。
 新塚健児は多くの人間に愛された人間だったようだ。普段飄々としているタカハラやオカダも、彼のことになると表情を曇らせる。それは彼の死を悼む為、彼の死によって精神を崩壊させてしまった一人の少女を悼む為だ。
 真珠という少女の写真集がサオリの手元にある。髪を鮮やかな青に染めた人形のような少女。そのあどけない表情と扇情的な身体のアンバランスさの魅力は、新塚健児の控えめな構図によって逆に一層引き出されている。その美しさは同性であるサオリにも恐いほどにわかった。いや、むしろ女性であるからこそわかる美しさを引き出せる新塚健児のセンスにこそ目を見張るものがあった。
 その少女……新塚健児の婚約者だった少女は今、病院にいる。彼女の精神は恋人の死の瞬間を目撃する衝撃に耐えられなかった。アヤナと新塚健児との関係を知る唯一の人間と思われるが、今の彼女は完全に心を閉ざしており話をすることは不可能だ。
 真実へと至る道もまた、そこから先は闇に閉ざされている。

レポート-2

2008年10月25日 | レポート

 花村綾菜の父親は小さな教会の牧師であった。彼は娘が生まれる数年前に彼女の母親と知り合い結婚した。彼の生い立ちは全くわかっていない。本当に牧師の資格を持っていたのかも疑わしい。ただわかっているのは、彼がいつの間にかある港町の小さな教会の牧師になったということだけだ。彼の牧師としての仕事振りは悪いものではなかったらしく、教会に通う信者の数も少なくはなかったようだ。娘を生み落として間もなく妻が亡くなるという不幸はあったが、それ以外は特に大きな出来事もなく、平穏な日々が続く。
 アヤナが五歳の頃に教会が全焼し、父親が死亡するまでは。
 その後、アヤナは資産家であった母方の親戚に引き取られ、その家で大学進学までの日々を過ごすことになる。

 ここから話は妙な方向に進む。それはアヤナの父親にまつわる話だ。 

 アヤナの父親はプロテスタント教会の牧師として聖職に従事する以外に、全く別の形で宗教活動に携わっていたらしい。
 二十年以上昔に広まった宗教団体……『殉教』と称して信者が集団自殺を図ったことで有名な狂信的団体がある。入信直後に消息を断った若者の家族からの訴えで警察が捜索に乗り出し、教団と衝突した結果、数名の警官と信者が死亡する事件が起きた。警官の捜査を阻止する為に信者が警官を刺し殺し、自らの命をも断ったのだ。
 警察は教団を激しく弾圧、ついに教団は空中分解した。いや、教団の幹部までが『殉教』してしまったので教団自体が機能しなくなったというのが正しい見解だろう。その後も残された信者が教団に殉じて自殺する事件が相次いだ。しかし目の前で死なれていく警察官や信者の家族はともかく、社会的影響は少なかったので、一時的に騒ぎにはなったもののいつしか忘れ去られていった。
 当時まだ生まれていなかったサオリが知らなかったのも無理のない話だ。
 この教団とアヤナには意外な関係がある。教団は複数の幹部によって運営されていた。彼らは一人を除いて全員が『殉教』している。その最後の一人……最後まで姿を現さず、正体のつかめなかった人物こそがアヤナの父親だというのだ。
 勿論証拠があるわけではない。教団のトップに立ち、自らを死に導く教義を広めた人物の存在こそ確認されていたものの、その正体は警察もつかめなかった。ただ、彼が教団の崩壊後も生き延びていたことは確かなようだ。
 小説家はこの話をとある定年を迎えた元刑事から聞いた。彼は当時の教団捜査班の一員であり、ずっとアヤナの父親を追っていたそうだ。だがその行方はようとして知れず、ようやく居場所を突き止めた直後、彼は火事で死亡した。
 その元刑事は教会の焼け跡の側に一人で住み、定年後の生活を送っている。小説家は元刑事から譲り受けた、教会の跡地から発見された物を見せてくれた。それは小さなセルロイドの人形や、銀の十字架、綾菜の父親が使っていたと思われるノートだった。

 話は一旦、その後のアヤナに飛ぶ。
 アヤナは父親を失った後、親戚に引き取られている。彼女は幼い頃の記憶を殆ど持っていないらしい。あの子から昔の話を聞いたことはなかったからね、とは彼女と同居していた従姉妹の言葉だ。アヤナの父親について何か知っているかと訊ねてみたが、何も知らないようだった。
 彼女は高校までアヤナと同じ学校に通い、仲も良かったようだが、アヤナの詳しい生い立ちについては何も知らなかった。彼女の親が話さなかったのだろう。彼等もアヤナの父にまつわる噂など存在自体知らなかったようだ。
 ともかく、アヤナは問題も起こさずに大学に進学し、この地を離れている。
『まあ、昔からあの子は大人しかったし、問題起こしたことなかったよ。私と違ってさ。本当に頭が良くて真面目な子だったね』
『あの子を叱ったことはほとんどありませんでしたね。小さい頃は、少し変な所はありましたけれど……』
『いやあ、引き取った時はどうなるかと思いましたが、あの子が立派な学者になってくれて安心しております』
 順に従姉妹の女性、引き取った叔母、叔父のコメントだ。小説家はタカハラの雑誌の取材という名目で訊ねたので友好的なコメントが多いのは当然としても、誰に聞いてもアヤナが問題を起こしたというような話はなかった。
 花村綾菜は自制的な人間だ。問題となるような目立つ行動を起こすとは思えない。大学に入ってからの男性遍歴は派手だったが、それも大学生活とは切り離していたし、花村綾菜という人間は驚く程に自分をコントロールしていた。
 しかしだ。
 幼い頃に親戚に引き取られた……両親を失い、記憶もないような少女が全く問題を起こさないものなのだろうか?
 疑問は他にもある。
 アヤナを引き取った親戚一家は、彼女のことを完全に他人と考えているようだった。従姉妹は姉妹だと思っていないし、叔父夫婦は子供だと思っていない。仮にも十年以上共に暮らしてきたのだ、信頼であれ拒絶であれ、普通は何らかの親密な関係が存在するものではないだろうか?
 だが彼等は、アヤナのことを偶然同じ建物に住んでいた隣人のような口調で語った。連絡も取り合っていないらしく、アヤナが失踪したことも知らなかった。
 彼女はここには帰ってこないでしょうね、と小説家は言った。

