イエスの遺言は続きます。
BGMは今回もmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
本日の聖句はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私はもはや諸君をしもべと呼ばないよ。しもべは主人がしようとしていることを知らない存在だ。
私は諸君を友と呼んだだろ? 私が父から聞いたこと全てを諸君に知らせたからだよ」(15章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この聖句は、「しもべ」という言葉と「友」という言葉との関係の把握が鍵になります。
しもべとは英語ではslaveともservantともなっています。
この両者は同じ意味内容をもっています。
日本ではslaveは「奴隷」、servantは「従者」と分けて訳されることが多いです。
ふたつは別の意味を持っていると考えるのです。
奴隷というのは映画でエジプトのピラミッドを造る場面などに出てくる
「むち打たれながら過酷な労働をさせられる存在」と主に理解する。
従者は「主人に付き従って身の回りの世話をしたり使い走りしたりする存在」と主に理解します。
ところが、聖書ではどちらもおなじ「しもべ」です。
聖書の考え方がベースになっている西欧社会でも大体そうなっています。
<聖書世界の家族制度>
その理由を解するには、聖書に出てくるような多民族社会の家族構造を知らねばなりません。
社会の基本単位集団は家族ですから、それによって社会構造もわかってきます。
多民族が陸続きで接しているような世界では、個々の民族は、
互いに他民族がある日国境を乗り越えて攻め込んでくる可能性のある中で生活しています。
どの時点で見ても、どこかの民族が他の民族を征服して奴隷として使っている状況にあります。
その奴隷を、征服した側の民族の家族は、買ってきて使用人として使うのです。
ですから家族は通常多くの使用人も同居させている大家族です。
使用人には、同じ民族で経済的に貧しくてそうなった人もいます。
とにかくそういう大家族では、統率が大変です。
そこでは通常、家父長は家族員や使用人に対して生殺与奪の権をもっています。
実際にそれを行使する場面は少なくても、とにかくそういう権限をもっている。
それくらいの強権をトップがもたないと、こういう大家族は統率しきれないのです。
そしてこの使用人が奴隷と言われたり、従者と言われたりするのですが、どちらもひっくるめて「しもべ」です。
彼らの中には主人の家庭の財布を預かって財務を管理する知的な奴隷もいます。
ユダヤ人は頭がいいですから、彼らがそういう知的奴隷になっていたことが
ローマ人の家父長家族では多かったようです。
これなど日本人の感覚では奴隷、従者以上の存在ですね。
<全体観が統治者の必須条件>
だが聖書に出てくるような多民族社会の家庭では、彼らはひっくるめて「しもべ」として認識されていた。
なぜかといますと、こういう家族では、人間が「全体観を与えられている」かどうかが
決定的に重要となるからです。
それでもってみると、同一民族の従者だろうが被征服民族の奴隷だろうが、
みな「全体観を与えられていない」存在という面では同じになるのです。
そんなことがどうして重要な基準になるかと言いますと、
全体観を与えられている人間は、家族内でなされる個々の仕事の意味、それがなされる理由がわかります。
全体観とはパースペクティブともいいますが、換言すると鳥瞰図です。
個々の事態というのは、それが全体のパースペクティブの然るべき部分に位置づけられて
はじめてその意味がわかります。
全体感を与えられていない人間は、そういう位置づけが出来ませんので自分の仕事の意味がわかりません。
それが何のためのことかを知らないままで、主人の命令に従ってことをなすだけとなるのです。
<統治権を維持するには>
大家族の中で全体観を持っているのは、通常、家父長とその子供など一部の親族に限られていました。
彼らは買い取られて働いているしもべには全体観は知らせませんでした。
命令だけ与えて、その理由は知らせませんでした。
財務を一手に任されている知的奴隷にも、そうです。
頭のいい彼らも、主人の命令に従って事務執行をするだけの存在でした。
すると頭のいい知的奴隷であっても、家族全体を運営する可能性はもてなくなります。
集団全体をリードするリーダーには絶対になれない。
全体に関する情報が与えられていなかったら、全体をリードすることは出来ないですから。
どうしてそんなことをするのか。
