阿部知子議員が前回のメルマガについて、弁明しています。(何か、批判にちゃんと向き合わず、かわしているという感じもしますが)
↑この様に書くのであれば、事実認識の誤りについて、説明すべきなのではないでしょうか。
具体的に言えば、赤字の部分↓が嘘でしたと「ごめんなさい」すればいいのにね。
何が反発を受けたかと言えば、「自衛隊が、救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。」という間違った事実を前提に、「肝心の時に役に立たない自衛隊」というお門違いの自衛隊批判を展開した事と、「自衛隊の出動の遅れが、他ならぬ社民党の村山首相による命令が遅れた事に起因する」という点に一切触れていなかった事にあるのだけどね。
↑「だから、村山首相に対応の遅れは無かった」と言いたいようです。
「なにぶん、初めてのことだから」って、村山首相と同じようなことを言って誤魔化すつもりのようですね。「いい教訓になりましたね」で、済ませてしまっていいのかどうか・・・。
まあ、この辺が、社民党議員の書ける限界なのかも知れません。
↓応援よろしく
(参考)
衆議院議員 阿部知子のホームページより、
>私自身の表現の足らぬ部分、また事実認識のあいまいさに起因する部分もあったと思います。 |
↑この様に書くのであれば、事実認識の誤りについて、説明すべきなのではないでしょうか。
具体的に言えば、赤字の部分↓が嘘でしたと「ごめんなさい」すればいいのにね。
>阪神大震災は12年目を迎えたが、国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、国による命令を受けて救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。 |
何が反発を受けたかと言えば、「自衛隊が、救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。」という間違った事実を前提に、「肝心の時に役に立たない自衛隊」というお門違いの自衛隊批判を展開した事と、「自衛隊の出動の遅れが、他ならぬ社民党の村山首相による命令が遅れた事に起因する」という点に一切触れていなかった事にあるのだけどね。
>村山首相の対応の遅れを指摘されるご意見もありますが、1月17日午前10時、国土庁長官を本部長とする非常災害対策本部を設置、午後4時に村山首相は、官邸で緊急記者会見を行い、万全の対策を講じることを表明しました。 |
↑「だから、村山首相に対応の遅れは無かった」と言いたいようです。
>私を含めてだれもが未曾有の災害に対して、十分な判断や迅速な行動がなしえなかったことについて、多くの教訓が残されたと思います。 |
「なにぶん、初めてのことだから」って、村山首相と同じようなことを言って誤魔化すつもりのようですね。「いい教訓になりましたね」で、済ませてしまっていいのかどうか・・・。
まあ、この辺が、社民党議員の書ける限界なのかも知れません。
↓応援よろしく
(参考)
衆議院議員 阿部知子のホームページより、
2007/2/24 カエルニュース第254号 ★☆ たくさんのご意見をちょうだいして ☆★ 先回のメルマガには、たくさんのご意見を頂戴致しました。私自身の表現の足らぬ部分、また事実認識のあいまいさに起因する部分もあったと思います。そこで私の伝えたかったことと合わせ、皆さんからご指摘のあったことも含めて今回のメルマガとします。 1995年1月17日未明の阪神淡路大震災は、6000人以上の尊い生命を奪い、家屋も街も瞬時に崩壊せしめました。 この日、私自身は千葉県内の病院で小児科の仕事に追われながら、時折テレビに映る惨状を見て何か自分の予期し得ぬ重大なことが起こったことを感じてはおりましたが、日勤に引き続く夜勤でもあり夜中まで切れ間なく訪れる患者さんの対応に追われていました。 やっと当直があけた翌18日の9時過ぎに突然、徳洲会グループの理事長である徳田虎雄氏から電話がありました。「何をしている。一刻も早く現地に行け!」というその声に押されるかのように徳洲会グループの医師達と大阪八尾徳洲会総合病院に集合、その後は病院から神戸の垂水病院に移動しましたが、到着したのは19日のことです。途中、大きくひしゃげた高速道路の橋げた、幅広くひび割れた道路など、テレビで送られる画像をはるかに上回る被害状況にそれこそ息を飲みました。 以降、神戸の垂水病院を拠点に、見渡す限り焼け野原となった長田町や倒壊した家屋を目のあたりにしながら救急車に同乗していました。私自身の専門は小児科であるため、約一週間小学校内に臨時に設置された救援のテントで次々と避難してこられた方々の診療にもあたりましたが、命からがらの思いで逃げて来られた方々の中には、入れ歯すら持ち出すことができず食事も取れないご高齢者や子犬を必死に抱きしめてぼう然としている子供の姿など本当に胸がつまるものでした。 そんな中でも、小学校の校庭の池にいる亀のまわりには子供達が集まり話を交わす光景もあり、どんな時にもやっぱり学校は地域の希望の場となっていることも実感しました。 頂戴しましたご意見の中に、自衛隊が必死にがんばっていたことへの感謝が述べられたものも多々ありました。その通りだと思います。 初動の遅れは、当時被災状況を迅速に把握し自衛隊の出動を要請する自治体側の被害がひどく、知事も含めて身動きがとれなかったこともあると思います。また、それを受ける内閣側の体制も情報収集など不十分でした。後にこの震災に学んで96年5月に内閣情報集約センターが設立されて今日に至っております。 当時の内閣の最高責任者は村山首相であることから、村山首相の対応の遅れを指摘されるご意見もありますが、1月17日午前10時、国土庁長官を本部長とする非常災害対策本部を設置、午後4時に村山首相は、官邸で緊急記者会見を行い、万全の対策を講じることを表明しました。私を含めてだれもが未曾有の災害に対して、十分な判断や迅速な行動がなしえなかったことについて、多くの教訓が残されたと思います。 その重い課題を受け止め、今なお癒えぬ被災者の抱える問題を解決するために今後も政治活動に努めます。 阿部知子 |