畑倉山の忘備録

日々気ままに

パークスの鹿児島訪問

2018年04月05日 | 歴史・文化
江戸協約の調印は、イギリス=ブルジョアジーの代表者としてのパークスの大きな功績であった。江戸協約が調印されてからわずか五日しかたたない(1866年)5月18日、バークスは横浜を船出して、薩摩訪問の途についた。パークスは、すでに第二回の訓令(ハモンド書簡)にも接していたので、かの訓令の精神を実行に移す最初の機会である。

パークスの鹿児島訪問の話は急にはじまったわけではない。すでに慶応元年12月、長崎で家老岩下ら薩摩藩士がガワー・グラバーと会見したさい、薩摩藩士との会見を切望するむねのパークスの意向が、薩摩側に伝えられた。その後、慶応2年2月、グラバーは鹿児島におもむいて藩主島津茂久(忠義)と会見した。そのさい、パークスを招待する藩の意向がグラバーに伝えられた。そして3月になって、グラバーは横浜におもむき、パークスに薩摩藩の意向を伝えた。そこでパークスは、すぐグラバーとともに江戸にいって、岩下と会見し、ここにパークスの薩摩訪問が正式に決定したのである。

以上の経過からも知られるとおり、パークスの鹿児島訪問にあたって、仲介者としてもっとも重要な役割を演じたのは、実にグラバーであった。彼は、薩摩をはじめ西南諸藩を大きな取引先としていたので、その利害関係から、かねて西南諸藩にたいする支持をパークスに説いていた。パークスの鹿児島訪問において演じたグラバーの仲介的役割は、グラバーの直接の利害関係から出たのである。

さて横浜を出帆したパークスは途中、下関に寄航した。高杉、伊藤が英艦におもむいてパークスと会見し、帰途藩主と正式会見することにして、パークスはそのまま長崎に向った。これよりさき長州藩でも、幕府とフランスとの交際が日を追うて親しくなるのに対抗して、イギリスとの接近に躍起となり、四月はじめには、高杉・伊藤の意見により、藩主とパークスとの会見の藩議が決定していたのであった。

その後パークスは、しばらく長崎に滞在して情勢をさぐったのち、ここで先発したキング中将指揮下の艦隊と合流し、かのグラバーもー行に加わり、三隻の軍艦に護られて6月16日、鹿児島湾にいかりをおろした。おりから陸上と海上とからー斉にわき起る礼砲のとどろきは、南国の天地にこだました。ちようど三年まえに、荒れ狂う風波のもと、砲煙弾雨のなかで両者が相まみえたのにくらべると、何という変りようであろう。

この日の午後、パークス夫妻・キングらのー行は、上陸して鹿児島市中を見物し、翌日には、まず藩主島津茂久(もちひさ)およびその父で藩の実権者久光らが、プリンセス=ロイヤル号上にパークスやキングをたずねた。「藩主は身体長大、骨格強壮で、おのずから君公の威光を備えている。久光は藩主より身体短小肥大で、その挙動は藩主のごとく威儀正しくないとはいえ、勇武で君主の風がある」というのが、イギリス人のみた藩主父子のすがたであった。

それからパークス・キングらのー行は上陸して、島津家の磯邸をおとずれた。藩主父子は、 パークスとキングに通訳のシーボルトだけを奥座敷に通し、「過去のことは水に流して、将来はおたがいに仲よく交わりたい」と挨拶した。やがて洋風の会場で盛大な宴会が開かれ、一同歓をきわめること五時間におよんだという。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)