畑倉山の忘備録

日々気ままに

ネズミの競走、競争

2017年06月03日 | 国内政治

学者仲間やジャーナリストと話していると、「裁判官になった以上出世のことなど気にせず、生涯一裁判官で転勤を繰り返していてもかまわないはずじゃないですか? どうして皆そんなに出世にこだわるんですか?」といった言葉を聞くことが時々ある。

「ああ、外部の人には、そういうことがわからないんだ」と思い知らされるのが、こうした発言である。おそらく、こうした発言をする人々だって、裁判官になれば、その大半が、人事に無関心ではいられなくなることは、目にみえているからだ。なぜだろうか?

それは、第ーに、裁判官の世界が閉ざされ、隔離された小世界、精神的な収容所だからであり、第二に、裁判官が、期を中心として切り分けられ、競争させられる集団、しかも相撲の番付表にも似た細かなヒエラルキーによって分断される集団の一員だからであり、第三に、全国にまたがる裁判官の転勤システムのためである。

裁判官を外の世界から隔離しておくことは、裁判所当局にとって非常に重要である。裁判所以外に世界は存在しないようにしておけば、個々の裁判官は孤立した根無し草だから、ほうっておいても人事や出世にばかりうつつを抜かすようになる。これは、当局にとってきわめて都合のいい事態である。

次に、ヒエラルキーの階梯(かいてい)を細かく細かく切り分け、出発点はー応平等にし、根拠のよくわからない小さな差を付けて相互に競わせる。英語でいうところのラットレース、際限のないばかげた出世競争である。第三者からみればまさにいじましい「ネズミの競走、競争」なのだが、当事者は客観的に自分を見つめる眼を完全に失ってしまっているから、そのことには気が付かず、必死に入れ込む。

さらに、ある段階で事務総局系(局長、課長経験者)とそれ以外の裁判官との間に歴然とした差を付ける。それも、近年では、純然たるエリート系とともに、お追従で上に取り入ってきたイエスマンをも適宜取り立てることによって、いよいよ微妙に裁判官たちを刺激するようになっている。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)