 家族と言えば、実の父親とアヤナの関係も奇妙だ。
 アヤナの父のノートに書かれていたのは実の娘の観察記録だった。
 幼い子供の記録をつける親など幾らでもいる。しかし彼のそれはただの記録ではなかった。動物の成長記録でもここまでは書かないだろうと思われる程に詳細に……冷静に記された『観察』記録。そこには当然あるべき親としての愛情は微塵も含まれていなかった。
 その一切の私情を省いた文章の隙間から這い上がってくるのは、獲物が太るのを待っている狼のような視線。ヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女はヘンゼルを牢屋に閉じ込め食事を与え、太るのを待っていた……そんなことを思い出させた。
 アヤナの父親が統率していたらしい教団には幾つかの容疑がかけられている。その中には幼女誘拐も含まれている。これは信者の娘が何人も『殉教』と同時に姿を消したことから浮上した容疑で、はっきりとした事実関係はわかっていない。
 かつて教団に妻と幼い娘を奪われた元刑事は、そうは思っていないようだが。

 何なのだろう、この話は? 
 小説家から話を聞かされた後、サオリの疑問は却って大きくなっていた。とても真実とは思えない。アヤナの生い立ちも、父親の話も、教団の話も、まるで何処かの小説のようだ。最初、サオリは小説家がでっちあげた作り話ではないかと思った。だが小説家はサオリ以上に混乱し、参っているようだった。

レポート-1

2008年10月24日 | レポート

 雲の隙間から太陽が姿を現し、ブラインドを白く輝かせた。
 ブラインドの隙間から射し込んだ光が机上を縞模様に照らし出す。小島佐織はコンピューターのモニタから目を離し、携帯電話に視線を向けた。
 花村綾菜が姿を消してから半年が経つ。正確には、新塚健児の事故が起きた夜から200日が過ぎようとしている。彼女が姿を消してから様々な出来事が起きた。それはサオリ自身に関する出来事であり、サオリの所属する研究室の問題であり、そして花村綾菜に関することでもあった。
 まず、ホムンクルスの復旧に関する問題が研究室を襲った。予測外のバグによりホムンクルスが壊滅的なダメージを受け、数値的な人工生命達はほぼ絶滅した。更に規模を縮小し続けるホムンクルスに対して、これ以上の計画の続行を疑問視する声が上がったが、サオリやタヤマ……研究に携わる者はまだ判断はできないと主張した。仮想的な環境とは言え、環境の激変後に新たな生物相が形成される可能性があるからだ。
 夜空に新しい星が出現する瞬間さえ待ち続けられる科学者に比べて、指導者や出資者はせっかちだ。大学はスポンサーの立会いのもとで研究室を査察し、研究の存続を決定するまでの期日を一ヶ月に設定した。
 それからの一ヶ月はまさに大混乱だった。研究室のメンバーのみならず、何故かタカハラやオカダ達まで一緒になって研究を存続させようとした。その為には新たな生物相の発見が必要不可欠だったが、時間は絶対的に不足していた。教授のカジワラも走り回っていたが、彼に限っては保身の為に動いていたようだ。
 ほぼ不休不眠でホムンクルスの探索が進められた。査察は少し延期された。タカハラ達がちょっとした働きかけをしたからだ。もっとも、彼らの友人だという大企業の社長を介して為されたその『妨害工作』という名の働きかけは相手に気づかれていないし、詳細な説明は控えた方が賢明だろう。特にタヤマが自作のパソコンを用いて行ったことなど、それだけで一本の小説が書けそうなほどのものだ。
 今でもタヤマは酒の席で、ある『踊り』を交えながらその時のことを話す。それは何とも滑稽なパソコンと『踊り』にまつわる話なのだが、公開すると彼の研究者人生が断たれてしまうことは間違いないので誰も口にすることはできない。

 小説と言えば、タカハラが連れてきた小説家は奇妙な男だった。タカハラの紹介で研究室の取材に来たこの男は、後に研究室の騒動やその他の問題に不思議な縁で関わっていくことになる。
 査察の当日、彼は研究棟の一室に集まった大学関係者とスポンサーを前に『世間話』と称して話を始め、二時間もその場に足留めしてしまった。その過程は一緒にいたサオリもうまく説明することができない。まるで魔法にでもかけられたかのように、いつの間にか二時間が経ってしまっていたのだ。
 現実とは妙なものだ。その二時間が過ぎた直後に、それまで発見できなかった新種の生命……後に『7』と名づけられるものが発見されたのだから。
 『7』は僅かに残った『6』と『イジドア』の結合体だ。正確には『6』の構造体の中に『イジドア』の情報体が入った形をしている。これによって『7』は常に情報変異を繰り返すと同時に、かつての『6』にこそ及ばないものの規模の大きな集団を形成することができるのだ。この生物進化の過程を模倣するような発見により、研究は手の平を返すように存続することになった。
 これが直ちに進化の謎を解き明かす発見だとはサオリは考えていない。ホムンクルスはあくまでシミュレーターだ。絵に描かれた風景がどんなに精密でも現実の風景とは異なるように、小説に書かれた世界がどんなにリアルでも現実の世界とは異なるように、ホムンクルスは実際の生物進化の過程を再現したりはしないだろう。だが、多くの人が描かれた風景から自然の美しさを知るように、記された人生に共感し教訓として心に刻むように、世界をシミュレートすることには意義がある。
 人が複雑な世界の全てを理解することは不可能だ。だからこそ要素のみを抽出し、分析を加え、試験しなければならない。気象の変化、経済の動き、化学反応、生物活動、人の心理や恋愛感情。科学と芸術は互いに分野を異にしながらも、星の数程の要素を分析してきた。限られた細部は世界そのものではないかもしれない。しかし、細部にさえ世界は宿っているのだ。
 科学者と芸術家は共に世界を切り崩し、その真実を知ろうとしてきた。例えその道のりが果てしないものだとしても、人はわからないことを知りたいと、思い続けてきたのだ。

