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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.3 『聞き書き情報と直接体験情報』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読




取材して得た情報と直接見聞して得た情報との違いについて今少し見ておきましょう。

前述のように、前の三人の著者は人々に取材して、そこから聞いたことを書いています。

マルコは、イエスの12使徒の一人であるペテロから聞いた話を元にマルコ伝を書いたといわれています。

マタイはは、それを踏まえた上で、さらに取材を重ねてマタイ伝を書きました。

ルカはそのマタイ伝を読み、その上にさらに取材を重ねてルカ伝を書いたといいます。


                  



<確かマリアとかいったなぁ・・・>

取材して書いた文と、直接見聞して書いた文とでは、事実に関する確信の度合いも違ってきます。
たとえば、四福音書はみな、イエスが十字架にかけられて死んで、
三日目に復活したことを記しています。
しかし復活したイエスに最初に会った女性に関する記述は違っています。

マリアという女性だったとしていることは四本とも同じです。
だが、ヨハネ伝ではそれは「マグダラのマリアだった」と記しています。
他方、マタイ伝ではそれは、「マグダラのマリアと、もう一人別のマリアだった」
と記しています。

「もう一人別のマリアだった」というと記述に漠然としたところが感じられるでしょう。
おそらく、人々の間で言い伝えがなされていくうちに、
それがどういうマリアであったか、漠然としていったのではないでしょうか。

人々の記憶のうちでは「なにかマリアとかいう名の女性だったようだ」
というニュアンスになっていくのは自然なことです。

証言の中には「マグダラのマリアであった」というのもあったでしょう。
だがマタイとしては、それらを「総合して」マリアを複数として記したのでしょう。


復活したイエスに最初に合ったのは「マグダラのマリア一人である」
とするヨハネの情報は確実です。
ヨハネ伝にはこういう記述があります~

「イエスの死体がお墓から無くなっていた、そしてイエスに会った」
という報告をマリアから聞いて二人の弟子が墓に走った」、と。

この二人とは、イエスの両脇を固めた格さんと助さんでした。
すなわちペテロと著者ヨハネ自身だったのです。 
ヨハネの情報は直接体験によるものなのです。

+++

余談ですが、こういう記述の違いをもってして、聖書は信用できないといったらおかしいですよ。
「聖書は皆聖霊の導きによって書かれたもの」といいます。
だが、そうかといって著者の細かな一挙一動を聖霊が動かしているというのはおかしい。

たとえば、著者が執筆中にペンを落っことしたというようなことにも、
聖霊は働いているでしょうか。
執筆中に瞬きを二回したのも、聖霊の導きによるでしょうか。
それまで導かれるとしたら、人間はロボットと同じになります。

だが執筆の大枠は聖霊に方向付けられている。
これが「聖霊の働きによって書かれたもの」の意味でしょう。

取材した過程で、「マリアが複数らしく感じられてきた」というのは、
聖霊の導きによるものではないのです。
人間マタイの脳神経系におきた心理的現象です。

でも、イエスが復活したこと、最初にそれをみた女性の名前はマリアであったこと、
といった情報~この大枠は、聖霊の導きによるものと受け取っていいと思います。



                  



<これは二番目のしるしだ・・・>


ヨハネ伝は事実に関して詳細かつ確信に満ちて書かれてもいます。
これも例示しておきましょう。

ヨハネは、イエスが、結婚式に列席していて、水をワインに変えるという奇跡を行ったことを記しています。
そして、これがイエスの行った「最初の」奇跡である、と書いています。
イエスの宣教活動のはじめからぴったりとついていたからこそ、書けることです。

ある役人の息子が死にかかっていて、イエスに助けてくれと頼んできた事件もヨハネは記しています。
これに対してイエスは「あなたの息子は助かる」という言葉を発します。
すると、ちょうどその時刻に息子は病から回復しました。

ヨハネはこれについても「イエスがユダからガリラヤに来てなされた第二のしるし(奇跡)である」
と書いています。詳細ですね。

+++

復活したイエスに対する弟子たちの反応についても詳しいです。

最初は、弟子たちのいる部屋に現れたとヨハネは言います。
トマスという使徒はそのときその場にいませんでした。 

トマスはその話を聞いて、「自分はイエスの手の釘あとに指を差し入れ、
(槍で刺されたた)脇腹に手を入れなければ、信じない」といいます。
すると、後にイエスがトマスの前にも現れて、彼の不信仰をたしなめます。