人間は統治されるより、統治する側の生活をした方が快適だからです。
だから一旦統治する立場に立った人間、つまり支配者は、それを維持しようとします。
支配民族は統治権を維持することが最大関心事です。
それには、全体観をもてる人間を自分たちに限定することが有効な方法でした。
他者、他民族の能力を取り込みながらも、全体の統治権は自分たちだけが持ち続ける、
というのが聖書に出てくる多民族社会の運営方式だったのです。
<統治者の見方が言葉の意味を形成>
この観点からしますと、全体観を与えられていない人間はもう一纏めにして認識するのが実用的となります。
それ以上、この概念を細分化する必要はないのです。
近代人が、雪という言葉を、エスキモーのように細分化した多数の言葉にする必要がないように。
そしてそういうもののとらえ方は、時の流れの中で慣習化します。
支配者の言語の使い方は、一般人民にも波及します。
人民は統治者と同じような用法で言葉を使うようになります。
ですからスレーブ(slave)もサーバント(servant)も基本的に主人(Lord)以外の人間として一括して認識され、
そういう意味を持つようになるわけです。
<「友」は主人の側>
イエスが「私はもはや諸君をしもべと呼ばないよ」というときのしもべは、
そういう全体観を与えられていない人間、という意味を持っています。
またイエスがここで「友」という場合には、その反対の「全体感を与えられている人間」という意味です。
主人である父と自分の側の人間という意味ですね。
「友」なる語のこのニュアンスは、日本人においても同様ではないでしょうか。
日本でも「友」には、心を許し「全てを話し」ますから。
イエスが「父なる創主から聞いたこと」とは、この地上と天を含めた世界の全体観です。
それを知ると、イエスがこれから拷問を受け十字架につるされて死ぬ理由もわかってきます。
イエスは弟子たちに、「それを伏せておいて部分的な命令だけを発すること」はしません。
もうこれが最後となる晩餐、弟子たちと共に再び食することのない晩餐の今
「父から聞いた全体観をそのまま伝えて」います。
そこで「諸君はいまやしもべではなく私の友なんだよ」と不安がる弟子たちに優しく説いている。
鹿嶋はこの場面がイメージに浮かぶとき、感動で胸が苦しくなります。
BGMは今回もmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
本日の聖句はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私はもはや諸君をしもべと呼ばないよ。しもべは主人がしようとしていることを知らない存在だ。
私は諸君を友と呼んだだろ? 私が父から聞いたこと全てを諸君に知らせたからだよ」(15章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この聖句は、「しもべ」という言葉と「友」という言葉との関係の把握が鍵になります。
しもべとは英語ではslaveともservantともなっています。
この両者は同じ意味内容をもっています。
日本ではslaveは「奴隷」、servantは「従者」と分けて訳されることが多いです。
ふたつは別の意味を持っていると考えるのです。
奴隷というのは映画でエジプトのピラミッドを造る場面などに出てくる
「むち打たれながら過酷な労働をさせられる存在」と主に理解する。
従者は「主人に付き従って身の回りの世話をしたり使い走りしたりする存在」と主に理解します。
ところが、聖書ではどちらもおなじ「しもべ」です。
聖書の考え方がベースになっている西欧社会でも大体そうなっています。
<聖書世界の家族制度>
その理由を解するには、聖書に出てくるような多民族社会の家族構造を知らねばなりません。
社会の基本単位集団は家族ですから、それによって社会構造もわかってきます。
多民族が陸続きで接しているような世界では、個々の民族は、
互いに他民族がある日国境を乗り越えて攻め込んでくる可能性のある中で生活しています。
どの時点で見ても、どこかの民族が他の民族を征服して奴隷として使っている状況にあります。
その奴隷を、征服した側の民族の家族は、買ってきて使用人として使うのです。
ですから家族は通常多くの使用人も同居させている大家族です。
使用人には、同じ民族で経済的に貧しくてそうなった人もいます。
とにかくそういう大家族では、統率が大変です。
そこでは通常、家父長は家族員や使用人に対して生殺与奪の権をもっています。