 ホムンクルスの一件が解決した後、サオリはもう一つの『わからないこと』を調べ始めた。それは彼女の生涯において最大の謎……花村綾菜の謎だった。
 彼女がいなくなってから、サオリは自分が彼女について何も知らないことに気づいた。地方の小さな町の出身とは聞いていたが、家族の話は聞いたことがなかった。身なりから裕福な家の出だろうとは思っていたが、それも想像の域を出なかった。彼女は滅多に自分について話をすることがなかった。
 サオリが彼女の生い立ちを知りたいと考えたのは、それが彼女の居場所を探す手がかりになるかもしれないと思ったからだ。だが新たに動き始めた研究の計画に追われ、サオリ自身にそれを調べる時間的余裕は作れそうもなかった。
 彼女は他人と距離を置いて生きていたし、他人に合わせるような人間でもなかったが、不思議と反感を買うことも少なかった。姿を消した時も心配する声こそ上がったが、研究の肝心な時にいなくなったことを責める声は殆どなかった。だが、大学の研究室は共通する目的を持つ者の集まる場であって家族ではない。参加する人間の行動は干渉されるが、いなくなれば集合からは切り離される。一個人として心配する者はあっても居場所を探そうとまではしない。警察も真剣に取りあってはくれなかった。
 代行者は意外なところから現れた。例の小説家が話を聞いて調査に乗り出したのだ。仕事柄、彼は物事を調べることに慣れていたし、彼自身の興味もあった。そして何より、驚いたことに彼とアヤナは同じ高校の同級生だったのだ。もっとも、これは彼に花村綾菜の名を告げたときに判明したことであり、彼自身も驚いていたようだが。同級生と言っても二人が会話を交わしたことはなく、ただ共通の友人を持っていた程度だったらしい。
 ただ、彼自身は彼女のことをただの同級生とは思っていなかったようだ。それは今回の件に協力を申し出たことや、彼女のことを話す時の彼の表情からも読み取れた。
 一度、高校時代の彼女はどんな人だったのかと訊ねたことがある。綺麗な人だった、と彼は答えた。自分の世界を持っていて、近寄りがたい存在だったと。それから小さく笑った彼の姿に、サオリは片想いの相手に結局ずっと声をかけられなかった自身の高校時代を思い出した。
 好きな女性に話しかけられない割にと言うと失礼かもしれないが、探偵としての彼は優秀だった。サオリはわずか数週間でアヤナの生い立ちについて知ることができた。
 しかしその内容は、実に奇妙なものだった。
 彼が調査結果をサオリに報告する際、彼自身の手で事実関係を確認し終えて尚、
「これは本当の話ですからね?」
 と断ったほどに。

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2008年10月23日 | レポート

 雨が降っていた。素足の裏に濡れたアスファルトの感触がある。硝子の破片でも踏みつけたのか足を酷く切っているようだが痛みは感じなかった。前髪の先端から雫が落ちる。気温は下がり霧が出てきている。視界が悪い。
 ふと足元がぐらついた。小石が落ちる音がする。
 霞がかった意識を足元に向け、私は凍りついた。
 そこには裂け目が広がっていた。

 断裂は限りなく垂直に大地を抉っていた。霧のせいもあるだろうが、以前と同様底まで見通すことはできず、ただ澱んだ闇が顔を覗かせている。
 対岸は霧に覆われて全く見えず、白い闇が何処までも広がっている印象を与えた。
 引き返さなければ、と私は思った。
 このままでは転落してしまう。
 だが、私の足は動かなかった。視線を逸らすことさえできない。私は魅入られたように裂け目に潜む闇を見つめ続けた。

 ……このまま落ちてしまえば楽かもしれない。

 そんな考えが当たり前のように浮かび上がった。
 死んでしまえばすべてが楽になる。
 そう考えた。
 最初から無理があったのだ。私はこの世界で生きていくべき人間ではなかった。チィムニは言った、人間は動物から退化したと。おそらくはそうだろう。人間は人間となることで自然界から追放された。過剰に発達した神経伝達回路から生じた文化という名の錯覚は、人間自らを破滅の道に追いやろうとしている。何が進化なものか。猿でも知っている自然のバランスを崩し、単細胞生物並に繁殖を繰り返すだけじゃないか。
 私はその人間の中でも極めつけの欠陥種だ。人間の社会に溶け込むこともできず、人間から身を離すこともできない。常に何かを求め、何も得ることはない。
 私は人間の欠陥種だ。
 死を選べ。
 そうすれば人間という種も少しはましになるというものではないだろうか?
 欠陥種など不要だ。
 大人しく死を選べ。

 私はぼんやりと闇を見つめた。死という名の闇を。
 闇はさっきよりも穏やかに見えた。
 暗黒の上を白い霧が漂っていく。
 それはとても美しい光景。
 何かを心底美しいと思ったのは初めてかもしれない。
 今まで繋がっていなかった回路が繋がり、感覚が研ぎ澄まされたかのようだ。
 私は嬉しかった。
 これで最後なのだ。これくらいの愉しみが残されていてもいいだろう。
 私の心は一片の澱みもなく澄みきり、奇妙なことに朗らかな気分さえ感じていた。こんなに何もかもから解き放たれたような気分になったのは初めてだ。何だか幸せ過ぎて恐い気がする。
 妙な話だ。幸せを感じれば、そのことが気に触るなんて。
 これで最後なのだ。
 もう何も悩むことなどない。