ヨハネはこれを記して「これが弟子たちに現れた二度目だ」と書いています。

その後、テベリアの海辺で魚を捕っている弟子たちのところにイエスは現れます。 
ヨハネは「これが三度目だ」と書いています。

ここまでくると、もう嫌みに感じる人もでるかも知れませんね。 
ヨハネは「俺の伝記は他とは違うよ」と、強調しすぎるんじゃないの?・・・と。

その動機は鹿嶋には判りません。「ヨハネの記述は詳細で具体的だなあ」と思うのみです。


                  



<なさったことは他にも多くある>

 ヨハネ伝の終盤の文章にもヨハネの持っていた情報の特殊さが現れています~。

 「イエスのなさったことは、この他にも数多くある。もしいちいち書きつけるならば、
全世界もその書かれた文書を収容しきれないであろう」(21章25節) 

余裕ですね。
彼はそれほど多くの直接体験情報を持っていたのです。

取材をする必要はほとんどありませんでした。
ヨハネの場合は、その無数の直接経験素材から書くべきものを選択する必要だけがあったのです。



                  {/beers/}





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Vol.2 『共觀福音書とヨハネ福音書』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読



前回述べたように、四福音書のうちのはじめの三本は、取材して書かれました。
一大教団を開始させたイエスについては、いなくなった後にもいろんな噂話が残ります。
自ら証言する人もいます。三人の著者はそれらを取材して書きました。

取材は同じ証言でも複数の人に聞いて確かめてなされます。
いわゆる「裏を取る」というんでしょうかね。そうやって出来るだけ情報を確かなものにしようとするわけです。

証言者たちは「私も見た」「私も観た」といいます。
このように複数の人が共に観たということを書いたという意味で、
はじめの三本は「共觀福音書」と呼ばれることもあります。

その点ではヨハネ伝は別格です。
ヨハネは、イエスが宣教活動を始めた最初から、そのそばに付き添って、多くのことを直接見聞してきました。
それを元に書いているのです。



                 


<では核心を書くか・・・>

春平太は、このヨハネの気持ちを勝手ながらこう推察しています。

ヨハネは大教団となったキリスト教団の大御所です。
無論、それまでに書かれた伝道用の書物にみな目を通していたでしょう。

そして考えました。
マルコもルカもマタイもいい伝記を書いた。パウロも素晴らしい手紙をたくさん書いた。
これらがでたことによって、諸教会の人々はより効率的にイエスの教えを学んでいる。

だが、これらはまだ、主イエスの教えの核心をズバリついてはいないなぁ。
その周りをぐるぐる回っているなぁ。

パウロもよくやった。立派な解説を手紙の形で残した。
だが、彼もやっぱり、本質の周りを回っているなぁ。

では、私が、その核心を書こうか。私も歳とった。
書き残すべきだろう・・・。もう、書くべき時がきた・・・。



                 
 

<天才の認識方式>

ヨハネはいわゆる天才タイプの人だったと鹿嶋は思っています。 
天才の認識方法は独特です。 直感でもっていきなり本質を洞察するのです。
 
そして、あとからそれをしぶしぶ書く。 洞察を言葉で伝えるのは至難の業です。
だが、ヨハネにも余生が少ないと自覚するときが来るます。 そこでしんどい仕事に入るのです。

他の使徒や伝記著者などに比べると、ヨハネの知的資質は飛び抜けています。

伝記著者では二番目の知性はルカだったように鹿嶋には見えます。
彼は医師だったと言われています。だがその彼もヨハネには遠く及ばないように思います。



                 





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Vol.1 『四本のイエス伝記』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読



~~絵画は「使徒ヨハネ」(1866)by Peter Nicolai Arbo~~





<はじめに>

このたび2004年から始めた連載『ヨハネ伝解読』の加筆・修正をこの場で始めています。
今は2012年ですから、8年ぶりの修正となります。

この作業にとりかかった契機は、若干込み入っています。

少し前に、鹿嶋はあるスモールサークルの人々に誘われて、聖句吟味会に加わったことがありました。

ところが、しばらくやっていると、その集団の目的は聖書探究にはなかったことが判ってきました。
主目的はむしろ、ある社会改革活動をするところにあった。
そのために聖書の言葉を役立てるべく聖書を研究しようとしていたのでした。

