Dr.マッコイさんが、『「頑張った人が報われる社会」とは?』の中で、
という意見を述べておられますが、私も同感です。
「自由な競争」というのは、たとえば、村上ファンドなどによる株の買占め行為などに見られるように、資金を持っている方が圧倒的に有利です。資金のないものは最初から参加すらさせてもらえないような場合も多くあります。
自然界について言えば、ライオンと羊を対等に戦わせるのが「自由な競争」であり、ボクシングの世界で言えば、「ヘビー級」「ライト級」といった一切の階級を無くして、ハンディキャップ無しで戦わせるのが「自由な競争」です。
このような例を並べていくと、「自由な競争」というのが、一種の「理不尽さ」を伴っている事が分かります。羊はライオンにかないっこないし、「ライト級」の選手が「ヘビー級」の選手に勝つ可能性は、ほとんどゼロです。
という事で、「ライト級」の選手と「ヘビー級」の選手とが戦う場合は、「ヘビー級」の選手にそれ相当のハンディキャップを与えるか、あるいは、「ライト級」の選手たちが競う場所と「ヘビー級」の選手たちが競う場所とを分けて、棲み分けをするというような配慮を行う事が、むしろ「公正な競争」という事になるのだと思います。
(ハンディキャップ:競技や勝負事などで、優劣を平均するために、強い者に加える負担。)
「規制」というとネガティブなイメージを持ちますが、このような「公正な競争」、「適切な競争」を行う際に必要なものでもあります。たとえば、雇用者と労働者の間には、大変な力の差があります。この力の差に対するハンディキャップとして、たとえば、「労働基準法」といった法律による「規制」があり、このような規制によって、労働者の権利が守られるのです。
(ごくまれに、労働者の権利が過剰に守られているような職場もあるようですが、そういう職場はまれであり、レアケースを以って、全体を論じてはいけません。)
振り返ってみれば、原始資本主義こそ、規制の無い「自由な競争」の場でした。そのような「自由な競争」の場では何が起こっていたかといえば、労働者の雇用者に対する隷属であり、また雇用者による労働者の搾取であったわけです。資本論もそのような状況下で書かれたものです。このような、資本主義の矛盾が一部の人たちを社会主義へ駆り立てたのです。(残念ながら、社会主義は、資本主義以上に理不尽なものだったのですが・・・。)
原始資本主義が、社会主義に対する脅威により、社会主義の唱える「福祉」とか、「弱者救済」という理念を取り入れてから、ようやく資本主義が、人間的なものになったという歴史的過程を忘れてはいけません。(「弱者救済」というものも行き過ぎてはいけませんが)
「自由な競争」を目指すネオリベとか新自由主義などといったものは、結局、原始資本主義に回帰しようとする反動主義なのです。、
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どうもネオリベ路線支持者、新自由主義の信奉者といいますか、市場原理主義者たちは「頑張った人が報われる」ためには「自由な競争」が大切だと言いたいのだと思います。しかし私はそれは間違っていると思います。 「自由な競争」ではなく「公正な競争」が大切なのだろうと思うわけです。 完全に自由な競争では、強い者も弱い者も同じ土俵で闘わなければならず、また勝てば勝つほど、金も情報もどんどん集中してゆき、勝ったものは勝ち続け、負けたものはずーっと負け続けます。 |
という意見を述べておられますが、私も同感です。
「自由な競争」というのは、たとえば、村上ファンドなどによる株の買占め行為などに見られるように、資金を持っている方が圧倒的に有利です。資金のないものは最初から参加すらさせてもらえないような場合も多くあります。
自然界について言えば、ライオンと羊を対等に戦わせるのが「自由な競争」であり、ボクシングの世界で言えば、「ヘビー級」「ライト級」といった一切の階級を無くして、ハンディキャップ無しで戦わせるのが「自由な競争」です。
このような例を並べていくと、「自由な競争」というのが、一種の「理不尽さ」を伴っている事が分かります。羊はライオンにかないっこないし、「ライト級」の選手が「ヘビー級」の選手に勝つ可能性は、ほとんどゼロです。
という事で、「ライト級」の選手と「ヘビー級」の選手とが戦う場合は、「ヘビー級」の選手にそれ相当のハンディキャップを与えるか、あるいは、「ライト級」の選手たちが競う場所と「ヘビー級」の選手たちが競う場所とを分けて、棲み分けをするというような配慮を行う事が、むしろ「公正な競争」という事になるのだと思います。
(ハンディキャップ:競技や勝負事などで、優劣を平均するために、強い者に加える負担。)
「規制」というとネガティブなイメージを持ちますが、このような「公正な競争」、「適切な競争」を行う際に必要なものでもあります。たとえば、雇用者と労働者の間には、大変な力の差があります。この力の差に対するハンディキャップとして、たとえば、「労働基準法」といった法律による「規制」があり、このような規制によって、労働者の権利が守られるのです。
(ごくまれに、労働者の権利が過剰に守られているような職場もあるようですが、そういう職場はまれであり、レアケースを以って、全体を論じてはいけません。)
振り返ってみれば、原始資本主義こそ、規制の無い「自由な競争」の場でした。そのような「自由な競争」の場では何が起こっていたかといえば、労働者の雇用者に対する隷属であり、また雇用者による労働者の搾取であったわけです。資本論もそのような状況下で書かれたものです。このような、資本主義の矛盾が一部の人たちを社会主義へ駆り立てたのです。(残念ながら、社会主義は、資本主義以上に理不尽なものだったのですが・・・。)
原始資本主義が、社会主義に対する脅威により、社会主義の唱える「福祉」とか、「弱者救済」という理念を取り入れてから、ようやく資本主義が、人間的なものになったという歴史的過程を忘れてはいけません。(「弱者救済」というものも行き過ぎてはいけませんが)
「自由な競争」を目指すネオリベとか新自由主義などといったものは、結局、原始資本主義に回帰しようとする反動主義なのです。、
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