 私は自分を受け入れてくれるものを感じた。
 壁のように聳え立つ巨大な闇の中に温もりを感じた。 
 この温もりには覚えがある。ずっと昔、この温もりが私を包んでくれていた。
 私はこれまでずっと、この温もりを追い求めていたのかもしれない。

 私はこの温もりを知っている。
 全てはこの底にあるのだ。
 お父さん……もう少し待っていてね。

 傍らで長い髪が揺れた。視線を向けなくとも誰がいるのかわかった。
「また貴女なの」
『つれないわね』
 女が言った。
「こんな所にまで出てこないで」
『仕方ないわ。私は貴女と一緒に闇を眺めてきたんだから。今までも、これからもね』
「これからはないわ」
『そう?』
 女が微笑んだのが感じ取れた。
「何故、貴女は私を止めるの? 私が生きていて何の意味があるの? 私が生きることに何の価値があると言うの?」
『意味なんかないわ』
 女が言った。
『貴女の大切な人が言っていたように、人生に意味なんかない。ただ、それでも生きなければならないだけよ』
「どうして?」
『……もう、わかっているはずよ』
 不意に女の存在が消えた。私は辺りを見回し、女が何処に消えたのかと探した。
 その時、私の目に空が映った。当たり前の光景。世界。……私が生きてきた世界。雲の隙間から一筋の陽光が射し込み、雨に濡れた坂道を輝かせた。
 私は気づいた。
 この世界は綺麗だと。

 もしかすると、繋がった回路がまだ機能しているのかもしれない。
 私は生まれて初めて出会うような気持ちで世界を眺めた。それは平凡な光景なのかもしれない。だが、全てが輝いて見えた。
 二、三歩先に携帯電話が落ちていた。どうしてこんなところに落ちているのだろう? 
そうか、蜘蛛に投げつけようとして手に持ったままここまで来たんだ。
 携帯電話。
 あれがあれば、研究室に電話をかけることができる。
 私はもう一度だけ人間の世界と繋がりたいと望んだ。
 許されるかはわからない。それでももう一度、誰かと話がしたかった。
 私は震える足を引きずって屈み、携帯電話に手を伸ばした。

 闇が動いた。
 私が手を伸ばした瞬間、背後で闇が動いた。振り向いた私が見たものは、襲い来る闇の姿だった。闇は蜘蛛のように長い手を伸ばし、私を捕らえた。
 足元の大地が崩れ、私は落ちてゆく。
 永遠に続く、底無しの闇へと。
 私は恐怖した。
 このまま世界から切り離され、閉じ込められることを恐怖した。
 救いを求めた。
 そして、心の底から深く、誰かと繋がることを望んだ。

 見えない手が私の体を包み込み、闇の淵から引き上げる。
 首筋に触れる暖かな感触。
 ……私は彼を知っている。

   
                          END

55

2008年10月22日 | レポート

「私の知り合いに男がいるのね。まあ私達と同じくらいの年の人間だと思ってよ。背は中くらい、顔はまあまあ……結構可愛い顔をしてるわ」
「……それは問題と関係があるの?」
「まあまあ、最後まで聞きなさいよ。ここまではただの前振り! 話の枕よ」
 チィムニは思わせ振りに人差し指を立てた。
「この前、私はその男と街中でばったり会ったの。時は二週間前、土砂降りの日の夕方よ」
 チィムニの話をまとめるとこうだった。繁華街をぶらぶらと歩いていたチィムニは、偶然その男と会ったらしい。男は自転車に乗って傘をさしていたが、奇妙なことに身体の半分以上がずぶ濡れだったそうだ。
「勿論、私は変に思ったわ。そいつ結構ぼんやりしてるんだけど、流石にそこまではバカじゃないと思ったしね。で、私は聞いたわけよ。どうしてそんなにずぶ濡れなのってね。そしてら、そいつ何て言ったと思う? 傘のない人がいたから自分の傘に入れてあげたんだって。でも、変だと思うでしょ? 普通、傘に人を入れたくらいでそこまでは濡れないわよね」
「大きい人だったんじゃないの?」
「まあ、それに近いわ。違うのは身体が大きかったんじゃなくて、車椅子に乗った人だったってことかな?」
 その男が傘を差しながら自転車に乗っていると、車椅子に乗った人が覆いも何もない橋の上を、何も雨避けになるものを持たずに移動しているのを見かけたらしい。それでその男は自分の持っていた傘を車椅子の人に差し出したというのだ。
「最初は自分も半分、傘に入ってたらしいんだけどね。ほら、やってみるとわかるけど、自転車押しながら傘を差すのって難しいし、お互いにうまく入れないよね。車椅子とは高さも違うしさ。それで最後にはその人に傘を渡して、しかもずっと横について歩いてたらしいわ。その人とは橋を渡りきったところの商店街で……アーケードあるじゃない、あそこで別れたらしいから、距離的にはそんなにないんだけどね。でも、ずぶ濡れになっちゃったってわけ」
 チィムニは首を傾げながら言った。
「それにしても……どうしてそんなことしたのかしらね?」
「自己満足じゃない? 人助けして目立ちたかったのよ」
 私はいつの間にか彼女の話に聞き入ってしまったことが腹立たしくて、そう答えた。それに実際にそうとしか思えなかった。
 しかしおかしなことに、チィムニは私の答えを聞いて笑い出した。
「やっぱり貴女に話して良かったわ、この話!」
「……どうして?」
「だって、同じこと言ったんだもの、そいつ。私がどうしてそんなことしたのって聞いたら、自己満足だって。こんなことは偽善に過ぎないってね」
「じゃあそれでいいじゃない」
 私は少し腹を立てた。ただ、少し疑問も湧いた。
「でも妙な話なのよ。自分じゃ自己満足だとか何とか言ってるくせに、やたらとその人のことを気にしているの。あの後、どうしてるだろ? とか、体が濡れてたけど大丈夫かな? とかさ。あのまま傘をあげれば良かったかな、なんてぶつぶつ言ってるのよ? それでも用事があって急いでたから仕方ないよな、なんて言ってるのが可愛いとこなんだけどね」
「馬鹿らしい」
 私は吐き捨てるように呟いた。
「それはただ単にその男が矛盾の多い分裂した精神構造を持っているだけじゃないの? そんな些細なことでそこまで考えるなんて時間と労力の無駄よ」
「そうね、そうかもしれない。そいつはとても不自由な人間よ。車椅子の人は肉体的に制限がかかっていたけど、そいつは精神的に多くの制限がかかっているの。何処か貴女と似てるわ」
「何処が?」
「何処だろうね」
 チィムニは一瞬、寂しそうな目をした。時折彼女はこのような顔をする。いつもの底抜けに明るい表情の奥から、もう一つの顔が覗くことがある。
「ねえ、アヤナ。考えるってことはやっぱり必要よ。それは厄介なことで何の得にもならないかもしれないけど、人間には考えるってことが必要なのよ。今度のことでも考えるべきことはあるわ。例えば……どうして、その男は自己満足と思いながらも他人を助けたのか。これは些細なことだけど奥の深い問題よ」
「何が言いたいの?」
 訊ねると、チィムニはいつもの調子を取り戻した。
「だから、人生には哲学が必要だってことよ! 人間は自然を離れ、退化して多くのものを失ったわ。だからこそ哲学が必要なの。自分の頭で考えるってことが必要なのよ」