+++

主目的を聖書の探訪におくことと、それを社会改革活動におくこととは、
大差ないように見えますが、実質は大きく違ってきます。

聖句探訪そのものを主目的にすれば、聖句を制約なく自由に吟味することになります。
知的・霊的関心に導かれて水のように吟味していくことになる。

他方、社会活動にやくだてようとして聖書を読めば、自由な探訪でなくなります。

まず、解釈がそれに役立つようになることを期待されます。
実践目的に直接役立たない解釈は歓迎されません。
それは時として、攻撃を受けることもあります。

このように、ある目的のための手段とすれば、聖書に自由で虚心坦懐に向き合う姿勢がなくなるのです。

聖句の自由探究を宝とする鹿嶋は、そのグループを去ることにしました。


+++

その際、予想通りの非難・攻撃も出ました。

「ただ聖書を極めるためというのは、人間の行き方としておかしい。
イエスだって社会のために活動をしていったのではないか・・・」等々。

どうも、社会活動に燃えている人からすると、聖書吟味そのものを目的にするのは、
社会的に見て非生産的にみえるようです。
時として反社会的なことをしているようにすら見えることもあるらしい。

だが鹿嶋は、やはり、その場は去ることにしました。
そして、グーグルプラスの動画で、聖書に関する談話をしようと思い立ちました。

鹿嶋の自由な吟味が、その人々にもお役に立つことを期待しています。
自由な吟味には、思いがけない発見があるのです。

+++

春平太は、その素材に『ヨハネ伝』(ヨハネによる福音書)を選びました。

鹿嶋はこのブログで「ヨハネ伝解読」を2004年以来続けて来ていましたので、
その成果も活かして話そうと思いました。
 
ところが読み返してみると、気に入らないところが沢山出てきました。
実は、聖句というのは、読み返すと別の解読も出てくることが永遠に続く不思議な素材なのですが、
とにかく気に入らない。

これでは話の材料にならない、と思えてきます。
それで、このブログの文を修正しながら動画談話を行うことにしたのです。

+++

実は春平太も、聖書の細かいことをあれこれ考えるのに意味はあるか、とふと反省することがあります。

聖句の吟味そのものを目的とする作業は、社会的に非生産的なことかも・・とふと思うこともある。

だがそういう活動を動画で放映することは、やはり相応の社会的貢献になるのではないかと思い返しました。

特に我が国では、宗教の書物というのは他愛のないものという印象があります。
所詮「鰯の頭も信心から」というのが宗教だから、その教典もつまるところは
そんな程度のものだろうという感覚をやはりもつのです。

でも、少なくとも聖書は底知れない深さを持っています。

動画での細部に及ぶ吟味を見ていただくことによって、
聖書という書物がこんなにも奥深いものであったのか、
と知っていただくだけでも価値あることではないか。
そう思い返しました。

このブログはそういう連載談話のために、前稿を修正した談話のための素材です。
これを読むことによっても、聖書の奥深さを感知する方が一人でもでたら幸いです。

では、「修正・ヨハネ伝解読」を始めます。



                  


<「福音書」の意味>

聖書には、「福音書」と称される書物が4本収録されています。 中身は、イエスの伝記です。
それを伝記と言わずに福音書といいます。

福音とは英語の「グッドニュース(good news)」の訳です(英語ではゴスペル(gospel)ともいいます)。
「いい知らせ」ですね。

この「いい知らせ」の「いい(good)」に、日本では「福」という字を当てました。
幸福の福で、意味は「よきもの」です。
「お知らせ(news)」には「音」という字をあてました。そしてちょっと凝って「イン」と読ませました。
福音書は「フクインショ」となったわけです。


                  


