いつかあの青空の心に

少年のころ見上げた、あの青い空。澄み切ったあの空のような心になりたいと願った。その心に近づいているのだろうか・・・

劣等感と満足できる自分

2005年05月31日 | 考える
他人と自分を比較すると劣等感を感じる。
うらやましいと感じる。
そういうふうに自分もなりたいと思う。
どうやってもなれない自分を意識する。
なぜできないのかと自分を責める。

なれなくてもよい理由を探す。
何とか正当化してあきらめて心の安定を得る。

そして何も変わらない。

私はなかなか満足できないような気がする。
欲望には際限がなくて、もうこれでいいやという気持ちになかなかならない。
追いかけて追いかけて、もっともっとと言っている間に
理由を忘れ、追いかけることに一生懸命になる。
あるときふっと後ろを見れば、
いままで追いかけてきたものには大して価値がないことを悟る。

どこまで行っても、満足は得にくいものかもしれない。
悩みは尽きなくて、現在の日本では飢え死にしないというのに、
それでも自殺は多い。

どうすれば、自分自身が満足できる自分になれるのだろうか。

つまらないことだけど、
足ることを知ること、感謝すること、
そういう小さいことを重ねてゆくしか方法はないような気がする。

上を見たら際限はないし、下を見ても際限はない。
自分の背丈の高さで、目の前を見る。

あまり上下を見つめても、なんだか、暗い気持ちなってゆく。

負けず嫌いというエネルギー

2005年05月30日 | 考える
私は負けず嫌いです。

これまでの人生のかなりの部分を「負けてたまるか!」
という気持ちで生きてきたような気がします。

だけれども、いつしか「負けたくない」という気持ちでは
がんばれない自分を認めざるを得ませんでした。

それはなぜかというと、周囲を見渡しても、
自分の劣っているところが多すぎて、
もはや「自分が劣っていない」ということを証明し続けることが
不可能になってきたからです。

これまでの人生を振り返るに、
人に劣っていないところを探すのは難しく、
当たり前のことながら、すべてのことがそこそこのレベルか
もしくはそれよりも下ということだらけです。

自分自身は特別ではないだろうかという、
傲慢な根拠のない勘違いはやはり現実という壁の前に
もろくも崩れ去り、今まで認めたくはなかった、
「大衆の中の一人」という自分に気づかされます。

飛ぶ鳥と同じく、いつも羽ばたいていなければ、
あっというまにステージから転げ落ちます。

過去の積み重ねが未来を創ります。
そこには地味な努力の積み重ねだけがあり、
目標に向かって一歩一歩歩いていくしかないのでしょう。

「人と比較して、負けないように」という考えから、
「自分がどうなりたいのか」ということを考えて、
わからないながらも進んでいくしかないのでしょう。

しばらくぶり

2005年05月29日 | 考える
長らく時間が空いてしまいました。
毎日更新!ということを目標にしていましたが、
書くこともなくなり、一日休んだら、二日になり・・・
というふうにずるずると時間だけがすぎていきました。

確かに私生活がいろいろと忙しかったということはありますが、
何か一行でも書けないのかと自身に問うてみれば、
やはり怠けていたという言葉が適当でしょう。

当初、書くことで癒されていた部分がありましたが、
いつしか義務が重くのしかかって生活の中で書かなきゃ!
と自分で決めたことながら、
耐えられなくなって来たのかもしれません。

自分が決めていたことを守れなかったことが非常に残念です。

書くにあたってはできるだけ暗い言葉を使わず、
何か、良いことを書こう、正直に書こうと思ってきましたが、
やはり現実世界と同じように正直な姿をさらけ出すことはできませんでした。

ネットの世界とはいえ、その先には必ず人間がいます。
その人間性が出てしまったのでしょう。

うーん、なんだか反省文のようになってしまいましたが、
また、ぼちぼちと人生の軌跡をつづっていこうかなと思います。

スピンオフ

2005年05月20日 | 考える
同僚5人で(久しぶりに)飲みに行った。
仕方ないのだろうが、小さな子供がいると
どうしても話がそっちのほうになる。

その中でこころに残った一言。
「自分の子供が一番かわいいんですよ
 ところが他人は私の子供が一番かわいいとは思わない。
 それは自分も一緒です」

会社ではそういう一面は見ることはないけれども、
彼は人の親であって、家族がいて、その中の一員なのだと
いうことを強く感じさせた。

自分を顧みると
負け犬、とは思わないけれども
一人というのは、気楽でもあり寂しくもあるのだなぁ
と考えた。

既婚者の人たちが多いと、どうしても話題が
まだ小さな子供のことやら、ベビーカーのことやら
そういうことになってしまう。

話題がそういうことに集中すると、
やはり疎外感を感じ、はじき出された気がするものだ。
それは、その人たちというよりかは
時代にはじき出されているような気がするのだ。

私は聞いてない!