 チィムニとの話はそこで終わった。私は予備校に行き、チィムニは帰宅した。
 この日の会話は彼女と私の間で為された幾つもの会話の一つに過ぎない。彼女の話は多くの人には理解できないものだったし、その一部は私にも理解できないものだった。
 その後の進路調査で、私は生物学科を志望した。チィムニに言われたからではない。医者は他人と接する機会が多く面倒だと思ったのだ。
 私は比較的新しい私立大学に合格した。そして当時はまだ無名の助教授だったカジワラと出会い、人工生命の話を聞かされることになる。似たような研究がアメリカで既に行われており、カジワラはこれに影響を受けて新たなプランを思いついたのだ。私は彼の研究を助けるという形で、プランの具体的な形を決めていくことになる。
 それは私が生まれて始めて行った、一から何かを組み立てる作業であり、初めて見つけた目的だった。多くの人の助力とアイディア、そして幸運の結果、プランは成功し……私は一人の研究者としての人生を歩むことになった。
 このことが私に与えた影響は大きい。私の自己は成長し、アサギから吸収した知識と技術を応用して、通常の対人関係にも積極性を出すことができるようになった。
 そこに至るきっかけを与えたのは、チィムニの問いかけであったのかもしれない。
 チィムニはギリギリの単位数で高校を卒業した後、美術の専門学校に進学した。やがて専門学校を中退して単身海外に渡り、気鋭の新人アーティストとして華々しいデビューを飾った。
 やはり、彼女はこの国に収まる大きさの人間ではなかったのだろう。おそらく彼女は天才と呼ばれる者の一人に違いない。普通の人間には見えないものを見透かし、聞こえないものを聞いた。彼女が私に問いかけたことは、彼女自身が抱いていた疑問であったのかもしれない。そして彼女は、私の中にも自分と同じ疑問があることを見抜いた。
 私自身も気づいていない疑問がいずれ表面化し、私を捕らえるのを予測して、あの質問を投げかけた……そんな気さえする。
 もっとも、彼女が何処まで自覚的だったのかはわからない。ただ多くのもの感じ取り、行動に移してしまえることが、彼女の天性であったように思う。
 そう。
 彼女は今……。

 夢はいつしか覚めるもの。
 私は再び二十五歳の世界へと投げ出された。

54

2008年10月21日 | レポート

「そろそろ受験対策で忙しそうね」
 チィムニは教室の中を見回して言った。
「みんな高校に入った頃からしているわ。そうじゃなかったのは貴女くらいよ」
「それもそうね」
 私に目を向けて可笑しそうに笑う。
 チィムニは不思議な女性だった。感情的なようでいて非常に客観的、誰にでも心を開いているようでさっぱり本心がつかめない。
 私はその不可解さに興味を持ち、彼女のすべてに客観的で突き放しているような態度のおかげで全くストレスを感じることなく付き合うことができた。だが、彼女のつかみ所のなさは多くの生徒の反感を買う原因になったし、彼女は彼女で他人に合わせる気は全くなかった。多くの生徒は最大限多くの他人に自分を合わせようとしていたが、彼女は自分についてこられる人間とだけいられればいいと思っていたようだ。
 実際、彼女が他人に合わせることは難しかっただろう。人間にはそれぞれ器というものがある。彼女はそれが非常に大きい人間だった。象が鼠の真似をすることほど馬鹿げた話もないだろう。
「それにしても、アヤナが理系の大学に行くとは思わなかったわ」
「私に文学や歴史が研究できると思う?」
「まあね、貴女の現国の勉強法は教科書の解釈の丸覚えだもんね。でも教科書の解釈なんて本当に文学を理解しているとは言えないわ」
「だから私は理系に行くの。わかった?」
「そうやって話を短くまとめるのはやめなよ。会話ができないじゃない」
 チィムニが苦笑する。本当に彼女は不思議な人間だと思う。普通の人間ならここまで突き放したような口調で話をしたら気を悪くするものだ。
 ちなみに彼女は私とは対照的に長々と自分の考えを書き殴る癖があり、国語の試験はいつも赤点に近かった。これは彼女の文学への豊富な知識と興味の裏返しで、彼女にとって国語は美術以外で唯一本気になれる教科だったからだ。
 そんな彼女が、かつて一度だけ極めて簡潔な解答をしたことがある。梶井基次郎の『檸檬』に対する感想だ。