<なぜ「いい知らせ」か?>

イエスの伝記がなぜ「いい知らせ」になるのでしょうか?
それは伝記そのものを読んでいくうちに悟られることでしょうが、簡単に言うとこういうことだと思います。

そこには、イエスが人々に伝えたことがたくさん記されています。
中には人間が幸せになる方法が記されています。それも肉体だけでなく、霊の幸福も含みます。

イエスの教えでは霊は永続するとされていますから、
永続する幸福をうる方法も書かれていることになります。 

もちろんそれを受け容れない人には「いい知らせ」にはなりませんが、
伝記を書き残した人や編集した人たちは、それが真理だと確信していました。 
その著者たちの姿勢にたって「いい知らせ」の書物、すなわち、福音書といっているわけです。



                  



<四本の福音書>

四本の伝記のうち、ヨハネという著者が書いたのが「ヨハネによる福音書」です。
それは伝記でもありますので、「ヨハネ伝」とも言います。
「・・・伝」といった方が「・・・による福音書」というより短くて簡明ですね。

四本の伝記をまとめて「四福音書(しふくいんしょ)」と言います。
これらが書かれた年代順に挙げますと「マルコ伝」「マタイ伝」「ルカ伝」「ヨハネ伝」です。
ヨハネ伝は最後に書かれているわけです。

これらが聖書に収納されている順番は、年代順とちょっと違います。
二番目に書かれた「マタイ伝」が最初にくるように編集されている。そして他は、年代順になっています。

最後の伝記を書いたヨハネは、イエスをもっとも近くで直接取り巻いた12人の弟子の一人でした。
この12人を12使徒(しと)といいます。

ヨハネはその12人の中でもイエスに最も近い人でした。
使徒の中でもイエスの両脇を固めるというか、鞄持ちというか、二人の側近がいました。
ペテロとヨハネです。

ヨハネは水戸黄門で言えば、助さん格さんのうちの助さんのような存在でした。
だからイエスの言動に関する情報を沢山持っていました。

イエスの教えは、イエスがいなくなった後に急速に広がり、イエス教団は一大教団となります。
ヨハネもペテロも、その本部の奥の院から全教団を指揮する大指導者となっておりました。

ヨハネはそれまでに書かれていった三本の福音書に目を通しておりました。
そして、晩年になって、これらの福音書に記録されていないことを書こう、と腰を上げたのでした。



                  




(次に進むには、この下方~コメント欄のすぐ上~にある、
<<Vol.2.・・・という寺のある箇所をクリックします。

以後の回も、同様に進んで下さい)


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聖書の論理が世界を動かす(新潮選書)

2004年11月12日 | 著書について
聖書の論理が世界を動かす(新潮選書)
目次

序章 不可解をたどれば聖書の論理
第1章 西洋人はなぜ空間意識が広いか
第2章 なぜ大局観があるか―ブレイクダウンの思考方式
第3章 この先、世界はどうなると考えているか―西洋人の歴史観
第4章 どういう理屈でイエスを「神」と考えるか―教会のアイデンティティー政策
第5章 カトリック、プロテスタントとは何か―キリスト教団の展開
第6章 カルビンは何をしたか―理念家と能史のコンビが最大パワーを生む
第7章 人の心をどう見ているか―聖書の意識構造論〔ほか〕

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図解聖書のことがよくわかる本 2時間でわかる

2004年11月12日 | 著書について

目次

プロローグ 聖書がわかれば、世界の動きが見えてくる
第1章 まずは聖書の世界をのぞいてみよう
第2章 イエスによる「救い」の論理を読みとく
第3章 聖書の壮大な歴史絵巻を読みとく
エピローグ なぜ、人々は聖書を信じるのか


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キリスト教のことが面白いほどわかる本

2004年11月12日 | 著書について
キリスト教のことが面白いほどわかる本
目次

プロローグ キリスト教って、どんな宗教?―こんなにたくさんの人が信じてる(世界にキリスト教徒はどれくらいいるの?
どうしてキリスト教を信じている人が世界でいちばん多いの?)
第1章 イエスが教えていることって、どんなこと?―イエスは人類に究極の癒しをくれた!(イエスの究極的な癒しって、どんなものなの?
霊界って、どんな世界? ほか)
第2章 キリスト教って、どんなふうに成立していったの?―キリスト教の広まりと歴史(イエスの死後、キリスト教はどんなふうに広がっていったの?
信者の急増に合わせて生まれたのが、「家の教会」 ほか)
第3章 イエスの教えの核心って?―キリスト教の宗派はどうして戦争するの?(「地の塩、世の光」になれれば、戦争は起こらない
「地の塩、世の光」理解のキーワードは、「いのちエネルギー」! ほか)
第4章 イギリスとアメリカで展開したこと―宗教改革後にやってきた、革命の時代(プロテスタント国家ができたら、聖書主義者たちも安泰?
イギリスの自由な風土が、聖書主義者たちを受け入れた ほか)