2005年05月10日 | 考える
なにかイベントをするときに誘われる人とそうでない人がいる。
企画する側からするとやはり人数制限やら、
その人が来そうであるかなど、いろいろと勘案して人を誘う。

そのときに「私は誘われてない」と、
あたかも、何かのイベントが行われるときに
すべての知り合いを誘わなければならないかのような物言いをする人もいる。

結局は意識の差なのだろうか。

自分が思っている以上に、その人は自分のことを思ってはくれない。
自分はこんなに思っているのに・・・

そもそもそういう考えが間違いなのだろう。
人は周囲の人に対して自分の中で意識している、していないに関わらず優先順位をつけている。

誰かを誘う、誘わないという場合にその優先順位やら、
あの人を誘うと、この人は誘いにくいなど、人の関係も
問題になってくる。

周囲に期待せずに(友達、周囲の人に対して)自分にできることをする。

そういう態度が一番よいのかもしれない。

得手を伸ばせば

2005年05月09日 | 考える
人間には得意、不得意があるから、
行き詰ったときは、不得意を無くそうとするのではなく、
得意に目を向けて、それを伸ばせばよい。

そういう文章を昔読んだ。
そのころの自分の感想としては、
「んな、こたーない!
 どんな不得意も努力によって克服できるはずだ」
と勘違いしていた。

しかし今の考えは当時とはちょっと違う。

自分を知ることだと、思う
自分はどういう特性を持っており、どういう環境に強くて
どういう環境に弱いのか。
どういうときにがんばれて、どういうときには我慢しなければならないのか。

世界というジグソーパズルに対して、
どういう形のピースなのか。

長所に着目して、それを磨いている人というのは、
短所に注目してそれを変えようとしている人よりも自然な感じがする。

世界は広いのだから、自分を受け入れてくれる、
時、場所、人がどこかにあるに違いない。

そう信じて、得手を伸ばそうと思う。

携帯ストラップ

2005年05月08日 | 考える
おみやげでストラップをもらった。
こういうおみやげが一番困る。

次に会ったときに付けていなかったら、
相手にどうして付けてくれないのだろうと思われはしないか・・・
などと考えてしまう。

できるだけ身辺はシンプルにしたいという思いがあり、
今付けているのも、かがんだときに胸ポケットから
滑り落ちないようにするために付けているのだ。

「おみやげをあげたい」という気持ちはうれしいのだけれども。

おみやげよりも、みやげ話のほうが
私はうれしいのだが・・・。

休み足りない!

2005年05月07日 | その他
明日でGWもおわりだ。
仕事のこと一切考えなくて良かった、この10日間、
過ぎ去ってみればあっという間であった。

いやー、やっぱり仕事ないと、人生つまらないねぇ・・・
ということは全然なく、もう1週間くらい休んでも全然構わない感じである。

最初は「毎日やることがあるのかな・・・」などと考えていたものの、
実際に休みになってみると、やりたいことがまだまだあったりするのだ。

まぁ、なんにせよ充電は十分にできたようなので、
明日は社会復帰のリハビリ(朝早く起きる)して
社会に順応できるようにしたいと思います。。。

許せない他人のクセ

2005年05月06日 | 考える
最近気になることがある。

食事の歳に、口をあけて食べる人である。
「食事の時には口を閉めなさい」と子供のころに激しく言われたせいで、
私は物を食べるときには、黙っている(というか口を閉じているので黙らざるを得ない)
しゃべるときに食べているものを飲み込んで・・・という具合だ。

友人との食事する機会にそういう人がいると、
非常に食欲がなくなるのである。

まぁ、これは仕方がないといえば仕方がないことなのだろうけど、
気になるものは気になるのだぁ!

なんだか歳とともにそういうことが気になってきているのであった。

デジタルデータの味わい

2005年05月05日 | 考える
写真を見ていた。
数年前のものだ。

中にはポラロイドの写真もあって、
既に色が変わり始めていた。

そう言えば実家にあった古い写真はすっかり色あせていた。
両親の若いころの写真はカラーではなく白黒で
黄色くなっていたものだ。

今はデジカメデータのデータが思い出を記録する。

デジタルデータは決して黄色くはならないし、
色落ちもしない。

将来、過去を懐かしむときも、
デジタルデータは鮮明だ。
それは、劣化を知らない。

その思い出を観るときに、僕は懐かしいと思いつつも
余りの鮮明さに驚くことになるのだろう。
それよりも、読めるフォーマットであるかどうか、そっちのほうが問題なのかもしれない。