『自意識過剰! ソープランドに行け!』
 これで彼女は初めて赤点を取った。

「でもさあ、理系って言っても色々あるよね。アヤナは何処に行くの?」
「詳しくは決めてないわ。家の方は医学部に行ったら喜ぶんじゃない?」
 実際、私は人体を解剖できる医学部に少し興味を持っていた。人間の観察者としてこれほど相応しい分野もないだろう。
「ダメよ、ダメ! 医学部なんて古臭いわ」
「古臭い?」
「そうよ。あそこはかのギリシャから続く西洋合理主義の根城なんだから」
「私は別に哲学を学びに大学に行くんじゃないわ」
 私は彼女の突飛な発想に辟易した。いつものことながら、こんな時は正直どうして彼女と会話をしなければならないのかと疑問に思ったりもする。私の思いを知ってか知らずか、彼女は妙に真剣な口調で話し続けた。
「哲学ってのは大切なのよ? それこそいかに人間が発展し、進むかを示すものなんだから! だから哲学はあらゆる分野の学問に及ぶし、すべての学問は哲学を内包しているのよ。ちなみに医学部の哲学はこうよ。すべての生物を分解し、その生命維持システムの全貌を把握せよ。そしてそのシステムがどうすれば効率良く機能するかを調べ、どうすれば長持ちするか考えろ!」
 彼女は言った。
「西洋人はこれを大昔からやってきたから、合理主義と資本主義を生み出したの。医学と資本主義は似ているわ。どちらも人の精神のことを考えないって点と、好き勝手に人間を痛めつけてもいいって考えてる点でね」
「私も人のことを考えないわ」
「ああもう、またそうやって人の話の腰を折る!」
 彼女の話には独特の方向性がある。論理の展開自体は実に簡潔で的外れでもないのだが、奇妙なものを論拠として引っ張り出してくるのだ。
 生物の説明に物理の法則を用い、音楽を味覚で表現する。その組合せが彼女の中でどのように成り立っているのかは疑問だ。
「だからね、私が言いたいのは医学に新しい哲学を創り出せる力はないってことよ。多分そう遠くない未来、医学は色々なことができるようになるわ。ロバの頭を人間の体にくっつけたり、硝子の心臓を体に埋め込んだりね。でもそれは今までの哲学の延長線上でしかない。どうにかして人間の体を長持ちさせようって考えからは抜け出せない」
「じゃあ、どの学部がいいの? その、貴女の言う新しい哲学を創り出せるのは?」
 チィムニはニッと笑った。
「私が考えるには生物学ね。これは今、急速に発達している学問だからね。物理もスケールが大きくていいけど、あれはもう普通の人間が理解できる範囲を超えてるわ。それに物理ってのは、例えるなら世界っていうチェス板の構造を調べる学問よ。私はその上で行われるゲームの中身の方に興味があるの。アヤナもそう思わない?」
 私は答えなかった。
「生物の行動の仕組みは? 何故、そうなっているの? それにはどんな意味があるの? これは哲学の最重要問題と同じことよ。シンプルだけど奥が深いわ。それにどんなに難しくても、一般人の理解の範囲内にギリギリ踏み止まっていられる。それはゲームのルールに近いからね」
 彼女は続けた。
「そして同じ生物として、生物学の哲学は簡単に人間に当てはめることができる。これはかなり大きな利点よ。もっとも、簡単すぎて誤解する人も多いでしょうけどね」
 彼女は芝居がかった身ぶりで両腕を広げた。
「今、必要なのは全く新しい論理と哲学よ。ものが溢れて生きる方向が見えなくなった時代にこそ必要な哲学……別に無理して生きていかなくても関係ない時代だからこそ必要な哲学よ。我々は何処から来たのか? 何を為すべきか? そして何処に行くのか?」

「そして、生きるとは何か? これこそ全ての人間が追い求めるべき問題なのよ」
 
「私に哲学は必要ないわ」
 その頃の私は目の前の問題に対処することに精一杯で、彼女の話には対処できていなかった。実際の話、彼女の視線は私より遥かに遠くのものを見ていたのだろう。目の前の問題に気を配っているだけでは生きていけない時代がやってくる。彼女はそのことに気づいていた。
 それは個人個人が自分自身の生き方を見つめ直さねばならなくなる時であり、新たな道を自分で決めなければならない時だ。その時は哲学こそ人間に必要なものとなるだろう。後に好景気が終わり、この国全体が再出発の必要性に直面した時、私は彼女の言葉を思い出してそう思った。
 だがこの時、私は家と学校に支配される時間はまだまだ続くと考えていた。
 チィムニは私が関心を持たないので戦略を変えた。彼女はいかにも面白そうなことを思いついた顔で私に話しかけてきた。
「それじゃあ、アヤナに面白い問題を出してあげる」
「問題?」
「そう、問題。アヤナっていつも何か考えてるでしょ? だから暇潰しの問題よ」
 彼女はニヤニヤ笑いながら言った。
「ただし、解けるのには大分時間がかかるかもね」
「私に無駄な時間はないわ。そろそろ予備校に行かないと」
 私は大学進学が決まった頃から予備校に通っていた。
「ああ、問題を聞くだけだから時間はかからないわ」
「いいわ。聞くだけよ?」
「うん、それでいい」
 チィムニは満足そうに微笑むと話し始めた。
 それは実際には少し長く、妙な話だった。

