取材して得た情報と直接見聞して得た情報との違いについて今少し見ておきましょう。
前述のように、前の三人の著者は人々に取材して、そこから聞いたことを書いています。
マルコは、イエスの12使徒の一人であるペテロから聞いた話を元にマルコ伝を書いたといわれています。
マタイはは、それを踏まえた上で、さらに取材を重ねてマタイ伝を書きました。
ルカはそのマタイ伝を読み、その上にさらに取材を重ねてルカ伝を書いたといいます。

<確かマリアとかいったなぁ・・・>
取材して書いた文と、直接見聞して書いた文とでは、事実に関する確信の度合いも違ってきます。
たとえば、四福音書はみな、イエスが十字架にかけられて死んで、
三日目に復活したことを記しています。
しかし復活したイエスに最初に会った女性に関する記述は違っています。
マリアという女性だったとしていることは四本とも同じです。
だが、ヨハネ伝ではそれは「マグダラのマリアだった」と記しています。
他方、マタイ伝ではそれは、「マグダラのマリアと、もう一人別のマリアだった」
と記しています。
「もう一人別のマリアだった」というと記述に漠然としたところが感じられるでしょう。
おそらく、人々の間で言い伝えがなされていくうちに、
それがどういうマリアであったか、漠然としていったのではないでしょうか。
人々の記憶のうちでは「なにかマリアとかいう名の女性だったようだ」
というニュアンスになっていくのは自然なことです。
証言の中には「マグダラのマリアであった」というのもあったでしょう。
だがマタイとしては、それらを「総合して」マリアを複数として記したのでしょう。
復活したイエスに最初に合ったのは「マグダラのマリア一人である」
とするヨハネの情報は確実です。
ヨハネ伝にはこういう記述があります~
「イエスの死体がお墓から無くなっていた、そしてイエスに会った」
という報告をマリアから聞いて二人の弟子が墓に走った」、と。
この二人とは、イエスの両脇を固めた格さんと助さんでした。
すなわちペテロと著者ヨハネ自身だったのです。
ヨハネの情報は直接体験によるものなのです。
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余談ですが、こういう記述の違いをもってして、聖書は信用できないといったらおかしいですよ。
「聖書は皆聖霊の導きによって書かれたもの」といいます。
だが、そうかといって著者の細かな一挙一動を聖霊が動かしているというのはおかしい。
たとえば、著者が執筆中にペンを落っことしたというようなことにも、
聖霊は働いているでしょうか。
執筆中に瞬きを二回したのも、聖霊の導きによるでしょうか。
それまで導かれるとしたら、人間はロボットと同じになります。
だが執筆の大枠は聖霊に方向付けられている。
これが「聖霊の働きによって書かれたもの」の意味でしょう。
取材した過程で、「マリアが複数らしく感じられてきた」というのは、
聖霊の導きによるものではないのです。
人間マタイの脳神経系におきた心理的現象です。
でも、イエスが復活したこと、最初にそれをみた女性の名前はマリアであったこと、
といった情報~この大枠は、聖霊の導きによるものと受け取っていいと思います。

<これは二番目のしるしだ・・・>
ヨハネ伝は事実に関して詳細かつ確信に満ちて書かれてもいます。
これも例示しておきましょう。
ヨハネは、イエスが、結婚式に列席していて、水をワインに変えるという奇跡を行ったことを記しています。
そして、これがイエスの行った「最初の」奇跡である、と書いています。
イエスの宣教活動のはじめからぴったりとついていたからこそ、書けることです。
ある役人の息子が死にかかっていて、イエスに助けてくれと頼んできた事件もヨハネは記しています。
これに対してイエスは「あなたの息子は助かる」という言葉を発します。
すると、ちょうどその時刻に息子は病から回復しました。
ヨハネはこれについても「イエスがユダからガリラヤに来てなされた第二のしるし(奇跡)である」
と書いています。詳細ですね。
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復活したイエスに対する弟子たちの反応についても詳しいです。
最初は、弟子たちのいる部屋に現れたとヨハネは言います。
トマスという使徒はそのときその場にいませんでした。
トマスはその話を聞いて、「自分はイエスの手の釘あとに指を差し入れ、
(槍で刺されたた)脇腹に手を入れなければ、信じない」といいます。
すると、後にイエスがトマスの前にも現れて、彼の不信仰をたしなめます。
ヨハネはこれを記して「これが弟子たちに現れた二度目だ」と書いています。
その後、テベリアの海辺で魚を捕っている弟子たちのところにイエスは現れます。
ヨハネは「これが三度目だ」と書いています。
ここまでくると、もう嫌みに感じる人もでるかも知れませんね。
ヨハネは「俺の伝記は他とは違うよ」と、強調しすぎるんじゃないの?・・・と。
その動機は鹿嶋には判りません。「ヨハネの記述は詳細で具体的だなあ」と思うのみです。

<なさったことは他にも多くある>
ヨハネ伝の終盤の文章にもヨハネの持っていた情報の特殊さが現れています~。
「イエスのなさったことは、この他にも数多くある。もしいちいち書きつけるならば、
全世界もその書かれた文書を収容しきれないであろう」(21章25節)
余裕ですね。
彼はそれほど多くの直接体験情報を持っていたのです。
取材をする必要はほとんどありませんでした。
ヨハネの場合は、その無数の直接経験素材から書くべきものを選択する必要だけがあったのです。
{/beers/}