実際にそれを行使する場面は少なくても、とにかくそういう権限をもっている。
それくらいの強権をトップがもたないと、こういう大家族は統率しきれないのです。
そしてこの使用人が奴隷と言われたり、従者と言われたりするのですが、どちらもひっくるめて「しもべ」です。
彼らの中には主人の家庭の財布を預かって財務を管理する知的な奴隷もいます。
ユダヤ人は頭がいいですから、彼らがそういう知的奴隷になっていたことが
ローマ人の家父長家族では多かったようです。
これなど日本人の感覚では奴隷、従者以上の存在ですね。
<全体観が統治者の必須条件>
だが聖書に出てくるような多民族社会の家庭では、彼らはひっくるめて「しもべ」として認識されていた。
なぜかといますと、こういう家族では、人間が「全体観を与えられている」かどうかが
決定的に重要となるからです。
それでもってみると、同一民族の従者だろうが被征服民族の奴隷だろうが、
みな「全体観を与えられていない」存在という面では同じになるのです。
そんなことがどうして重要な基準になるかと言いますと、
全体観を与えられている人間は、家族内でなされる個々の仕事の意味、それがなされる理由がわかります。
全体観とはパースペクティブともいいますが、換言すると鳥瞰図です。
個々の事態というのは、それが全体のパースペクティブの然るべき部分に位置づけられて
はじめてその意味がわかります。
全体感を与えられていない人間は、そういう位置づけが出来ませんので自分の仕事の意味がわかりません。
それが何のためのことかを知らないままで、主人の命令に従ってことをなすだけとなるのです。
<統治権を維持するには>
大家族の中で全体観を持っているのは、通常、家父長とその子供など一部の親族に限られていました。
彼らは買い取られて働いているしもべには全体観は知らせませんでした。
命令だけ与えて、その理由は知らせませんでした。
財務を一手に任されている知的奴隷にも、そうです。
頭のいい彼らも、主人の命令に従って事務執行をするだけの存在でした。
すると頭のいい知的奴隷であっても、家族全体を運営する可能性はもてなくなります。
集団全体をリードするリーダーには絶対になれない。
全体に関する情報が与えられていなかったら、全体をリードすることは出来ないですから。
どうしてそんなことをするのか。
人間は統治されるより、統治する側の生活をした方が快適だからです。
だから一旦統治する立場に立った人間、つまり支配者は、それを維持しようとします。
支配民族は統治権を維持することが最大関心事です。
それには、全体観をもてる人間を自分たちに限定することが有効な方法でした。
他者、他民族の能力を取り込みながらも、全体の統治権は自分たちだけが持ち続ける、
というのが聖書に出てくる多民族社会の運営方式だったのです。
<統治者の見方が言葉の意味を形成>
この観点からしますと、全体観を与えられていない人間はもう一纏めにして認識するのが実用的となります。
それ以上、この概念を細分化する必要はないのです。
近代人が、雪という言葉を、エスキモーのように細分化した多数の言葉にする必要がないように。
そしてそういうもののとらえ方は、時の流れの中で慣習化します。
支配者の言語の使い方は、一般人民にも波及します。
人民は統治者と同じような用法で言葉を使うようになります。
ですからスレーブ(slave)もサーバント(servant)も基本的に主人(Lord)以外の人間として一括して認識され、
そういう意味を持つようになるわけです。
<「友」は主人の側>
イエスが「私はもはや諸君をしもべと呼ばないよ」というときのしもべは、
そういう全体観を与えられていない人間、という意味を持っています。
またイエスがここで「友」という場合には、その反対の「全体感を与えられている人間」という意味です。
主人である父と自分の側の人間という意味ですね。
「友」なる語のこのニュアンスは、日本人においても同様ではないでしょうか。
日本でも「友」には、心を許し「全てを話し」ますから。
イエスが「父なる創主から聞いたこと」とは、この地上と天を含めた世界の全体観です。
それを知ると、イエスがこれから拷問を受け十字架につるされて死ぬ理由もわかってきます。
イエスは弟子たちに、「それを伏せておいて部分的な命令だけを発すること」はしません。
もうこれが最後となる晩餐、弟子たちと共に再び食することのない晩餐の今
「父から聞いた全体観をそのまま伝えて」います。
そこで「諸君はいまやしもべではなく私の友なんだよ」と不安がる弟子たちに優しく説いている。
鹿嶋はこの場面がイメージに浮かぶとき、感動で胸が苦しくなります。