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聖書がわかればアメリカが読める

2004年11月12日 | 著書について


目次

プロローグ アメリカ魂は三層構造になっている
第1章 日常垣間見るアメリカ人の本質とは?
第2章 日本人はなぜ聖書を理解できないのか?
第3章 アメリカ建国の父はどんな理念を抱いていたか?
第4章 アメリカを独立へと駆り立てたものは何か?
第5章 アメリカ人を動かす聖書の論理とは何か?
第6章 アメリカの国家アイデンティティはどうつくられたか?
第7章 アメリカ魂の源はどこにあるのか?
第8章 聖書主義はなぜアメリカで生き残ったのか?
第9章 聖書主義はアメリカにどう影響しているか?
第10章 聖書の論理で不可解なアメリカの政治を読めば?

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3日でわかる聖書 知性のBasicシリーズ (ダイヤモンド社)

2004年11月12日 | 著書について

目次

序章 聖書の世界がよくわかる!何でもQ&A―キリスト教とは?史上最大のベストセラー「聖書」とは?
旧約聖書編(世界の始まり、人類の始まり―神はこの世をどうつくり、人類はどのようにして生まれたのか?
イスラエル民族の成立―"神に選ばれた民族"はいつ誕生し、どう発展してきたか?
偉大なヒーローとヒロイン―古代イスラエルのリーダーたちは波乱の時代をどう生き抜いたか?
旧約聖書の歌と預言―時代を予見し、動かしてきた神のメッセージとは? ほか)
新約聖書編(イエス・キリストの生涯―"キリスト"(救い主)と呼ばれた彼は何を思い、どう生きたのか?
イエスをめぐる人々―なぜイエスの教えは民衆の心をとらえたのか?
イエスの教えとたとえ話―2000年の時を超えて生き続けるイエスが残した言葉とは?
イエスが起こした奇跡―イエスは本当に奇跡を起こしたのか? ほか)
終章 聖書がもっと読みたくなる何でもQ&A―キリスト教でいう天使・悪魔、罪ってほんとはどんな意味?

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マーケティングを知っていますか(新潮選書)

2004年11月12日 | 著書について

目次

第1部 マーケティングとはどんな学問か(リゲインの市場導入作戦
戦略図式が登場する
産業革命が生みの親
なぜアメリカで発生したか ほか)
第2部 マーケティングの戦略手段を組み合わせる法(流通には種類がある―「四流」の概念
消費者の流通行動を描き出す
購買消費プロセスのモデル
安価消耗品のB‐Cプロセス ほか)

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神とゴッドはどう違うか(新潮選書)

2004年11月12日 | 著書について

目次

「神」と「ゴッド」は大違い
聖書の出発点は複眼的存在観
東西「神」概念を対照すると
「アイデンティティ」の意味が日本人にわかりにくいわけ
西洋の造形美術にはなぜ「わび」「さび」がないのか
米国のCIデザインはなぜ高価か
江川・元木はなぜ巨人に執着したか
「聖智」が明かす三島事件の構造
有・アイデンティティ願望の生成と展開
キリスト教は「西洋の宗教」か〔ほか〕

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誰もが聖書を読むために(新潮選書)

2004年11月12日 | 著書について

目次

オーソドックスな聖書の読み方とはどういうものか
なぜ、神が「光よ。あれ」というと、光が出現するか
バイブルでいう「神(GOD)」とはなにか
人類の歴史はわずか六千年か―二種類の人間がいた?
人間の構造をどうみているか―肉体・霊・いのち
二つの人間はどうちがうか
エデンの「楽園」の様子と神の理想の「夫婦像」
「善悪の知識の木」から食べるとなぜ「罪(sin)」か
なぜ園から追放されるか―天国は「完全者」の国
アダムとイブはなぜ「腰の覆い」を作ったか
「頭を砕き」「かかとを噛む」とはなにか〔ほか〕

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