畑倉山の忘備録

日々気ままに

「日本における体制の変化は日本人だけから出るような外観を呈しなくてはならない」

2018年04月05日 | 歴史・文化
(イギリス公使)パークスは、イギリスの対日政策を示す重要訓令を受取った。最初のものは、1866年4月9日(慶応2年2月23日)付のクラレンドン外相の訓令で、薩長が連合して反幕的行動をとっているというパークスの報告にたいして発せられたものである。それは、⑴内戦にたいする厳正中立の順守、⑵日本において政治的勢力を求めないで、貿易の発展のみを求めること、⑶幕府の貿易独占の廃棄を軸とする国内諸勢力関係の調整、の三つの要項から成っている。しかし、国内諸勢力間の調整をするということになると、⑴の厳正中立の順守という原則との間に、微妙なずれが出てくる。

そこで、4月26日(3月2日)付の外務次官ハモンドからパークスにあてた私信の形で出された第二の訓令は、最初の外相訓令を補完するという意味で注目される。その私信ではまず、・・・日本における諸勢力の関係を調整するには、天皇、大君、大名の三者すべての利益になるように、貿易を極度に発展させる最善の手段を確保することをめざして、三者の間ですべての問題を自由に討議するのがよい、という。ところが厳正中立を保つという原則から、三者の間の討議を促進するにさいして、「外国人は積極的または表面的な役割を演じるベきではない」とされている。

そこで、いま討議を望んでいるのは大名で、幕府はそれを望んでいないことから、パークスが幕閣との会談の席を利用して、ふと貿易の独占を放棄するのがよいということを「示唆」するような方法を提示するのである。そして最後にハモンドは、「日本の国内問題にたいするあまり熱心な干渉」をいましめ、「日本における体制の変化は日本人だけから出るような外観を呈しなくてはならず、どこまでも日本的性格をもっているという印象を与えるようなものでなけれはならない」と結んでいる。

以上二つの重要訓令は、日本国内の対立がいよいよ激化するなかで、パークスのとる行動を規定した。厳正中立を保ちながら、しかも国内諸勢力間の調整をやっていくには「示唆」という方法が用いられた。これはもちろんパークスもやるが、パークスの有能な助手として、諸藩側にたいしてしきりに「示唆」を展開するのがサトウである。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)