「いのちエネルギー」については、筆者は思い起こすことがある。
かつて聖書解読をはじめて以来、「いのち」という言葉の意味がなかなか感知できなかった。
聖書の全体像が漠然と浮上してきたとき、これは物理学の「エネルギー」のような概念ではないかなあ、という思いも漠然と浮かんだ。
それで筆者はとにかくこれを「いのちエネルギー」と読み替えて、聖書解読を進めた。
その結果を『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)に記した。
<みんなわかってなかったんだ>
出版後、ある牧師さんからお言葉をいただいた。
~鹿嶋さんの本の「いのち」の解釈で、説教が助かっている、という会話が牧師たちの間でなされていますよ、と。
これを聞いて筆者はやはり「いのち」の語はみんなわからなかったんだ、と確認した。
その状態で、現在まで来ていたが、ではそのエネルギーとは何なのか、漠然としたままだった。
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それが今、そのエネルギーを「生きよう」という方向性を持った波動(の凝集体)とすることで、一歩前進した。これが「いのちエネルギー」の内容だと、筆者は察した。
同時に、その逆の方向を持った波動の凝集体を、「死のエネルギー」と定義づけられて、視野も広がった。
<「永遠のいのち」はまだわからん>
しかし、まだ不明な語もある。
「永遠のいのち」だ。これもまた聖書の大きなキーワードなのだが、その意味が筆者にはつかめていない。
「いのちエネルギー」に、永遠なものとそうでないものがあるのか。これと「死のエネルギー」との関係はどうなのか?
(そのうち、またわかってくるだろう、と思いながらやっている)
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こうした疑問を抱きながらも、ともかく、うつ心理の構造を定義できた。
以後、これを踏まえて、聖書によるうつ心理対策を考えていくことにしよう。