53

2008年10月20日 | レポート

 あれからどれくらい時が流れたのだろう?
 数ヶ月が過ぎたような気もするし、もしかしたら数日かもしれない。
 もし数日だったら、ケンジは死んだわけじゃない、と考えた。何かの用事で帰れないだけで、今にひょっこり帰ってくる。そうに違いない。
 それから、これは昨日も考えたな、と思った。
 私の体は酷い状態だった。数日だか数ヶ月だか、何も食べていないのだから。しかし空腹は感じなかった。ただ無気力だけが全身を満たしていた。
 何度か夢を見た。
 あの蜘蛛の夢だ。久し振りだったので少し忘れていた。
 私はもたれかかった柱に頭を軽く打ちつける。
 そうしないと眠ってしまう。

 頭を軽く振った瞬間、目の前の景色が変わった。
 そこは寒く真っ白な部屋。
 嫌な音がして扉が開き、蜘蛛が入ってくる。
 私はベッドに腰掛けている。動くことができない。
 自分の悲鳴で目が覚めた。
 途端、何かがべとりと手に粘りついた。
 何かの液体が私の下半身を紅く染めている。
 ……そして蜘蛛がいた。
 私の足元、左前……今、足をかけた。
 悲鳴、
 悲鳴、
 夢だ。
 夢だ。

 ……でも、何が夢なんだ?
 
 私は近くにあった物を手当たり次第に投げつけた。
 彼の箸と彼の皿。
 これで彼は食事を摂ったのだ。
 ラジオと机。
 彼が直したラジオ。
 どうしてくれるんだ? また壊れたら。
 しかし、蜘蛛は何を投げても向かってくる。
 私は外に逃げ出した。

 体が思うように動かない。
 足は震えている。
 でも逃げなければ。
 何処へ?
 何処へ、何処へ?
 何処へ、何処へ、何処へ?

 扉を叩き割るようにして外に飛び出した。
 階段を降りて一階へ。
 壁や手すりに身体中を打ちつけて。
 外に出る。
 夏の陽射し、
 いや違う夏はもう終わりだ。
 冬がくる。
 冬がくる。
 寒い冬だ。
 雪も降る。
 ……寒い冬だ。
 嫌だ、
 嫌だ。
 冷たいのは大っ嫌いだ!
 私は砂利を舐めながら、坂道を転げ落ちた。

   /

 私は高校三年生の教室にいた。
 アサギと多くの時を過ごし、それでも消えない不安感から目を逸らしていた日々。大学時代のように研究もなく、無意味な受験勉強に時間だけが流れていった場所。
 私は……この場所に立ち返ることを避けていたように思う。

「ねえ、アヤナ」
 声がした。振り向くと、窓際に一人の少女がいた。短い髪にラフな服装。私と従姉妹のエリカが通っていた高校は私服だった。
「何? ……えっと」
 夢の中でよくあるように、私は自分の立場と役割を薄らと自覚していた。
 ただ、名前が出てこない。よく知っていたはずの名前なのに。
「ごめんなさい、貴女の名前が出てこないわ。どうしてかしら?」
「勉強のしすぎよ、アヤナ」
 少女が笑う。窓からの光が逆光になって顔がよく見えない。
「私の名前はチィムニ。貴女の元クラスメイト。そうでしょ?」
「そうだったわ。……どうかしてた」
 私はこめかみを押さえながら呟いた。
 チィムニというのは彼女のニックネームだ。本名は篠宮忍、去年まで私と同じ進学組の生徒だった。その由来は、背が高くて身体にメリハリがないから……まるで煙突みたいにね、と彼女自身が教えてくれた。実際、彼女は少しも女性的な体つきをしておらず、そのスマートな長身は彼女の好む黒地の服装によって更に強調されている。顔つきは大人びており、特に目から鼻にかけてのラインは、この国の人間にはないエキゾチックな印象を与えた。
 彼女は私と同じ進学組に在籍してはいたが、あまり勤勉な生徒とは言えなかった。祖父に高名な画家を持つ彼女は勉学よりも芸術活動に関心を寄せ、その頃から才能の片鱗を見せていた。私も含めて積極的にクラブ活動に参加しようとしない他のクラスメイトとは異なり、自分から進んで美術部に入り……学校側からその自由気ままな生活態度が咎められると、学校生活のほとんどを部室で過ごすようになった。
 あいつは美術部に登校しているな、とはかつての担任教師の言葉だ。
 それでも彼女は平均以上の成績を保ち、留年は免れていた。しかし学校側との衝突が尽きることはなく、三年生に進級したと同時に選択科目の中に美術がなくなったことを理由に彼女は進学組を離れ、一般のクラスに移った。その途端、学校側からの干渉がなくなったのは言うまでもないだろう。まあ、そんな学校だったのだ。
 当時、私と彼女の間には、クラスメイトという以外の接点も共通点もなかったように思う。三年生になってからはそれすらもなくなった。だが不思議なことに、彼女は私の高校生活の中で唯一親しくなった相手だった。毎日少しずつだが会話をしたし、同じクラスにいた頃は誰よりも私の隣にいる時間が長かった。三年生になってからも、放課後になるとよく私の所に来ていた。
 この時もそうだった。
 彼女は私にとって唯一の、友人……と言ってもおかしくない人間だったのかもしれない。

