消費の強迫から解き放たれて町を見渡せば、
がらくたの荒野が一面に広がっている。
高度成長期に食い散らかしたものたちが
町じゅうに溢れかえっているのだ。
小物、家電、家具、自動車、空き家、空きビル・・・・
まだまだ価値があるものならば、
まだまだ役割があるものならば、
ひとつずつひろい集めて、
ひとつずつ磨き直して、
(宇野港 東山ビル リミックスマーケット)
その値打ちを活かせる人が使えばいい。
それが “町のリミックス” だ!
(宇野港 東山ビル リミックスマーケット)
おびただしく押し寄せてくる
消費の執拗な強迫観念とオサラバすれば、
自ずと “町のリミックス” が見えてくる。
そうすれば、町の血行も少しは良くなって、
もっとゆっくり暮らせるんじゃないかな?
私が少年時代は戰が終った直後で、何も無かったが、求めても初めから無い事が解って居たから、求めなかったので、氣樂なものであり、結構、幸せであった氣がする。
敗戰後、復興して急に物が溢れ出し、人間の慾も大きく膨らみ、買へば買ったで新型が出る度に買ひ替へ、未だ使へるのに捨てる、資本主義には眞に結構な事であるが、戰前戰中派から見れば無駄使ひ。そのツケが廻って來た。現體制の末路。
ニンジンぶら下げられて走り続ける馬のようです。
この頃気づいてきました。資本主義の暴走列車にはブレーキが付いていないことを。そしてもうひとつ、暴走列車の運転席には誰も乗っていないことを。
大衆の欲望が結集した空気みたいなものが、この暴走列車を走らせている。気の利いた政治家が暴走列車を止めようとしたら、すぐにひき殺されてしまう。
恐ろしいことです。