畑倉山の忘備録

日々気ままに

破防法(破壊活動防止法)の制定

2016年09月22日 | 国内政治

旧大日本帝国時代の支配層は、天皇崇拝を文化政策の中軸とし、これによって国民よりー段高い立場を確保し、有無を言わさず、彼らの特権的、享楽的な、公私の生活を確保した。

しかし戦後、天皇崇拝を、公然と利用することができなくなったので、彼らは、もっぱら、カラメテ戦術を用いた。

まず彼らは、一般国民をして、できるだけ民主主義を、ハキちがえるように仕組むことによって、各方面に混乱や行き過ぎを生じさせ、いろいろの浪費を多くさせ、物心両方面における国民生活を、行き詰まらせるように図った。これは同時に官憲のー般国民に対する物心両方面の支配力、統制力を増大するに役立つ。その政策が成功し、戦後における官と民との生活程度のヒラキは、年々大きくなっていった。

しかし、ただ一つの心配のタネとなるものは、隣国まで押しよせてきている共産主義革命の影響力である。もし、ひとたびその波が日本国内に侵入してきたら、どんなことになるか。もちろん、彼等の位置も特権も財産も、一挙にスッ飛んでしまうばかりか、まかりまちがうと、その生首までがあやうくなることは明らかである。

したがって、この波を、どうやって防止するかということが、戦後における日本の支配層と、その一党にとって絶対至上の問題であり、頭痛のタネであった。

すべて、ほんとうの人類的な正義と愛によらない政治は、国民を威圧と、眼先きの利益で釣る以外に方法はない。

彼等にとって考え得るただーつの方法は、昔の治安維持法みたいなものを作って、国民を威嚇するとともに、その実施に伴うボウ大な機構と予算とをもって、自己の陣営の商売繁昌と、追従者の優遇をはかることであった。

昔は“天皇の御ため”という口実を使ったが、当今では、あからさまに“自分たちのため”ということが露骨にでるのである。

そこで考え出したのが破防法(破壊活動防止法)の制定である。

もちろん、このような、非民主的な、野望にみちた立法は新憲法の立場から許さるべきものではなかったので、民主陣営の人々が、こぞってこれに反対してきたことは、読者諸君の知られることと思う。

昭和二十七年は、この破防法案が、国会を通過するか、あるいは永久に通らないか、あやぶまれた年であった。

ところが不思議なことに、その年の二月ごろから七月までの間に、急に日本の各地で、日本共産党員と称するものによる火焔ビン事件や、ダイナマイト事件というものが、おこったのである。

それらの実態は、このごろになって調べてみると、ほとんどタワイもない事件であったが、新聞にはデカデカと掲載されたので、当時、難航をつづけていた破防法を制定させるためには、この上ない有力な資料(口実)となったのだった。

あるいはそれらの事件の大部分が、菅生事件*と同性質のインチキ事件ではなかったろうかという気もする。

しかし、新聞の報道だけで、その真相を究明できない国民にとって、日共はいつしか“愛される共産党”でなく、“いやがられる共産党”となり下がってしまったのである。

かくて、破防法は、その年の七月二十一日に、マンマと国会を通過、制定されたのである。

(『正木ひろし 事件・信念・自伝』日本図書センター、1999年)

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* 菅生事件(すごうじけん)は、1952年6月2日に大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件。犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件である。当時巡査部長だった実行犯の警察官は有罪判決確定後も昇進を続けてノンキャリア組の限界とされる警視長まで昇任した。(ウィキペディア)