52

2008年10月19日 | レポート
 
「……何言ってるの? ケンジ」
 私は呆然と呟いた。
「私が貴方の所から出ていくはずがないでしょう?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、私に出ていって欲しいの?」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
 ケンジは静かに言った。
「オレはアヤナが好きだよ。ずっと大好きだ。……でも、オレと一緒にいてアヤナが好きなことができないって言うならオレは我慢するよ。アヤナみたいにオレに優しくしてくれた人はいないよ。一緒にいてくれたのはアヤナが初めてだ……だから、オレもアヤナの為に何かしたいんだ」
「そんなことを……考えてたのね」
 私は可笑しくなった。ずっと自分よりも子供だと思っていたケンジに、そんなことを言われるなんて……今まで何処かで保護者ぶっていた自分が可笑しかった。
 そして更におかしなことに、私の目からは涙が出て止まらなかった。
 本当におかしな話だ。
「どうして泣いてるの?」
「どうしてかしら。自分でもわからないわ」
 私はしばらくの間、泣き続けた。ここに来てからどれほどの涙を流しただろう。自分にこんなに涙が残っているとは思わなかった。もう、流し尽くしたと思っていたのに。
 昔読んだ絵本の中に、自分の流した涙の海で溺れてしまう少女の話があった。読んだ時にはいかにも子供騙しのお伽話だと思ったものだ。しかし今、私の流した涙は私を包み込み、潤し、大きな流れとなって私を海へと導いた。
 コミュニケーションの海へと。
 やがて涙が止まったとき、私の胸にはほんの小さな勇気が宿っていた。
「ケンジ……私はここから出ていかないわ」
 私は呟いた。
「ここにいると本当に安心することができる。自分の弱さを認めて、無理をしないで生きていくことができる。当たり前の一人の人間として生きていくことができるわ。私はここから出ていっても生きていくことはできないと思う。これは客観的な事実よ。私は結局、一人では生きていけない人間なの」
 ケンジが悲しげな顔をする。私は頬を拭い、微笑んだ。
「でも、もう少し勇気を持ってみてもいいかもね。貴方の言う、コミュニケーションの海と繋がる勇気をね」
「アヤナ」
 ケンジが安堵の溜息を洩らす。これじゃあ本当に保護者失格だ。
「明日にでも……大学の方に電話をかけてみるわ。生きてるってことだけでも伝えなきゃね。復学させてもらえるかどうかはわからないけど……一応は伝えてみる」
 私はそばに落ちていたケンジの携帯電話を拾い、フォルダーに指をかけた。
「通信技術の発達に感謝しなきゃね。何処にいても他の人と繋がることができるんだから。そうね、私もケンジみたいにここから大学に通えばいいんだ。そうすれば貴方と離れなくてもいいじゃない?」
「無理だよ、アヤナは朝起きるのが遅過ぎるから間に合わないよ」
 失礼だがもっともなことをケンジが言った。
「大丈夫よ。機材さえ揃えてしまえば、最近は家にいながらでも仕事ができるんだから。別に毎日都会に行かなくてもいいのよ。これこそ情報化社会ってものだわ」
 私は笑った。
「ケンジ。お願いだから私と別れるなんて悲しいことを言わないで。確かに私は貴方以外の人間との関係を修復しなくちゃいけない。でも、だからって貴方との関係をなくしたくはないの。貴方との関係は、私の中で一番大切なものだから……だから私は貴方と別れたくない。ケンジは人間の幸福は人間同士の関係の中にしかないって言ったわよね。だったら私の幸福は貴方との関係の中にしか存在しないわ。そうでしょう?」
 私は冗談めかして話を続けることができなくなった。
 いつしか私の涙は、再び流れ、頬を濡らしていた。
「私を一人にしないで。私は貴方と一緒に生きていきたいの」
 私は言った。
 一人の女として。
「アヤナ」
 ケンジが私の名を呼ぶ。
 顔を上げると、涙で揺らめく水面の向こうに彼の姿が見えた。
「オレはどこにも行かないよ。アヤナがそう言うんだったらオレはアヤナと暮らす。じゃなくて、暮らしたい」
 ケンジは照れ臭そうに笑った。
「やっぱり、オレも無理だよ。アヤナと離れて暮らすのはさ。ちょっとかっこいいこと言っちゃったけど……本当に出ていっちゃったらどうしようかと思ったよ。……なんか、かっこ悪いね」
 そう言って微笑むケンジの顔は、いつものように無邪気なものではなく、何処か影を帯びた……しかし、綺麗な顔だった。
 私はこの人となら、この星で生きていける。そう確信した。

 私達は愛し合った。
 長い時間をかけて一つになり、深い深い快感を得た。
 私は疑問に思う。
 これまでに行ってきたセックスで、私は本当に快感を得ていたのだろうかと。傷の痛みを忘れる為に、更に大きな傷をつけさせていたのではないかとさえ思う。
 私は確かに彼と繋がっているのを感じた。そして更に大きなものと繋がっているのを感じた。それは大きな流れのようなものであり、私達の内にあり、外にもある。
 それは否応なしに私達を飲み込んでいく大いなる流れだ。
 私はケンジと共にその流れに身を委ねた。
 そして、新たな流れが私の中に芽生えることを望んだ。

 目を覚ますと、ケンジが布団から出ていることに気がついた。おぼつかない手つきで服を着ている。
「……どうかしたの?」
 私が訊ねると、ケンジはこちらを向いて、少し出かけてくると言った。
 何処へ? と訊ねると、コンビニまでとケンジは答えた。
 別にこんな時間に行かなくてもいいのに、と言うと、ケンジは少し欲しいものがあるんだと答えた。
 以前の私なら不安に思っただろう。しかしこの時の私は安心感で満たされ、少しくらいのケンジの不在には何の疑問も抱かなかった。今まで生きてきた中で、これほど私の心が満たされていたことはなかっただろう。物心ついたときから片時も私のそばを離れなかった不安は、そこにはなかった。
「いってらっしゃい。あんまり遅くならないでね」
 私は布団から起き上がると、玄関に立ったケンジに声をかけた。

 ケンジはドアに手をかけて止まり、振り返った。
「いってくるね」  
 廊下の明かりに彼のシルエットが浮かび上がり、そして消えた。

 私は思う。
 この時、私は不安に思うべきだった、と。
 私はずっと、孤独への不安がなくなることを望んでいた。他人を拒絶しながらも、安心で満たされることを望んでいた。
 ……だが、私は思う。
 この時私の心に不安があれば、どんなに良かっただろうと。









 ケンジは帰ってこなかった。